1. はじめに
アフリカ大陸の内陸部において繰り返され た民族移動がこの地域の諸社会の形成に大き な影響を及ぼしたことは衆目の認めるところ である。しかし多くの場合こうした民族移動
に伴う社会変化についての情報源は,多分に 伝説的要素を含む口頭伝承に限られている。
その点北部エチオピアのキリスト教王国1)内 へのオロモの進出は,不十分なものとはいえ,
複数の文字記録によってその過程を知ること が出来る稀有な事例と言える。
エチオピア教会の聖職者バフレイBaḥrəy
『ガッラの歴史』訳注
石 川 博 樹
(東京大学文学部東洋史学研究室)
An Annotated Japanese Translation of the Zenahu lä-Galla ( e History of the Galla)
Ishikawa, Hiroki
Department of Oriental History, Faculty of Letters, e University of Tokyo
e Oromo, one of the Cushitic speaking groups, migrated into the territory of the Christian kingdom of northern Ethiopia from the sixteenth century to the seventeenth century. e Zenahu lä-Galla ( e History of the Galla), written by an Ethiopian clergy named Baḥrəy at the end of the sixteenth century, is the most important source on their migration. Baḥrəy explained the history of the Oromo in Gə‘əz (Classical Ethiopic), referring to their genealogy, customs, and social institution. is paper is an annotated Japanese translation of the Zenahu lä-Galla, based on the text edited by I. Guidi.
Keywords: History, Ethiopia, Oromo (Galla), Migration, e History of the Galla
キーワード : 歴史,エチオピア,オロモ(ガッラ),民族移動,『ガッラの歴史』1) アムハラ,ティグレと呼ばれる2つの民族を主体とするこのキリスト教王国の版図は,概ね現在の エチオピアの北半とエリトリアの高原部を併せた地域に限られていた。以下,この地域を便宜上「北 部エチオピア」と呼ぶ。
1. はじめに
2. 『ガッラの歴史』訳注 3. 参照文献
が1593年にゲエズ語(古典エチオピア語) で著した2)『ガッラの歴史Zenahu lä-Galla』3)
は,オロモのキリスト教王国内への進出の詳 細を,彼らの習俗,系譜,社会制度等にまで 踏み込んで解説した著作である。冒頭でオロ モの野蛮さを知らしめることを執筆の目的 の1つとして挙げる本書は,オロモ社会に 嬰児殺しの慣習が存在するという記述を中心 に,後代オロモによってその叙述内容を厳し く批判されるようになった4)。しかしバフレ イがオロモを「キリスト教世界に仇なす野蛮 な異教徒」とみなすエチオピア教会聖職者で あったという点を差し引いたとしても,オロ モの進出に関する同時代史料として『ガッラ の歴史』の価値が高いことはベッキンガムと ハンティンフォードが指摘するとおりである
(Beckingham & Huntingford 1954: xxxvi)。 大英図書館所蔵のゲエズ語手稿MS Or.
534の冒頭(fols. 1r-3r)に位置するバフレ イの『ガッラの歴史』を初めて翻刻し,翻 訳 を 付 し て 刊 行 し た の は シ ュ ラ イ ヒ ャ ー A. W. Schleicherで あ っ た。 し か し こ の 版
(Schleicher 1893)は,テキスト,訳注とも に不正確な点が目立つことが出版後まもなく リットマンE. Littmannらによって指摘さ れた。そのためグィディI. Guidiがウィー
ン の 旧 宮 廷 図 書 館Ho ibliothek zu Wien
(現オーストリア国立図書館)に所蔵されて いたテキスト5)を参照しながら,大英図書 館本をあらためて翻刻して1907年に出版 し(Guidi 1961-1962),その後このグィディ のテキストが専ら使用されるようになった。
グィディは『ガッラの歴史』のテキストとと もに仏訳を刊行し,バッジE. A. W. Budge もグィディのテキストに基づいた英訳を『エ チオピア,ヌビア,アビシニア史A History of Ethiopia, Nubia & Abyssinia』の中に掲載し た(Budge 1928 II: 603-613)。さらにベッ キンガムとハンティンフォードは,グィディ の版を「入手し難いnot easily accessible」,
バッジの翻訳を「大して満足のいくものでは ない版a not very satisfactory version」と評 して,グィディのテキストに基づいて英訳を 行い,詳細な注を付して『エチオピアの諸 記録Some Records of Ethiopia』におさめてい る(Beckingham & Huntingford 1954: 109- 129)。現在ではゲエズ語原文を講読できる研 究者の数が減少していることもあり,この訳 注が研究者の間で広く用いられるようになっ ている6)。しかし詳細に検討すれば,ベッキン ガムとハンティンフォードの訳注にも不備は 見受けられ,引用の際に注意を要する箇所が
2)『ガッラの歴史』の末尾の1文から著者がバフレイという人物であり,第19章の記述から彼がエ チオピア教会の聖職者であったことが判明する(Guidi 1961-1962 I: 229, 231)。執筆年代の推定 については,ベッキンガムC. F. BeckinghamとハンティンフォードG. W. B. Huntingfordの解 説(Beckingham & Huntingford 1954: 125, 208-210)を参照。
3) バフレイのこの著作には題名はなく,グィディはZena Gallaというタイトルをつけている(Guidi 1961-1962 I: 223)。しかし冒頭に登場するZenahu lä-Gallaという句をもって題名とすることが多い。
いずれも『ガッラの歴史』という意味である。
4) 例えば,『オロミア:オロモ人の歴史の序章Oromia: Introduction to the History of the Oromo People』
を著したガダー・メルバーGadaa Melbaaは,『ガッラの歴史』の冒頭には「アビシニア人〔アム ハラ・ティグレ〕のオロモに対する文化的,宗教的,人種的な偏見」が如実に示されていると述べ,
バフレイが『ガッラの歴史』を著した主たる目的を「アビシニア人をオロモに敵対させることto encourage Abyssinians against Oromo」であったと断じている(Gadaa 1988: 13)。しかし『ガッ ラの歴史』の記述を吟味すれば,バフレイが執筆にあたってエチオピア王国内のキリスト教徒がオ ロモに対して劣勢である理由を明らかにすることを主な目的としていたことは明白である。
5) このテキストについては,ロドカナキスN. Rhodokanakisの解説(Rhodokanakis 1906: 69)を 参照。
6) レヴァインD. N. Levineの『エチオピアのガッラ(オロモ)の歴史History of the Galla (Oromo) of
Ethiopia』(Levine 1993)は,『エチオピアの諸記録』に含まれる『ガッラの歴史』の訳注,オロ
モ進出以前の南西エチオピアの諸民族に関する解説等を再録し,新たに序を加えたものである。
少なくない。そこで以下グィディの翻刻した テキストに基づく和訳を掲げ,あわせてベッ キンガムとハンティンフォードの訳注に見ら れる要修正箇所を指摘する。なお翻訳,及び 注を施すにあたっては以下の規則に従った。
・グィディのテキストに見られる章番号は彼 が付加したものであるが,便宜上そのまま 訳出する。
・ ゲ エ ズ 語 の 表 記 に 用 い ら れ る エ チ オ ピ ア 文 字 の 転 写 に あ た っ て は,Aethiopica:
International Journal of Ethiopian Studies の方式に従う。ただしエチオピア,アムハ ラ,ティグレ,ゴッジャム,ショア,タナ 湖など北部エチオピア史で慣用となってい る呼称がある場合にはそれらを用いる。
・補足の際には〔 〕を用いる。
2. 『ガッラの歴史』訳注
序章
私はガッラGallaの歴史を書き始める7)。
〔彼らの〕集団8)の数,殺人に対する熱心さ,
慣習の野蛮さについて知らしめるために。も し私について「なぜ彼は悪しき人々の歴史 を,善き人々のもののごとく書いたのか。」
と言う者がいるならば,私は「書物の中で探 せ。信仰において我々の敵であるムハンマド の歴史やムスリムの王たちの歴史が書かれて いることを見るように9)。ギヨルギス・ワル ダ・アミドGiyorgis Wäldä Ämid10)は愚か なアジャムÄğäm11)の王たち,すなわちアフ リドンÄfridon12)やその他のペルシアFars の王たち,そして現在ソフィSofi と人々が 呼んでいる者たち13)の歴史を書いている14)。」
と答えて言うであろう15)。
7) 原文では完了形が用いられており,厳密には「書き始めた」とすべきであるが,文脈から「書き始 める」と意訳した。
8) ここで「集団」と訳出した語はnägäd(複数形ängad, änagəd)である。この語には,部族tribe,
氏族clan,リネージlineageといった多様な訳語があてられる。バフレイの言うnägädがどのよ
うな性質を持った集団であったのかを特定することは困難であるため,本稿では「集団」という訳 語を用いる。
9) ベッキンガムとハンティンフォードはこの文の末尾を「汝は見るであろうYou will fi nd」と訳し ている。しかし用いられている動詞は接続法現在形のtər’äyであるので,「見るように」と訳した 方がよかろう。
10)コプト教徒の歴史家ジルジースJirjīsことマキーン・ブン・アル=アミードAl-Makīn b. al-‘Amīd
(生没年:ヒジュラ暦602-672年/西暦1205-1273年)のこと。マキーンはアラビア語で史書を著 し,彼の死後ムファッダル・ブン・アビル・ファダーイルMufaḍḍal b. Abi ’l-Faḍā’ilがそれを書 き継いでいる(Brockelmann 1943-1949 I: 426)。バフレイが目にした史書がマキーンの著作であっ たならば,ムファッダル・ブン・アビル・ファダーイルによる増補版に,14世紀から16世紀にか けてのイスラーム世界の歴史を追補したものと推測される。しかしペルシア王の治績を記した別の 史書であった可能性も否定できない。
11)アラビア語起源の語で,ゲエズ語,アムハラ語においてもペルシア語やペルシアそのものを意味す る(Kane 1990 II: 1317)。
12)『シャーナーメŠāh-nāma』等に見えるペルシアの神話上の英雄フェリードゥーンFerīdūnのこと
(Aḥmad Tafażżolī 1999)。
13)サファヴィー朝のシャーのこととされる(Beckingham & Huntingford 1954: 111)。
14)序章の末尾は複数の解釈が可能であり,上掲の訳はベッキンガムとハンティンフォードの訳とは異
なる(Ibid.)。まず「愚かな」という形容詞は,訳出したように「アジャムの王たちに」という句
を修飾しているととることも,「歴史」に懸かっているとして「愚かな歴史」と訳すこともできる。
次に「ソフィと人々が呼んでいるyəsämməyəwwomu bä-zəntu zämän Sofi 」という1文について,
ベッキンガムとハンティンフォードは直前に位置する等位接続詞wäを無視し,「その他のペルシ ア王たち」を修飾しているものと解釈している。しかし神話上の人物であるフェリードゥーンと実 在するサファヴィー朝君主を併置したものとみなすよりも,訳出したようにwäの後に関係代名詞 を補い,「アフリドンやその他のペルシアの王たち,そして現在ソフィと人々が呼んでいる者たち」
と訳した方がよいのではなかろうか。
第1章
本書の著者16)は言う。ハツェḥäṣe17)=ワ ナグ・サガドWänag Sägäd18)の時代に,ガッ ラは西から彼らの国のガラナGälänaという 川を越えてバリBaliの辺境にやって来た。
〔オロモ社会には〕バライトゥマBäräytuma と ボ ラ ンBoränと い う2つ の 集 団 が 存 在 した19)。バライトゥマは6人の子をもうけ た。 長 子 は カ ラ ユKäräyu,2番 目 は マ ラ ワMäräwa,3番 目 は イ ト ゥItu,4番 目 は
アカチュÄkäču,5番目はワランティシャ
Wäränṭiša,6番 目 は フ ン バ ナHumbäna。
ボランの父はサピラSäp.iraと言った。サピ ラはダチャDač.äをもうけ,ダチャはマチャ Mäč.aをもうけ,マチャはダアレDä’äleと ジダĞidaをもうけた。これらの2人の兄弟 が多くの集団をもうけた。すなわちダアレ の子は〔長子は〕ホコHoko,2番目はチェ レČ.əle,3番 目 は オ ボObo,4番 目 は ス バ Suba。ジダは長子ハカコḤäkako,第2子 グ ェ ド ルGwədru, 第3子 リ バ ンLibänを もうけた。ダチャはダチDač.(人々は彼ら を彼自身の名で呼ぶ),コノKono,バチョ Bäčo,ジェレĞəle。これらは多くの集団を もうけた。すなわちバチョの子の名は,ウル
‘UruとイルIlu。ダチの子はソッドSoddo,
アボÄbo,ガッランGallan。コノの子はサ
クサクSäqsäq,リバン20)。ジェレの子はエ ラEla,アボ21),レイスLə’is。数が多いの で,彼ら全てがトゥラマTulämaと呼ばれる。
かつて彼らはともに戦った。しかし長い時 を経て,彼らは争い,アブレハムÄbrəham とロトLoṭが分かれたごとく,袂を分かっ た。家畜の数が多くなったときに,彼ら〔ア ブレハムとロト〕は「汝は右に,私は左に分 かれよう。そうでなければ私が右に,汝は左 に〔分かれよう〕。」と互いに言い合った22)。
〔アブレハムとロトの間に〕起こったごと く〔オロモの間に分離が〕起こった23)。ボラ ンがアンビサÄmbisaと呼び,バルトゥマ BärtumaがロバレRobaleと呼ぶルバluba の時代に,ダアレの2つの集団チェレとホ コ,ジェダĞədaの2つの集団リバンとグェ ドルはそれぞれの兄弟と分かれて連合し,ア フレÄfreと呼ばれた。ビルマジェBirmağe と呼ばれるルバの時代に,ジェダの子ハカ コ,ダアレの子アボ24)とスバも連合し,サ
ダチャSädäčaと呼ばれた。彼らは多くの集
団をもうけた。以下が彼らの名である。チェ レの子はガランGälam,ワボWäbo。ホコ
15)このようにバフレイは当時キリスト教王国を混乱に陥れていたオロモに関する書を執筆することに ついて弁明している。このようなバフレイの執筆姿勢に窺がうことのできる当時の北部エチオピア における歴史叙述の特色については,拙稿(石川 2007)を参照。
16)原文にはbä‘alä mäṣḥäfとあり,直訳すれば「書物の所有者」となる。グィディ,ベッキンガム
とハンティンフォードが訳したとおり(Beckingham & Huntingford 1954: 111; Guidi 1961-1962
II: 195),著者を意味すると考えるのが妥当であろう。
17)北部エチオピアのキリスト教王国の君主は古代イスラエル王国のソロモン王の後裔と称した。その ためこの王国はソロモン朝エチオピア王国と呼ばれる。君主の称号としては「皇帝」と訳される「諸
王の王nəguśä nägäśt」がよく知られているが,この「ハツェ」という称号も用いられた。
18)ソロモン朝皇帝は洗礼名か即位時につけられる「王国の名səmä mängəśt」と呼ばれる即位名
throne nameで呼ばれることが多い。ワナグ・サガドはソロモン朝皇帝レブナ・デンゲルLəbnä
Dəngəl(在位1508-1540年)の即位名である。
19)末尾にボラン系及びバライトゥマ系オロモの系図を掲げた(系図1)。 20)ジダの第3子もリバンという名であった。
21)ダチの第2子もアボという名であった。
22)創世記13:9には,アブラム(アブラハムの初名)がロトに言った言葉として「あなたの前には幾 らでも土地があるのだから,ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら,わたしは右に行 こう。あなたが右に行くなら,わたしは左に行こう。」とある。
23)ベッキンガムとハンティンフォードはこの1文を訳出していない。
24)第1章前半ではオボと記されている。
の子はキラモKirämo,エムルEmuru,ジ ダ25)。リバンの子はワリソWaliso,クェタ ウェKwətawe,アムイェÄmye。グェドル の子はシルバSirba,マロルMälol,チャラ カČ.äräqa。ハカコの集団26)はアボ27),ハル スḤärsu,リムLimu。スバの集団はハガラ バボḤägäläbabo,チュッラČ.urra。アボの 集団はサヨSäyo,アボノÄbono,トゥムエ
Tum’e,レカLeqa。お互いに良好な関係に
ある時には,これら全てがマチャと呼ばれる。
争っているときにはアフレ,サダチャと呼ば れる。もしこれら全てがトゥラマとともにい るならば,彼らはサピラと呼ばれる28)。ボラ ンは12人の子をもうけた29)。長子はダチャ,
2番目はジェレ,3番目はコノ,4番目はバ チョ。彼らはトゥラマと呼ばれる。5番目は ハカコ,6番目はオボ,7番目はスバ。彼ら はサダチャと呼ばれる。8番目はチェレ,9 番目はリバン,10番目はグェドル,11番目 はホコ。彼らはアフレと呼ばれる30)。
第2章
バトラ・アモラBäṭrä Ämora31)を破壊し たダウェDäweはボランの人々の出身であ る。他の〔集団の〕出身であると言う者も存 在するが,彼はそれ〔ダウェ〕がボランと 戦ったということに根拠を見出している。〔し かし〕これは馬鹿げた情報であり,正しくな
い。〔事情を〕正確に知る者mäṭäyyəqは言う。
彼ら〔ボラン〕が彼らの国から出発した時に,
出発した者は全てではなく,〔留まることを〕
望む者は留まり,〔出発することを〕望む者 だけが出発した。というのも〔ボランの社会 には〕命令を下す統治者が存在せず,〔各人 は〕心にかなったことを行なうからである。
〔その後〕ボランの中で留まった者は彼らの 国を出発してクェラKweraの道を進んだ32)。 ファシルFasilは彼らを攻め,彼らは彼〔ファ シル〕を殺害した33)。ダウェはキリスト教徒 との戦いを始めた。当時この史書tarikの著 者は「私はファシルを殺した者を恐れる。と いのも彼はキリスト教徒の血を味わったから である。」と予言して言った。それはバトラ・
アモラとワジュWäğを破壊した。彼の言っ たことが現実のものとなった。というのも予 言の魂mänfäsä tənbitは聖職者たちから離 れなかったからである34)。ダウェはこの予言 者を追い,彼の国であるガモGämo35)を荒廃 させ,彼が所有していたもの全てを略奪した。
〔それでは〕ここまで取り上げてこなかったバ ライトゥマの歴史に話を戻すことにしよう。
第3章
カラユは6人の子をもうけた。それらは多 くの強力な集団となった。彼らの中の最初の ものはリバン36),2番目はワッロWällo,3
25)マチャの第2子もジダという名であった。
26)ハカコ,スバ,アボについては「子たち」ではなく「集団」という語が用いられている。
27)ダチの第2子,ジェレの第2子もアボという名であった。
28)これはボランの誤りであろう。ゲエズ語年代記に「サピラ」という名称は現れず,バフレイ自身も
『ガッラの歴史』においてこの集団を「ボラン」と呼んでいる。
29)テキストには11人の名しか挙げられていない。
30)第1章の末尾の記述は,これまで述べられてきたボランの系譜と矛盾する。おそらくボランを構成 する3つの連合トゥラマ,サダチャ,アフレの構成集団を列挙したのであろう。
31)ベッキンガムとハンティンフォードによれば,バトラ・アモラとはショア南部の地域であった
(Beckingham & Huntingford 1954: 231)。
32)原文を直訳すれば,「彼らはクェラの道において彼らの国を出発した。」となる。
33)ソロモン朝皇帝サルツァ・デンゲルŚärś.ä Dəngə(l 在位1563-1597年)の年代記にも,皇帝がダウェ と戦うためワジュに向かったという記述がある(Conti Rossini 1961-1962a I: 127)。
34)この1文の意味は明らかではない。
35)ハンティンフォードによれば,ガモはアバヤ湖の西方に位置していた(Huntingford 1989: 94)。 36)ジダの第3子,コノの第2子もリバンという名であった。
番目はジェレ37),4番目はオボ38),5番目は スバ39),6番目はバラBäla’。ワッロは6人 の子をもうけた。すなわちワラ・ブコWärä Buko,ワラ・グェラWärä Gwəra’,ワラ・
ノレエルWärä Nole’elu,これらはワッロと いう名前である。そしてワラ・カラユWärä Käräyu,ワラ・イルWärä Ilu,ワラ・ノレ アリWärä Nole’äli。これら3つはサダチャ と呼ばれる40)。彼らが分裂したのは,彼らが アボリÄboliを殺害したときである41)。現在 彼らは和解し,我々に対して陰謀を企て,同 盟を結んでいる。
第4章
マ ラ ワ・ ア ヤMäräwa Äyaは ア ナÄna,
ウル42),アバティÄbätiをもうけた。彼らの 子と孫の数は増えた。それらは多くの集団と なり,集団ごとに名前が付けられた。彼らに は他の民のごとき王も領主もない。しかし彼 らは8年間ルバに従う。8年後,次のルバが 名づけられ,それまでのものは退く43)。この ようにそれぞれの時期に彼らは〔新たなルバ の形成を〕行う。ルバという語は同じ時に割
礼を受けた者を意味する。彼らの割礼の掟は このようなものである。というのもルバが退 くときには44),全てのバルトゥマとボランが 彼らの名を用い始めるからである。王の部 隊ḥäraがセッルス・ハイレŚəllus Ḫayle45), バデル・ツァハイBädəl Ś.ähay46),ギヨルギ ス・ハイレGiyorgis Ḫayle47)と名づけられ るように。
第5章
バリへの戦いを始めた時に割礼を受けたの はメルバフMəlbaḥであった。語る者がいな かったため,それ〔メルバフ〕の父の名を私 は知らない。
第6章
2番目のルバはムダナMudänaと呼ばれ た。その父の名はジェバナĞebänaである。
これがワビWäbi川を越えた。
第7章
3番目のルバはキロレKiloleと呼ばれた。
これはアダル・マブラクÄdäl Mäbräq48)の
37)ダチャの第5子もジェレという名であった。
38)ダアレの第3子もオボという名であった。
39)ダアレの第4子もスバという名であった。
40)ボランのハカコ,アボ,スバの連合もサダチャと呼ばれた。
41)『ガッラの歴史』第13章によれば,アボリが殺害されたのはビルマジェと呼ばれるルバの時代で あった。
42)バチョの長子もウルという名であった。
43)オロモ社会には一定期間に生まれた若者が年齢組を形成し,成人した後に軍事,統治,祭事と社会 的役割を順次代えていくガダ体系と呼ばれる年齢階梯制が存在した(Beckingham & Huntingford
1954: lxxi)。バフレイは統治を担う年齢組をルバと呼んでいる。なおルバとガダ体系の関連につい
ては,アスマロン・レゲッセAsmarom Legesseの解説(Asmarom 1973: 90)を参照。
44)ベッキンガムとハンティンフォードはテキストに「ルバが退くとき」とあることを注において 指摘した上で,この部分を「ルバが形成されるときwhen a luba is formed」と意訳している
(Beckingham & Huntingford 1954: 115)。 45)アムハラ語で「三位一体は我が命」の意。
46)アムハラ語で「勝利の中の太陽」の意。
47)アムハラ語で「聖ギヨルギスは我が命」の意。この部隊は『サルツァ・デンゲル年代記』において しばしば言及されている(Conti Rossini 1961-1962a I: 26, 27, 33, 34, 40, 46)。
48)ベッキンガムとハンティンフォードは,アダル・マブラクをソロモン朝皇帝ザルア・ヤコブZär’ä Ya‘qob(在位1434-1468年)がダワロに置いた部隊の名称であるバアダル・マブラクBä’ädäl Mäbräqの誤りとみなしている(Beckingham & Huntingford 1954: 115-116)。しかしダワロ近辺 にアダル・マブラクという地名が存在しており(Huntingford 1989: 124),グィディのごとくアダ ル・マブラクを地名として訳すべきであろう。
ようなダワロの低地qwällatä Däwaroとそ の低地の人々zä-qwällatiha49)を攻めた。
第8章
4番目のルバはビフォレBifoleと呼ばれ た。これがダワロ全土を破壊し,ファタガ
ルFäṭägarへの戦いと人々を捕らえること
を始めた。彼らは彼らを奴隷とし,ガバル gäbarと呼んだ50)。それ〔ビフォレ〕はコッ ソkośśoを飲むことを始めた51)。これまで述 べてきた最初のルバたちは,人々,すなわち 男たちと女たちを殺し,馬,騾馬も殺した。
羊,山羊,牛以外には生かしておかなかった。
〔しかし〕彼らは腹の中の生き物を薬で殺さ なかった。家畜と同じように,それ〔回虫〕
は彼らの足に垂れた。
第9章
5番目のルバはメスレMəsleと呼ばれた。
こ れ が ジ ャ ン・ ア モ ラŽan Ämora52)を 壊 滅させ53),ダゴDägoにおいてハマルマル Ḥämälmalと戦い54),全ての地方を破壊した。
それ〔メスレ〕はそれらを支配し,家畜とと もに入った。かつてのガッラたちはワビから 来て戦い,そこに戻っていた。我々の王アツ ナフ・サガドÄṣnaf Sägäd55)はアサ・ザナ ブ‘Aśa zänäbから来たそれ〔メスレ〕と戦っ た56)。ヌルNur57)があることを行なった後 に58),彼の国に下ったとき,彼ら〔ヌルと メスレ〕はハザロḪäzälo近郊において遭遇 し,それ〔メスレ〕は数え切れないほど多く の彼〔ヌル〕の部隊śärawituを壊滅させた。
ガッラが我々の国に到来して以来,この時ほ 49)グィディはこの部分をqwällaññaに直して「住民」と訳し,ベッキンガムとハンティンフォード もそれに従っている(Beckingham & Huntingford 1954: 115; Guidi 1961-1962 II: 198)。これは アムハラ語の単語で,「クァラqwälla(低地)の住人」を意味する。しかしゲエズ語にも同じく低 地を意味するqwälla(複数形qwällat)という単語があり,修正を加えずとも「それ〔アダル・マ ブラク〕の低地の人々」と解釈することが可能である。
50)ガバルとはオロモ語のgabbariiである。この語は「地代を納める者」を意味する(Foot 1970: 21;
Tilahun 1989: 231; Borello 1995: 156)。17世紀前半にエチオピア王国内で布教活動に従事したイ エズス会士アルメイダM. de Almeidaは著書『高地エチオピア史』において1章をオロモの歴史 の解説に割き,その中で「ビフォレBifolê」について「それは多くの人々を捕らえて奴隷とし,耕 作者たちについては,地代foroを納めさせた。」と述べている(Beccari 1969 V: 478)。
51)アルメイダによれば,コッソとはオリーブ程度の大きさの樹木の名称であった。その実は苦 く,牛の生肉を食べるために条虫に悩まされていたアムハラ・ティグレは虫下しとして用いてい
た(Ibid., 216)。パンカーストはエチオピアにおけるコッソの利用について詳しく解説している
(Pankhurst 1969)。
52)ソロモン朝皇帝バエダ・マルヤム1世Bä’ədä Maryam(在位1468-1478年)の年代記にも現れる 部隊名(Perruchon 1893: 143, 148)。
53)原文では「殺害するqätälä」という動詞が用いられている。
54)サルツァ・デンゲルの年代記及び『小年代記』によれば,ハマルマルはソロモン朝皇帝ナオド Na‘od(在位1494-1508年)の娘ロマナ・ワルクRomanä Wärqの息子であり,サルツァ・デンゲ ルの即位後反乱を起こして敗死した(Basset 1882: 23; Perruchon 1896: 179; Conti Rossini 1961- 1962a I: 5-7, 11, 12, 14-23, 25, 26)。なお『小年代記』とは,18世紀前半に編纂された史書であり,
アダムからソロモン朝の始祖ユクノ・アムラクまでの系譜とソロモン朝歴代皇帝の治績によって構 成されている。かつて『縮約版年代記Abbreviated Chronicle』と呼ばれていたが,皇帝年代記群を 単純に要約したものではないため,『小年代記Short Chronicle』と呼ばれるようになっている。
55)アツナフ・サガドとはソロモン朝皇帝ガラウデウォスGälawdewos(在位1540-1559年)の即位 名である。
56)本書ではソロモン朝皇帝に対して動詞の3人称複数形が用いられている。
57)ヌルとはヌル・ブン・ムジャーヒドNur b. Mujāhidのこと。彼はアフマド・ブン・イブラー ヒームAḥmad b. Ibrāhīm(ゲエズ語史料のグランGraññ)の甥で,ヒジュラ暦959年(西暦
1551/1552年)にハラルのアミールとなった。彼はムスリム軍を率いてエチオピア王国内に攻め込
み,1559年にガラウデウォスを殺害した(Trimingham 1952: 91-93)。
58)原文を直訳すれば,「彼が行なったことを行なった後に」となる。これはヌル・ブン・ムジャーヒ ドがガラウデウォスを殺害したことを婉曲に述べたものである。
ど多くの人が死んだことはない。この時壊滅 したヌルの部隊śärawitä Nurは,アウサの 部隊śärawitä Äwśa(彼らについては然るべ きときに語ることにしよう59))よりも数が多 かった。というのも神がマジュMäğ60)で流 された僕たちの血のために,彼らに復讐した のである61)。メスレは馬や騾馬に乗ることを 始めた。これは〔オロモ社会には〕それまで になかった〔慣習である〕。彼らは自分たち より前のルバたちについて「かつて2本ある いは3本の脚で歩いていた者たちを,私は4 本の脚で歩くようにさせた。」と言っている。
「3本の脚で」という表現は,道で疲れた時 に槍にもたれることについて言っているので ある。
第10章
これまで述べてきた5つのルバは,40年 間統治した。〔この間〕彼らの子供たちは割 礼を受けなかった。未割礼の者は息子や娘を 捨てる62)。これが彼らの掟である。割礼を受
けると,彼らは息子を育てる。娘については,
割礼を受けた2年か3年後まで捨てる63)。
第11章
5つのルバの後,メルバフの子らが割礼を 受け,ハルムファḤärmufaと呼ばれた。ハ ルムファはギヨルギス・ハイレをカチェノ Qäč.əno64)において壊滅させた。ボランはそ れをドゥルduluと呼んだ65)。それ〔ハルム ファ〕はガニGañi66),アングァトÄngwät,
ア ム ハ ラÄmḥäraを 破 壊 し, バ ゲ メ ド ル
Bägemədrへの戦いを始めた。バルトゥマ
のハルムファはバゲメドルを攻め,ハルボ Ḥärboの兄弟ワカWakaを殺害した67)。ハ ルムファは「湖を着るシダマSidama68)を,
私は湖に投げ込んだ。」と侮辱して言った。
第12章
8年の後,ハルムファが退き,ムダナの子 ロバレが名づけられた。その名は第6章に 書かれている。それ〔ロバレ〕はショアを荒
59)バフレイはこの後「アウサの部隊」について言及していない。
60)これはヌル・ブン・ムジャーヒドがガラウデウォスを殺害した地であるワジュの誤りである。
61)ガラウデウォスを殺害したハラルを中心とするムスリム勢力は,16世紀後半にオロモの攻撃を受 けて弱体化した(Ibid., 95-97)。
62)ここで「捨てる」と訳したのはwägäräという動詞であり,本来「投げる」という意味を表す。
63)アルメイダは,オロモが結婚後6,7年間は全ての子供を男女の区別なく捨て,餓死させると記し ている(Beccari 1969 V: 476)。チェルッリE. Cerulliは「今日ではほとんどなくなっている」と 断ったうえで,オロモに娘を捨てる慣習があったことを伝えている。しかしこの場合も通常捨て子 は他の家族に養われるか,奴隷商人に渡されたという(Cerulli 1922: 127)。ベッキンガムとハンティ ンフォードは,バフレイとアルメイダの捨子に関する記述について,オロモの慣習を誤解して伝え たものと考えている(Beckingham & Huntingford 1954: 118)。しかし佐藤は北ケニアのラクダ遊 牧民レンディーレ社会において,未婚女性が妊娠した場合に人工流産を試みたり,産んだ嬰児を殺 害する慣習が存在することを報告している(佐藤 1993: 66-69)。バフレイとアルメイダの記述が正 確でないにしても,それらが年齢階梯制と結びついた何らかの慣習に関する伝聞に基づいている可 能性はあるのではなかろうか。
64)ハンティンフォードによれば,カチェノとはイファトIfatの地名である(Huntingford 1989: 106, 156)。
65)オロモ語でduluとは「戦場に赴く」という動詞である(Tilahun 1989: 190; Borello 1995: 128)。 66)ベッキンガムとハンティンフォードは「ガンGañ」と記しているが(Beckingham & Huntingford
1954: 118),テキストにはガニとある。ハンティンフォードによれば,ガニは青ナイルの支流の1
つであるバシロ川の上流部に位置した(Huntingford 1989: 177)。
67)ワカについては明らかではないが,ハルボは『サルツァ・デンゲル年代記』にも言及されている
(Conti Rossini 1961-1962a I: 7, 9, 37, 43-46, 86)。
68)ここで「湖」と訳出した語はbaḥrであり,「大河」という意味もある。グィディが推測するとお り(Guidi 1961-1962 II: 200),この場合シダマとはキリスト教徒を意味し,「湖を着る」とはエチ オピア教会で行なわれる全身を水につける洗礼を意味しているのであろう。
廃させ,ゴッジャムに対する戦いを始めた。
ハ ツ ェ ゲḥäṣege69)は 彼 ら と ゼ ワ イZəway において戦った70)。そして彼は多くの者を 殺害し,その牛を略奪した。その略奪品に よって多くの者が豊かになった。ロバレは 貴族たちの長rə‘əsä mäkwanəntであったア ズマチäzmač71)=ザルア・ヨハンネスZär‘a Yoḥännəsを殺害した72)。彼に平安あれ。こ の時代,ソリSoli,ビダロBidaro,イララ Ilalaがボランのスバの集団にいた73)。5年 後, ハ ツ ェ ゲ74)は ワ イ ナ・ ダ グ アWäyna Däg‘a75)においてアバティのロバレと戦い,
1人残らず殺害した。10人しか〔生き〕残 らなかったと言う者もいる76)。彼らは彼らの 国に〔敗北を〕知らせるために到着した。
第13章
8年後ダワロを荒廃させたキロレの子であ るビルマジェが名づけられた。ボランのビル マジェは背丈に見合う牛lahmの革の盾をつ
くった。それ〔ビルマジェ〕は弓の人säb’ä qästであるマヤMaya77)と戦い,彼らを打 ち負かした。というのもそれ〔ビルマジェ〕
は乾いた牛の革の盾で守られており,射ると ころが少なかったからである。それ〔ビル マジェ〕は王の軍の指揮官であるアズマチ
=ダハラゴトDäḫärägot78)を圧し,ゼナイ
Zenayと彼のワアリたちを殺害した。当初彼
〔ダハラゴト〕はそれ〔ビルマジェ〕をしば しば打ち破った。しかしキリスト教徒たちの 贖罪が終わっていないため,神の望みによっ て勝者〔ダハラゴト〕は打ち負かされた79)。 それ〔ビルマジェ〕は彼〔ダハラゴト〕の任 地であるアルエナÄr’əñä80)を荒廃させ,ガ トGato,バトロBätro,バドロBädlo,ア
ムド‘Amdoその他の人々を殺害した。かつ
て全ての貧しき者が豊かになった2つの地方 が荒地となった81)。バルトゥマのビルマジェ はダンブヤDämbyaを攻め,皇族82)のアボ リ,バフル・ナガシュBaḥr nägaš=サムラ・
69)ソロモン朝皇帝の称号の1つ。ベッキンガムとハンティンフォードはこれを「エチオピア王」と訳 しているが(Beckingham & Huntingford 1954: 119),意訳である。
70)『小年代記』によれば,サルツァ・デンゲルは治世10年目にゼワイに向かい,ボランと戦った。こ の時のルバはアンビサであったという(Basset 1882: 23; Perruchon 1896: 179)。バフレイが第1 章で述べているように,バルトゥマがロバレと呼ぶルバをボランはアンビサと呼んだ。
71)「将軍」の意。
72)『小年代記』によれば,ザルア・ヨハンネスが死亡したのはサルツァ・デンゲル治世11年目であっ た(Basset 1882: 23; Perruchon 1896: 179-180)。
73)この1文の意味は明らかではない。
74)ベッキンガムとハンティンフォードはここを「ハツェ=サルツァ・デンゲル」と訳しているが
(Beckingham & Huntingford 1954: 119),意訳である。
75)ワイナ・ダグアはベガメドルにあり,ガラウデウォスがアフマド・ブン・イブラーヒーム率いるム スリム軍に勝利をおさめた地として知られている。
76)『小年代記』によれば,サルツァ・デンゲルは治世15年目にアバティと戦い,1人残らず殺害した という(Basset 1882: 24; Perruchon 1896: 180)。
77) 15世紀から17世紀にかけてゲエズ語史料に登場する民族で,毒矢を用いることで有名であった
(Beckingham & Huntingford 1954: 120)。
78)ダハラゴトはサルツァ・デンゲル治世にワジュ,ゴッジャム,ティグレとバフルメドルの統治者 を歴任している(Conti Rossini 1961-1962a I: 42, 44, 58, 72, 87, 100, 103, 108, 128, 133, 134, 144, 154)。
79)ベッキンガムとハンティンフォードは「勝者は打ち負かされた。」という1文を訳出していない。
80)ベッキンガムとハンティンフォードによれば,アルエナはワジュ内の地名であった(Beckingham
& Huntingford 1954: 120)。
81)ベッキンガムとハンティンフォードは「かつて訪れた貧しき人々全てを豊かにした2つの地方が 荒廃した。Two districts became desert, two that used to enrich all poor men who visited them.」
と意訳している(Ibid.)
82)原文の該当箇所を直訳すれば「王国の一族zämädä mängəśt」となる。皇族の意であろう。
ア ブŚämrä Äbと 彼 の 同 行 者kalə’anihuを 殺害した83)。これは,行いにおいては勇敢 で,はかりごとにおいては賢明な我らの王84)
がいないところで起こった。もし彼がダン ブヤにいたならば,ロバレに起こったこと がビルマジェにも起こっただろう85)。しかし 勝利が交互に起こるように,神は我らの王 の進路をダモトDamot86)に向けた。人々は 彼が向かうところに勝利を見た。貴族たち mäkwanənt87)は彼がいないところでは打ち 負かされた。
第14章
ボランのビルマジェはダモトの地を包囲し た。それ〔ボランのビルマジェ〕はその地 方を救う者も救援する者もいないのを見て,
人々と家畜を捕らえた。当時ダジュアズマチ däğ’äzmač=アスボ‘Asbo88)が〔ダモトに〕
いた。彼は兄弟と協議した。彼は軍を集め,
〔ボランのビルマジェを〕追跡し,それ〔ボ ランのビルマジェ〕が戦利品を分配している ところに至った。選ばれた者たちと騎兵たち は彼らを3重に囲んだ。すなわち3つの部
隊äwrariで包囲したのである。ガッラは逃
げ,殺害された。多くの者が大きな洞窟に隠
れた。彼〔アスボ〕は洞窟の入り口に木を集 め,火を放った。多くの者が火を恐れて〔洞 窟から〕出てきて捕らえられた。彼らは捕ら えていた皇子89)を多くの捕虜とともに彼〔ア スボ〕のもとに連れてきて差し出した。彼ら
〔アスボ配下の兵士たち〕は死んだ者の首を 斬った。彼〔アスボ〕は彼の地方を警護した。
その後ビルマジェの統治期間が終わるまで,
キリスト教徒の贖罪が未だ終わっていなかっ たために90),神の手は振り上げられていた。
たとえビルマジェの時代に彼ら〔キリスト教 徒〕が守られたとしても,今後適切な場所で 語るであろう最後のルバが彼らを滅ぼすにち がいない。
第15章
ビルマジェが退いた後,ビフォレの子ムル
アタMul’ätaが名づけられた。それはドゥ
ラグトdulagutoをゴッジャムで行なった。
ドゥラグトとはグェトヤgwətyaの戦いを意 味する91)。というのも第4章の冒頭92)で述べ たように,割礼を受けると,ガッラは自分た ちの名を使い始める。それ〔新たに形成され たルバ〕は前の者が攻めていない地方を攻め る。人間や大型の野獣を殺した者は頭の中央 83)『サルツァ・デンゲル年代記』と『小年代記』には,アボリ及びバフル・ナガシュ=サムラ・アブ
の名は見えない。
84)ベッキンガムとハンティンフォードは「我らの王サルツァ・デンゲル」と王名を追加している
(Ibid., 121)。
85)これは第12章で語られるサルツァ・デンゲルのロバレに対する勝利を指している。
86)ベ ッ キ ン ガ ム と ハ ン テ ィ ン フ ォ ー ド は「ダ ン ブ ヤ か ら 遠 く 離 れ た ダ モ トDāmot, far from Dambyā」と説明を追加している(Ibid.)。
87)アムハラ・ティグレ社会には,マクァンネンmäkwännən(複数形mäkwanənt),バラッバト
balabbat,ガッバルgäbbarという3つの階層が存在し,これらはそれぞれ貴族,郷紳,平民にあたる。
西欧に見られた厳格な身分差を伴う階級とは異なり,アムハラ・ティグレ社会における階層間の境 界は曖昧であり,社会の流動性は高かった(Levine 1965: 155-156; Crummey 1980: 134-136)。 88)ソロモン朝皇帝ススネヨスSusnəyos(在位1607-1632年)の年代記によれば,アスボはオロモに
捕らえられていたススネヨスを救出した将軍であった(Esteves Pereira 1892-1900 I: 5-6)。 89)原文の該当箇所を直訳すれば「王国の子wäldä mängəśt」であるが,皇子の意であろう。
90)原文には期限を表す接続詞əskäが用いられているが,理由を表す接続詞əsmäの誤りであろう。
91)グェトヤについてグィディらは解釈に窮している(Beckingham & Huntingford 1954: 122; Guidi 1961-1962 II: 202)。しかしオロモ語にはグッティッヤguttiyyaという語があり,これは髪の房を 意味する(Tilahun 1989; 284; Borello 1995: 192)。章後半部で説明される,人間や野獣を倒した 後に剃り残す髪の房のことであろう。
92)ベッキンガムとハンティンフォードは「第4章の末尾the end of Chapter 4」と訳しているが,「冒 頭」の誤りである。
に少し髪を残して全ての頭髪を剃る。殺して いない者は虱で苦しむ。そのためにそれ〔新 たに形成されたルバ〕は我々を殺すことを欲 するのである。その時ハツェゲ93)はダモト の地に赴くことを決定した。その途上,彼は ガッラがゴッジャムの地を攻めたこと,彼の 母である女王が難を避けるためにダブラ・ア ブレハムDäbrä Äbrəhamに登ったことを聞 いた。アツナフ・サガド王とアドマス・サガ ドÄdmas Sägäd王94),彼らに平安あれ,と いう彼の父祖95)の姉妹ウェザロwezäro96)= テウォダダTewodada〔も同様にダブラ・ア ブレハムに登った〕。予期していなかったと きにガッラが急に到来したため,その地方の 住人全ては恐怖に陥り,彼らの軍隊は散り散 りになった。彼97)の長子は彼の母がいると ころへ近づいていたガッラと戦い98),彼らを 追い払った。というのも彼は若者であり,そ の力は称賛に値したからである。彼は戻り,
彼の母の手をとってジェバラĞəbälaという
名の高き山に登らせた。ハツェゲ99)は行く 先を変更し100),迅速にガッラのいる場所に 向かった。そして彼は軍とともに〔オロモの いる地方に〕入った。彼〔サルツァ・デンゲ ル〕は父祖たる王たちの〔戦いの〕方法を捨 てた。というのも戦いに赴くと,戦士を送 り,歩騎の選ばれた者とともに〔自身は後方 に〕いて,前進する者を称賛し,退却する者 を叱責するというのが彼らの慣習だったから である。〔それに対して〕我々の王は勇者た ちの先頭に立ち,戦った。これを見ると,兵 士たち101)は駆け出し,ガッラに対して獣の ように飛び掛り,彼らを皆殺しにした。多く の者が絶壁から落ちた102)。その地方の人々 と農民たちが彼らを見つけた場所で彼らを殺 害した。彼〔サルツァ・デンゲル〕103)はガッ ラたちの首を斬るように命じた。それはア ドラAdora104),すなわち広い土地に満ちた。
そして彼はイテゲItege105)とウェザロ=テ ウォダダを滞在していた山から下山させ,丁
93)ベッキンガムとハンティンフォードは「ハツェ」としているが,テキストには「ハツェゲ」とある
(Beckingham & Huntingford 1954: 122)。
94)アドマス・サガドとはソロモン朝皇帝ミナスMinas(在位1559-1563年)の即位名である。
95)ミナスはサルツァ・デンゲルの父,ガラウデウォスは彼の伯父にあたる。
96)ゲエズ語のウェザロwezäro(複数形wezazer)はアムハラ語のワイザロwäyzäroにあたる。現在 ワイザロという語は既婚女性一般に用いられる(Kane 1990 II: 1561)。しかしアルメイダによれば,
17世紀前半にウェザロという語はソロモン朝皇帝の血を引く女性を意味した(Beccari 1969 V: 63)。 97)ベッキンガムとハンティンフォードは「王」と意訳している(Beckingham & Huntingford 1954:
122)。
98)ここで「戦う」と訳出したゲエズ語の動詞はtäḫäyyäläである。この動詞に本来「戦う」という意
味はない(Leslau 1991: 269)。しかしこの場合前後の文脈からすると,グィディ,ベッキンガム
とハンティンフォードが訳しているとおり(Beckingham & Huntingford 1954: 122; Guidi 1961- 1962 II: 202),「戦う」と訳すべきであろう。
99)ベッキンガムとハンティンフォードは「王」と意訳している(Beckingham & Huntingford 1954:
122)。
100)原文を直訳すれば「道を捨てる」となる。
101)テキストには「部隊śärawit」とあるが,意訳した。
102)「落ちた」と訳出した動詞はtänäṣəḥäであり,本来「純化する,浄化する」といった意味である
(Leslau 1991: 405)。
103)ベッキンガムとハンティンフォードは「王」と意訳している(Beckingham & Huntingford 1954:
122)。
104)ベッキンガムとハンティンフォードによれば,原本ではアドラに続く句の中に15 mm程度の欠落 がある(Ibid., 123)。
105) 1770年代初頭にナイルの水源を求めてタナ湖周辺を探検したブルースJ. Bruceによれば,イテゲ
は皇帝の妻たちの中で特別に「女王queen」とみなされていた女性に対する呼称であり,存命中に 他の女性が新たにそれを名乗ることはなかった(Bruce 1790 III: 280-281; IV: 244-245)。ただし バイル・タフラBairu Tafl aが指摘するとおり,イテゲは君主である女帝とは異なる(Bairu 1987: 911)。
重に迎え入れた。彼女たちは斬られた敵の首 の多さを見て大いに喜び,勝利の魂mänfäsä mäwi’əを聖別された方masiḥu106)に置いた 神を称賛した。ガッラから取り戻した牛につ いては,彼は〔それらを〕略奪された人々に 返還した。
第16章
その後我々の王は出発することを決意し た。というのも彼は考えたことを行い,口に したことを実現するからである。そして彼は ダウェと呼ばれるガッラと戦うためにワジュ に向かった。ガッラはそれを「後方のガッラ Galla zä-dəḫr」と呼ぶ。彼らに病を起こし たため,人々はそれをダウェと呼ぶ107)。彼 が出発した理由は,彼ら〔ダウェ〕が陣形を 整え,退却しないと考えたからである。彼 ら〔ダウェ〕がいると人々の言った場所に 至ったけれども,彼はそれ〔ダウェ〕を見 つけられず,探索した。〔しかし〕それ〔ダ ウェ〕の居場所を見つけられなかった。家畜 の戦利品と身体の戦いś.äb’ä śəggawe108)は
なかった。彼は悪魔と戦い,諸民族の魂を彼
〔悪魔〕から奪うことを決意した。そして彼 はエンナルヤ E
nnarya,ボシャBoša,ゴマ ルGomär〔の人々〕を呼び109),彼らに「キ リスト教徒になれ。」と言った。彼らはキリ スト教徒になり,洗礼を受けた110)。
第17章
ワラ・デアヤのムルアタMul’äta zä-Wara Də’äyaは ラ スras= ワ ル ダ・ ク レ ス ト ス Wäldä Krəstos111)の〔統治する〕地方を攻 めた。彼〔ワルダ・クレストス〕はそれ〔ワ ラ・デアヤのムルアタ〕を破り,戦利品を取 り戻し,多くの者を殺害した。彼はその集団 を追跡し,彼らは絶壁から落ちた。そして彼
〔ワルダ・クレストス〕はハツェゲが戻るま でその地方を守った。戻ったハツェゲは,そ の地方がワルダ・クレストスの警戒と戦闘に よって守られているのを見た。そのため彼
〔サルツァ・デンゲル〕は彼〔ワルダ・クレ ストス〕を彼の家の長əgzi’ä lä-betu112)とし,
王国の全てを統治させた113)。 106)「聖別された方」とはキリストを意味する。
107)ゲエズ語で「ダウェdäwe」とは病を意味する。
108)ベッキンガムとハンティンフォードは「戦いの対象となる人間」と意訳している。しかし後に続く 悪魔との「魂の戦い」と対比して用いられているこの句は,グィディのように「身体の戦い」と原 文に忠実に訳すべきであろう(Beckingham & Huntingford 1954: 124; Guidi 1961-1962 II: 203)。 109)ハンティンフォードによれば,ボシャはエンナルヤの南東に,ゴマルは青ナイルとエンナルヤの間
に位置していた(Huntingford 1989: 140, 197)。
110)『サルツァ・デンゲル年代記』にも,皇帝がエンナルヤに赴いて住民にキリスト教の洗礼を受けさ せたことが記されている(Conti Rossini 1961-1962a I: 119-128)。サルツァ・デンゲル治世にお けるエンナルヤとボシャの住人のキリスト教への改宗について詳しくは,ランゲW. J. Langeの解 説(Lange 1982: 25-27, 66-68)を参照。
111)彼の本名はワサノ・ムハンマドWäsäno Muḥämmädであり,ワルダ・クレストスは洗礼名であっ た。彼は1580年代末にサルツァ・デンゲルの命を受けて軍事遠征を行なっている(Conti Rossini 1961-1962a I: 129)。
112)ベッキンガムとハンティンフォードは「ラス,すなわち彼の家の頭Rās or head of his house」と 訳しているが(Beckingham & Huntingford 1954: 124),テキストには「ラス」にあたる語はなく,
正確な訳ではない。
113)バフレイはワルダ・クレストスが任命された役職名について言及していない。しかしそれは王国全 体の統治に関わるものであり,「彼〔皇帝〕の家の長」であったとされる。当時キリスト教王国内 で最も高位に位置づけられていたベフトワッダドbəḥtwäddäd職が『ススネヨス年代記』におい て「王国の長」と説明されていること(Esteves Pereira 1892-1900 I: 159),またワルダ・クレス トスがサルツァ・デンゲル治世末にベフトワッダド職に任命されたと『王国の法と慣習Ḥəggä wä śər‘atä mängəśt』と称される史料が伝えていること(Bodleian Library, MS Bruce 92, fol. 10v)を 想起すれば,ワルダ・クレストスがオロモを撃退した武功により任命された役職はベフトワッダド 職であった可能性が高いと言えよう。
第18章
ボランのムルアタはダモトのキリスト教徒 を苦しめた。そしてそれ〔ボランのムルアタ〕
は彼らを散り散りにし,彼らの地を荒廃させ た。その時代にショアとダモトの地は荒野と なった。私が書いてきたものについて言えば,
ガッラの勝利の時も,キリスト教徒の勝利の 時もあった。「今日は汝に,明日は汝以外の 者に。勝利はある時には此方に,ある時には 彼方に。常に勝利をおさめるのは全てのもの の上にまします神である。」と述べる書物に ある慣例どおりである114)。その地hägärは それ〔ボランのムルアタ〕の手に落ち,残っ た者はいなかった115)。この書が書かれたと き,それはビフォレの子ムルアタの統治の7 年目であるが116),彼らはメスレの子の割礼 と任命の準備を整えている。彼らの時代に起 こるであろう戦いや殺戮については,もし私 が生きているならば私が後に書くであろう。
もし私が死んだならば,他の者が私の歴史や これから現れるルバについての歴史を書くで あろう。しかし死者は幸いなり。休んでいる のだから。
第19章
賢人たちはしばしば議論して言い合う。「な ぜガッラは我々を打ち負かしたのか。我々の 方が多く,武器も多かったのに。」と。神が 我々の罪のためにそれをお許しになったのだ と言う者もいる。また我々が10の集団ṣota に分かれ,それらのうちで9つの集団は戦い に赴かず,〔戦いを〕恐れることを恥じない からであると言う者もいる。10番目の集団 のみが戦い,力の限り戦うのである。たとえ 我々の数が多いとしても,戦うことのできる 者の数は少なく,戦いに赴かぬ者は多い。
これらの中で最初のものは修道士117)の集 団であり,彼らの数は数え切れない。この史 書の著者や彼のような〔他の〕者のように,
学んでいるときに修道士たちに勧められ,幼 くして修道士になる者もいる。戦いへの恐れ から修道士になる者もいる。2番目の集団は ダブタラdäbtära118)と呼ばれる。彼らは書 物と聖職者の全ての行いを教わる。彼らは手 を叩き,足を踏み鳴らす119)。彼らは恐れる ことを恥じない。彼らはレビ人Lewawyan と聖職者,すなわちアロンÄronの子たち を模範とする。3番目の集団はジャン・ハ ツァナŽan ḥäṣäna,ジャン・マアサレŽan 114)これは聖書の特定の1節を引用したものではない。
115)この1文の解釈は難しい。グィディ,ベッキンガムとハンティンフォードは「その国はムルア タに服従し,(服従することなく)残った者はいなかった。」と意訳している(Beckingham &
Huntingford 1954: 124-125; Guidi 1961-1962 II: 204)。
116)この記述や本書に含まれている年代を特定できる事件に関する記述から,ベッキンガムとハンティ ンフォードは各ルバの統治期間を推定している(Beckingham & Huntingford 1954: 208-210)。 117) 17世紀前半にエチオピア王国内で布教活動に従事したイエズス会士ロボJ. Loboは修道士と聖職
者の数は無数であり,人口の3分の1が神に身を捧げているとさえ述べている(Lobo 1971: 376)。 アルメイダは修道士を「宮廷で知識人とみなされる修道士」,「一般の修道士」,「黄色の皮あるい は布を身にまとい,厳しい断食を守るバタヴィBatavisと呼ばれる隠者」に分けている(Beccari 1969 VI: 176)。
118)エチオピア教会の特色の1つは,助祭,司祭,修道士に加えてダブタラと呼ばれる人々が存在する ことである。ハイレ・セラシエ帝政期にアムハラ社会の調査を行なった人類学者レヴァインによれ ば(Levine 1965: 131, 171-173),ダブタラは宗教舞踏,ゲエズ語文法と作詩を習得し,また多く の書物を学ばなければならず,彼らの知識水準は一般の司祭や修道士に比べて遥かに高かった。彼 らは聖歌を歌って教会の収入の一部を得るか,学識を活かして王や貴族に書記として仕えた。また 薬剤や護符を売るなどして生計を立てる者もいた。ダブタラは修道士とは異なり,聖性ではなく,
学識によって人々に尊敬される反面,人々が通常理解できないゲエズ語を操るために,超自然的な 能力を行使できる者として恐れられた。
119)ベッキンガムとハンティンフォードは「聖務の間during divine service」という句を補っている
(Beckingham & Huntingford 1954: 125)。
mä‘aśäre120)と呼ばれる。彼らは法を守り,
戦いを避ける。4番目は,貴族の妻,ある いは皇族の女性wezazerのダッガフォッチ däggafočč121)である。〔彼らの〕力は強く,
〔彼らは〕頑強な若者たちであるが,「我々は 女性の従者122)である。」と言って戦いを避け る。5番目の集団はシェマゲッレšəmagəlle と呼ばれる。彼らは領主であり,レストrəst の所有者123)である124)。彼らは支配する農民 に土地を分配し,〔戦いへの〕恐れを恥じる ことはない。6番目の集団は農民で,農地に 暮らし,戦いのことを考える者はいない。7 番目の集団は交易を行い,自分たちのため
に利益を得る人々である125)。8番目の集団は 鍛冶師nähäbt,書記,仕立屋säfayyan,大 工ś.ärabyanといった職人ṭäbiban,あるい はそれらに類する者たちである126)。彼らは 戦うことを知らない。9番目の集団はアズマ リたちäzmaročči127)である。彼らはカンダ・
カバロqändä käbäro128)やバガナbägäna129)
を持つ者である。彼らは〔金品を〕求めるた めの仕事をする。彼らは自分たちに〔金品を〕
与える人々を祝福し,空虚な賛辞や意味の無 い称賛を与える。〔それに対して金品を与え ることを〕拒む人を呪う。彼らが「これは我々 の慣習である。」と言うので,これらのこと
120)ソロモン朝前期の土地特許状にはこれらの役職への言及が見られる(Conti Rossini 1961-1962b I:
27, 28, 31, 33, 34, 37)。それらの職掌は不明であるが,バフレイの記述から,司法に携わったこと
が窺える。
121)ダッガフォッチとは,馬の左右に位置して,主人が馬に乗るのを介添えする者たちのことである
(Kane 1990 II: 1837)。
122)ここで「従者」と訳出した語は「ワアリwä‘ali(複数形wä‘alyan)」である。
123)ベッキンガムとハンティンフォードはここを「世襲の土地所有者hereditary landowners」と意訳 している(Beckingham & Huntingford 1954: 126)。レストとは土地の用益権であり,アムハラ・
ティグレ社会では支配者も農民もこれを有した。理論上,ある土地のレスト権を継承する権利はそ の土地を使用する者の全ての子孫にあった。実際には耕作歴,居住歴等によってレスト権の継承を 要求できる者の数は制限されたものの,潜在的な継承権保有者の多さゆえに,同じ土地を1つの家 系に属する人々が代々耕作することは稀であった。このような相続方法ゆえに,1人の祖先を共有 する子孫たちは出自集団を形成しない。出自集団の発達が見られないことは,他のアフリカの諸社 会と比較した際のアムハラ・ティグレ社会の重要な特徴である(Hoben 1973: 5-6, 14-25; Shack 1974: 28-30; Crummey 1980: 122)。
124)ベッキンガムとハンティンフォードはシェマゲッレという語の後に「年長者elders」という語を 補っている(Beckingham & Huntingford 1954: 126)。シェマゲッレは,現代のアムハラ語では「老 人」,「尊敬に値する人物」といった意味を表す(Kane 1990 I: 615)。しかしバフレイの記述からは,
16世紀末にこの語は多くの土地に対してレストを保有する人々を指して用いられていたことが判 明する。
125)北部エチオピアでは長距離交易はムスリムが担い,域内交易にはアムハラをはじめとする諸民族が 従事した。ここに言及される「交易を行い,自分たちのために利益を得る人々」とは,アムハラ・
ティグレの中で交易に従事する人々のことであろう。
126) 19世紀に北部エチオピアを訪れたヨーロッパ人たちは,ファラシャFälašaと呼ばれる人々が主に 手工業に従事していたことを報告している。ユダヤ教的な宗教を信仰するため「エチオピアのユダ ヤ人」とも呼ばれる彼らの自称は「ベタ・エスラエルBetä E
sra’el」であった。バフレイが『ガッ ラの歴史』を著した16世紀末において,ベタ・エスラエルの多くは未だ皇帝の支配に服さず,頑 強な抵抗を続けていた。彼らが土地を失って手工業に従事するようになるのはゴンダール期に入っ てからのことであり,バフレイの言う「職人,あるいはそれらに類する者たち」とはアムハラ・ティ グレであったと思われる。ゴンダール期におけるベタ・エスラエルの生業の変化については,クィ リンJ. Quirin等の解説(Quirin 1992: 99-119; Kaplan 1992: 99-105)を参照。
127)アズマリäzmari(複数形äzmaročč)という語は,本来貴族に雇われ,歌によってその武勇や善行
を称賛し,またその敵対者を非難する人々を意味していた。しかしその後楽師一般を指して用い られるようになった。アズマリについて詳しくは,ポウンM. Powneらの解説(Powne 1968: 61- 70; Cynthia Tse Kimberlin 2003)を参照。
128)小型の太鼓のこと(Powne 1968: 25)。 129) 10弦のリールのこと(Ibid., 53-56)。