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1909 年職業紹介所法の制定とイギリス商務院の労働政策 : ウィリアム・ベヴァリッジの理念と実践

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Academic year: 2021

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(1)研究ノート. . 1909 年職業紹介所法の制定とイギリス商務院の労働政策 ──ウィリアム・ベヴァリッジの理念と実践──. 松  永  友  有. はじめに. (National Archives)に収蔵されている商務院文 書の調査を通じて,以下のことが明らかになっ.  19 世紀のイギリス通商政策を重商主義から. た.すなわち,1908 年から商務院は,第一部. 自由貿易主義へと転換させる上で,主導的な. 失業保険,第二部職業紹介所の二部構成をとる. 役割を果たした官庁であった商務院(Board of. 失業対策法の制定を目指していたが,大蔵省に. Trade)は,19 世紀後半には海運・鉄道政策と. よる健康保険制度の策定を待つ中で,職業紹. いった運輸政策を所管することにより,貿易. 介所制度のみが 1909 年に先行的に法制化され. の拡大に不可欠な運輸コストの抑制に尽力した. たこと.職業紹介所制度と失業保険制度をワン. のみならず,1893 年に院内に労働局(Labour. セットで導入するという計画は,既にチャーチ. Department)を新設して以降は次第に労働政策. ルが長官に就任する以前に商務官僚によって進. の分野にも介入していくこととなる.リベラル・. められていたこと.さらに,商務院事務次官ル. リフォームと呼ばれる一連の社会政策が展開. ウェリン・スミス(Hubert Llewellyn Smith)を. された 1905 ∼ 15 年の自由党政権期には,特に. はじめ,商務官僚は非常な熱意をもって職業紹. ウィンストン・チャーチルが 1908 年に長官に. 介所・失業保険制度の導入を推進した一方で,. 就任して以来,商務院は労働政策分野での活動. 最低賃金制度に対しては一貫してきわめて否定. をきわめて積極化させ,1909 年には一部産業. 的であり,商務院外部の圧力により導入を余儀. に関して最低賃金を定めた産業委員会法(Trade. なくされた産業委員会法については,運用を通. Boards Act) ,全国規模の職業紹介所設置を定め. じてその骨抜きを図ったことである.それでは,. た職業紹介所法(Labour Exchanges Act) ,1911. 同様に急進主義的な性質をもつかに見える三大. 年には国民保険法第二部として,世界史上初め. 労働政策の内,なぜ商務官僚は,職業紹介所と. て,国営の強制加入型失業保険制度を一部産業. 失業保険制度にはきわめて熱心に取り組む一方. に関して導入させるに至った.当時の商務院に. で,同時に最低賃金制度に対してはきわめて否. よって展開されたこの三大労働政策の内,失業. 定的であったのだろうか.商務院の三大労働政. 保険制度については既に別稿で論じ 1),また産. 策に関しては,ある程度の研究史の蓄積はある. 業委員会法についても別稿を準備している.本. が,職業紹介所・失業保険制度に関する研究. 稿においては,残る職業紹介所法が制定される. と,産業委員会法に関する研究が別個になされ. に至った経緯を論じることとする.. てきたため,従来の研究は,こうした謎の所在.  職業紹介所法を論じる本稿の出発点は,次の. について,全く無自覚であったと言わなければ. ような疑問である.ロンドンの国立公文書館. ならない.つまり,例えばギルバートやハリス の研究を通じて,商務官僚が職業紹介所・失業 保険制度の導入に熱心であったことは既に指摘. 1)松永友有「イギリス失業保険制度の起源」 『史 学雑誌』第 115 編第 7 号,2006 年。. されてきたし,他方でデヴィッドソンやブラッ クバーンの研究を通じて,商務官僚が最低賃金. 『エコノミア』第 61 巻第 2 号(2010 年 11 月),17 - 38 頁[Economia Vol. 61 No.2(November 2010),pp.17 - 38].

(2) . 制度に懐疑的であったことも既に指摘されてき. 関する知識を買われて商務院に採用され,翌. た 2).しかし内外の先行研究は,それではなぜ. 年 9 月の職業紹介所法制定と同時に早くも職業. 商務院,もしくは商務官僚は職業紹介所・失業. 紹介所担当局長に就任するが,それまでは商務. 保険制度を積極的に推進するのと同時に最低賃. 院労働局の一官僚に過ぎなかったのである.ベ. 金制度の骨抜きを図ったのか,という疑問を全. ヴァリッジが官僚としてきわめて卓越した能力. く意識していないのである.本稿は,特に職業. の持ち主であったことは,次の点からも明らか. 紹介所法の形成過程に焦点を当てつつ,この謎. である.すなわち,大戦中の 1916 年 12 月に労. を解明しようと試みるものである.. 働省が新設された際には,結局実現を見なかっ.  既に広く知られているように,職業紹介所法. たものの,ベヴァリッジは,労働省事務次官と. の起草において中心的役割を果たしたのは,第. しての地位を望むまでになっており,1919 年. 二次大戦期のベヴァリッジ報告の作成者とし. には食糧庁事務次官に就任して,ホワイトホー. て,イギリス福祉国家体制の父ともみなされ. ルの史上最年少事務次官となった.とはいえ,. るウィリアム・ベヴァリッジ(William Henr y. ベヴァリッジが官僚としていくら卓越した能力. Beveridge)である.近年,特に盛んになって. を有していたとしても,入院当初からベヴァ. きているベヴァリッジ研究の一環として,職業. リッジが商務院の労働政策を自らの理念に沿う. 紹介所制度を推進したベヴァリッジの政策理念. ように動かすだけの力をもっていたとみなすと. は,相当に明らかにされてきたと言ってよい 3).. すれば, それはやはり過大評価であろう.実際,. しかし,従来のベヴァリッジ研究には,次のよ. 本論で明らかにするように,商務院入院までの. うな問題点があるように思われる.政策理念を. ベヴァリッジは職業紹介所の強制適用と任意型. 重視するベヴァリッジ研究としての性質上,致. 失業保険の組み合わせを提唱していたにもかか. し方ない面はあるが,特に我が国における研究. わらず,実際に実現した政策は,任意利用の職. は,商務官僚としてのベヴァリッジが商務院の. 業紹介所と強制加入型失業保険の組み合わせで. 組織内力学から自由に,自らの政策理念を実現. あった.とはいえ本稿も,職業紹介所法にはか. すべく,政策立案をリードできたかのように. なりの程度ベヴァリッジの理念が反映されてい. みなす傾向がある.しかし,ベヴァリッジは,. たということを否定するわけではない.しかし,. 1908 年 7 月という時点で,職業紹介所制度に. そうであるとしても,それはベヴァリッジが商 務院において自律的に影響力を行使し得る立場 にあったからではなく,商務院の組織の論理と. 2)B. B. Gilber t, The evolution of national insurance in Great Britain, London, 1966, pp. 267-273; J. Har ris, Unemployment and politics, Oxford, 1972, pp. 304-334; R. Davidson, Whitehall and the labour problem in late-V ictorian and Edwardian Britain, London, 1985, pp. 269-273; S. Blackburn, A fair day’ s wage for a fair day’ s work ?,. London, 2007, pp. 112-113. 3)J. Harris, William Beveridge, Oxford, 1st ed., 1977, revised ed., 1997;藤井透「ベヴァリッジ」 『失 業』の成立」 『商学論集(福島大学)』第 57 巻第 1 号, 1988 年;永嶋信二郎「W・H・ベヴァリッジ『失 業論』の思想的背景と失業調査」 『海外社会保障研 究』第 151 号,2005 年;同「W. H. ベヴァリッジ と職業紹介法・失業保険法の成立」 『聖カタリナ大 学研究紀要』第 19 号,2007 年;小峯敦『ベヴァリ ッジの経済思想』昭和堂,2007 年。. ベヴァリッジの政策理念が合致した結果に他な らない. つまり, 職業紹介所に関するベヴァリッ ジの構想は,あくまで商務院の政策体系に適合 したがゆえに受け入れられたのであり,その逆 にベヴァリッジの理念が商務院の政策体系を規 定したというわけではない.そうであるとすれ ば,ベヴァリッジの政策理念を好都合なものと して採用した商務院の政策体系とはいかなるも のであったのか, 改めて問われるべきであろう. 以上のような問題関心に発しつつ,本稿におい ては,なぜ商務院が職業紹介所制度を積極的に 導入するに至ったのか,その要因を究明してい くこととする..

(3) . 1.商務院の組織的特質. しかし,こうした運輸政策の面での各種規制は, 当然のことながら,規制を受ける海運・鉄道業.  トーリー党内閣の下で 1823 ∼ 27 年に商務長. 界の激しい反発をこうむることとなった.実際,. 官を務めたハスキソン(William Huskisson)の. 1904 年に商務院の省レベルへの昇格の是非を. 時期以来,商務院は自由貿易政策の推進組織と. 調査するために保守党(統一党)政権の下で設. しての地位を不動のものとした.とはいえ,19. 置されたジャージー(Lord Jersey)委員会の証. 世紀半ばにおいて自由貿易政策への移行が完了. 人として出席した前自由党政権の商務長官ブラ. した結果,19 世紀後半の商務院は,海運・鉄. イス(James Bryce)は,次のように証言してい. 道政策を通じての貿易拡大へと政策の重心を移. る.「実際,鉄道業者や大海運業者は皆,商務. していくこととなる.その結果,商務院の歴代. 院は資本に敵対的で,労働界の手中にあるとみ. 事務次官は,海運行政を司る海事局長上がりの. なしています」5). . ファーラー(Thomas Henr y Farrer)が 1865 ∼.  一方,1886 年には通商政策を担当する通商. 1886 年に務めて以来,1886 ∼ 1893 年キャルク. 局内部に労働統計課が設立され,労働統計課は. ラフト(George Calcraft) ,1893 ∼ 1901 年ボイ. 1893 年には労働局に昇格した.1910 年に完全. ル(Cour tnay Boyle) ,1901 ∼ 1907 年ホプウッ. に分離されるまでは,通商局と労働局,統計局. ド(Francis Hopwood)と,三代にわたって前鉄. の三局は,同一の局長と副局長の下に位置づけ. 道局長が務めることとなった.. られた.つまり,通商政策と労働政策の一元的.  通商政策の面では自由貿易主義の牙城であっ. 統制が図られたのである.当初は労働問題に関. た商務院は,運輸政策の面では,各種の規制措. する情報処理を行うに過ぎなかった労働局は,. 置を積極的に活用した.海運行政の分野では,. 1896 年に制定された調停法の下で,労働争議. 1854 年の商船法により,海事局は,船舶の登録,. が発生した際には任意の調停介入を行う権限を. 船舶構造に関する適正水準の設置と査察,海運. 獲得した.商務院の調停活動について詳細な統. 労使関係の規制,海難事故の防止措置,水先案. 計調査を行ったデヴィッドソンによれば, 「1896. 内や灯台に関連する諸措置等に関して,膨大な. ∼ 1914 年期において,労働側は全争議中 27%. 規制措置を行う権限を付与された.20 世紀初. でその目的を達したのに対し,調停法の下で解. 頭にかけて,イギリス海運業が世界における圧. 決された争議ではわずか 21%で目的を達した. 倒的な優位を維持できた背景には,商務院によ. に過ぎなかった」6).つまり,商務院労働局は. る各種規制が海運業の競争力維持に貢献した面. 労働争議に関して,経営寄りの立場に立つ傾向. もあったと思われる.また,鉄道行政の分野で. があったのである.1907 年にルウェリン・ス. は,当初は鉄道会社の合併を阻止し,自由競争. ミスが事務次官に昇任して以降,労働局は飛躍. 促進による鉄道サービスの向上を意図していた. 的に活動を活発化させ,職業紹介所,失業保険,. 商務院鉄道局は,1870 年代以降は合併の積極. 産業委員会法という三大労働政策を実現してい. 的推進により鉄道会社の財務体質改善を促す方. くこととなる.. 針へ転換した.その一方で,貨物運賃を規制す べく各種の措置を試み,1894 ∼ 1913 年の期間 には貨物運賃をほぼ一定水準に釘付けすること に成功した.これにより,貿易業者は低廉な輸 送コストを享受することができたのである 4). 4)以上,松永友有「19 世紀における商務院の組 織的発展過程」『群馬大学教育学部紀要 人文・社 会科学編』第 57 巻,81 ― 90 頁。. 5)N a t i o n a l A r c h i v e s ( N A ) , T 1/11093, Confidential minutes of evidence taken before the committee to consider the position and duties of the Board of Trade and the Local Government Board, p. 35. 6)R. Davidson,‘The Boar d of T rade and industrial relations 1896-1914’, Historical Journal, vol. 21, 1978, p. 589..

(4) .  通商政策の面では,1903 年に保守党のジョ. 国に対し,イギリスが新たに報復関税を交渉. ゼフ・チェンバレンにより開始された関税改革. の武器とすることにより,関税引き下げを促. 運動を契機として,対外的通商政策への関心が. す,という政策である.これは,従来イギリス. 盛り上がり,商務院通商局の活動も再び活発化. が採用してきた無条件の自由貿易政策からの重. する.元々,商務院通商局は,相手国の通商政. 大な逸脱であるとともに,イギリス帝国内部で. 策如何にかかわらず,通商の拡大のためにはイ. の帝国特恵関税を目指すチェンバレンの路線と. ギリスは無条件の自由貿易政策を維持すべき,. も大きく異なる独自の通商政策構想であった.. という方針を支持してきた.特に,長く商務院. ファーラーに示された従来の商務院の自由貿易. 事務次官を務めたファーラーは,保護主義をと. 政策路線の下では,インド等の中立市場への綿. らないインド等の中立市場への輸出を促進する. 製品を中心とする輸出拡大が主眼をなしていた. ためには,イギリスが自由輸入政策を採用する. といえるが,報復関税構想において主眼におか. ことが不可欠であるという「迂回貿易」論を主. れていたのは,欧米保護主義国との厳しい競争. 張した.欧米保護主義国の保護関税により,欧. にさらされていた重工業, 特に機械, 造船,鉄鋼,. 米へのイギリスの輸出が減少するとしても,欧. 化学といった産業であった.当時の先進国にお. 米諸国はイギリスへの貿易黒字拡大によりイン. ける工業化の重心が綿工業のような軽工業から. ド等中立市場から一次産品輸入を拡大するの. 重工業へと移りつつあった状況に鑑みると,ル. で,中立市場は一次産品輸出拡大により獲得し. ウェリン・スミスたちが推進した報復関税構想. た貿易黒字を原資としてイギリスから綿製品を. は,長期的な視点からイギリス工業の国際競争. はじめとする工業製品の輸入を拡大する,とい. 力を見据えた場合,ファーラーの路線よりも適. うのである.つまりファーラーは,後世にバー. 切な政策であったと評価できるであろう 9).. ナード・ソウルにより定式化された世界経済に.  以上のように,20 世紀初頭にかけて,商務. おける多角的貿易決済機構の構図を先駆的に把. 院は通商政策のみならず,運輸政策,および労. 握していたということができる .. 働政策をも担当する巨大官庁に成長するに至っ.  しかしルウェリン・スミスは,対外的通商政. た.そして,その組織の根底には,イギリス産. 策に関して,これとは異なる構想を推進した.. 業の輸出競争力の強化を目指す,という究極目. つまり,当時の首相アーサー・バルフォア,お. 的が変わらず常に存在していたと言える.通商. よびその弟の商務長官ジェラルド・バルフォア. 政策,運輸政策,労働政策,いずれの面におい. がチェンバレンに対抗して掲げた報復関税構想. ても,イギリス産業の国際競争力の維持・拡大. を積極的に支持したのである.1903 年 8 月に. を目指す点では,商務院の政策体系は驚くほど. 公刊されたブルーブック(青書)において,当. の一貫性を有していた.実際,第一次大戦期に. 時の商務院通商・労働・統計局長ベイトマン. 商務院の改組案を調査するために組織された,. (Alfred Bateman)と副局長ルウェリン・スミス. 自由党下院議員ハイド(Clarendon Hyde)を長. は,報復関税構想を側面支援する内容の報告書. とする委員会は,事務次官ルウェリン・スミ. を作成した .ここで報復関税構想とは,イギ. スを含む商務院の上級官僚から詳細な聞き取り. リス工業製品の輸出に保護関税をかけている諸. 調査を行った結果,報告書に次のように記して. 7). 8). いる. 「直ちに明らかになったことは,商務院 は過去において国内産業(home trade)の促進 7)熊谷次郎『マンチェスター派経済思想史研究』 日本経済評論社,1991 年,165 ― 174 頁,参照。 8)House of Commons Parliamentar y Papers (1903), vol. 67, cd. 1761, Board of Trade,‘British and foreign trade and industry’.. および育成をその主要な機能の一部とは見てい 9)松永友有「イギリス関税改革論争再考」『歴 史学研究』第 817 号,2006 年,17 ― 18 頁,参照。.

(5) . なかったということである.商務院の通商に関. 的を担っていたのである.次節では,イギリス. する機能は主に,情報の収集とその普及による. のドック産業がおかれていた状況について考察. イギリス海外貿易の育成,海外貿易に関する統. しよう.. 計の収集と発行,通商条約その他の通商協定に 関する外務省への助言,海外において個々の通 商業者が業務を遂行する際の障害に対処するこ. 2.ドック労働問題.  19 世紀末から 20 世紀初頭にかけて,チャー. と,以上に向けられてきた.‥‥‥我々が思う. ルズ・ブース(Charles Booth)やラウントリー. に,〔商務院とは―松永注,以下同〕別個に通. (S.B. Rowntree)の社会調査を通じて,貧困問. 商産業省〔の創立〕を求める要求が生じている. 題がクローズアップされ,貧困の原因について. のは,国内産業を保護し発展させるとともに,. も考察が深められてきた.その結果,貧困の最. イギリス市場への外国製品の侵入を警戒すると. 大の原因は,景気循環に基づく循環的失業や季. いう任務を直接的に遂行する部局を商務院が何. 節的失業というよりも,一部苦汗産業における. ら有していないことに起因している」10).. 極端な低賃金と,ドック労働(港湾労働)に代.  以上のような,海外貿易の拡大と,イギリス. 表される慢性的臨時雇用(casual labour),もし. 産業の輸出競争力の維持・向上を至上目的とす. くは不完全就労(underemployment)に由来す. る商務院の組織的特質を考慮に入れることによ. ることが明らかにされるに至った.商務院は,. り,初めて序論で提起した疑問に答えることが. 深刻性では劣る循環的失業問題に対しては,特. できる.すなわち,最低賃金制度に対する商務. に循環的失業が激しい業種である機械・造船産. 官僚の消極性の背景には,賃金コストの増大が. 業と建設業を先行的にカバーする失業保険制度. イギリス産業の国際競争力を低下させることへ. 導入という形で積極的に対処する一方で,当時. の懸念が存在したと言えるだろう.他方で,さ. の貧困の二大原因の一角をなす苦汗産業問題に. しあたり機械・造船産業と建設業をカバーする. 対しては,最低賃金制度を骨抜きにするという. 失業保険制度の導入に対して商務官僚がきわめ. 消極的な姿勢を示した.他方で,貧困の二大原. て積極的であった背景には,景気回復期に失. 因のもう一つの一角をなす臨時雇用問題に対し. 業のリスクを口実に労働組合が激しい賃上げ圧. ては,職業紹介所制度,さらにはその他の方策. 力をかけてくることを未然に防ぐという意図が. を通じて,積極的に対処したのである.それで. あったと考えられる.商務院がイギリス産業の. は,臨時雇用問題に対する商務院の積極的対応. 基幹部門として特に重視する機械・造船産業に. は,いかにして説明されるべきであろうか.. おいては,労働組合組織率がきわめて高く,経.   ス テ ッ ド マ ン・ ジ ョ ー ン ズ は, ブ ー ス の. 営側はとりわけ労働組合の激しい攻勢を受けて. 1891 年のデータに基づいて,臨時労働者は全. いるという事情があったからである.それでは,. 労働人口の約 1 割を占めると控えめに推計した. 職業紹介所制度導入に対する商務官僚の熱意は. が 11),当時の臨時雇用の最大の供給源はドック. いかなる点に求められるべきであろうか.第一. 産業であった.ドック産業と比較すれば,建設. に,求職者が失業中であることを確認する職業. 業でさえ,労働者の雇用ははるかに安定してお. 紹介所の存在は,強制加入型の失業保険制度を. り,採用面でも徒弟制が相当に機能していたの. 導入する制度的前提とみなされていた.第二に. である 12).特にイギリス最大の貿易港であるロ. 職業紹介所制度は,海外貿易の安定的拡大に とって要となるドック産業の効率向上という目 10)NA., BT 13/134, Report of Clarendon Hyde’ s committee, pp. 1-2.. 11)G. Stedman Jones, Outcast London, London, 1976, pp. 53-56. 12)G. Phillips, N. Whiteside, Casual labour:. the unemployment question in the port transport industry 1880-1970, Oxford, 1985, p.2..

(6) . ンドンとリヴァプールのドック産業は,巨大な. る.もっとも,彼らの利潤は, 収賄,高利貸し金,. 規模の臨時労働者を擁していた.つまり当時に. および類似のことによって,違法に得られたも. おいて,臨時雇用問題は,ほぼドック労働問題. のであったかもしれない.このグループは,も. の同義語であったのである.. ちろん,その制度の継続に最も強い既得権益を.  第一次大戦前の半世紀において,港湾サービ. もっていた.小波止場管理人あるいは親方運搬. スをともなう海運量は 5 倍の増大を見た 13).海. 夫は,突然の変動に対する恒久的な労働予備軍. 外貿易の拡大にとって,ドック産業の安定は死. を彼に与え,したがって,より大規模な利用者. 活的重要性をもっていたと言ってよい.それで. の競争から彼を保護する制度に満足していた.. いて,イギリスのドック労働は,きわめて時. マンチェスターに移されたリヴァプールの監督. 代遅れかつ不合理な臨時雇用労働から主に成り. 労働者は,非常に有利な( そして疑いもなく非. 立っていた. この点でイギリスのドック労働は,. 常に利益のある)立場を彼らに与える絶対的臨. 既に第一次大戦前の段階にドック労働から臨時. 時雇用制度でなければ,いかなる仕事をするこ. 雇用制度を追放する動きを進めていたアムステ. とをも,即座に拒否した.この制度に対してい. ルダムやロッテルダム,ハンブルクの後塵を拝. くつかの反対が,企業の側からなされ得た.そ. していた 14).当時のドック産業の状況について,. れが奨励した怠慢な労働能率は,全く驚くほど. 若干長くなるが,ホブズボームの著書から引用. 低かったし,また,全労働力は最高の必要をす. しよう.「その産業は,あいにく合理化の必要. ら,はるかに超過していた.それでもなお,こ. に迫られていた.それはなお,ストックトン・. れらのことは,一連の関連のない船荷の積み下. ダーリントン間〔1825 年,最初の汽車が走っ. ろしに関係する荷主や波止場管理人よりもむし. た区間〕の鉄道の段階あるいは関所をもった道. ろ,全状況を鳥瞰する外部の経済学者を驚かせ. 路の段階にあったと言っても,言い過ぎではな. た諸点であった.もっと厄介なことは,標準化. い.すなわち,雑多な種類の私的で標準化さ. が全く欠除していたことであり,それは,どの. れていない利用者のために,協同の資本設備が. 積み荷の価格の交渉をも,ある程度,あらかじ. 用意されていたのである. (若干の場合には,特. め定めがたいものにした」15).. に 1908 年以前のロンドンでは,基本的な設備でさ.  以上のようにホブズボームが描いた,ドック. え,集中的に計画,管理されていなかった.)大小. 産業の不合理な労働形態は,ドック産業の臨. の利用者,すなわち大港湾諸会社, ( ブリスト. 時雇用問題について最も詳細な研究であるフィ. ルにおけるような )諸自治体大荷主,それに大. リップス,ホワイトサイドの研究によっても確. 量の小波止場管理人と沖仲仕親方が港湾周辺に. 認されている.つまり,外部者の視点に立った. 錯綜して立ち並び,それぞれ,その激しく変動. 場合,ドック産業の不合理な状況は一目瞭然で. する労働需要を満たす臨時労働者の貯蔵地をも. あったわけである.それに加えてドック産業は,. ち,波止場ごとおよび積み荷ごとにそれぞれが. 大量の臨時労働者を擁しながらも,国を揺るが. それぞれの取り決めを行っていた.下請け契約. すような大ストライキの舞台ともなった.ロン. 人である小親方が,全状況を支配していた.と. ドンにおける 1889 年の有名なドックストライ. いうのは,大単位〔組織〕でさえ,多くの仕事. キは,70 万労働日を消尽させる大争議となり,. を下請けに出したし,また,そうしなかった場. 労働側の勝利に終わった.当時の好景気もあい. 合には,臨時雇用制度が,監督労働者を下請け 契約人の立場に非常に似たものにしたからであ 13)Ibid., p.12. 14)Ibid., p.8.. 15)E. J. ホブズボーム(鈴木幹久・永井義雄訳『イ ギリス労働史研究』ミネルヴァ書房,新装版 1998 年, 193-194 頁。全体の文章表現にあわせるため,若干 訳文を変更した。.

(7) . まって,同年の海運コストは最高記録を更新す. ドック労働者独自の文化などがあいまって,総. るに至ったのである 16).さらに, 空前の貿易ブー. じてドック労働者は臨時雇用制度改革に対して. ムを背景に,1911 年,翌 1912 年にも各地の港. 敵対的であった 19).. 湾で大規模なストライキが発生した.1911 年.  このように,労使いずれの側も臨時雇用制度. の海運コストは,1889 年以来の最高水準を記. 改革にイニシアチヴをとることがなかった状況. 録するに至った 17).. において,海外貿易の拡大を至上目的とする.  こうしたドック産業の状況に対して,全て. 商務院がドック産業の合理化に向けて介入政策. の経営者が手をこまねいていたわけではない.. に踏み切るに至ったことは,必然の成り行きで. 1889 年のドックストライキを契機に,自身海. あったといえるだろう.20 世紀初頭に商務院. 運業者であったチャールズ・ブースは,経営. が主導した臨時雇用制度改革において,中心人. 者サイドが自主的に臨時雇用制度を常勤雇用制. 物となったのがベヴァリッジであった.次節で. 度に置き換えていくよう呼びかけるキャンペー. は,臨時雇用制度改革の旗手となるベヴァリッ. ンを展開した.しかしながらこのキャンペーン. ジがいかなる理念を以て職業紹介所制度を推進. は,ドック産業経営者を転向させることに失敗. したのか,考察を試みる.. した.専ら臨時労働者のみに依拠する小規模事 業者は,大規模事業者によって駆逐される可能. 3.ベヴァリッジの失業論. 性を恐れてブース案に反対した.多くの大規模.  1879 年に生まれたベヴァリッジは,オック. 事業者も,主に三つの論拠からブース案に懐疑. スフォード大学を卒業した後,1903 年にロン. 的であった.まず第一に,雇用の安定性が労働. ドンのドック地帯であるイーストエンドの著名. 効率を失わせる危険性が指摘された.不安定な. な隣保館トインビー・ホールの副館長に就任し. 雇用と高い歩合給の組み合わせが,労働効率を. た.短期間ではあったが,トインビーホールに. 向上させる適切な手段と指摘されたのである.. 在籍した時代に,ベヴァリッジは失業問題に対. 第二に,ドック産業は特定の熟練職種に依存し. するファーストハンドの知識を得ることとなっ. ているため,大量のジェネラリスト労働者を創. た.当時は不況期であり,失業が増大する中,. 出するブース案は適切でないと指摘された.第. ベヴァリッジは,救済を求める失業者にインタ. 三に,常勤雇用への移行は労働組合の交渉力を. ビューし,以前の雇用主から事情聴取し,救済. 強化する,という点が挙げられた. .こうし. すべき者を選抜し,救済事業を組織するといっ. て,ドック産業経営者の側で臨時雇用制度改革. た仕事を行った.早くも 1904 年には,ベヴァ. への気運が盛り上がらない一方で,ドック産業. リッジは失業問題のエキスパートとして広く認. 労働者の側も積極的に臨時雇用制度改革を要求. 知されるに至り,失業問題に関して寄稿や講演. するには至らなかった.労働組合上層部は,し. を行った.トインビーホール在籍時に,彼は既. ばしば臨時雇用制度改革に好意的な意見を表明. にルウェリン・スミスと知り合い,ドック労働. したものの,多様な職種に細分化されたドック. 問題について語り合う機会をもった.また,こ. 労働者の錯綜した利害,および仲間同士のワー. の頃にウェッブ夫妻とも知り合っている 20).. クシェアリングを重視し,気ままな生活を誇る.  ベヴァリッジは 1905 年にトインビーホール. 18). 16)H.A. Clegg, A. Fox, A. F. Thompson, A history of British trade unions since 1889 , vol.1, Oxford, 1964, pp. 55-56. 17)H. A. Clegg, A history of British trade unions since 1889, vol.2, Oxford, 1985, pp. 33-41. 18)G. Phillips, N. Whiteside, op. cit., pp. 43-57.. 19)Ibid., pp. 22-34; ホブズボーム,前掲訳書, 190 − 191 頁。 20)W. H. Beveridge, Power and influence, London, 1953, pp. 21-38 (伊部英男訳) ; 『強制と説得』 至誠堂,1975 年,25 − 44 頁。.

(8) . を辞職すると,保守党系日刊紙『モーニング・. 既に数多の優れた先行研究が存在する.しかし. ポスト』のライターに就任し,失業問題を含. 先行研究には,ベヴァリッジの政策理念が商務. め各種の社会問題について健筆をふるった.. 院の政策体系といかなる点で整合性をもってい. 同年に保守党バルフォア内閣によって三年間. たのか,という問題関心は見られない.本節で. の時限立法として失業労働者法(Unemployed. は,こうした問題関心に即して,ベヴァリッジ. Workmen Act) が制定されると, ベヴァリッジは,. の議論を再検討してみたい.. 失業対策事業を企画するために同法の下で設.  ハリスによる,定評あるベヴァリッジ伝に. 立されたロンドン失業対策中央委員会(Central. よ れ ば, し ば し ば エ ド ワ ー ド 期(1900 ∼ 14. Unemployed Body for London)のメンバーにも. 年 )を代表する典型的なニューリベラルとみ. 就任した.同委員会のメンバーとして,彼はト. なされることがあるベヴァリッジは,当時は. インビーホール時代からの持論である職業紹介. 特に自由党の確信的支持者というわけではな. 所制度を熱心に主張し,ウェッブ夫妻もこの案. く,決してニューリベラルのサークルの一員で. に賛成した.ウェッブ夫妻の斡旋により,彼. あったわけではなかった.ウェッブ夫妻と親し. は,同年に設置された救貧法に関する王立委. く交流しつつも,フェビアン協会の正規メン. 員会の証人として聴取されることとなり,1907. バーとなることもなかったし,1907 年には同. 年 10 月に行われた証言では,職業紹介所を擁. 協会の准会員をも辞職している.商務院入院. 護する論陣を張って委員会を感銘づけることに. 以前の彼は,自らのことを労働党帝国主義派. 成功した.結局,多数派と少数派に分裂して報. (Labour imperialist) ,トーリー・デモクラット. 告書を提出した救貧法委員会は,両派とも,職. (Tor y democrat),保守党革新派(revolutionar y. 業紹介所の必要性については一致を見たのであ. Conser vative)といった様々な名称で表現して. る.その一方,1907 年 8 月以来彼は,商務院. おり,1906 年には,「自由党は死に瀕した政党. のための各種調査を引き受けるようになった.. だ.自由党は何もやる気がない,何でも反対の. 翌 1908 年 3 月にウェッブ夫妻にひきあわされ. 党だ」とも記している.ハリスが大量の一次史. てチャーチルと会談する機会を得たベヴァリッ. 料を渉猟した限りでも,エドワード期を通じて,. ジは,職業紹介所について主に語った.翌月. 彼が自らのことを自由党派(a Liberal)と呼ん. に自由党キャンブル・バナマン内閣が辞職した. だ例は一度限りであり,それも批判的な意味合. 後を受けて組閣した自由党アスキス内閣の下で. いにおいてであった. つまり, 当時のベヴァリッ. チャーチルは商務長官に就任し,同年 7 月に職. ジは,必ずしも当時のプログレッシヴ・ムーヴ. 業紹介所事業を担当させるためベヴァリッジを. メントの一員であったわけではない 22).. 採用するに至ったのである 21)..  また,オックスフォードの法学徒であった当.  以上のように,ベヴァリッジは 1905 年 12 月. 時から,労使関係に関心を有していたベヴァ. に自由党政権が発足する以前から,失業問題の. リッジは,労働組合運動,および労働代表委員. エキスパートとして職業紹介所制度を主張して. 会(1906 年以前の労働党の前身 )に対してはア. おり,その主張が買われて商務院への入院を果. ンビヴァレントな姿勢を示していた.労働組合. たしたのである.それでは,職業紹介所に関す. がストライキによる損害賠償の請求対象となり. るベヴァリッジの議論は具体的にいかなる内容. 得る,という新しい原則を示した 1901 年のタ. のものであり,いかなる根拠に基づいていたの. フ・ヴェール判決に関しては,彼は一部の優良. だろうか. ベヴァリッジの政策理念については,. な労働組合のみを損害賠償の請求対象外とした. 21)Ibid., pp. 39-70;訳書,58 − 89 頁。. 22)J. Harris, Beveridge, revised ed., pp. 118-120..

(9) . 上で,判決の原則が維持されるべきと主張した.. であった.彼がみなすところ,そのような〔生. また,労働代表委員会に対しては,自立した勢. 産過程を阻害することなしに,分配に関する資. 力をもつ政党というよりも,一種の活性剤のよ. 本主義を修正する〕方法は,効率性に報い続け. うな役割を期待していた 23).. るものでなければならないし,個人の貯蓄を引.  1905 年には,代表的なニューリベラルであ. き続いて奨励するものでなければならないし,. るチオザ・マニ(Leo Chiozza Money)の著書『富. 労働へのインセンティヴを損なうものであって. と貧困』(Riches and Poverty)の書評において,. はならないのである」25).. ベヴァリッジは,マニが主張する所得の全面的.  このように,エドワード期のベヴァリッジは,. な再分配に反対し,経済効率のためには一定の. 政治思想の面では,せいぜい中道派というレベ. 不平等は必要であると論じた.同様に『モーニ. ルに留まっており,後年のベヴァリッジ報告に. ング・ポスト』時代のベヴァリッジは,非効率. 見られるような革新的な思想を早くから抱いて. 的な生産活動を推進するという根拠から,労働. いたわけではない.それでは,いかにして彼は,. 党によって要求されていた「労働権」に反対し. 失業問題に関するオピニオン・リーダーとなる. たのみならず,多くの周辺的労働者(marginal. に至ったのだろうか?. workers)を失業に追いやるという根拠から,.  1904 年にベヴァリッジがトインビーホール. 苦汗産業以外への法定最低賃金制度にも反対し. の機関紙である『トインビーレコード』に著し. た 24).最低賃金制度が周辺的労働者から雇用を. た論説では,失業問題の焦点は産業不況期に失. 奪うがゆえに反対である,という議論は,臨時. 業労働者の効率性をいかに維持するかという問. 雇用制度に関して,不十分な賃金しか稼げない. 題であるとみなされ,労働植民,移民,およ. 二人の労働者より,十分な賃金を稼ぐ一人の労. び厳格な性格検査をともなう一時的救済事業が. 働者と一人の失業者がいた方がましだとする,. 対策として挙げられたに留まった.つまりこの. ベヴァリッジの後述の議論と明らかに矛盾して. 時点では,ベヴァリッジの失業論は,従来の失. いる.いずれにしても,臨時雇用制度と最低賃. 業問題に関する時論とほとんど変わりはなかっ. 金制度のいずれにも反対というベヴァリッジの. た 26).しかし,翌 1905 年に彼は,二つの面か. スタンスは,商務院のそれと軌を一にしていた. ら失業問題に関してきわめて重要な示唆を得る. のである.. こととなる.第一に,1895 年に失業問題に関.  同様に,ハリスが次のように要約したベヴァ. する特別委員会による聴取に際して,チャール. リッジの資本主義観は,商務官僚のそれとほぼ. ズ・ブースが行った証言を見出したことであ. 同様なものであったと言えるだろう. 「彼は,. る.ブースは,ロンドンにおける港湾の実情に. 資本主義生産は資源のはなはだしく不平等な分. 即して,膨大な臨時雇用労働者の存在を指摘し,. 配を帰結するとみなしていた.しかし同時に,. 臨時雇用改革によりロンドン港湾労働者の 3 分. 資本主義生産は,貧困が除去されるための前提. の 2 が常勤雇用となる一方で,残りの労働者は. 条件である富をつくりだし得る唯一のシステム. ドック雇用の機会を失って職を他に求めざるを. である,ともみなしていたのである.したがっ. 得なくなるであろう,と論じた.第二に,同年. て,ベヴァリッジが見出した問題とは,生産過. に刊行されたオールディン(Percy Alden)の著. 程を阻害することなしに,分配に関する資本主. 作『失業者』 (The Unemployed)は,失業問題に. 義のシステムをいかに修正するか,という問題. 23)Ibid., pp. 124-125. 24)Ibid., p. 128.. 対処する上でのヨーロッパにおける諸方策,特. 25)Ibid., p. 129. 26)Ibid., p. 144..

(10) . に労働組合による保険制度への国庫補助や職業. 80%以上に達していた 30).これにより,失業労. 紹介所の全国的ネットワークを紹介した. .こ. 働者法の失敗は明らかとなり,ベヴァリッジが. のようなブースとオールディンの議論に触れた. 唱える,職業紹介所制度を通じての臨時雇用制. ことを契機に,1905 年以降ベヴァリッジの失. 度改革という案に一躍注目が集まることとなっ. 業論は新たな展開を見せることとなる.すなわ. たのである.ハリスによれば,1905 年以前の. ち,職業紹介所の全国的ネットワークを新たに. イギリスにおいては,職業紹介所制度が改革主. 27). 形成し,これを武器として臨時雇用制度を撲滅. 義勢力の関心をひくことはほとんどなかった.. する,というベヴァリッジ独自の失業対策構. 「失業労働者法が制定された当時において,職. 想( 正確に言えば半失業対策 )が姿を現すこと. 業紹介所を支持する重要な団体は存在しなかっ. となったのである.. たし,失業者を支援するためのこうした方法に.  つまり,失業および貧困対策に占める臨時. ついては,ほとんど知られていなかった」31).. 雇用制度改革の重要性に着目した点においては. すなわち,専ら正規労働者の失業のみを念頭に. ブースの議論に,職業紹介所に着目した点に. おいていた失業労働者法の破綻という事情を背. おいてはオールディンの議論に,それぞれベ. 景として,臨時雇用制度改革のための職業紹介. ヴァリッジは学んだわけであるが,両者の議論. 所導入を唱えるベヴァリッジは,一躍失業問題. を結びつけて独自の失業対策構想を打ち出した. の権威として世に知られることとなったのであ. 点にベヴァリッジの独自の貢献があったと言え. る.. る.ベヴァリッジがイーストエンドにあるトイ.  既に 1906 年の時点で,イングランド,スコッ. ンビーホールの仕事を遂行する過程でドック労. トランドでは,1902 年の労働事務所法(Labour. 働問題を知悉するに至ったこと,さらに幼少時. Bureaux Act)によって 24 の労働事務所(職業. からドイツ人の家庭教師をつけられて育ったた. 紹介所)が設置されていたが,ベヴァリッジは. め,ドイツ語に堪能であった彼が職業紹介所制. 同年の『エコノミック・ジャーナル』に著し. 度の先進国であるドイツの実情に学ぶのに適し. た論説で労働事務所を評し,次のように論じ. た能力を備えていた,という好都合な条件が幸. た.労働事務所を所管する地方行政院(Local. いした. Government Board)の官僚ロウリ(A. Lowry). .. 28).  1905 年 11 月,ベヴァリッジは『モーニング・. が調査したところによれば,労働事務所には,. ポスト』に著した論説において, 「失業問題の. 単に求職者の登録業務を行うに過ぎない第一の. 最終的解決」にとって,職業紹介所は中心的な. 類型と,労使双方の条件が折り合うような職業. 役割を果たし得る,と論じた. 紹介をすべく積極的に活動する第二の類型とが. .この論説で. 29). 専ら念頭に置かれていた問題関心は,臨時雇用. ある.第一の類型に属する 5 つの労働事務所は,. 制度改革ということであったが,同年に制定さ. 1 年間で民間企業へ 200 件,地方公共団体へ. れた失業労働者法は原則的に正規労働者のみを. 501 件の紹介をしたに留まった.これに対して,. 対象としていた.ところが,失業労働者法によ. 第二の類型に属する 14 の労働事務所は,1 年. る救済を求めて殺到した失業者の多数は臨時労. 間で民間企業へ 9074 件,地方公共団体へ 6357. 働者によって占められており,ベヴァリッジの. 件の紹介を行った.いずれにしても,これらの. 推計によると特にロンドンにおけるその比率は. 数字は,ドイツの職業紹介所と比較した場合, はなはだしく見劣りがする.1902 年のドイツ. 27)Ibid., pp. 144-145. 28)ベヴァリッジがドイツ語に堪能であった事 情については,参照,J. Harris, Beveridge , p. 50. 29)J. Harris, Beveridge , p. 153.. 30)安保則夫『イギリス労働者の貧困と救済』 明石書店,2005 年,122 − 123 頁。 31)J. Harris, Beveridge , p. 153..

(11) . における職業紹介所の紹介件数は,プロイセン. リスで創出される新たな雇用や移民を通じて,. で 191,848 件,ヴュルテンブルクで 66,791 件,. こうした不都合は解消されていくであろう」 .. バーデンで 52,777 件,バイエルンで 90,128 件 に上ったのである..  さらに,ベヴァリッジは次のように述べる. 「一時的な産業不況により正規労働者が職を失.  ロウリの調査報告は,労働事務所の役割に対. うという問題は,困窮対策委員会が対応を迫ら. して懐疑的である.ロウリによれば, 「労働事. れている諸困難の中でも,最も緊要性が低い問. 務所の運営に携わる者は,労働事務所から何を. 題である.最大の困窮は,不完全雇用の下にあ. 期待し得るかという点について,見識をもって. る非正規労働者がこうむっている慢性的な問題. おくべきである.労働事務所が雇用の不足に起. に由来しているのである.……これは,労働市場. 因する困窮を軽減する面で,効率的かつ早急な. の組織改善によって対処し得る問題であるし,. 援助をなし得ると期待するような傾向が,どう. それ以外のやり方では対処できないものだ」32).. やら過度に存在しているようである.労働事務.  以上のようにベヴァリッジは,職業紹介所が. 所は雇用量を増大し得るようなものではないと. 雇用量そのものを拡大するわけではないことを. いう点は,決して見過ごされてはならない.せ. 認めつつ,職業紹介所が臨時雇用制度を減少さ. いぜい労働事務所からは,個々の雇用主と労働. せるという点に,その最大の効用を見出したの. 者が互いを求めるために費やす期間を短縮する. である.ここでベヴァリッジがいうところの労. ということぐらいしか望めないのである」 .ベ. 働力の流動性とは,労働力の流動性という場合. ヴァリッジは,労働事務所に関するこうしたロ. 一般にイメージされるような,労働力を容易に. ウリの結論を批判して次のように言う. 「 〔ロウ. 解雇できるという面での流動性とは全く異なる. リの結論は〕全くその通りというしかない.唯. ことに注意する必要があろう.いつでも容易に. 一残念な点は,ロウリ氏は最後の一文の含意を. 雇用・解雇できる豊富な労働力の貯水池が存在. 十分に認識していない,ということだ.労働力. するという点では,ドック産業にはまさしく労. の流動性不足が防ぎ得るものであるならば,防. 働力の流動性が存在していた.しかしながら,. ぎ得る経済的非効率が存在するということなの. ベヴァリッジがいう労働力の流動性とは,高い. だ.‥‥‥職業紹介所がないとすれば,労働力. 労働効率を有する一定規模の労働者集団が需要. に対する地域ごとの需要がたえず独自に変動し. のあるところへ即座に供給される,ということ. ているような産業は,不完全雇用された労働力. を意味している.この労働者集団がたえずどこ. の一大貯水池,もしくは多くの局地的な貯水池. かで雇用されるならば,事実上の常勤雇用身分. の集合体をもたずしては,持続し得ないのであ. となるのである.このようにベヴァリッジは,. る.職業紹介所があるならば,需要の地域的変. 労働効率が低い大量の労働者が一定量の雇用を. 動があっても,小規模な流動的労働力が,求め. シェアすることによって生じる不完全雇用・臨. られるところへ速やかにふりむけられるため,. 時雇用制度こそ,貧困対策と経済効率のいずれ. 産業は地域的な労働力貯水池の集積に頼らなく. の面から見ても解決を要する最重要問題とみな. てもやっていけるようになる.‥‥‥労働力の. した.職業紹介所は,専らこの問題を解決する. 流動性を増すことは,労働効率を高める一方で,. ための手段と位置づけられたのである.他方で,. ある地域,またはある職業において一定の仕事 量をシェアしていた人々の数を減らすことにな る.産業効率が増すあらゆる場合に生じるよう に,これによって現在雇用されている者の一部 は全く職を失うこととなるであろう.こうした 不都合は,一時的なもので終わるだろう.イギ. 32)W. H. Beveridge,‘Labour breaux’, Economic Journal , vol. 16, no. 63, 1906. なお,この論説におい てベヴァリッジは,労働事務所よりも労働市場の 組織化を直接的に想起させる職業紹介所の方が名 称としてふさわしいと述べ,自身の提案部分に関 しては職業紹介所という名称を使用している。.

(12) . この時点では,ベヴァリッジは景気循環にとも. 100 人の労働者を常時プールしておかなければ. なう正規労働者の失業には全く重きをおいては. ならず,二つの波止場をあわせれば 200 人の労. いなかった.高賃金の熟練労働者は,一時的な. 働者のプールが常時存在しなければならなくな. 失業の際には,貯蓄の取り崩しによって対処可. る.これに対して,もし職業紹介所により,二. 能であるからであろう.. つの波止場の労働者が常時入れ替え可能という.  次いで 1907 年 3 月の『エコノミック・ジャー. ことになれば,合計 180 人の労働者がいればよ. ナル』における論説は,1905 年以来のベヴァ. いということになる.この場合,20 人は全く. リッジの初期的な失業論の集大成と言えるもの. 波止場の雇用を失うということになるが,逆に. である.これにおいては失業問題は, 第一に 「特. これ以降は 180 人の労働者が 200 人分の賃金を. 定産業の状態が変化することにともなう問題」 ,. 得るということになる.過剰人口が存在しない. つまり摩擦的失業に起因する問題,第二に,景. 国であれば,雇用を失ったこの 20 人は,別の. 気循環にともなう循環的失業や季節的失業に起. 雇用先を見出すことであろう.過剰人口の国で. 因する問題,第三に, 「労働者に対する雇用主. あれば,この 20 人は移民するしかないであろ. の組織化されていない需要と慢性的な不完全雇. う.「いかなる社会観に基づいたとしても,生. 用があいまって生じる,労働市場の過剰供給状. 活賃金を得る一人が存在する方が,半分飢餓状. 態」に起因する問題,つまり臨時雇用制度に起. 態の二人が存在するよりも望ましい」35).. 因する問題,と三種に分けられる.その上で,.  こうした臨時雇用制度改革を実現するため. 第三の臨時雇用問題,もしくは不完全雇用問題. には, 「職業紹介所の普遍的適用」という原則が. こそが「最も理解されておらず,それでいて最. 必要である.この原則によれば,全国のあらゆ. も重要な問題である」と述べられる .ベヴァ. る地域に職業紹介所が設置され,各職業紹介所. リッジが見たところ,困窮の最大の源は臨時雇. は密接に情報を交換することとなる.求職する. 用制度であるが,それに対処するためにはいか. 全ての労働者,および労働者の採用を望む全て. なる手段があり得るであろうか.彼は,臨時労. の経営者は,職業紹介所に登録しなければなら. 働の供給そのものを直接的に制限することは実. ない.これによって,全国的に統一された労働. 践的に困難であるとみなし,職業紹介所によっ. 市場が成立することとなる. 「共同体は,臨時雇. て臨時労働に対する需要を抑制するという案を. 用をなくすために労働市場の組織化に乗り出す. 提起する. か,それとも失業問題の解決をあきらめるか,と. 33). .具体的には,ドック産業のケース. 34). を念頭に,次のような具体例に基づいた説明が. いう選択肢の前で決断しなければならない」36).. なされる.二つの波止場があり,年間を通じて.  以上のように, 『エコノミック・ジャーナル』. それぞれにつき 50 人から 100 人の労働者が日. におけるこの論説の頃まで,ベヴァリッジは臨. 雇いで雇われているとする.二つの波止場をあ. 時雇用問題の解決を唯一最大の焦点とみなして. わせて,一日につき雇用が 120 人を下回ること. おり,職業紹介所制度は専ら臨時雇用を解消す. もなければ,180 人を上回ることもないとする.. るための武器と位置づけられていた.摩擦的失. この状況で,もし二つの波止場の間で労働者の. 業を解消するためというより,不完全雇用を解. 互換性が全く存在しないとするならば,各波. 消するために職業紹介所を利用する,という構. 止場は上限の需要にいつでも応えられるように. 想を示した点にベヴァリッジの独創性が見られ る.職業紹介所の普及を通じて臨時雇用制度を. 33)W. H. Beveridge,‘Labour exchanges and the unemployed’, Economic Journal , vol. 17, no. 65, 1907, pp. 68-69. 34)Ibid., p. 71.. 35)Ibid., pp. 72-73. 36)Ibid., pp. 76-77..

(13) . 撲滅するためには,労使双方に職業紹介所の利.  同年 8 月には,ベヴァリッジはウェッブ夫妻. 用を強制することが必要条件となる.実際,こ. との親交を深めるに至り,職業紹介所推進の面. の論説における議論は,事実上職業紹介所の強. で意気投合した両者は,10 月の王立救貧法委. 制利用を推奨するものであった.. 員会におけるベヴァリッジの証言に先だって,.   し か し 小 峯 敦 に よ れ ば,1907 年 7 月 以 降,. 周到な予行演習を行った 40).こうして,証言の. ベヴァリッジの思考は重要な発展を遂げた.同. 場に臨んだベヴァリッジは,臨時雇用問題をメ. 月の『モーニング・ポスト』に著した論説にお. インに論じつつ,失業保険制度導入にとっても. いて彼は,「失業であれ疾病であれ死去であれ,. 不可欠な前提をなすという根拠をもって,職業. 産業上の危険に対する保険」に関して, 「それ. 紹介所の有用性を強力に主張した.1909 年に. ぞれの紹介所は労働組合で確立しているものと. 刊行される『失業論』の主要な論点は,既にこ. 類似するような,保険体系の中心になるだろ. の証言に出つくしている.ベヴァリッジは,ト. う」と論じた.それというのも,職業紹介所. インビーホール,ロンドン失業対策中央委員会. は,登録者の拠出能力,労働意欲を照合するこ. のメンバーとして臨時雇用問題について第一級. とによって不適切な支払い要求を抑制すること. の知識を有していること,統計資料の操作に長. ができ,適切な人々には給付をするという機能. けており,各種統計によって実証的に裏づけら. を果たし得るからである. .同年 9 月にベヴァ. れた議論を展開できること,およびドイツ語に. リッジは,社会政策の実態を調査するためにド. 堪能で同国の実情に詳しいという三つの強みを. イツを訪問するが,この経験は職業紹介所が失. 存分に生かして証言を行い,委員会報告に最も. 業保険の運用のために有用であることをいっそ. 多大な影響を与えた証言者となった.. う確信させた.彼がドイツにおける調査の成果.  それでは,多大な反響を呼んだベヴァリッジ. を記した『エコノミック・ジャーナル』の論説. の証言は,いかなるものであったのか.ベヴァ. によれば,ケルンの職業紹介所が労働組合によ. リッジは,証言の場にあらかじめ作成した覚書. る失業保険に補助金を与えている実例が紹介さ. を提出した.臨時雇用制度がもたらす害悪,お. れ,「相当高度な労働市場の組織化が失業〔の. よびそれを撲滅するための職業紹介所の有用性. 有無〕を直接検査することを可能とするのでな. を何よりも強調する点では従来の議論と変わら. ければ,保険によって失業に対処することはで. ず,詳細な統計的データの裏づけをともなって. きない」と述べられている .ドイツ訪問以降,. いる以外では,この論点に関して特に新味はな. ベヴァリッジは各種の講演,講義の中で,失業. い.他方で,この覚書においては,循環的失業,. 保険の論題を含めるようになった .こうして,. および季節的失業に対処するための三つの方策. 元来は臨時雇用制度対策一辺倒の職業紹介所. が論じられている.以前は全く重視されていな. 有用論を唱えていたベヴァリッジは,1907 年 9. かった循環的・季節的失業への対処法が真剣に. 月以降になると,何らかの形態の失業保険制度. 考慮されるに至ったのである.. を導入するためにも,職業紹介所は不可欠な前.  三つの方策とは,失業保険,不況期の時短の. 提であるという新たな論拠をもって,職業紹介. 活用,および必要事業の適切な配分(the better. 所制度の導入を唱えていくようになった.. distribution of necessary work)である.ここで,. 37). 38). 39). 「必要事業の適切な配分」とは,必要な公的事 業を失業が増える不況期に集中的に行うという 37)小峯,前掲書,105 − 106 頁。 38)W. H. Beveridge,‘Public labour exchanges in Germany’ , Economic Journal , vol. 18, no. 69, 1908, pp. 7,17. 39)小峯,前掲書,107 頁。. 40)W. H. Beveridge, Power and influence, pp.62-63; 訳書,80 − 81 頁。.

(14) . 施策を指している.注目すべきは,ここで次の.  以後,ベヴァリッジの提出資料に基づきつ. ように述べられていることである.「実際のと. つ,委員会との質疑応答が行われた.委員会. ころ,通常の景気状態の年における単なる季節. の議長を務める保守党政治家ハミルトン(Lord. 的な失業は,賃金の問題として扱われなければ. George Hamilton)が, 「あなたの説明に従い,ドッ. ならないということは,かなりの程度広く認識. クにおいて週に 3 日しか雇用を得ることができ. されている.すなわち,失業問題というよりも,. ない労働者が 1000 人いたとします.あなたは,. 調子がよい時期と調子が悪い時期との間で賃金. その 1000 人の内 500 人のみが雇用を得た方が. を平均化するという問題として,扱われなけれ. よい,そしてこの 500 人が週を通じて働いた方. ばならないのである」 .そして,これら三つの. がよいと考えるわけですね?」と問うたのに対. 方策は,賃金平均化のための方策として主に捉. し,ベヴァリッジは「そうです」と答え, 「残. えられたのである.. る 500 人はどうなるのですか?」という問いに.  三つの方策の内,最も重視されるのは失業保. 対しては,次のように答えた.ベヴァリッジ. 険である. 「労働組合による失業給付という形. はイギリスが過剰人口の状態にあるとは考えて. 態での保険は,特に金属,機械産業,および建. おらず,したがってその 500 人は他のところで. 設,印刷業界のような組織化が進んだ熟練業種. 雇用を見出すことができるであろうと推測する. で普及している.保険は,季節的循環にも景気. が,「もし国内の全雇用を網羅している職業紹. 循環にも同様に適用し得る柔軟な方法である.. 介所が完備された状態において,この 500 人が. その拡大を図るためには,いかなる取り組みが. 職を見出すことができないならば,この国は過. 必要だろうか?」第一に,臨時雇用制度の廃止. 剰人口状態にあるという最終的な証拠が見出さ. に成功したならば,労働組合の共済機能も自然. れたということになります.したがって,その. に拡張していくことであろう.第二に,例外的. 際には,彼らを移民させる以外に解決策はあり. にひどい不況が発生する場合に備えて,労働組. ません」 (証言番号 QQ. 77841-77842. 以下同) .. 合による失業給付は公的補助金によって補強さ.  たとえ本人の怠惰などに失業の責任を見出す. れることができる.第三に,労働組合組織が発. ことができない場合であっても,過剰人口状態. 展しない場合であっても,公的補助金の有無に. の国において,余分な労働力が生きる余地はな. 関わりなく,職業紹介所それ自体が保険機構と. いという議論は,1909 年の『失業論』でも繰. なり得る.このように,臨時雇用制度を廃絶し. り返されることとなる.したがって,当時のベ. た後には,失業保険を用いて循環的・季節的失. ヴァリッジの政策理念においては,後のベヴァ. 業に対処可能であることが論じられた.もっと. リッジ報告に見られるナショナルミニマム的な. も,現行の労働組合による失業保険は,未だご. 見方は未だ存在していないと言わなければなら. く少数の労働者をカバーしているのみであるこ. ないだろう.. とも指摘されている..  救貧法委員会のメンバーには,失業労働者法,.  失業保険,時短,必要事業の配分という,い. 労働事務所法の運営を担当する地方行政院の事. ずれの方策にしても,労働市場の組織化が高度. 務次官プロヴィス(Samuel Provis)が加わって. に進むことを前提としており,したがって職業. いたが,彼は次のように問うた. 「職業紹介所. 紹介所の普及が必要である.これを受けてベ. 組織を供給するという点を例外として,あなた. ヴァリッジは,ドイツの職業紹介所に関する覚 書を提出し,それが労使双方によって積極的に 活用されていること,ケルンにおいては労働組 合による任意失業保険への財政補助機能を職業 紹介所が果たしている例などを説明した 41).. 41)以上,Parliamentary Papers (1910), cd. 5066, vol. 48, Minutes of evidence taken before the royal commission on the poor laws and relief of distress, p. 17..

(15) . は失業労働者法が廃棄されるべきと考えている. 者を含めて,労使双方が皆利用するような職. のですか?」これに対しベヴァリッジは, 「失. 業紹介所制度を導入することである.「その後. 業者」という言葉がスティグマを想起させると. に,我々は任意保険基金を導入できるようにな. いう点を根拠に,「失業労働者法の下での職業. ります.個人的には,常勤の地位を得た労働者. 紹介所が成功するとは思えません」と返答した. たちは,自ら労働組合による失業保険基金を組. (QQ. 77940-77941) .失業労働者法が完全に失敗. 織するようになるのではないかと期待していま. に帰しており,直ちに廃棄されるべきであると. す」.非労働組合員についてはどうか,という. いうベヴァリッジの議論に対して,プロヴィス. ロックの質問に対しては,ベヴァリッジは,非. は特に気を悪くした風ではなく,反論を試みる. 労働組合員であっても何らかの共済クラブを. こともしていない.先述した労働事務所に関す. 形成することは可能であろうと返答した(QQ.. るベヴァリッジの論説の中でとりあげられた地. 78013-78016) .もっとも,二度目の証人喚問の. 方行政院官僚ロウリが労働事務所の役割に否定. 際には,臨時労働者に対しては失業保険という. 的であったように,地方行政院は失業労働者法,. 手段は役に立たないのではないかというハミル. 労働事務所法いずれの拡充にもおよそ積極的で. トンの質問に対し,ベヴァリッジは,「その通. はなかったことがうかがえるだろう.. りです.その階級〔臨時労働者〕に関しては,.  「使用者に関しては,職業紹介所の利用を. 彼らの存続を不可能とする以外の解決策はあり. 使用者に強制するのが望ましいと考えるので. ません」と答えている(Q. 78313) .. す か?」 と い う 経 済 学 者 ス マ ー ト(William.  このように,この時点では,ベヴァリッジの. Smar t)の質問に対しては,ベヴァリッジは次. 構想は,職業紹介所の強制適用と任意失業保険. のように返答している. 「全ての使用者が職業. を組み合わせたものであった.これは,ベヴァ. 紹介所を利用することを望む点では,私は非常. リッジをバックアップしたウェッブ夫妻の構想. にはっきりしています.究極的には,何らかの. ともまさしく合致していた 42).しかしながら,. 形でその利用を強制するということになる,と. 実際に商務院の下で実現した政策は,任意利用. 私は考えます.まず強制を以て始めるべきかど. の職業紹介所と強制適用型失業保険を組み合わ. うか,という点に関してはわかりません.それ. せたものであった.したがって,ベヴァリッジ. は実践に委ねられるべき問題です.しかし,臨. の政策理念が商務院の政策形成に及ぼした影響. 時労働に関して言えば,究極的には強制に訴え. 力を過大評価すべきではないのである.商務院. る必要がある,という点に関しては,とにかく. 組織は,ベヴァリッジ構想の中から,自らにとっ. も私ははっきりしています」(Q. 78172) .. て都合がよい部分は抜き出し,都合が悪い部分.  結局ベヴァリッジは二度にわたって証人とし. は捨て去ったのである.次節では,商務院の下. て喚問されたが,第一回の証人喚問において. で実際に職業紹介所制度が実現を見る一方で,. は,職業紹介所を通じて失業保険を給付すると. 臨時雇用制度改革への取り組みが進展するとい. いう案に対して,委員会の主導的メンバーの一. う状況について検証する.. 人であった慈善組織協会(Charity Organisation Society)の書記ロック(C. S. Loch)が高い関心. を示した.ロックの質問に対して,ベヴァリッ. 4.職業紹介所法の制定と臨時雇用制度改革.  ベヴァリッジの議論に触れる前の商務官僚. ジはドイツの一部の職業紹介所が任意失業保 険の運営に関与している事例を説明した(QQ. 77896-77899) .さらにロックが具体的な失業保. 険制度導入の手順を問うた際,ベヴァリッジ は次のように返答した.第一に,不熟練労働. 42)ベヴァリッジとウェッブ夫妻の失業問題に 対する認識がほぼ共通であった点については,江 里口拓『福祉国家の効率と制御』昭和堂,2008 年, 144 頁,参照。.

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