ユダヤ古代史 : シーセル・ロス『ユダヤ人の歴史
』―抄訳(3)
著者 山本 雅昭
雑誌名 言語文化
巻 14
号 2‑3
ページ 265‑312
発行年 2012‑01‑20
権利 同志社大学言語文化学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012594
265 ユダヤ古代史 シーセル・ロス『ユダヤ人の歴史』 ― 抄訳(3)
ユダヤ古代史 シーセル・ロス『ユダヤ人の歴史』 ― 抄訳(3)
山 本 雅 昭
第二巻 ユダヤ人(およそ紀元前五八六年ころから四二五年まで) 第六章 捕囚からの帰還
(一) 紀元前五三八年、とほうもなく広大な砂漠を横断してメソポタミアの西部へと通じる古代からの隊商路を、
護送された集団がいく度となく通った。それは通常の旅行者や商人の移動ではなく、自分たちの運命に出遭うために
故郷へ戻って行く人々の群れだった。
紀元前五九七年から五八六年まで絶えることなく続いた戦闘でバビロニア軍によってパレスティナを追放された
﹁言語文化﹂
14―3.
265―
312 ページ二〇一二年. .
同志社大学言語文化学会
©山本雅昭
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人々は、それまでの歴史上の先例や当時のおおかたの予期に反して、他とまったく異なるその特異な個性を失うこと
はなかった。破局が訪れるずっとまえにすでに先見の明ある人たちによって、このようにあとから振り返ってみれば
災難というよりむしろ罰という形で現れた運命の変転を予告されていたのだ。先祖が発見した唯一神へのかれらの帰
依の心は、誰の眼にもあきらかな異国の神の勝利によって一層強化されはしても、消し去られることはなかった。さ
らに、追放の地にあってもなお雄弁な教師たちが(テル=アビブ*に住まわされた集団の一人エゼキエルのように)
かれらのなかから立ち上がって自信と信仰とを持ち続けよと熱っぽく説きながら、預言者の伝統を絶やさなかったこ
ともあろう。心ならずも移民の身となったものたちはこうしてその境遇なりに民族的な、言語的な、そして宗教的な
アイデンティティを保持し続けていたのである。
バビロニア帝国は、初めて帝国が出現したときと同じ速さであっという間に崩れ去った。ナボニドス王のとき、キュ
ロスと名乗る弱小民族アラム人の首長が兵を挙げ、成功に継ぐ成功を収めて新ペルシャ帝国を打ち建てた。南へ兵を
進めたかれはナボニドスの法定推定相続人たるベルシャツァルが指揮するバビロニア軍を破り、ついで敵陣内での裏
切りに乗じて、公式行事の大酒宴が行なわれている間に首都を奪取してしまった(紀元前五三八年)。かれは征服者
としてではなくあくまでも解放者としてやって来たと主張した。だからかれがバビロニア帝国の冷酷無情の仕打ちに
よってユダの地から根こぎにするように連れ去られてきた人々に恩恵を施したことは、べつだん異常なことでもなん
でもない。バビロン陥落のまさにその年に、かれは布告を発して、希望するものには誰でもエルサレムへ帰ることを、
そしてその地に︿最高神﹀礼拝のための大神殿を再建することを公式に許可した。こうして流民の一部がキュロスの
進出ただ一つに託していた熱い希望は実現を見たのである。かれらの思いはイザヤ書の後半部に感情が迸り出るよう
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な高い調子で詠われている。
*﹁春の丘﹂の謂。現代パレスティナにこの名は復活している。
(二) 五三八年砂漠を横断した護送集団はこれら帰還する追放者たちだった。当時の記録によるとその数は併せ
て四万を優に越えたという。メソポタミアに残ることを選んだものらが金銭を出し合って長途の旅を援けた。旅団を
統率したのは先の王家の一員、おそらくはヨヤキン王の子であったゼルバベルである。もう一人の傑出した人物は、
高名な祭司の一門に連なるイエシュア・ベン・ヨツァダクだった。
旅人たちの集団は次々と故郷に足を踏み入れるや、各家族がそれぞれに以前占有していた土地への権利をあらため
て主張して四方八方へ雲散霧消したと、そう思う向きがあるかもしれない。しかしその秋、かれらは神殿での大礼拝
を復活させるためにエルサレムに集結したのである。バビロンを出て第七の月(これ以後︿新年﹀として知られる)
の月初め、典礼の挙行のさいに、瓦礫の山と化していた中庭の中央からがらくたを片付け、粗末な祭壇を置いた。こ
の日より三百五十年、朝夕の規則的な礼拝が途切れることはなかった。
さてこの瞬間から一気に神殿の完全復旧の準備に拍車がかかった。帰還二年後に礎石が置かれた。荘厳な式典とブ
ネ・アサフ一門のレビ人たちが唱導する朗々たる聖歌の歌声とに往時の華やかさが甦るようであった。群衆の歓呼の
叫びが山々に谺して響き渡った。しかし以前ここにあった神殿の壮麗さがいまも瞼の裏に焼きついている長老たちの
多くは、過ぎ去った栄光とその悲劇的な結末とを思い出して涙していた。歓びと懐旧の涙はしかし二つながらに、パ
レスティナに居住する隣人たちの政治的陰謀のためにまもなく工事が中断されるにおよんで、時期を早まったことが
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あきらかになるのだが。
こうした状況のなか、帰ってきた追放者たちは新たに家を建ててそこに落ち着いた。少しずつエルサレムの街路は
瓦礫が片付けられ、もとからあった家々の修復も始まった。ある種の精神生活がゆっくりと表れてきた。ハガイやゼ
カリヤ・ベン・イドといった教師たちが出現してエレミヤとホセア亡きあとを埋めた。帰還を指揮したゼルバベルは
どうやらその後まもなく死んだらしい。キュロスが死ぬ(紀元前五二九年)と、かれが築き上げた国家の平和は相次
ぐ叛乱と内戦でかき乱され、パレスティナもその余波を避けることができなかった。秩序が回復されたのはようやく
権力がペルシャ帝国の真の創始者、有能なダレイオス一世の手に握られた紀元前五二一年に入ってからのことであ
る。この王権の空位期間が愛国感情の復活につながった。熱き心の持ち主ハガイはこの間、国家の社 やしろがまだ荒廃した
ままに打ち捨てられてあるのに人々が私宅の改築に血道をあげている現状に驚き呆れ、もう一度神殿再建の仕事に立
ち戻るよう説き続けていた。さらにかれはこの第二の神殿の栄光は失われた先の神殿を上まわって大きなものになる
であろうと予言したのである。
こうしてダレイオスの治世第二年、紀元前五二〇年の冬、十六年の中断ののち工事は再開された。人心に再び活気
が戻ってきた。この時のひときわめざましかった活気の回復に、近代の批評家は、この時点をこそ民族再生の真の始
まりとしている。さらに五年にわたる労働ののち、しかもペルシャのあまりに仕事熱心な役人のうるさい干渉にもか
かわらず、紀元前五一五年の春、神殿は完成し主 しゅに奉献された。
(三) ところで復活した共同体の政治的状況は一世紀まえの父祖たちの時代とまったく違っていた。新たに住み
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ついて得た領土はエルサレム周辺のきわめて狭い地域に限られていた。せいぜい三十ほどの田舎の入植地が数平方マ
イルの範囲に点々とばらまかれたようにあるといったありさまだった。バビロニア捕囚の間に、周りに住んでいた諸
部族が押し出してきて以前ユダのものであった多くの周縁地域を占拠してしまっていたのである。なかでも最も重要
なのは、外国軍入植者という外来種の混ぜものを含んだ、かつての北方イスラエル王国のいまでは半ば偶像崇拝信仰
に染まった生き残りだった。かれらは帰ってきた亡命者たちにはっきりとした同族意識を感じ、エルサレムで崇拝さ
れている無形の神を、ただそれのみをというわけではないにしろ心から尊敬していた。当初かれらは温かな情を示し、
国家の社 やしろの復旧作業にともに働きたいと言ってきていた。帰還者たちは耳を貸そうとしなかった。 それはまるっきり理不尽な不寛容とばかり言いきれぬものだった。自分たちの再生は民族としてのそれであり同時
に宗教的な意味におけるものでもある。民族的再生という観点からするなら、政治体制の中枢に異邦人の侵入を歓迎
するわけにはいかない。宗教的再生の観点に立てば、再度浄化した一神教をその動機も信条も怪しい限りの異分子た
ちと手を結ぶことで危うくするのは好まない。こういうことだった。返礼として相手は手段を選ばず工事の進捗を組
織的に妨害してきた。神殿の再建が紀元前五三六年から同五二八年まで中断されたのは、かれらの策謀のせいである。
以後まる一世紀にわたってパレスティナ政治はこの隣人同士の間で頻発する紛争を基調にして展開することになる。
当時のパレスティナはアケメネス朝帝国の二十の総督統治領のうち五番目の一部を成し、ダマスコに行政の中心を
置く︿西部州﹀のなかの属州の一つに組み込まれていた。これはオロンテス河からエヂプト国境まで、さらにシリア、
フェニキア、キプロスまでも含んでいた。居留民自身は総督が直接支配していたが、かれの地位はサマリアにいる同
役に従属するものと見られていた。行政の府はエルサレムで、神殿を見下ろすビラーと呼ばれた要塞に総督は居を構
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えていた。
バビロニア人によって亡命を余儀なくされた人々は、かつて王国を構成していたさまざまの部族のそれぞれすべて
に所属していた。しかし異国での生活のなかで次第にユダ族を中心に一つに統合されるようになった。もっとも、最
後の悲劇の少しまえにすでにその傾向は現れてはいたが。帰還後かれらはてんでに好きなところに住み着いた。こう
して昔の領土の明確な境界線は消えてしまった。そこからゆっくりと全住民はユダの人々(イェフディム)、あるい
はユダヤ人という名で知られるようになったのである*。
*個々の家族は(レビ族は特別の理由から現在までその個性を失うことなくきたが、そのレビ族に所属していた家族は別にし
て)キリスト時代にいたるまで、あるいはそののちまでも自分たちの出自をはっきりと確かめることができた。そのうちの
いくらかは以前北王国側に組み込まれていた部族の出身だった。とするならわたしたちは、ユダヤ人のなかには亡命生活の
間に先にアッシリア人によって同地域に拉致されてきていた連中の一部が、そしてまた帰還後は国に残っていたものらが混
入したと推定してもかまわないだろう。
(四) ユダヤ人たるものはみなパレスティナに戻るべしとならなかったことは幸運だった。多くがなおバビロン
に残り、固唾を呑む想いで事の始終を見守っていた。政治上の使者、偶々やってくる訪問客、聖地巡礼から帰ってき
た人たちなどから処々方々の状況について最新の情報も得ることができた。時に胸の内にいまだに息づいている民族
感情を抑えきれなくなると熱狂した人々は先発したものらのあとを追うように隊伍を組んで西を指して旅立ってい
く。こうした旅の最も注目すべきものの一つがアルタクセルクセス・ロンギマヌスの治世にあった。皇居の近くに、
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王の献酌官として高位についていたネヘミヤという名の一人の篤信のユダヤ人がいた。兄弟のハナニがパレスティナ
からもたらした報せに心中大いに動揺したかれは紀元前四四五年、王の許しを得て『先祖の墓の町』エルサレムを訪
ねた。先のゼルバベル同様、かれもまた総督に任ぜられて文官として最高権力を与えられていた。ゼルバベル以後こ
の官職は異邦人が占めていたのである。
到着して三日後、新総督は月夜に腹心の部下数名を引き連れて馬で城壁を一回り検分して回った。一部始終いかな
る小さな点までもがすでに得ていた報告の通りだった。百五十年まえの包囲攻撃よりどうやらもっと新しい騒乱のせ
いで、堡塁は、防壁が崩れ落ち城門も灰燼に帰して完全に廃墟の観を呈していた。エルサレムは事実上どう見てもい
かなる襲撃にもひとたまりもない無防備都市であった。翌日総督は市民の主だったものらを呼び集め、自分が与えら
れている権限について教え、これから取ろうと考えている方策を説明した。かれの言葉に人々は熱狂的な歓呼の声で
応えた。そして祭司団や職工組合の指導のもと、民衆が力強く復興作業に取りかかった。さらに周縁の田園地方や小
さな村落から労働者がどんどん流れ込んできた。
サマリアの副総督サンバラトは事態の進展を妬ましげに見ていた。といってまさかこれを禁じることもできなかっ
たかれは妨害運動の手に出た。ネヘミヤを相手取っての叛逆罪の告発から暗殺計画までかれはさまざまの手段に訴え
た。同時にエルサレムの方でも献身的な一団は奇襲に備えて武具に身を固めて仕事に励まねばならなかった。こんな
風にしていく度もの中断にもかかわらず、しかし復興工事は二个月あまりののち終わり、エルサレムの城門は壮麗な
大式典をもって主 しゅに奉献されたのである。 要塞内に囲い込まれた区域は人口がまばらで、それだけの数では危急のさいの防御に不十分だった。そのため周縁
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地区から抽選で十世帯ごとに一世帯が首都内に住まうことが認められた。もっとも、かれらの多くはその後もたぶん
城壁の外へ借地の田畑を耕しに出るという生活を続けたのだろう。住民は警護隊に編成され、城門は毎夜きびしく閉
ざされた。パレスティナのユダヤ人居留区はたんにいくつかの農村がひと塊りになったものに過ぎなかったにもかか
わらず、いまや侵略者をぎりぎりの剣が峰で喰い止めるべき少なくとも一つの砦を備えた国家の核になっていたので
ある。
首都の安全がとりあえず確保されるとネヘミヤは変わらぬ熱意と組織能力で道徳的再生の仕事に打ち込んだ。バビ
ロン捕囚という長い夜の間に『モーセの律法』の考えはユダヤ人の意識をいっそう強く捉え、かれらにとっていっそ
う馴染み深いものになっていたが、まだ一般大衆があらゆる細部の一つ一つまで遵守するというところまではいたっ
ていなかった。エズラという、祭司の家の出で王の書記官をつとめていた男が、これより十三年前紀元前四五八年に、
故郷へ戻る人々の大集団を引率してメソポタミアを出ていたが、じつはかれは国情全般を調査しかれが良いと思う改
革を実施すべく権限を与えられていた。ところがじっさいは雑婚家族を審問し、外からはいってきた異質の家族の絆
帯を断ち切るという任務の付託を取りつけること以外ほとんど何もできていなかった。理想の実現は叶わなくともな
おかれは引き続き『律法』への熱い血を胸の裡にたぎらせながらエルサレムに留まっていた。そのかれの情熱がいま
ネヘミヤの天賦の行政能力をまのあたりにしていちだんと強く燃え上がった。
二世代前の祭壇の再献納を記念する大例祭がその年も挙行されたが、祭礼の当日、エズラは会衆一同をまえに木の
説教壇の上から『律法』の朗読をした。何人かのレビ人が律法の解説に当たった。この儀式はただちに効果を発揮し
た。ほとんど日を措かずに行なわれた『仮庵の祭り』はかつてなく熱のこもったものとなったのである。祭りの最後
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に全国民の悔い改めを表すため特別の断食が定められた。その後ただちに集まった人々全員が︿厳粛同盟﹀を結び、
正式の誓約書が作成された。署名したものはすべていくつかの基本的な規定を遵守しなければならぬと互いに誓い合
い、総督自ら先頭に立って全支族の族長たちがこれに捺印した。それはユダヤ人に対する律法の絶対的支配の始まり
を告げる記憶すべき集会であった。そしてどうやらそれは、いちばん最後にやってきた預言者たちから伝統の松明を
手渡されたとされる︿大会議﹀として、大衆の記憶のなかにずっと生き続けたもののようである。
いつものことだが宗教問題と社会問題とは切り離しがたく絡み合っている。この時代は大いなる経済的逼迫の時代
だった。債務の弁済のために無産階級の多くはしかたなく小作地を富裕な同胞に抵当として差し出していた。支払能
力のない債務者は身の自由を失うところまで追い込まれることもあったし、また無一文の親が即金で子供を奴隷に売
ることもあった。こうした窮状を声高に訴えられた総督はすばやく同情して救済の手を打った。名士会を呼び出して
そのあこぎな所業をきびしく難じたのである。その結果、かれらはすでに抵当流れにしてあった小作地を返還し、さ
らに以後モーセの法典の規定するところに従って貸付金に課せられた利子を免除することに同意した。さらに国情の
改善策としてネヘミヤは歴代の総督たちが強制的に取り立ててきた貢物に対する権利を自ら放棄することにする。加
えてまたかれは安息日の遵守を厳しく強要する。安息日の始まる日没少しまえからもうエルサレムの城門を閉めさ
せ、直属の家来を何人か警護に当たらせる。そして、これ以上城壁外での物の売り買いを許さないという思い切った
措置を取る。
ネヘミヤは貴族の門閥のすべてに自分の進める改革を納得させることができていなかった。紀元前四三三年、かれ
が十二年にわたる不休の活動を終えてスサに呼び戻されると、揺り戻しが始まった。敵対するサマリア政府の中枢と
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の間に緊密な関係が復活した。かれらとユダヤの貴族たちは常時親しく連絡を取り合っていたのである。愛国者の眼
にはヘブライ語の存続すら危ういのではと見えるほど大規模に雑婚が再び始まっていた。大祭司エルヤシブはメナ
シェとかいう孫息子の一人にサマリア総督サンバラトの娘との結婚の許可を与えていたし、またサンバラトの秘書官
トビヤはエルサレム来訪の折には神殿内の一部屋を占用することをすでに現実に認められていた。こうした事態の報
告を受けたネヘミヤはただちにパレスティナに戻ってきた。永らく留守にしてきた故里である。このころすでにかれ
は相当な歳だったはずだが、持ち前の精力はいささかも衰えていなかった。トビヤの持ち物を神殿から放り出し、占
拠されていた部屋はもとの用途に戻した。第一級犯罪者ともいうべきメナシェはユダヤの共同体を逐われた。身の置
き所を失った祭司は同類を供に連れて、サマリアの妻の眷属のもとに逃げ場を求めた。このサマリアの地でかれはみ
ずから主催者となって、ゲリジム山にエルサレムに対抗して建てた聖所でエルサレムの神殿のしきたりをそっくりそ
のままの形で執り行なうことになる。ユダヤ人とサマリア人との不和はこうして決定的なものになった。
(五) ユダヤの伝承は、ネヘミヤとエズラを較べると原資料ではエズラの方がたいして活動的でもなく持てる権
限も小さく輪郭も曖昧な人物に描かれているにもかかわらず、ややもするとネヘミヤの名をエズらより低く見るきら
いがあった。後世の文学は律法学者だったエズラをほとんど第二のモーセと呼んでおり、太古の昔からのものとされ
る多くの宗教的慣習ももとを辿っていくとかれの発案ということになっている。ここには単なる空想以上の何かがあ
る。パレスティナ再定住という事業の本質的な意味は、政治によりはむしろ文学的精神的領域にあったということな
のだ。
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近代批判派は、のちに『トーラー』として知られるようになったもの、つまりは『モーセの律法』の実質的な部分
の施行のみならず、その編集、さらにはその起草までもエズらの仕事としている。これが真実であるかどうかはとも
かく、エズラとともにトーラーのユダヤ民族支配が始まったということは動かぬ事実であろう。聖書を公衆の面前で
朗読しまた解釈するという慣例を、伝承がこの時期と関連づけていることは重要な意味を持っている。このころに、
たぶんそれが初めてのようだが、神殿から遠く離れた土地に礼拝所が建てられるようになった。それはバビロニア捕
囚という危機が生んだ習わしだった。礼拝所で、トーラーは朗読されただけでなく解説も行なわれた。この基本文学
の普及には、それまで広く使用されていたごつごつした形のフェニキア文字から一歩前進した新しい『アッシリア型』
の文字が大いに貢献した。捕囚生活の間にユダヤ人はこの文字に慣れ親しんでいたのである。
トーラーはけっして無味乾燥な法規集などではなかった。それは人間のあらゆる領域での生活と行動の根本原理と
して役立った。しかもたえず吟味と再吟味が繰り返し加えられ、その度に内容を豊かにしてきた。その内容の限りな
い広がりと厳しさにもかかわらず人々はこの規範体系を自ら進んでせっせと生活のなかに取り込んでいったのであ
る。ユダヤ人は捕囚の地からろくに教育を受けていない一団を連れ戻してきていた。かれらの宗教的な理想はただ一
点神殿礼拝にのみ集中しており、のちに信仰の基本的な実践とされるものについてなにも知らなかった。このあとの
歴史の一時期は極度に曖昧模糊としている。がしかし、帰還後四世紀を経たのち舞台の幕が再び完全に開くとき、場
面はがらりと変わっている。わたしたちはそこに生きる人々が献身的な一神教信徒になっているのを、自分たちと他
者との間にはっきりと一線を画す信仰と生活規範とを身につけた民となっているのを目にするのである。かれらは
日々の生活のいかなる行為をもトーラーによって律し、トーラーに書かれたいかなる文字も、そのいかなる含意をも
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実践に移そうとした。かれらは一定の宗教的実践、たとえば安息日を厳格に遵守することで他の人々からはっきり区
別される。安息日はこれ以後典型的にかれらの特性を示すものであり続けるだろう。かれらは往時のパレスティナへ
帰ってきたのである、いまなお出エヂプト時代の、あるいは君主国時代の先祖たちと本質において少しも変わらない
イスラエル人のままで。エズラとその弟子たちの仕事がかれらをユダヤ人に、中世を生きるであろうその後裔たちと
選ぶところのないユダヤ人に、改宗させたのである。
伝統的な見方によれば、ネヘミヤの回想録がヘブライ語聖書の聖典の最終巻であって、それに続く時代は、文学と
いう点でいえば完全な空白期であった。近代批判派はこの所見を正そうとつとめてきた。かくてこれまで知的活動の
休止期とされていた時代がいまや比類なき文学活動の時代としてわたしたちの目の前に立ち現れてくる。それは
『モーセ五書』の最後の編集が行なわれた時代だという。それは『ヨブ記』や『ヨエル書』のような文学的傑作が、『ル
ツ記』のような田園詩が、『雅歌』のような詩が、『ヨナ書』のような物語が、『詩篇』のなかに入れられている不朽
の詩歌の多くが、『伝道の書』のような哲学的瞑想録が、そして『箴言』に記された格言が創作された時代だという。
もちろん事は現在においてもなお完全に解決されたとは言いがたい。細かい点にたえず修正が施されているし、また
主題そのものに対して深刻な反論が投げかけられることもあろう。しかし問題へのアプローチはつねに科学的探究と
いう視点から行なわなければならないのであって、先入見をもってしてはならない。なるほど近代派の考え方は旧約
聖書の多くの部分からわたしたちの記憶の届かない太古の時代を少しばかり奪うかもしれない。しかしそのかわり、
バビロンからの帰還に続く暗黒時代のただなかに、人間の文化史において『アテネの黄金時代』やイタリアの『ルネ
サンス』に勝るとも劣らぬ文学的活動期を打ち立てたことで埋め合わせはつけているのである。
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第七章 ヘレニズムとの闘い
(一) ネヘミヤの活躍した時代が終わってからパレスティナの状況はほとんど完全な暗黒に襲われる。国内的に
は整理統合の時代だった。政治面でいえば、大祭司が次々と変わったと記録にある。ペルシャ帝国全土にわたる迫害
が企まれ、しかしエステルという名のユダヤ人女性が宮廷内で発揮した影響力によって謀略が未然に防がれるといっ
た事件もあったらしい。そして最後に、紀元前三三四年マケドニアのアレキサンドロスがさながらつむじ風のように
アジアを急襲し、ここにペルシャ帝国は崩壊した。
征服者アレキサンドロスがエルサレム進軍の準備中に大祭司の訪問を受けて進軍を思いとどまったという逸話を
物語る古い伝説があるが、ここからわたしたちは、パレスティナのユダヤ人に新体制を平和裡に受け容れる用意の
あったことを知ることができる。偉大な征服者の死と同時にかれの帝国は瓦解する。主だった将軍たちが残された帝
国の全部もしくは一部分の支配を巡ってすさまじい内部抗争を展開した。エヂプトを攻略したプトレマイオス家は、
適度の年貢を納めることを唯一の条件にあえてユダヤにほとんど完全な自治を許すという慈悲深く寛容な支配者と
して振舞った。これも古代からの言い伝えによれば、王朝第二代の王プトレマイオス・フィラデルフス(紀元前
二八五年~二四七年)の支援のもとに、聖書がエルサレムから送られた七十人の長老たちの手でギリシア語に翻訳されたという。いわゆる『セプテュアギンタ』(七十人訳聖書)である*。政治の世界にほかにいかなる権威も存在し
なかったため国民感情はしだいに大祭司を務める人物の周りに集まった。古い文書に、この時代義人と綽名されたシ
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モンなる大祭司がいたとある。かれはのちの世に指導者の理想、教師の鑑と仰がれ、また後代に現れるラビの原型と
みなされた。かれの死後、聖職者職は徐々にその性格を世俗化させていった。
さてそうこうする間にもプトレマイオス家と、シリアに地歩を固めたセレウコス家との間で戦が断続的に続けられ
ていた。ほんの短い期間(紀元前二九五年、同二一九年~二一七年、同二〇二年)セレウコス家がうまくパレスティ
ナを領有するが、そのつどプトレマイオス家は支配権奪還に成功する。しかしついに紀元前一九八年、アンティオコ
ス大王がヨルダン河の源にほど近いパネアスでエヂプト軍に圧倒的な勝利を収めるにいたって、ユダヤははっきりと
セレウコス王朝の支配下に置かれることになった。
*二九五頁参照。
(二) それからまもない紀元前一七五年、アンティオコス四世がセレウコス王朝の玉座にのぼる。かれはアテネ
生まれで、かつて市の主席政務官に選ばれたことがあるという事実を大いに自慢していた。このことが生来の激しい
ギリシア文化礼賛熱にさらに拍車をかけた。かれに言わせればギリシア文化こそ人間の進歩と完成の極みを表すもの
だった。自分の領土をギリシア風の生活規範を導入することでかれの考える︿文明化﹀へと導くことが人生の目標と
なった。浅はかで不安定な気質がかれに不遜にもエピファネス(顕現王)と名乗らせたが、その同じ気質がこの野望
をほとんど偏執狂の妄執にまで嵩じさせた。
王の指揮のもとにギリシア化は全国津々浦々にまで浸透し、熱に浮かされたような勢いで進捗した。ユダヤ(ここ
では王にへつらう一派がこの政策を支持していた)ひとりが熱病に免疫でいられるわけがなかった。エルサレムをギ
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リシア風の都市にするためにあらゆる努力が払われた。建築は古代ギリシア様式になった。要塞に隣接して屋内競技
場を建て、なかで――ユダヤ人の目には醜態としか映らなかったが――若者たちが裸で運動をした。祭司連中も神殿
でのつとめを放りだして、流行り病 やまいの熱にいっしょになって浮かれた。ギリシア語名が普通になり、古いヘブライ語
名は変えられた。しかしそれでもなおギリシア化の浸透は王を満足させるほど充分速く、また充分深くは進んでいな
かった。かれは宗教において依然として分離主義が存続している現実に腹を立てていたのである。
大祭司職をめぐるあるうすぎたない陰謀をきっかけに、王はより直接的な介入に踏み切る機会をつかんだ。紀元前
一六八年、ローマ人によってエヂプトからの撤退を余儀なくされると最後の手に出た。もしエヂプトがこのまま将来
にわたって敵対勢力であり続けることになるのであれば、シリア帝国の南の前哨地を完璧にセレウコス家の属州とし
て組織しておくことがそれだけ一層重要になってくる。アンティオコスは北へ向けて軍を返すとき、エルサレムを占
領するために将軍アポロニオスを先に遣っておいた。王は造作なく入城を果たした。だが次の安息日、ユダヤ人がい
かなる抵抗の意志も放棄する(とかれは聞いていた)この日に、かれは住民たちの上に軍隊を解き放った。何の邪魔
にもならぬおとなしい市民が大勢虐殺され、また奴隷に売り飛ばされた。城壁はすっかり破壊され、ダビデの砦の跡
に町を押さえておくために︿アクラ﹀と呼ばれる新しい要塞が建設された。
こうした準備工作ののち、力ずくで国を︿ギリシア化﹀しようとする組織だった試みが始まった。いかなる形の分
離主義も今後は禁止である。帝国内のあらゆる民族を一つの例外も許さず一個の国民に統合すること、そして全国民
がギリシアの宗教を受け容れることを命じる布告が出された。この新しく出た勅令の実施を監督すべく、初老のアテ
ネ人哲学者がエルサレムに送られてきた。ユダヤ人の神をオリュンポスのユピテルに重ね合わせる仕事はかれの空想
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をくすぐって楽しい仕事だった。髭を生やしたこの神の彫像が祭壇の上に据えられ、ユダヤ人は、これこそいまより
おまえたちが崇めるべき︿天なる神﹀であると告げられた。しかしかれらは、自分たちだけになるとそれを︿憎むべ
き破壊者﹀と呼んで恐怖に身を打ち震わせるのだった。
神殿の中庭はギリシア兵とその情婦たちでごったがえし、そこで異邦人は淫らな異教の儀式を行なった。敬虔なユ
ダヤ人の恐怖をなおいっそう募らせるために豚が生け贄として祭壇に供えられた。地方の多くの町々には異教の神々
を祀る聖所が建てられた。一方、ユダヤ人の宗教のいかなる慣習もこれを守ることは犯罪行為となった。『モーセの
律法』を記した聖なる巻物は発見されしだい破り捨てられるか穢された。安息日や祝日を祝ったり、割礼の儀式を行
なったりするものに特別な監視の目が光った。そして、こうしたことすべてが極度に荒っぽく強行されたのである。
ユダヤ人は、これまでのところ、その数に関する限り問題になるほどの民族ではなかった。ところがアンティオコ
スはかれらが唯一神聖視してきたものを攻撃してしまった。国の︿ギリシア化﹀というあるところまで成功したかに
見えた試みは、これが障碍となって頓挫する。最初の一撃は、そのころ家屋敷をエルサレムと海岸の間のモデインに
置いていたハスモン家の老祭司マタティアの手によって加えられた。この場所に異教の祭壇が置かれたときのことで
ある。会衆が祭壇に生け贄を捧げるよう求められ、土地の貴顕の一人が手本を示そうと段をのぼった。そのときマタ
ティアがかれを斬り殺した。それから五人の息子たちとともに王の役人の方を振り向きざまこれも同じ運命に屠っ
た。祭壇を打ち毀したあとかれらは山に逃れた。妥協を潔しとしない一部の民衆がかれらのあとに続き、こうして叛
逆の狼煙が揚がったのである。
281 ユダヤ古代史 シーセル・ロス『ユダヤ人の歴史』 ― 抄訳(3)
(三) ユダヤの山岳地では老祭司の周りに相当数の不満分子が徐々に集まってきた。『ハシディム』と、そうか
れらは自称した。偶像崇拝によって自らを穢すことを拒んだ︿敬虔なもの﹀たちである。時おり夜闇にまぎれて谷を
滑り降りては郊外の町や村を急襲し、王の将官たちとかれらを支持する︿ギリシア化﹀したユダヤ人を殺した。
ハスモン家の叛乱は、世界史に現れるその種の非常に多くの成功した他の例と同じ道筋を辿った。叛徒たちは、も
し鎮圧の軍勢が戦場に一気に全軍押し出してきていれば、おそらく抗戦することはできなかったであろう。ところが
当初、政府当局は脅威を深刻に受け止めようとしなかった。そのために憂国の戦士たちは、遊山気分で繰り出してき
た二番手の分遣部隊を相手に相当な戦果を挙げることができた。それどころか本隊の方をうまく待ち伏せで撃つこと
さえ一度ならずあり、この敵軍中枢部隊の打破によって実戦の訓練ができ自信を得ただけでなく軍需品まで補給でき
た。ついに政府もはっきりと事の重大さを理解して必要な規模の軍隊を戦場に投入するに及んで、難なくユダの地を
奪還した。しかし暴徒を追ってかれらの故里である丘陵地帯にまで入り込んでいくことは不可能だった。なにしろそ
こへ帰ればかれらは地べたの襞まで数えられるほどの土地勘があったし、全住民の好意に頼ることもできたのだ。政
府軍は繰り返し追撃を試みたがそのつどひどい目にあって追い帰された。かくしてシリア人はやむなくこれまで非常
に多くの政府当局が似たような状況下で取ったのと同じ政策を採用せざるを得なくなった。反逆者の要求を大部分の
む休戦協定が結ばれ、これで最終的に多数を占める穏健派が納得したのである。
これより愛国運動の指導者たちは、あるときは武力に物を言わせて、またあるときは昨日までの専制君主の今日の
無力と周章狼狽につけこんだ巧みな交渉によって、その地位を強化していった。いまさらかれらを鎮圧しようとした
ところで初っ端とほぼ同じ痛い目を見たことであろう。こうしてシリア人はついに完全な独立を認めざるを得ないと
山 本 雅 昭 282
ころにまで追い込まれた。このように事を少しずつ進めていくやり方は民衆の直訴のようなはなばなしい突撃という
印象にはいささか欠けるかもしれないが、しかしそれには英雄的な行為だけではなく、忍耐と、無私の精神と、政治
的手腕までもが要求されるのである、それもすべて尋常一様でないものが。
運動はかくべつ指導者に恵まれていた。歴史が、叛逆の指導者としてマタティヤのあとを引き継いだハスモン家の
兄弟たちのように、完璧な献身と自己犠牲の手本を一つの家族において見せることができるなどということはめった
にない。三人が相次いでユダヤの首長の座に就いた。二人が戦場で獅子奮迅の働きをして斃れ、一人は同胞たちの運
命の暗黒時代に闇討ちに遭って死に、一人は成功を妬まれて国家の敵の手で冷酷無残に殺され、残った一人も王朝に
関わる理由から謀殺された。五人のうち誰一人まともな死に方をしたものはいなかった。
マタティヤは叛旗を翻して起ちあがったのち、ほどなくして死んだ。死の床でかれは支持者たちに自分の三男、マ カバイ*と呼ばれたユダを軍の指揮者に選ぶよう助言する。叛乱軍はけっして圧倒的な敗北を喫することはなかった。
それどころか差し向けられた軍勢を一度ならず奇襲によって粉砕しさえした。そのような、それだけで大勢を決した
わけではないがはなばなしい戦の一つが、紀元前一六五年アマウスの峠であった。そのときはゴルギアスに率いられ
た一軍がエルサレム突入をまえにほとんど潰滅的な打撃を受けた。同じように、紀元前一六四年アンティオコスがパ
ルティアで生涯最後の戦を戦っていたとき、王国の摂政として後事を託されていたリシアスが南から首都に迫ろうと
して手厳しく撥ね返された。そのためかれは国に平和を回復する手立てとしてより穏健な方策に転じた。礼拝の自由
を復活させる布告を出したのである。ユダはもう一度エルサレムを占領することを認められた。神殿が浄められ、異
教の祭壇は破壊された。そしてキスレウの二十五日、三年まえに異教神崇拝の令が制定されたその同じ日に、聖なる
283 ユダヤ古代史 シーセル・ロス『ユダヤ人の歴史』 ― 抄訳(3)
殿堂は本来の用途に供すべくあらためて奉献され直した。それはちょうど冬至の日に当たっていた。以来ずっと、毎
年の行事である献堂式、すなわち『ハヌカー』の祭りには、この日行なわれた古の式典を特徴づける盛大な灯明の点
火が続けられているのである。
*一般にこの語の語源は︿マカベ﹀﹁槌﹂とされており、この名前はだから西洋史に出てくるカール・マルテル(Martel=the Hammer) と同じでんである。
(四) 最も重要な問題については勝利を勝ち取った。伝統的な形式に則ってユダヤ教を実践することが再び公認
されたのである。しかし叛乱はすでに変質し、その規模を大きく拡げてしまっていた。迫害が民族の魂の復活に火を
つけ、捕囚生活以来初めて完全な独立を求める運動が生まれてきた。成功に勇を得てユダはより幅の広い活動に乗り
出した。長い戦いが始まった。紀元前一六三年、アンティオコスが死に、デメトリオス・ソーテールがシリアの玉座
を簒奪したあと、ユダは象の軍団の指揮官ニカノルに対してベト・ホロン近郊でめざましい成功を収めた。この勝利
は永らく国民の祝日によって讃えられた。
ひと月後、シリアの将軍バキデスが圧倒的な精鋭部隊を率いて戻ってきた。ユダは、かれに従うたった八百の手勢
だけで、ベト・ホロンの北エラサで侵略者に捨て身の攻撃を試みた。しかし失敗だった。小隊は潰滅し、ユダ自身も
戦場に斃れた。生き残ったハスモン家の兄弟たちは、いまはわずかになった支持者とともにヨルダン河のかなたの荒
野へと難を逃れた。ところが長男ヨハネが、自分たちの携行品をアラブのナバタイ人に預かってもらおうと運ぶ途中
かれらに敵意を抱いていた原住民に待ち伏せされ、殺されてしまった。残ったのは次男シモンと末子のヨナタン二人
山 本 雅 昭 284
だけとなり、ヨナタンが軍の指揮を執ることになった。
追撃の試みもはかばかしい成果を挙げ得なかったバキデスは、ついに最良の道は敵との和睦に踏み切ることだとい
う結論に達した。こうしてここに休戦協定が結ばれた。叛徒の指導者たちは、軍を解散し首都に近づかないことを条
件に無事にユダの地へ戻れることになった。それでヨナタンはミクマスに居を構え、かれの住まう本陣がもう一度愛
国感情の中心となった。自分を超えるいかなる権威もなくなったいま、かれは追放された叛逆者から独立不羈の支配
者となり、首都の外にいて全ユダヤを統治した。
(五) 最後の一段を踏みのぼる機会を与えたのは王朝内の内訌だった。デメトリオス・ソーテールの治世が進む
につれてかれの立場が苦しくなってきた。アレキサンドロス・バラスという名の、故アンティオコス・エピファネス
に瓜二つの青年が、自ら先君の息子であると名乗り出てきたのである。強力な外国勢の支援を後ろ盾にかれは王位を
狙ってきた。市民の騒乱が長期にわたって国を苦しめ続けた。いまや両派がユダヤの最高軍指揮官とその麾下の歴戦
の古強者たちの援助を得ようと懸命だった。贈り物、称号、栄誉、特権、それに賄賂が両陣営からヨナタンの頭上に
雨霰と降り注いだ。このヨナタン争奪戦が始まるやいなや、かれはデメトリオスからエルサレム入城の許可を得、さ
らに空席になっていた大祭司職を、それに付随する宗教的、政治的権威のすべてといっしょに授けられた。ここにか
れはユダヤ国家の首長と公認されたのである。紀元前一五二年、︿仮庵の祭り﹀でかれは初めて神殿において正式に
司祭役をつとめた。
ところが結局この順風満帆の成り行きが奸賊トリュフォンの嫉妬を掻き立てた。軍司令官トリュフォンはそのころ
285 ユダヤ古代史 シーセル・ロス『ユダヤ人の歴史』 ― 抄訳(3)
一時的にシリアの内政に力を揮っていた男である。かれは甘言を弄してプトレマイスで友人同士の話合いをしたいと
ヨナタンを誘い出し、そこでヨナタンを捕らえ、最終的にはかれを殺してしまった。しかし、ハスモン家の兄弟たち
の類まれな献身と能力のせいで、この裏切り行為は成果を挙げ得なかったことがあきらかになってくる。マタティヤ
の五人の息子たちのうち最後に生き残ったシモンが自動的に指揮権を引き継いだ。紀元前一四二年トリュフォンが自
ら王位を宣言したとき、シモンにはもはやそれまで歴代のシリア君主に対して誓ってきた形ばかりの忠節をこれ以上
守らねばならぬ理由は何一つなかった。エルサレムの︿アクラ﹀からさえついにはシリア守備隊が撤退させられ、替
わって紀元前一四一年の夏、民衆の狂喜乱舞のなかを国軍が明け渡された要塞に入っていった。翌年の秋、シモンの
称号が国民集会によって正式に承認された。集会はかれに大祭司と王と軍司令官の地位を与え、以後これらをかれの
家の世襲とすることを確認したのである。まもなく自分たち自身の貨幣の鋳造が始まった。ユダヤ国発行の初めての
貨幣であり、あらためて勝ち取ったばかりの独立の象徴だった。それにまた、おそらくユダ・マカバイが初めて結ん
だのであろうローマとの同盟を強化したのもこの時期のことであった。
シリア人は失った勢力の回復という望みをいささかも棄ててはいなかった。紀元前一三八年、セレウコス家最後の
強力な代表者アンティオコス七世は、すでに廃されていた貢納の義務の復活と、相手が新規に獲得した領土の完全明
け渡しを要求して乗り出してきた。かれの軍隊は老大祭司の息子ヨハネ・ヒュルカノスによってしたたかに撃ち砕か
れた。二年後シモンが暗殺され、武闘派の息子が政権を握った。もう一つべつの企みを抱いていたアンティオコスは、
機は熟したと見てとったか再度エルサレムへ攻めのぼり、長い攻城戦ののちこれを制圧した。ところが、ここにハス
モン家代々の当主たちが慎重に友好関係を結んできたいまや日の出の勢いの勢力ローマ人が介入してきたため、かれ
山 本 雅 昭 286
は勝利をとことん駄目押しするところまで追及しなかった。宗主権の再主張と賠償金の支払いとには固執したが、ヨ
ハネ・ヒュルカノスにはこのまま属国の王の職にとどまることを許し、また新しい占領地の保有を認めさえもしたの
である。なるほどそれはあたかも過去十年の独立が一場の幕間狂言としてつかの間のできごとでしかなかったかのよ
うに思えた瞬間だった。しかしそれからまもなく、紀元前一二九年、アンティオコスが戦に敗れて殺された。セレウ
コス帝国は最終的に内戦の混乱の裡に瓦解し、ヨハネ・ヒュルカノスは父が勝ち取って享受した自主独立の地位を取
り戻すことができた。それが四分の三世紀たらずで終わることになる政治的自由の短い黄金時代の始まりだった。
第八章 ハスモン家の国家
(一) ヨハネ・ヒュルカノスの長期政権時代(紀元前一三三年~一〇四年)、ユダヤの人口増加に格別重要な意
味を持つ国土拡張が絶頂に達した。かれは、ヨナタンとシモンが示した手本に従って、国境地帯を四方八方に向かっ
て押し拡げた。ヨルダン河の東ではメデバとその周辺地域を占領し、また電光石火の攻撃でサマリア人を平定してゲ
リジム山上の聖所を破壊した。ユダヤ人とイドマヤ人あるいはエドム人の間には、ユダ・マカバイのいく度かの襲撃
という形で見られたように積年の反目があったが、それにも国土の最終的な征服によって終止符を打ち、住民には無
理やりユダヤの宗教を受け容れさせた。
紀元前一〇四年、ヨハネ・ヒュルカノスが死ぬとすぐ子供たちの間で王朝後継者争いが起こり、長兄のユダすなわ
ちアリストブロスがかれのあとを襲って王位を引き継いだ。たった一年という短い治世の間に新王は国境線をさらに
287 ユダヤ古代史 シーセル・ロス『ユダヤ人の歴史』 ― 抄訳(3)
北へ向って伸長させ、ガリラヤの残りの部分とレバノン山周辺地域の一部を征服してこれを力ずくでユダヤ教化し
た。かれのあと玉座に座ったのは有能だが良心に欠ける弟アレキサンドロス・ヤンナイオスあるいはヤンナイ(紀元
前一〇三年~七六年)である。かれの戦はつねに成功を収めたわけではないが、それでも国境地帯をフィリスティア
の海岸沿いにエヂプトの方へ向って、そしてとりわけヨルダン河のかなたで大きく拡大することができた。
ユダヤ国家はいまやその大きさを、これまで最大の領土の広さを誇っていたあのダビデおよびソロモンの栄光の時
代に比して少しも遜色のない、いやそれどころかそれを凌駕するほどにまで拡げたのである。それは本来の意味での
パレスティナ全域と、北はフレ湖から南はエヂプト国境にまでいたるその隣接地帯を含み、東はペレアと呼ばれてい
たトランスヨルダンの広大な地域を、そして西では海岸沿いの平地のほとんど全域を取り込んだ広大な版図だった。
モデイン近郊にあるハスモン家の墓の墓碑に彫られ、また歴代の民の統治者となった当主たちが鋳造した貨幣の表に
刻印された船の図柄は、王朝が海へ乗り出そうという野心を持っていたことを表している。王国はけっして民族的に
均質とはいえなかった。あちこちにギリシア風の都市があり、そこではユダヤ人は住民のほんのひと握りを占めるに
過ぎなかった。サマリア人はすでに征服されたにもかかわらず依然同化に抗い続けていた。しかし国の他の部分は完
全にユダヤ化され、それらの住民はこれ以後ユダヤ国民の不可欠の構成要素になると期待された。はるかな昔より何
十代何百代にわたって敵であり続けたエドム人が、重要な、時には圧倒的な影響力を国内問題に揮うようになった。
肥沃なガリラヤはこのときから信徒の数、感情、信仰心のどの観点からもユダヤ教の主要な中心の一つに数えられる
ようになる。ハスモン家の叛乱の百年のなかで、ユダヤ国家の領土は十倍に膨れ上がり、人口も相応に大きく増加し
た。
山 本 雅 昭 288
(二) この間、時が経つにつれて王家と臣民との間に亀裂が深まっていた。ハスモン家の兄弟たちは民衆一揆の
指導者として権力を得たのだ。ユダ・アリストブロスとかれの後継者たちが大祭司の称号に加えて王まで名乗ったこ
とは国家体制にまったく新たな要素を持ち込むことになった。国民の有力な一派が、一人の人間の手に権力が圧倒的
に集中することに反対した。
ハスモン王朝はむろん勢力を誇る富裕な教養層である祭司連中の支援を期待できた。だが近年、祭司階層に対する
反撥は大きくなってきていた。第一神殿時代には、そして捕囚からの帰還以後でさえ、かれらは学問と伝承の公認の
受託者と見なされていた。ところがエズラの時代以来トーラーが全国民の共有財産になった。それは公衆の面前で読
まれ解説されるようになった。頻繁に、すべての町や村で、それが行なわれるようになった。かつて祭司の周りに集
まっていた尊敬が︿聖典﹀の巧みな解説者であると認められた人物(ラビあるいは『我が師』と、そのような人物は
後代に弟子たちから呼ばれることになるだろう)に与えられるようになってきた。伝承はすでに少しずつ拡大してい
た。先例が先例を生み、一人のラビの判断または実践があとに続く世代の手引きになった。口碑の主要部分が大きく
膨れ上がって聖典の原文を強化し、補足し、解き明かすまでになる。新しい観念が取り入れられ、それになにがなし
ユダヤ的な風味が加えられる。こうして神殿祭司階層が提供できるもの以上に近代的な、もっとしなやかな、より生
き生きとした学問が生まれてきたのである。人々は霊魂の不滅と死者の復活の教義にこの世の栄枯盛衰に対する救い
を見出していた。それは祭司たちが聖典に明確な根拠を見出せぬとして烈しく斥けたものである。
ここに二つの党派が生まれていた。一つは、神殿を献身的崇拝の本山であると同時に教育の中枢と恃む一派であり、
289 ユダヤ古代史 シーセル・ロス『ユダヤ人の歴史』 ― 抄訳(3)
いま一つは、それが得られるところならばどこにでも啓蒙を求めようとする一派である。一方は本質的に保守主義で
あり、他方は教義と実践において折衷主義だった。一方は祭司階層から人を得ており、これを貴族階級と地主層が支
援していた。他方は下層および中流階級で構成されていた。前者が絶対君主制を支持し、世襲の大祭司に帰属してい
たのに対して、後者は民主主義的傾向を帯びていた。時とともに一方の派はハスモン家の先祖である祭司の家門ツァ
ドクにちなんで︿ツァディキーム﹀あるいはサドカイびとという名で知られるようになり、もう一方は︿ペルシーム﹀
(パリサイびと)もしくは分離派*1と呼ばれるようになった。 ハスモン王朝が初期の純真さを失わず、人々が外からの危険に命を脅かされている間は、挙国一致は維持されてい
た。ヨハネ・ヒュルカノスの治世の終わり近くになって王家の性格が崩れだした。ラビの伝承はこの統治者の変節を
もの悲しく語っている。かれは『七十年間大祭司を務めたが、最後になってサドカイびとになった』という。嗣子の
アリストブロスは、王位を引き継ぐとギリシアの風習を猿まねし、最後には母親の投獄と兄弟の殺害という結末にい
たる異常なお家騒動へまっしぐらに突っ走った。アレキサンドロス・ヤンナイは、破廉恥で残忍な激し易いオリエン
トの暴君のようにふるまい、自らの権威を外国人の傭兵の剣で守った。決定的な亀裂が生じたのはかれの時代である。
王の軍事的遠征からの凱旋帰国を祝して催された大宴会の席上で、パリサイ派の指導者の一人が王に、かれが二つ
ながらに享有している世俗の職権と宗教的な職権とを切り離すように、そしてどちらか一方を放棄するようにと公然
と命じた。まもなく行なわれた仮庵の祭りの日、神殿で祭儀を司宰しながらこの祭司王は、パリサイ派の教えを会衆
の面前でおおっぴらに侮辱することでそれに応えた。献酒としての水を祭壇に注ぐかわりに自分の足元に注ぎ落とし
たのである。些細なことといえば些細なことであった。しかしモーセ五書には定められていない新たな儀礼に踏み出
山 本 雅 昭 290
そうとするかれの気構えを示す行為ではあった。怒った民衆は祭礼に供するために運んでいたレモンをかれに投げつ
けた。多くの血が無駄に流されてやっと秩序は回復された*2。 内戦が何年にもわたって激しく続いた。治世の終わり近くになって抗争は鎮圧されたが、もしこのあと自分より力
のない王が立てばあらゆる党派の支持なしにその地位を守るのは容易なことではないだろうとよく分かっていたヤ
ンナイは、臨終の床に身を横たえながら、何よりもまず融和を図ることを政策の基本点に置くべしと強く言い張った。
かれのあと王位を継いだのは妻サロメ・アレクサンドラであった(紀元前七六年~六七年)。兄弟のシメオン・ベ
ン・シェタハがパリサイ派の指導者の一人であったため、かのじょはそれだけいっそう夫の忠告に従おうとする傾向
が強かった。かのじょが王位に即いたという事実は当時のユダヤ人の生活における女性の地位の高さを如実に語って
いよう。なぜなら二人の息子のどちらにしてもすでに摂政政治もやむを得ないと思わせるほど若くはなかったからで
ある。ものぐさで争いを好まない性格の兄ヒュルカノスは大祭司職に任ぜられ、弟のアリストブロスは軍の指揮権を
得た。サロメ統治下の七年は、戦争に明け暮れた先王たちの治世に較べれば平穏なものだった。初老の女王(かのじょ
は即位当時齢七十に近かった)は国内の相争う二派の勢力の均衡をうまく保ったのだった。
君主政体派の共感は血気盛んなアリストブロスに集まる。かれこそその血に王家の魅力と好戦的な本能とを受け継
いでいるように思われたのだ。母親が死の床に就いている間にかれはサドカイびとたちの支持を得て跡目を取る算段
をし、女王が息を引きとるやただちに武器を正当な後継者と目されてきた兄の方に向けた。内戦である。そして戦の
さなかに、以後パレスティナ情勢を永久に変え、このような王朝内の不毛な諍いに最終的に終止符を打つことになっ
たある出来事が起こるのである。
291 ユダヤ古代史 シーセル・ロス『ユダヤ人の歴史』 ― 抄訳(3)
*1これがこの二つの用語の、けっして唯一のものというわけではないが最も可能性が高いとされている語源である。同時代
の神秘的半隠者的宗派エッセネ派は政治には関わらなかった。その生態についてもほとんど知られていないのでかれらに
ついてここで詳細に論じることは適当ではない。
*2べつの説はこの挿話をヤンナイの父ヨハネ・ヒュルカノスの治世のこととしている。
(三) ローマは、帝国への道をやみくもに追い求めて、この数年、征服につぐ征服にそこらじゅう駆けずりまわっ
ていた。その影響力がアシアでそれと感じられるようになってすでに久しく、いまローマはそこをどかどかと慌しく
進軍中であった。サロメの死後まもなく、ポンペイウスがダマスコに着いたとき、かれを待ち受けていたのは王位を
要求して相争う陣営の代理人たちだった。援助の嘆願にきたのである。ローマ人があまりに長く決断に時間をかけた
ので最悪を予想したアリストブロスはエルサレムへ逃げ込んだ。そして自分が追われていることを知ってようやく抵
抗が無駄だと悟ると、自ら敵陣に出向いて首都の明け渡しを申し出た。城壁内の部下たちはかれの指示に従うことを
拒んでほとんど難攻不落といわれた神殿の丘に立て籠もった。ここで三个月持ちこたえたのちついに紀元前六三年の
ある安息日(一説によると︿贖 あがないの日﹀)、要塞が攻撃され守備兵は皆殺しにされた。 ポンペイウスによるエルサレム攻略によって、ヨハネ・ヒュルカノス統治下の日々以来ハスモン王国が享受してき
た例外的な完全独立時代は終わりを告げた。この間までの目を見張るような国境線の広がりは一部取り消しとなっ
た。しかしそれでも国の北部のユダヤ化の作業はそれまでに徹底的に行なわれしかも非常にうまくいっていたので、
その地をあらためて本土から切り離すことは不可能であった。そのためこれ以後ユダヤ人の生活の中心は二つのまっ
山 本 雅 昭 292
たく性格の異なる地域、いくつかのギリシア風の都市によって海岸地帯から切り離されしかもサマリアの環状道路が
間を分断するように走っているユダヤとガリラヤという二つの地域に存続することになる。ユダヤはまた南のエドム
と、つい最近征服したばかりのヨルダン河東岸のペレアの名で知られる地域の二つも失わずにすんだ。これらの領土
は大祭司ヒュルカノスに統治が委ねられたが、かれは王の称号を失い国をローマの属領として管理することになっ
た。さらに数年後、紀元前五七年、地方に起こった一揆のためにかれは一切の政治的権威を剥奪され、国土はシリア
総督直轄の五つの行政区に分割された。以来、ローマ帝国が権力を維持し続けた間じゅう、そしてユダヤ人が国土と
の政治的つながりを断たれたのち長年にわたって、パレスティナは事実上(たとえ名目上はつねにそうではなかった
にしろ)ローマの一属州であり続けることになる。
(四) 近時の国家の再興は、こうした場合歴史上ほとんどいつもそうであるように、文化の復興を伴っていた。
それは旺盛な建築熱の爆発という形で、あるいはモデイン近郊にハスモン家のために建てられた記念碑的陵墓という
形で、そしてまたユダヤ人が初めて鋳造した硬貨という形で現れた。しかしなにより顕著にそれが現れたのは文学で
ある。『憎むべき破壊者』がまだ神殿内に立っていた間に、おそらくはハスモン家一族が叛旗を翻すまえであったろう、
一人の熱心な信徒がいずれ聖書正典に最終巻として加えられることになる『ダニエル書』をすでに書いていたらしい。
四百年ばかりまえにバビロンで活躍したとされる一人物の言葉からなるこの書は、いま 00という時はユダヤ民族とその
聖都とを圧殺しようとする最後の努力の時であるということを教えようとしている。バビロニア人もメディア人もペ
ルシア人も悪の限りを尽くした。いまはギリシア人の番だ。著者がアンティオコスのことを侮蔑して使っている言葉
293 ユダヤ古代史 シーセル・ロス『ユダヤ人の歴史』 ― 抄訳(3)
を借りるなら、『小さな角』の番なのだ。だが今度もまた失敗に終わるだろう。そしてそのあとに最高神に仕える聖
徒たちの最終的な勝利がやってくるだろう、と説いているのだ。
この神秘主義的な作品は、︿ハシディーム﹀たちが勝利を求めて命を懸けたときかれらの信念を強化するのに役立っ
た。そして、勝利を得るとかれらは大合唱によって歓喜を表現した。詩篇(一一三番~一一八番)のいわゆるハレル
あるいは『賛歌』は、ユダヤ人があれ以来ずっとどんな国民的な感謝祭にも欠かせぬものとしてきたのだが、これは
ハスモン家の勝利を記念して作られたものと信じられている。作品が同時期のいろいろの出来事へ間接的に言及して
いる部分も、他の文書で確かめられている。いずれにしてもこの詩歌集がこの時期に編纂され、この時期に最終的な
形を得たことはほとんど疑いのないところである。
また民族の栄枯盛衰と国家の勝利はエステル記とダニエル書へのさまざまの補筆にも表れている。ハスモン家のマ
タティアと同時代の人、シラクの子ヨシュアは、日常生活への助言を含む知恵の書『シラ書』を書いた。ユディトと
いう名の女性の献身によってユダヤ民族がアッシリア人から解放されるという架空の救済劇を小説仕立てで記述し
た物語は、おそらく戦闘のさなか士気を鼓舞するために書かれたものだろう。一方またアレキサンドロス・ヤンナイ
の治世の初めには、この間の戦の半公式の史書たる『マカバイ記一』が出来上がっていたことははっきりしている。
こうした作品のすべてはそのヘブライ語原典は失われてしまって*、聖書外典と呼ばれる聖書の補遺に組みいれられ
た古代ギリシア語訳のみが残っているに過ぎない。そして長い間ユダヤ人の間でほとんど完全に忘れ去られていた。
しかしそれでもこれらの著作は外国語という枷にもかかわらず、ハスモン家の勝利が呼び覚ました文学的活動のりっ
ぱな証拠であることに変わりはない。