ユダヤ古代史
シーセル・ロス『ユダヤ人の歴史』 ― 抄訳( 4 )
山 本 雅 昭
第十章 パトリアルク
(一) 一般に考えられているのとは逆にエルサレムの陥落は単にユダヤ 人の歴史の一齣に過ぎなくて、一つの時代の終焉などではなかった。エルサ レムと神殿が廃墟と化したこと、そして再建が禁じられたことは事実である。
パレスティナからの逃亡者たちがその後の数年間にエヂプトやクレネで惹き 起こした大惨事のために、おおよそ二百五十年まえに大祭司オニアスによっ てエルサレムを模して建立されたレオントポリスの聖所すら閉じられた。こ れまでエルサレムの神殿のために全ディアスポラのユダヤ人が毎年随意に支 払ってきた年半シェケルの自由税が強制的な税になったこと、そしてそれが ユダヤ人国庫税という名のもとにローマにある帝国金庫に納められたことも 事実である。ユダヤの民が心を一つにして戦争で斃れた人々を悼み、過ぎし 日のイスラエルの栄光を想って喪に服したことも事実である。しかしそうし たことすべてにもかかわらずパレスティナ州は、秩序が回復してみると、状 況は以前とあまり変わってはいなかった。少なくともユダヤとガリラヤの住 民は相変わらず圧倒的にユダヤ人が多数を占めていたし、土地の行政は引き 続きカエサレアのローマ総督府が司っていた。ユダヤ人の国家は百五十年ま えポンペイウスがエルサレムを奪取したときに倒れている。大叛乱が鎮圧さ れたあともユダヤ人の帝国体制内での地位は事実上そのまえとべつだん変わ りはなかった。
重要な新展開が一つ、そしてただ一つだけ、あった。これまでユダヤ人を 率いるものはヘロデ家の統領たちだったが、当家最後の男系の代表者アグ
『言語文化』15-2:179−194ページ 2013.
同志社大学言語文化学会 ©山本雅昭
リッパ二世は人民との仲が疎遠で、それにまたあまり長くも生きられなかっ た。大祭司がほぼ同じくらいに高い地位を占めていたが、神殿の崩壊ととも に大祭司職そのものがなくなってしまった。エルサレムが落ちるまえからす でに大祭司のそれより上とはいかないまでもほぼ同等の尊敬を享けている人 種がいた。ラビ、すなわち聖書を解釈する学者である。かれらはいつも民衆 に崇敬の念をもって仰ぎ見られていた。いまや崇敬に値するものはかれらを 措いてほかになかった。たまたま、エルサレムが落城するまえに当代の卓越 した学者の一人ヨハナン・ベン・ザカイがうまく町を脱出するということが あった――伝説によれば、弟子たちが担ぐ棺に隠れて、ということである。
ティトゥスはかれにヤッファにほど近いヤブネー(ヤムニア)の港町に居を 定めることを許し、そこに伝承の知に関する研究と註解のための学問所を開 設する許可を与えていた。当時の学者たちのなかでも最も優秀な連中がかれ の周りに集まってきた。かつて国家最高の国務会議だったサンヘドリンが、
政治的影響力や富というよりむしろ学殖によって選ばれた成員で、再構成さ れた。その長にはあの大ヒレルの子孫ガマリエルが選出された。ヘロデ時代 最も敬愛された人物の一人ヒレルは、その教えと人格とが同時代を生きた他 のどの学者のそれよりもいまなお人々の記憶に懐かしく残っていたのであ る。
この組織は最終的に半公式の地位を得ることになる。総裁すなわち〈ナ スィー〉(外部世界での呼称でいえば『パトリアルク』)は、ローマ当局との 諸関係においてユダヤ人の代表と認められるようになった。以後三百五十年 にわたってこの顕職は同じ一門で父から子へと代々引き継がれていく。
神殿の崩壊とともに、存在のすべてが神殿礼拝と直結していたサドカイ派 は、その独自の個性を失った。宗教界の主導権がパリサイ派の学者の手に握 られることになる。両派間にかくも長きにわたって続いてきた学界内の内輪 揉めも、ヒレルの弟子たちと、より厳格だったかれの敵手シャンマイの弟子 たちとの間で無事和解が成立して治まった。こうしたことが支えとなってパ レスティナの生活が改編される。行政は二重構造だった。一つは、カエサレ アの総督が統括する下級役人と収税吏によるローマ人のそれであり、いま一 つは、ヤブネーのサンヘドリンとパトリアルクを中心に回っている学者たち
のそれである。人々は祭司のためのものだった十分の一税を取って置いて、
ローマの収税吏に税金を支払うよりずっと快く学問所から回されて来る慈善 募金の集金係に喜捨を渡した。裁判所は法律上の事案をユダヤの法にした がって裁くために引き続き各町に存続し、サンヘドリンが統括本庁としてそ れらの上に立った。シナゴーグと学習所とがかつてないほどに地方生活の中 心になり、教育制度の発展にも力が注がれ、ヨーロッパで十九世紀もずっと おそくなるまで実現され得なかった程度にまで完備される。全住民が豊かな、
そしておおむね平穏なユダヤ的生活を続けた。
(二) 復興の事業は一つの目ざましい勝利とそれに続く恐ろしい破局に よって中断された。神の救いを信じる人々には敗北を最終的解決として受け 容れることはできなかった。ほぼ一世代の間パレスティナは恫喝のもとで屈 服させられていた。しかしエルサレム陥落後四十五年、ローマ帝国東部国境 地帯で再び火の手が上がった。レヴァントとアフリカのユダヤ人がなにやら 漠然としたメシア到来の希望に突き動かされていっせいに立ち上がったの だ。もっとも、その突発性と緊密な連繋には、どうも運動の背後に黒幕がい たのではと疑わせるものがあるが。はるか遠隔の辺境メソポタミアからエヂ プト、クレネ、キプロスと、叛乱はローマの心胆を寒からしめるほどの広が りを見せて展開した。度を越した残虐なやり方でようやく叛乱が鎮圧された のは、両陣営に多量の血が流されての末のことだった(紀元一一五年)。
しばらくはローマが非情苛烈な姿勢を威嚇的に誇示することでパレスティ ナには平和が保たれていたのだが、ハドリアヌス帝の即位後すぐにこの地で も同じように大規模の暴動が起こった(紀元一三二年)。先頭に立って指揮 を執ったのはシモン・バル・コジバという名の、あるいはかれの崇拝者たち からはバル・コセバ(星の子)と呼ばれた、並外れた膂力と類稀な人間的魅 力とを併せ持つ男だった。その周りに集まった人々のなかにそのころひとき わ抜きん出た学者だったアキバ・ベン・ヨセフがいた。かれの身も心も投げ 打っての忠誠ぶりのせいで運動は異常なほどに大きな意味を持つものになっ た。それはまるで稲妻が走るごとくあっという間に広がった。叛乱の顚末を 記録するヨセフスはいなかったが、しかし当初はなかなかの成功を収めたら
しい。ローマの駐屯軍は少なくとも州南部から追い払われた。エルサレムが 奪還された。神殿再建の企てもあったようである。これまでのとは比較にな らぬ完成度の高い貨幣が鋳造された。しかもそれには古ヘブライ文字で書か れたローマ人からの聖都の解放を記念する銘が穿たれてあった。
三年間、叛徒たちはよく持ちこたえた。ついにユリウス・セヴェルスが作 戦の指揮を執るべくブリテンから呼び戻されてきた。ローマの軍隊という機 械装置はひと度全重量を懸けて動き出せば誰にも止めることができない。叛 徒の支配地域は一つ一つ虱潰しに押しつぶされていき、エルサレムも取り戻 されてしまった。なおも抵抗可能な最後の拠点は、エルサレムと海岸の間に あるベト・テルの砦だったが、紀元一三五年、長い頑強な防衛戦ののちそこ も落ちた――アブの月の九日、あの二度の国民的大惨事の記念日だった。逆 徒は組織的に捜し出され、バル・コセバその人もそうだったように戦いに斃 れなかった叛乱の指導者たちは、ラビのアキバ・ベン・ヨセフ同様むごたら しく処刑された。エルサレムの敷地全域に砕土機がかけられ、更地の上に『ア エリア・カピトリーナ』と名づけられた新しい町が建設された。町にはユダ ヤ人は誰一人足を踏み入れることを禁じられた。ユダヤの残りの地は荒廃し たまま打ち棄てられ、住民のすべては戦争とそれに続く大掛かりな奴隷化に よって一掃された。往古からの首都の周りに広がる地域一帯ももはやいつま でもユダヤ人の心の故里ではなかった。国民生活の中心は北部のガリラヤに 移った。このときからユダヤ人は父祖の土地で少数派になった。しかもその 新たな居留地ですら、最も人口密度の高い村落は、過ぎ去った民族の栄光と はほとんど縁もゆかりもない地域にあったのである。
(三) 叛乱鎮圧のあとしばらく宗教上の迫害という間奏曲が鳴り響い た。かつてのアンティオコス・エピファネスと同じように、ハドリアヌスも、
ユダヤ人の民族としての存在をかれらに宗教の実践を禁じることによって抹 殺しようと望んだようだ。かれの治世が終わるまでユダヤ教の基本的なしき たりは禁じられたままだった。律法を教えることさえ禁じられた。伝承によ れば、服従より殉教を選んだ優れた学者が十人いたという。結局ハドリアヌ スの後継者アントニウス・ピウスがこの新しい政策は賢明でないという結論
に達して、良心の自由は回復された(紀元一三八年)。不寛容の法規は撤廃 された。ただしそれには、これ以後割礼はユダヤ民族に帰属する人間にしか 施してはならぬという重要な留保がついた。それまで広く帝国内全域にわ たって行なわれてきたユダヤ教への改宗はこうして第一級の違法行為となっ たのである。この法令が施行された日をもってユダヤ教の大規模な布教活動 が終わりを告げたといっていいかもしれない。
ヤブネーの学院の生き残りたちはなんとかガリラヤのウシャに再度本拠を 構え直した。この地でサンヘドリンが新規に立て直され、こんどの不幸によっ てすっかり破壊された民族の生活を再建するための一連の方策が決定され た。先のパトリアルクだったガマリエルの子シモンが〈ナスィー〉に選ばれ た。かれはさして学殖深い人物ではなかったから、このナスィー選出の事実 から、そのころすでにガマリエル家が国民感情のなかに確立していた指導的 な地位を窺うことができるだろう。シモンのあとその職責はさらに息子のユ ダに引き継がれ(紀元一七〇年〜二一七年)、かれの時代にパトリアルク制 は発展の頂点に達する。かれが維持した地位は王のそれとほとんど同じもの だったし、かれの人間性がサンヘドリンを支配した。かれは家族のものには つとめてヘブライ語を話させるようにした。ヘブライ語こそギリシア語と並 んで洗練された会話に唯一最適の言葉と看做したからである。かれが健康状 態から居宅を空気清涼なセプフォリスの山地に構えることを余儀なくされる とそこが民族感情の中心の一つになった。『ミシュナー』(一九〇頁参照)の 名で知られる口伝律法の偉大な成文法典化が行なわれたのはかれの後援によ るものだった。この成文法典がそれ以後のちのちまで民族の文化と文学の基 礎を形づくることになる。
ユダは、紀元二一七年に亡くなるが、パトリアルク制最後の一大傑物であっ た。かれのあとをいく人かのガマリエル、いく人かのユダ、いく人かのヒレ ルたちが機械的に順次引き継いでいった。学識などというものはそのころに はすでにこの職責にとってどうでもよい資格であり、ナスィーははっきり世 襲制になってしまっていた。政治的にはしかしその光彩はまだ褪せてはいな かった。パトリアルクの権威(いまは恒久的にティベリアスに確立されてあっ た)はディアスポラの最涯ての地にまで承認され、ちょうどかつての神殿の
維持管理のためのときと同じように、各地から顕職の地位の維持のために任 意の寄付金が集まった。かれの支配のもとに、パレスティナのユダヤ人は自 らの伝統文化を育み、少なくとも司法上の自治権を維持する緊密に結束した 集団であり続けた。しかしそれは滅びゆく集団であった。キリスト教がゆっ くりとユダヤ教をその生誕の地から追い出しつつあった。経済的に見るなら、
地域はすでに疲弊していた。紀元六八年から七〇年にかけてと同一三二年か ら一三五年にかけての二度の大叛乱の鎮圧においてローマ人が残した破壊の 痕跡はいつまでも消えることなく、地域が荒廃から立ち直ることはついにな かった。大地の乾燥が進み、降雨量の減少がアラビア半島の全域とそれに近 接する地方を不毛の地に変えかけていたというあきらかな証拠が残ってい る。徴税は耐えがたいまでに苛酷なものになった。内乱や軍事的動乱が起こ るとどうしてもユダヤ人が他のどの民族よりも大きな影響を蒙りがちだっ た。ただし、たぶんかれらの不幸な同族サマリア人は、べつではなかったか。
なにしろサマリア人は自身が同じように絶えず騒動の種を蒔いていたし、ま たその歴史はよりいっそう波乱万丈のものだったのだ。
決定的な暗黒に包まれるまえに希望の最後の光が一つあった。皇帝ユリア ヌス(『背教者』ということで有名)がキリスト教に対する反撥からユダヤ 教の方にはっきりと肩入れをし、『兄弟にして高徳のパトリアルク、ヒレル 二世』(紀元三二〇年〜三六五年)への書簡において、計画中の対ペルシア 戦から戻ったらすぐエルサレムに神殿を再建するつもりであると予告したの だ。しかしかれはついに戻ってこなかった。キリスト教徒の文筆家たちは、
ユダヤ人の希望が泡と消えたことを、神の恩寵がユダヤを去ったことの最終 的な証しだと随喜の涙を流した。
終末はすでに近かった。四世紀も終わるころ、屋台骨のぐらついているロー マ帝国が二つのべつべつの国家に分裂することになったとき、パレスティナ はもちろん東方すなわちビザンティン帝国の一部に組み入れられた。紀元 三九九年、西の皇帝ホノリウスは自分の領土を経由して相手の領土内へ金銀 の地金が転送されていくのを妬んで、ユダヤ人の誰もがパトリアルク制の維 持のためにそれまで毎年送ってきていた任意の税金のイタリアでの収税を禁 止した。痛烈な一撃だった。ティベリアスにあるナスィーの宮廷には計り知
れない打撃を与えたにちがいない。翌年ユダ四世(紀元三八五年〜四〇〇年)
のあとをその子ガマリエル六世が継いだ。二十五年後に男児のないままかれ が死ぬと、その機をとらえてテオドシウス二世はこの職を完全に廃してし まった。
こうしてユダヤ独立の最後の名残り、かつての時代の栄光の最後の残照は きれいに拭い去られた。それでもなおユダヤ人がパレスティナに多少はその 姿をとどめることができたのは事実だった。近年ベト・アルファで発掘され たもののようなかなり立派なシナゴーグがまだ建てられ続けたし、教学所や 学者もティベリアスその他の地でなんとか自力で持ちこたえていた。聖書の 原典の精緻な研究がいわゆるマソラ学者たちの手によって行なわれ、相当量 の律法主義文献(長らく散逸したままになっていたがここ数年のあいだに一 部再発見されている)が編集された。ヘラクリウスの治世にパレスティナの 支配権をめぐってペルシアとビザンティンとの間で激しい抗争が起こったと き、パレスティナのユダヤ人は、ティベリアスのベニヤミンなる人物に率い られてペルシアの側についた。先の主人たちが戻ってきたとき(紀元六二八 年)、ユダヤ人は恐ろしい代償を払わなければならなかった。パレスティナ のしだいにさびれゆくユダヤ人居留地が完全に衰亡したのは十字軍の時代以 降であり、それどころかこんにちにいたるまでなおガリラヤの遠隔の地には 数千年にわたってついに嗣業の地から根こぎにされることのなかった村落共 同体が二つ三つ残っているとさえ言われている。しかしパトリアルク制の廃 止とともに、ほぼ一千年まえの追放からの帰還以来続いてきたユダヤの自主 独立の最後の痕跡は消え去り、ダビデの一門の、大祭司の、そしてハスモン 家の政治的権威を細々ながら繋いできた鎖の最後の環もここで切れ、これ以 後すべては過去の物語になったと、そう言っていいかもしれない。ユダヤ人 はいまや言葉のまったき意味において故国の地との絆を断ち切られた。その 歴史の最も特徴的な、そして最も驚異的な章が始まるのはこれからである。
第十一章 メソポタミアのユダヤ人社会
(一) パレスティナでパトリアルク制が衰微に向かう時期とちょうど同 じころ、メソポタミアのもう一つの新しいユダヤ人の生活の中心地が全盛期
を迎える。バビロニア人によって強制移送されてきたユダヤ人亡命者たちの すべてがいち早く機会を捉えてシェシュバツァルやエズラとともにパレス ティナへ戻ったわけではなかった。エルサレムに第二神殿が聳え立っていた 六百年の間ずっと民族の第二の重要な中心地は、ペルシアの、次いでパルティ アの支配のもとで二つの大河の地に生き続けたのだった。かれらは自ら『捕 囚』(〈ゴラー〉)と称し、また広くユダヤ人世界でもその名で知られていた。
大部分は農業に従事していたようだが、重要な居留地はユーフラテス河に 沿ったネハルデアやニシビスといった町にあった。紀元一世紀、ティグリス 河畔アディアベネの半独立王国の王家一族がこぞってユダヤ教に帰依した。
女王へレナと家人一同がユダヤのしきたりを遵奉するそのものものしいまで の徹底ぶりについて、ラビたちがまるで夢物語のような話を伝えている。か のじょは自ら家族の幾人かとともにエルサレムの城壁の外側に葬られたし、
また紀元六十八年から七十年へかけての対ローマ大戦争のときにはアディア ベネ王とその弟はユダヤの側に立って勇猛果敢に戦った。
帝国との交渉事においてバビロニア・ユダヤ人社会を代表した公認の首長 は、〈捕囚の公〉または〈捕囚の長〉(レーシュ・ガルータ、一般に『エクシ ラルク』として知られる)といって、伝説によるとダビデの子孫だったとい う。その身分はほとんど王侯君主のそれだった。つねに宴を張っては盛大な もてなしで客を歓待し、当局がユダヤ人共同体に課した通常潰滅的な打撃と なる重税を徴収するのはかれを通してだった。メソポタミアのユダヤ人社会 の日常語はヘブライ語にきわめて近いアラム語で、これはパレスティナにお いてさえもうすでに通用しなくなっていた言語である。少なくとも法的には この共同体は完全に自治権を有しており、したがって内輪の揉め事はユダヤ の法によって処理された。また、たとえ同じ理由からに過ぎなかったにせよ、
伝統的な学問研究の奨励に熱意が注がれ続けたのは当然のことだった。パト リアルク制の時代を通じてずっと、だから、パレスティナとの間に変わらぬ 緊密な関係が続いた。バビロニアの学者たちはティベリアスやセプフォリス の尊師たちのもとで研鑽を積むべく西を指して出かけ、他方、シリア情勢の 悪化にともなって、多くの家族がメソポタミアの同宗信徒のより快適な環境 を享受しようと東へ移住した。
(二) 精神的知的生活についてはすでにわたしたちは充分すぎるほど 知っているが、それ以外の点で、その後メソポタミアの地がササン朝ペルシ アの君主たちの統治下にあった時期(紀元二二六年以後)のメソポタミア事 情に関するわたしたちの知識は、まだまだ乏しいままである。その時期のす ぐれて特徴的な一面である活発な文学活動にもかかわらず、状況はどうも申 し分のないものであったようには見えない。マギ、とそうゾロアスター教の 司祭階級は呼ばれていたが、かれらの影響でときどき他宗教に対する迫害が 起こった。その一方で、たとえばシャープール一世(紀元二四一年〜二七二 年)のように、ユダヤ人市民に施した恩恵から好意的に記憶にとどめられて いる支配者も幾人かいる。
(三) 五世紀半ば、メソポタミアの『捕囚』の状況ははっきりといっそ う悪い方向に向かう。恒常的に存在する宗教的偏見に火がついて、長期にわ たる迫害が始まった。迫害はペルシア王コーバドが新たな信仰、マズダク教 を採用した六世紀に頂点に達する。この宗教は、少なくとも敵対者たちの言 によれば、財産の共有のみならず妻の共有まで説く宗教だった。たまりかね て捕囚の長マル・ズトラ二世は武器を取って立ち上がった。七年にわたって かれは少しばかりの非ユダヤ人およびユダヤ人住民の援けを得ながらマホザ あたりを拠点になんとか独立を守り通すのだが、結局は衆寡敵せず叛乱は制 圧され、自らは敗北ののち生まれ故郷の地の橋の上に磔にされた(紀元 五二〇年)。かれの死の日に生まれた息子マル・ズトラ三世はパレスティナ へ攫うようにして連れ出された。かれのためにパレスティナにパトリアルク の顕職を復活しようとしたのである。
メソポタミアのユダヤ人は、最後の数人のペルシア王のもとで状況はある 程度好転はしたものの、こうした悲劇の起こる以前に享受していた繁栄と影 響力をついに完全に取り戻すことはなかった。栄枯盛衰の詳細をいちいち精 確に述べてもあまり意味がないだろう。西暦紀元の最初の数世紀におけるバ ビロニア・ユダヤ人の豊かなよく組織化された生活の背景を説明するには、
これまでに瞥見したもので充分である。当地のユダヤ人の総人口は何十万、
あるいはひょっとすると何百万と数えられたかもしれない。数の上では、パ トリアルク制が命脈尽きるころにはすでに、パレスティナと肩を並べるくら い、もしかするとパレスティナをしのぐほどだった。しかし何より大事なの は、この地こそが、広くユダヤ民族全体の存在と精神に永遠に影響力を持ち 続けることになる特異な知的生活の中心地になっていたことである。
第十二章 タルムードの発展
(一) 第一神殿時代のヘブライ人の歴史を端的に特徴づける顔は預言者 であり、時代の最も特徴的な産物は聖書だった。ユダヤ人がそれまで自分た ちだけが関わりを持ってきた諸地域と絶縁するという事態で終焉した第二神 殿時代の顔だったのはラビであり、時代の文学的記念碑はタルムードである。
この推移はきわめてあたりまえの成り行きだった。ひとたびユダヤ人に民 族の歴史と、理想に従って生活を律すべき倫理的教義と、そして法と宗教的 実践に関する国民的規範とを含んだ成文典が与えられれば、次の段階は教師 階級の擡頭だった。かれらは一方でこの聖典の解釈につとめながら、同時に、
解決を求めて持ち込まれてくる法律上の案件に裁決を下していた。エルサレ ム崩壊の遥か以前に(すでに見てきたように)律法の教師すなわちラビは国 民生活のなかに主要な位置を占めていた。伝承が代々伝えきたったところに よれば、かれらは最後にやってきた預言者の衣鉢を継ぐものであり、アレキ サンドロス大王の時代の大祭司、義人シモンこそこの新たな系統の祖である という。ヘロデの時代にすらラビは、新約聖書がわたしたちにそのことを充 分に気付かせてくれるように、不可欠なとはいわないまでも重要な存在だっ た。こうしてヒレルやシャンマイといった傑出した人物が表舞台へ躍り出し てきたのである。
エルサレム陥落は貴族および祭司階級を一掃した。残ったのは学者だけで ある。そしてラビ・ヨハナン・ベン・ザカイがとった政策が与かって、学者 は以後何百年にもわたってユダヤ民族の諸事万端に支配的な影響力を持つこ とになる。これより民衆の憧れの的は祭司でもなく、武人でもなく、また地 主でもなくて、学者になった。貴族と呼ばれるのは一族の富によってではな く、学識によってということになった。
バル・コセバの叛乱の悲劇とその冷酷無比の鎮圧とがパレスティナの知的 生活にほとんど致命的ともいうべき打撃を与えたことがあきらかになってい た。ラビのアキバ自身がそうだったようにパレスティナの知的生活において すぐれた学者たちが演じた役割があまりに大きかったため、ローマ当局が教 学所の活動を完全に禁止しようとしたのである。ユダ・ベン・ババが自らの 命と引き換えに、師アキバの殉教のあと師の高弟たちの幾人かに命じて伝承 の鎖を護った。書記として生計を立てていた「慈悲の人」ラビ・メイルや、
のちにユダヤ神秘主義の創始者と看做されることになるシモン・ベン・ヨハ イのような優秀な学者たちの指導のもとで、ガリラヤにゆっくりと以前の生 活がもどってきた。
それまでラビたちの教えは唯一聖書という成文典に拠っていた。ところが この時代すでに聖書のまわりに厖大な量の口伝による知識が生まれていた。
成文典は現実に起こるかもしれないあらゆる緊急事態に予め対処することは できない。当初から、トーラーに直接的な指示を仰ぐことのできない問題が、
あれこれ人びとの頭を悩ませ人びとを手こずらせていた。商取引や結婚問題 について聖書は黙して語らないから、それらの法的な争いが調停を求めて毎 日のように法廷に持ち込まれた。そのためばかりではない。聖書が教えると ころをある場合には少しばかりその範囲を広げるのは理にかなってもいたの である。人がうっかりして法を侵さぬよういわゆる「律法のまわりに垣根を めぐらす」のである。一般的に言って問題は、何をしなければならず、何を しなくともよいかではなくて、むしろ、トーラーを委細完璧に実践すること を望むのであれば人は何をすべきか、何をすべきでないか、であった。それ は法の規範というより生き方の規範であった。少しずつさまざまの解釈学的 規則が生まれてきた。あるいは聖書を理解するための解釈の規準とでもいう べきか。そのなかで最も重要なものは、アキバの同時代人ラビ・イシュマエ ルが系統立てて定式化した体系である。
このようにして件の成文典に加えて厖大な量の「判例法」が生まれ、これ が教学所において代々口伝というかたちで伝えられてきた。その多くは、じっ さい、シナイ山でモーセ自身の手に授けられた聖伝に始まると看做されるほ どに古い歴史を持っていた。この種々雑多の異成分から成る巨大な塊りを整
理し体系化し始めたのがラビ・アキバ・ベン・ヨセフである。まず第一にか れは、肥大化した伝承の一つ一つの項目ごとにその正当化を聖典のなかに求 める傾向と方法を大きく拡げた。こうして普通にはない綴字法、あるいはあ る種の語に二重の意味をもたせることで、法習慣の近時の新たな事情が古代 の成文典に関連づけられることになった。第二に、かれは蓄積された口伝を 主題別に配列することを試みた最初の学者であった。弟子のラビ・メイルが、
師の集めた教義の集大成に修正を加えこれを完成させた。間違いなくとは言 えないが、おそらくはこれらの学者たちは、何かを書き留めるなどというこ とはしない口伝えによる教授というものを信頼し続けた。もしも平穏な状況 が保証されていれば、驚異的なオリエントの記憶はこの伝達法が無限に続い ていくことを可能ならしめたにちがいない、と考えていただろう。だがパレ スティナの状況は平穏とはほど遠いものだった。二世紀末にはすでにこの生 きた伝統はどうやら驚くべき速さでやせ細り始めていたらしい。
こうした状況下で、最後の改訂がパトリアルク・ユダ一世の支援のもとに 計画された。この事業はかれの名で呼ばれている。およそ百五十名の学者の 名において伝えられた口伝が、蒐集され精査された。アキバとメイルが集め た資料に修正が加えられ、補足が施され、必要な箇所では配列の改変が行な われた。妥当性の疑わしい口伝は排除された。主題別の分類が完全なものに なった。議論が交わされたところには、多数決方式の採用と採択された見解 とが示された。全体は六つの「題目」に整理分類され、それぞれがまた論、章、
項に分けられた。使用言語は、パトリアルクがことのほか愛した純粋な力強 いヘブライ語である。この新しい法典は『ミシュナー』、すなわち〈教え〉
と名づけられた。ヒレルとその前任者たちから直接の編集者本人にいたるま での、この法典制作に協同参加したラビたちはのちに(語源的に同根のアラ ム語の単語に拠って)『タンナイーム』という名で知られることになる。
(二) 仕事が完成するやたちまちまた新たにそれをめぐっての議論が始 まった。聖書がそうであったように、新法典も、想定しうる限りのあらゆる 事案に対応できるほど包括的であることは不可能だった。宗教的な性質の、
あるいはまた法的な性質の新規の難題がつねに発生しては、裁決を求めて教
学所に持ち込まれた。それらは慎重にあらゆる角度から、すなわち『ミシュ ナー』に照らして、あるいはそれより権威の落ちる、『ミシュナー』との関 係がちょうど聖書に対する聖書外典のような独立の編纂物、たとえば『トセ フタ』(補遺)や『バライータ』(余論)なども持ち出して審理されたであろ う。それだけではない。パトリアルクの手になる厳格な実践的法典のなかに 組み込まれなかった厖大な伝承の口伝――歴史、伝説、倫理的な教え――も ある。これらすべてが学問所での講義と議論の主題に取り上げられたのであ る。
『ミシュナー』のあとに続く世代にも、国家の政治的経済的衰亡にもかか わらず、先の時代の最も傑出した人物と並べてけっして遜色ないと見てよい 学者たちがいた。鍛冶屋の倅、「寛容の人」ヨハナン・バル・ナパハ(二七九 年没)や、その義兄弟で、ナパハの影響によって学究の道に転じるまで剣闘 士だったシモン・ベン・ラキシュのような人たちである。
学問に対する圧倒的な情熱はなにもパレスティナに限られていたわけでは ない。以前から幾世代にもわたって若い学徒たちが少なからずメソポタミア から当地の教学所を訪ねてやってきていた。ユダ一世の弟子だった最も優れ た学生たちのなかの一人が、のちに『ラブ』あるいは「大師」と呼ばれるよ うになる「のっぽ」のアバ(二四七年没)だった。生まれはバビロニア人で あるこの学徒は、故国に戻るとすぐスーラに自分自身の教学所を設立した。
これに対抗してべつの研究所が最大のユダヤ人入植地ネハルデアに建てられ た。これをきわめて高水準の超一流研究機関にまで高めたのは、「のっぽ」
のアバの同時代人にしてかれの理論に対立的な法学体系を唱道した人、同時 にまた医師であり解剖学者であり天文学者でもあったサムエル何某(二五四 年没)である。パルミラの軍隊がネハルデアを略奪したとき(二六一年頃)、
この学院はさまざまの有為転変ののちバグダッドの地にほど近いティグリス 河畔の町マホザに移転した。その間に、もっと重要な研究の中心がスーラか ら数マイルの地プンベディタに生まれていた。その後の八百年、僅かの中断 期間はあったものの、スーラとプンベディタの学院がユダヤ人の学問を支配 し続けた。
メソポタミアにおける知的生活の構造は、パレスティナの場合も同じだが、
ヨーロッパの考え方と根本的に異なっていた。なんらかの地位に必要な資格 を得るために勉強をする専門学級などというものは存在しなかった。神の法 を吸収しそれと同化することが、階級の上下を問わず万人にとって特権であ り義務であると看做されていた。時にはエクシラルク自身が有能な学者で あった。農夫や職人も、毎日朝夕の勤行のあと、田畑や店での仕事の合い間 を見つけては教学所に出たがった。熱心な学生は一日じゅう倦むことなく誰 か有名なラビの授業に参加して、かれのもとに裁断を仰いで持ち込まれる事 案についてのかれの判決に耳を傾け、内心ではその論証や判例のみならず、
ちょっとした雑談、挙措、ごくつまらない癖などをも心に留めておこうとし た。春と秋の農閑期には、学生たちが全国津津浦浦から学院に押し寄せ、ま るひと月の間、教授は止むことなく続いた。これは(『カラー』と呼ばれたが)
ある意味において現代の公開講座方式に当たるものである。もっとも、それ を続けた熱意の烈しさと広範な大衆の参加に匹敵するようなものは、純真さ を失ったいまの時代には求めようもないが。
(三) 年月の経過とともに、パレスティナとメソポタミアの学問所で討 議に付された題材の集合体は巨大なものに膨れ上がった。土台は『ミシュ ナー』じたいだったが、それにその編纂以来蓄積された仮説の、あるいは実 際の判例法が加わった。これを『ハラカー』(歩き方、生き方の作法)といっ た。しかしさらにそれ以外に、『ハラカー』でないものすべてを含んだ『ハ ガダー』すなわち〈物語り〉があった。いわばラビの教義の人文学である。
そこにはあらゆるものが詰め込まれていた。歴史、民間伝承、医学、生物学、
伝記、倫理的教え、天文学、科学、論理学、過去の偉大な教師たち一人一人 の思い出、さらには厖大な数の、時にはとても美しい、時にはいささか幼稚 なまったくの伝説。これら雑多な異成分からなる混合体『ハラカー』と『ハ ガダー』を合わせて一般に〈教え〉、つまり『タルムード』と呼んだ。作製 に携わったラビたちは自らを、著名な学者が講義を行なうときその口の役目 をつとめる通釈者に因んで、『アモライーム』と称した。
タルムードは教学所での議論のなかで、あるいはシナゴーグで行なわれた 公開講演会において口頭で繰り返された。やがてこれらの議論もまた、つね
に何かしらの補足や修正の対象になっていたにもかかわらず、ゆっくりと一 定の形に整えられ固定化されていった。パレスティナで、そのためのとにも かくにも形のはっきりした基礎を築いたのはラビ・ヨハナン・バル・ナパハ で、二七九年の死のまえのことだった。だが国の混乱状態と教学所の衰亡と が、この、いわゆるパレスティナ(または正確さを欠く言い方では、エルサ レム)・タルムードに充分な発展を許さなかった。これと対をなすメソポタ ミアの知識体系の方が、内容量においても重要度においても数段大きい。そ れを編纂したのは、スーラの学院の院長アシー(三七五年〜四二七年)であっ た。その後何世代かにわたって追加と改変とが行なわれ続けた。しかし、五 世紀末にはゾロアスター教による迫害によって、メソポタミアの教学所もま もなくパレスティナと同じ道を歩みそうな気配が漂ってきた。そこでアシー の後継者のラビナ二世は、思いきってこの巨大化した集塊をまるまる書き留 めるという、容易ならざる事業に取りかかった。最終的な編集を成し遂げた のは、ラビナ二世の遺志を継いだ『サボライーム』(あるいは、〈理論家〉た ち)である。かくしていわゆるバビロニア・タルムードが誕生したのである。
ユダヤ人の生活におけるタルムード(これによって同時代の、聖書物語り の説教的伝説的潤色を含んだパレスティナの編纂物である『ミドラシュ』を 考えてもかまわないだろう)の重要性は、けっして単に学問の上だけのもの ではない。そこには幾世紀にもわたって蓄積されたユダヤの民の叡智が詰 まっている。ヘブライ思想のいかなる側面も、そして人間的関心のいかなる 対象も、そこに提示されていないものは何ひとつないのである。編纂の時代 は、かつての国の中央部から政治的にも言語の上でも切り離された遥かな遠 隔の地にそれぞれ独立した生活の中心が大きく成長してくる時期と重なる。
ユダヤの民は、父祖たちが一度として耳にしたこともない土地で、また父祖 たちにはかつてまったく無縁だった生なりわい業で口を糊し、それまで想像だにしな かった困難に立ち向かいながら、いままさにまったく新たな存在の局面に入 ろうとしていた。ちょうどそのとき、かれらは、それを抱えて自らの新しい 生活のなかに飛び込んでいくべく、一巻の法典を、単に宗教や法の規範とし てではなく文明化の規範としての法典を手にしたのだった。
タルムードがきわめて事細かに例示し規定している生活法は、イスラエル
の民がいかなる地にいようと、いかに多くの政治的党派に分裂させられよう と、かれらすべてをつねに一つに束ねた。それはかれらに、自分たちを他の あらゆる人々と区別する特徴的な刻印を、そしてそれのみならず独自の驚異 的な抵抗と団結の力を与えた。その弁証法はかれらの叡智を鋭く研ぎ澄まし、
かれらに異常なまでの知的鋭敏性を賦与した。いやしかし、そのなかにはこ れすらをも凌ぐもっと大きなものが秘められていた。タルムードは中世の迫 害されたユダヤ人に、かれが住んでいた世界の有為転変が耐えがたきまでに 激しくなったとき逃げ込むことのできる、もうひとつの世界を与えた。それ はかれに、自分のいるべき土地が失われたとき、どこへでも持ち運びのでき る祖国を与えたのである。もしもユダヤ人が、来るべき永い年月の流れのな かでよく自らのアイデンティティを保持し続け得たとするなら、その功績は 何よりもまずタルムードのものと言わねばならない。
※ シーセル・ロス『ユダヤ人の歴史』におけるユダヤ 人の古代に関する叙述は以上である。
したがってこれをもって抄訳を終えることにする。