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米国従業員持株制度の理論と政策 研

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(1)

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ン}~ 究 研

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米 国 従 業 員 持 株 制 度 の 理 論 と 政 策 ー ル イ ス ・ オ ー ・ ケ ル ソ ー よ り 一 ( 2 )

市 J 

11 

はしかき ー 理 論 の 部

基本概念(以上前号)

政治的民主主義と経済 3  セーの法則0)再検討

民 主 資 本

t

義(以じ本号)

経済史 ー 政 策0)

四 批 判 と 反 批 判 の 部 五 む す ひ

政治的民主主義と経済

①  民主主義の意義

多くの米国人にとって民主主義は人民による政府,つまり個々の市民に主権をゆだね る政治制度である。我々はしばしば民主主義の意義をその政治的側面に限定しており,

民主主義がもっと広い制度,つまりすべての市民が社会的権力の行使に参加する制度を 意味することに気付いていない。政治的民主主義それ自体は,半分の民主主義にすぎな

い。なぜならば,それは社会的権力全体の半分のみを市民に配分する。

ケルソーによれば,社会的権力とは,社会的な手段,つまり暴力,非民主的な法的強 制および詐欺的行為とは無関係な手段によって社会において行使される力を意味する。

社会的権力はいずれもきわめて重要な

2

つの権力から構成される。

1

つは政治的権力,

(2)

米国従業員持株制度の理論と政策ールイス・オー・ケルソーより―‑(2)(市川)

つまり法を作り,解釈し,管理し,執行する力である。もう

1

つは経済的権力,つまり 財貨とサービスを生産する力である。もし政治的民

t t :

義が全市民の政治的過程への参 加権を命令し,要求するとすれば,経済的民主主義は経済的過程に参加する権利,つま

り財貨とサービスを生産しかつそうして得られた収入を受け取る権利をすべての涸人も

(1) 

しくは家族(消費者単位)に与える。

たった

1

つの経済制度のみが政治的民

tt

義と両立できる。それは自由市場経済であ る。それだけがあらゆる消費者単位にその消費する収入を稼ぐため生南へ参加すること を要求する。それだけが各参加者(})生産への投人に応じて各人の取り分(個人収人)を 分配する。アメリカ的な民 t 主義の理念は,政治的民 ~t

l ・ :  

義つまり政治過程へのすべて の市民の参加と,経済的民

t

主義つまり良き生活を維持する生計費を稼ぐU)に卜分な程 度での財貨とサービスの生産への各消費者単位の参加との合成物である。社会的権力の 両方が民主化された場合にのみ,我々は民主主義つまり人間を基準として組み立てられ た社会構造を有する。

ケ ル ソ ー は 全 国 至 る 所 の 無 数 の セ ミ ナ ー や 講 演 に お い て 次 の よ う な 質 問 を 投 げ か け た。「もしあなたが

2

種類の社会的権力のうちのいずれか

1

つだけを,つまり政治的権力 と経済的権力のうちのいずれか

1

つだけをもつことができるとすれば,どちらを選びま すか」。その答えは明らかに後者だけであった。誰もが経済的権力の所有者は政治的権力 を獲得できることを知っている。それはハリングトンが彼の有名な格言「財産は権力を 伴う」において述べたことである。財産を所有することは,それが労働力であれ資本で

(2) 

あれ,財貨とサービスの生産に従事する手段と収入を稼ぐ手段を所有することである。

②  米国憲法制定者たちの思想

米国憲法制定者たち

( t h ef o u n d i n g  f a t h e r s )

が生命,自由およびヤ;福追求の権利を認 めたとき,彼らは政治的民主主義と同じく経済的民主主義も肯定しつつあった。両者は 分離不可能であり,米国最初の

1

世紀の間そのようなものとして理解されていた。たと えば,ダニエル・ウェブスターは次のように宣言した。「普通選挙は財産に大きな不平等 のある社会では,長くは存続できないであろう。もし法律が少数の手への財産の急速な 累積を作り出し,人口の大部分を隷属的にし無——文にする傾向を有する場合には,最も 自由な政府はたとえ存在できたとしても長続きしないであろう。そのような場合には,

人民の力が財産権を破壊するか,もしくは財産の影響力が人民の力の行使を制限し支配

(3) 

するか,のどちらかであるに違いない」。

米国には,その建国時から米国での産業革命が始まった

1 9

世紀末頃までは,作業民主 主義

(workingdemocracy)

が生き残っていた。技術の進歩が資本の生産力を増大する につれて,金権的金融

( p l u t o c r a t i cf i n a n c e )

が資本所有をますます少数の手へ集中し

8 ‑4  ‑635 

(香法

' 8 9 ) ‑ 2 ‑

(3)

た。経済的民

t

主義の没落はそれと時を同じくした政治的民主主義の勃興によってあい まいにされた。政治的民

= t t : :  

義がしだいに唯^の重要な民主主義として受け入れられた。

数百万の移民が独裁的な窟豪によって歴史的に支配された母国から逃れてきたが,彼ら は政治的権力についても経済的権力についても経験を有しなかった。末日の新来者は西 部開拓地での財産分与を期待できなかった。

米国慮法の制定者たち自身彼らの注意を政治的権力に集中していた。彼らは,彼らの 県い到来,宰運なめぐり合わせ,およびたいてい無人の大陸の未開拓の機会のおかげで,

彼らが既に獲得していた経済的権力をより卜分に利用し享受するために,大英帝国から 政治的権力を奪取することを欲した。米国芯法の著者たちは,独吃宣言の著者たちより もより •層,経済的権力と政治的権力は不可分であることを完全に理解していた。彼ら にとって財産は,生命または自由と同じ程度に胄重なものであり,最高の善 (summum bonum)であった。財産を獲得し保護する権利を支持するために,政府が組織された。

これらの人々は財産の平等が政治的平等にとって必要な共同作用因であること,いな望 ましい共同作用因であることすら信じていなかった。しかしながら,彼らの議論におい ては,ある程度の経済的権力が政治的権力の責任ある利用のための前提条件であること

(") 

は暗黙の

r

解事項であった。

憲法制定会議の代表者たちは,選挙権についての財産資格を否定し,これを諸小卜1にゆ だねた。なぜならば彼らは彼らが異なる経済的・地域的利害を代表しており,財産資格 を課すことに同意できなかった。それではなぜ保守的で政治的に熟練したエリートたち が政治的平等という革命的な原則を導入したのか。チャールズ・ビアアドによれば,彼 らをそのように行為させたものはアメリカの特異な経済事情である。「ここには組織とし て確立した聖職者はいなかった。称号のある貴族はいなかった。パリの群衆を形成した ようなプロレタリアートはいなかった。七地が主な種類の財産であり,白人(数のうち に入らない奴隷を除いて)間での七地の広範な分散が,事実上,政治的平等の理論に照

(6) 

応するかなりの経済的平等をもたらした」。しかし,米国の政治制度の形成にあたってお そらくより骨]影孵したと思われるもう

1

つの事情があった。それは支配的な生産力と しての労働の重要性であり,これが豊富な,安い七地と一緒になって,資本をもたない

7) 

市民に前例のない経済的権力を与えた。

そういうわけで,政治的民

t

主義は自然に成立した経済的民主主義の中に導入された。

本当に米国誕生時に実在した経済的民主主義はその上に重ねられた政治的民主主義より もずっとしつかりした広大なものであった。「すべての人は平等に創られている」は全住 民の大部分を,つまり女性,原住のアメリカ人,奴隷,財産のない人々を無視していた。

さらに言えば,米国憲法の制定者たちの献身的な財産権信仰にもかかわらず,財産権の

八 〇

(4)

米国従業員持株制度の理論と政策ールイス・オー・ケルソーより一(2)

( r f i

川)

うちの最も基本的なもの,つまりあらゆる個人が自らの労働力を全体として所有する権 利が,選択的にのみ尊重されたにすぎなかった。南部は奴隷制を経済的に必要なものと 考えた。独立宣言の署名者の数人は奴隷所有者であり,その中にはかU)有名なトーマス・

ジャファソンもいた。無賃で働かされる人々はしばしば徒弟に偽装されたが,これは植 民地的な制度であった。経済的権力の完全な民

t

化は新国家全域に,任意のものであれ 強制されたものであれ,奴隷状態の廃止を要求していたであろう。しかしながら米国の 建国者たちは政治的には現実主義者であった。大英帝国から受継いだ金権政治の支持者 たちは,アレクサンダー・八ミルトンに代表されてし)たが,民

t

j~ 義U)支持者と同じ程 度 に 数 も 多 く , 影 牌 力 も あ っ た 。 欠 陥 の あ る , 限 ら れ た 民

t

主義でもないよりはましで あるし,おそらくそれは米国慮法制定者自身の過半数が選択したもJ)であった。甘時広 まっていた植民地風の民

E t

義はある意味では偶然であった。それば,技術水準の低い 経済における労働の高い生産性,たくさんの安価な七地,およびそ(/)

L

地を生産的にす るために必要な大州の労働の結果であった。これら

3

つの粂件のすべては・時的なもの

(8) 

であった。

③  貧富の差の拡大

産業革命がアメリカ大陸に到来した時まで,つまり 1815年頃までに,少数U)最初の資 本家が経済的に定着していた。彼らは英国

E

ゃョーロッバの国

E

からの授与,特許状お よび土地購入によってその富を得た。彼らは七地に付帯する,生産に関する専門知識を 用いて,探検家,商人および貿易業者による発生しようとしていた

E

党派金権政治に取 って代った。現在ではよく知られている 2つの事象が彼らを助けた。その第 1のものは 技術そのものであった。産業革命はこの世の仕事をする動作主の性質を革命的に変える。

それは人間を機械に置き換える。この変化は宅としてまた直接に資本所有者の利益にな る。彼らは土地,建造物,機械および無形資本を有する。家内

l

こ業から[場生産への変 更,作業合理化および専門化のような,労働の生産性を上昇させる技術的変化は労働0)

価値を明らかにまたは確実に高めるものではない。むしろしばしばこれらの変化は労働 への需要を減じ, したがってその価値を減じる。

米国最初の資本家に力を与えた第

2

の事象は伝統的な

( c o n v e n t i o n a l )

貯蓄を基礎と する金融であった。資本信用は,今日でもそうであるように, 舟般に,前以ってよく資 本化されている人々にのみ利用可能であった。伝統的金融のおかげで,既に確立してい

た土地所有が植民地の貴族に,ほとんど排他的な工業資本開発権を与えた。この権利は より以前に王権神授説

( d i v i n e ‑ r i g h td o c t r i n e )

が工業化前に王や貴族に与えたものとほ とんど同じような独占権であった。かくして米国に新たに形成された世襲の金持ち階級 がより豊かになり始めた。だが一方,新たに到着した労役する大衆はそのほとんどが貧

8  ‑ 4  ‑633 

(香法

' 8 9 ) ‑ 4 ‑

(5)

(9) 

しく,無資本のままにとどまった。

勿論,新来の者にも米国エリートヘの足掛かりを得る機会はあった。新国家において 急速に成長し始めた企業によって必要とされた技術上・経営上のノウ・ハウをもつか,

これをすばやく獲得し利用する者は, トップに到達できた。アンドリュー・カーネギー は,彼自身成り上り者のスコットランド移民であったが,労働費の異常なまでの節約者 であった。にもかかわらず,彼は彼が不口]欠と考えた,低い価格では保持できない経営 者たちを株主にすることをためらわなかった。弁護士業務や裁判官職の保有も野心ある 若者に資本資産を獲得する特別な機会を与えた。さらに,最初にホームステッド法が制 定された

1 8 6 2

年の前後には,西部未開地によって提供された,ささやかではあるが意義 深い機会があり,政府は名ばかりの支払いに代えて,開拓者,鉱業者,鉄道業者や運河

(10) 

業者に公有地を売却した。

しかし

1 9

世紀末までに米国の未開地は事実上なくなった。未占領の土地は準小卜Iや小卜1の 所有へと巧みに転換された。かくして貯蔵されたこの土地資本は後になって既に金持ち である者やその会社によって利用されることができた。かくして,再び,いつの時代に もいる特別な幸運と才能を授かった少数の者を除くと,米国経済における資本所有は,

王権神授説に発する主として権力によって作り出されたヒ地所有の集中から,今日では,

富者上位

5 %

とその機関における,居住用を除くたいていの(不動産業,鉱工業および サービス業)資本所有の集中へ, と発展した。事実,グレイ広告社によって

1 9 8 5

年に出 版されたぜいた<品の国内市場についての調査は次のように述べた。

「すへての事情を考慮して,相対的に裕福と言えるほどの資力を有するのは人口の

5 %

にも満たないように思われる。絶対的な裕福に関しては,その割合はより一層小さくな

り,若干の変化はありうるが,

7 5 , 0 0 0

ドルから始まる区分の中のまばらな存在に限られ る。

連邦準備委員会によれば,年

1 0

万ドル以上を稼ぐ米国家族の

2 %

が,すべての居住用 資産の

20%,

すべての流動資産の

30%,

すべての事業用資産の

33%,

すべての{責券の

3 9

%,すべての株式の

50%

およびすべての非課税の資金保有

( f i n a n c i a lh o l d i n g )

71%

(11) 

を所有する」。

ウィル・デュランとアリエル・デュランは彼らの著作において次のように結論した。

1 7 7 6

年前の米国民の間における相対的平等は,数千種の物理的,精神的,および経済的 差異によって庄倒され,最富豪と最貧民との格差は,今では,金権的ローマ帝国以来最

(12) 

大である」。

④  技術進歩の結果

国民間の不平等は,主として,技術の進歩が資本手段の生産性を上昇させ,これが主

七 八

(6)

米国従業員持株制度の理論と政策ールイス・オー・ケルソーより一(2)(市川)

として資本手段所有者の利益になる, という事実から生じている。技術の進歩は一般に 労働そのものをより生産的にするものではない。実際にはその逆が真実である。資本作 業が労働作業にとって代るにつれて,労働作業の必要が減じ,労働の価値は下落する傾 向にある。自由市場の諸力がもはや労働の「価値」を設定しなくなる。その代わりに,

労働の価格は,最低賃金法,超過勤務手当法および団体交渉法によりまたは政府雇用お よび消費者収人を増やすためだけの私的雇用への政府補助金により,政府によって人為 的に引上げられる。

しばしば,作業者が現代の技術を用いるため必要な技能はより高度な技能であり,人 がこれらの技能を身につけるためにはより長い学校教育を必要とするので,競争上より 高い価格に値する,と言われる。ここで述べられている「より高度な」技能とは本当は 異なる技能にすぎないのであって,それが取って代った技能よりも, 一般に,より少な い知識,より少ない努力,より少ない危険,およびより少ない学習時間を必要とする。

たとえば,現代のジェット・パイロットは,たとえ彼がはるかに高性能で高価な資本手 段と共に飛ぶとしても,最初の地上から航法援助を受けずに飛ぶパイロットほどの技能 を必要としない。現代の生産ラインの作業者にとって必要な技能は市場での彼の前任者 である職人の技能よりずっと少ない。彼に必要なのはロボットの行動をチェックするだ けである。経済界での人の知性の働きは,生産の重荷を労働作業者から機械をもつ資本

(13) 

作業者へ移す,つまり作業を節約することにある。

米国最初の一世紀の相対的な経済的民主主義は,上地を除くと,ほとんど重要性のな い資本と,圧倒的に璽要な労働から生じた。植民地時代には,経済的投入のほとんどす べての価値は労働から生じた。稼がれた収入の再分配は,教会や博愛的な団体の小さな 努力を除いて,知られていなかった。人々の生活水準は,もちろん,低かったけれども,

彼らは経済的には十分に自立的であった。ジョージ・ワシントンのような豊かな地主さ えも,ごく質素な財産と楽しみを享受した。だが今では労働はせいぜい生活のかてを生 産するにすぎない。豊かな富を生産するのは資本, とくに工業資本である。

農業経済での経済権力は,すべての実践的な目的に関して,自然に自ずと民主的に分 配されていた。 1人の男と 1人の女が平等に労働力の 1単位であった。奴隷制は,もち ろん,奴隷所有者の手に多くの労働力を集中した。しかし,農業経済では, 七地が圧倒 的に支配的な種類の資本であり,自由な男女がそれ自身の体において経済権力の民主的

[ 

な分配を表す。原野は,大量の持続する厳しい労働なしには,経済的に有益なものとは なりえなかった。その土地が農業,鉱業,林業または建設用地として用いられるために は,多くの異なる種類の労慟の投入が必要であった。結果的に,米国憲法の制定者たち は,たとえ,彼ら自身のような初期の到来者たちが既に東部海岸にそった地域や南部に

8 ‑4  ‑631 

(香法

' 8 9 ) ‑ 6 ‑

(7)

おける最上の上地を手に入れていたとしても,

1 7 7 6

年において経済的民主主義が存在す ると正しく若えた。アメリカ大陸には,勤勉で野心のある人々が開発して自分のものに することのできる,巨大な斌の上地があった。かくして数世代に渡っての,西部未開拓 地への移動が経済的民

t

主義に活力を仔えた。しかしながら,この両方共,消滅しつつ

(14) 

あった。

社会的権力の複合的な性質を理解しない限り,米国の民主主義が工業化の進歩と金権 的金融によって破壊されるであろうということは不可避であった。経済は労働集約的な ものから資本集約的なものへと変った。個々人に利用可能な上地の余裕が消滅した。だ が 方 で は , 機 械 , 建 造 物 お よ び 製 造 方 法 , つ ま り 製 造 資 本 の 生 産 に お け る 相 対 的 菫 要 性が上地のそれに比べて増大した。

1 8 5 0

年までに工業資本が価値において農業資本を追 い越した。しかし労働に依存する多くの者は,彼らが進歩によって失いづつある経済権 力を資本所有によって獲得するための手段をもたないか,ひどく不適当な手段しかもた なかった。

[業化は株式会社

( b u s i n e s sc o r p o r a t i o n )

を現代アメリカ生活の支配的手段とした。

グロスカップ判事のひゆによれば,株式会社は重力のような力をもつ工業組織となり,

すべての活動をその勢力範囲に引き込む。「もし会社が,この新たな形態の下に,田舎在 住の人々は別として,一般的に,究極的な真の所有者,つまり個人所有を統一し結集す るこの時代の新たな方法にすぎないとすれば」,個人から会社へのこの転換はたいした重 要性をもたなかったであろうと,グロスカップ判事は考えた。しかしこれは単に結集の ため現われたところのものではなかった。会社は,「農民以外の他の米国民の大部分を財 産所有から追い出し,彼らを財産から締め出す」という結果をもたらした。民主的に分 配された私有財産はアメリカ共和国とアメリカ的性格が建設された基礎であった。その 急速に消滅しつつある民主主義を回復するために,米国は,かっての入植者土地先取法

( t h e  Homestead and Preemption Laws)

が「公有物の所有権を人民化」したと全く同 じように, この資本所有の新たな形態を「米国産業の所有権の再人民化」を遂行する機

(15) 

関に変える方法を学ばなねばならなかった。

⑤  政治的民主主義と経済

共和国の民主政体のみが,万民の平等選挙権という基本原理によって,すべての人に 市民権を与え,かくして,すべての人に,主権者であることおよび自己の政府に参加で きることから生じる政治的自由を与える。それゆえ,民主主義は完全に正当な唯一の政

(16) 

治形態である。

政治的民主主義はいかなる経済条件の下でも栄えるわけではない。政治的民主主義と 両立し,これを支え,その活力を生み出す経済とはどのようなものであろうか。政治的

七 六

(8)

米国従業員持株制度の理論と政策ールイス・オー・ケルソーよリ‑ー(2) (111川)

民主主義はすべての人々にとっての自由・平等・独立という政治的理念を支える経済制 度を必要とする。それでは,それはどのような種類の経済組織であろうか。これに対す る解答は言薬のうえでは簡単である。つまり経済的民

t : 1 : : :

(economicdemocracy) 

である。しかしこれだけでは本当に答えたことにはならないのであって,その肩朗の具 体的中味が明らかにされねばならない。

政治的民主主義はすべての人々が市民として参加できる政治体制であるので,経済的 民主主義はすべての人々が資本家として参加できる経済体制である。市民の選挙権によ

る政府への参加が彼らに政治的自由を与えるのと同じように,市民の資本所有による富 の生産への参加が彼らに経済的自由を与えるだろう。

また,人々はすべて同じ市民であるという点において,彼らは政治的平等を享受する。

彼らは支配階級と被支配階級に分裂していない。同様に,人々はすべて資本家として生 産に参加する同じ機会を有する点において,彼らは経済的平等を'#>~をするであろう。彼 らは所有階級と労働階級(つまり,資本家とプロレタリアート)に分裂しないであろう。

それゆえ,政治的民主主義の経済的下部構造としての経済的民

i : f :  

義の確立は,人類全 体が真実かつ正当に基本的権利を有する単‑・ の階級を構成するという,理想的な無階級

(17) 

社会を歴史上初めて生み出すであろう。

私有財産制度は政治的民主主義のための経済的基礎であるということがしばしば言わ れる。しかしそうではない。むしろそれは半分の真実であって,誤解を導びく。私有財 産制度は経済的自由のため必要であるが,しかしそれだけではすべての市民の自由を保 障するものではない。原始資本主義においては,少数の資本家階級がその手に資本の私 的所有を集中していたが,彼らは,無産の労働者階級に選挙権を拡大することによって 政治的民主主義を実現しようとするすべての努力に対して,最も精力的かつ頑固に反対 した。政治的民主主義に適切な経済的下部構造を作り出すのは,資本の私的所有そのも

18) 

のではなく,資本の分散所有つまり民主資本主義である。

しばしば我々の先祖は働らく人々に選挙権を拡大すること,つまり,労役に生活のか て を 依 存 し , 子 供 の と き か ら 墓 場 ま で

1

1 2

時 間 ま た は そ れ 以 上 働 ら か ね ば な ら な い 人々に財産とレジャーを有する人々と同じ選挙権を与えることに反対した。その理由の

1

つは,ジョン・アダムスやアレクサンダー・ハミルトンによれば,(当時の無産の労働 者のように)生活のかてを他人の恣意に依存している人々は市民権と政治的自由の利用

(19)

, といっーとであった。

に必要な経済的独立性を有しない ‑

トーマス・ジェファソンは,工業経済ではなく,農業経済が共和国政府のための経済 的基礎を与える, と主張した。彼は,まさに勃興し始めていた工業都市での労働者の家 族が賃金と使用者に従属しているのに比べ,大多数の家族が自ら所有し{動らく農場から

8  ‑ 4  ‑629 

(香法

' 8 9 ) ‑ 8 ‑

(9)

その生活財を獲得する経済として農業経済を描いた。ジェファソンによれば,土地所有 農民は,市民権のための理想的な基礎であり,政治的自由の活発かつ健全な利用のため の理想的な基礎でもある,経済的独立性を有した。

そのような人々は,生活財および独立を政府に依存していなかった。この

2

つの彼ら による保有は収入を生み出す財産の彼らによる所有と不可分であった。彼らは独立者と して政府に参加できた。彼らは自由を得るために政府に特別な権限を授けることを求め なかった。逆に,彼らはその所有財産と市民権によって自由を得ていたので,彼らは政 府の権限を彼らの財産を守り,市民としての権利を保護するのに必要なものに限ること

(20) 

を求めた。

ジェファソンが労働制農業経済について述べ,アリストテレスが奴隷制経済について 述べたことは,資本制工業経済についても真実である。必要なのは用語の置き換えだけ である。アリストテレスの時代に理想的な市民であった奴隷所有貴族に代えて,また,

ジェファソンの時代に理想的rfj民であった卜地所有農民に代えて,我々に必要なのは,

我々自身の時代の理想的な市民として資本所有平民

( c a p i t a l ‑ o w n i n gcommon man)

を 置くことだけである。これら

3

つの場合のすべてにおいて,それらの人々は自己の政府 に対し必要とされるたぐいの独立性を有する。彼らは力

( m i g h t )

によってではなく,正 義

( r i g h t )

によって経済的自由と政治的自由を有するので,彼らは政府の権限を彼らの

(21) 

権利

( r i g h t s )

の保護に必要な範囲に限るよう努めるであろう。

つまり,政治的民主主義を支える経済的下部構造である経済的民主主義の具体的中味 は,ケルソーによれば次のようになろう。政治的民主主義の理念がすべての人々の政治 的な自由• 平等・独立であるのと同じく,経済的民主主義の理念もすべての人々の経済 的な自由• 平等・独立である。人々は富の生産に参加し,それから各々の生活を享受す るのに卜分な収入を得ることによって経済的に自由• 平等・独立となる。資本主義経済 体制においては,富の生産方法が工業化によって労働集約的なものから資本集約的なも のに変っているので,あらゆる所帯が富の生産に参加し,収入を稼ぐ方法も同様に労働

(22) 

集約的なものから資本集約的なものに変らねばならなない。つまり,資本主義経済体制 では,すべての人々は資本家として富の生産に参加し,そこから生活を享受するための 十分な収入を得ることによって,経済的に自由• 平等・独立となる。これを民主資本主 義と呼ぶ。その基本原理を明らかにするためには,まずその前提として経済における需 要と供給の関係について知らなければならない。

セーの法則の再検討

①  セーの法則

私有財産を基礎とする自由市場経済は,経済的機会の平等がほどよく存する限り,自

七 四

(10)

米国従業員持株制度の理論と政策ールイス・オー・ケルソーよりー(2)(市川)

1

(241 

セーの法則の国民経済への適用

1布さ;/Lた 財 と サ ービス

v l r f i

場価値

1年ヘリ)参/Jil名 に 分 杞 された購買カリ)総,,

t

[,i]  99王 量9 ‑

一定期間の

国民総生産

牛 弗 に 参 加 した各人に

1

I力↓,l'l動的(こ 分配ざれる収人

動 制 御 機 構 , 組 織 工 学 の 用 語 で 言 え ば フ ィ ー ド ・ バ ッ ク 機 構 を 有 す る 。 第

1

図がそれを

(23) 

示している。

1

図 の 示 す 論 理 は フ ラ ン ス の 政 治 経 済 学 者 ジ ャ ン ・ バ プ テ ィ ス ト ・ セ ー に よ っ て 明 ら か に さ れ た 原 理 か ら 導 き 出 さ れ る 。 経 済 学 者 た ち は た だ ち に こ の 発 見 を 「 市 場 に つ い てのセーの法則」 と名づけ, その意味を要約して 「供給はそれ自身の需要を創り出す」

との格言に表した。第

1

図 は , 歴 年 度 や 財 政 年 度 の よ う な 特 定 の 期 間 に つ い て , 両 方 の 皿が同じ重さである場合にのみ,そのつりあいの中に安定が存する,ということを示す。

左 側 の 皿 は 生 産 さ れ た 財 貨 と サ ー ビ ス の 価 値 ま た は 生 産 費 総 計 に よ っ て 計 算 さ れ た 国 民 総 生 産 を 表 す 。 右 側 の 皿 は 左 側 に よ っ て 示 さ れ た 生 産 へ の 投 人 物 を 購 人 す る た め 生 産 者

(25) 

に生じた費用の総計である。

セーの法則は,少なくとも, [業化前の社会に存した程度の経済的機会の平等を前提 としている。そこでは,人々は肉体の強さ,忍耐力,知性,才能および技能において様々 であり, この相違が各家族の生活財を稼ぐ能力に反映した。家族の内部では能力の大き

一 七

な 格 差 は 受 入 れ ら れ , 許 さ れ て い た 。 能 力 の 小 さ い 者 は 能 力 の 大 き い 者 に 依 存 し た 。 同 情 , 愛 情 お よ び 自 己 利 益 の ゆ え に , 社 会 主 義 的 な 分 配 原 理 が す な わ ち 能 力 に 応 じ て 各 々 から必要に応じて各々へが必然となった。 しかし.技術が産業革命を発展させ, これを 超えた時, 工 業 化 前 に 存 し た 経 済 的 機 会 の 初 歩 的 な 平 等 は 破 壊 さ れ た 。 す べ て の 所 帯 の た め に , 新 ら し い 産 業 の 条 件 に 合 っ た 経 済 的 機 会 を 創 り 出 す こ と が 国 家 の 仕 事 と 責 任 に

8  ‑ 4  ‑627 

(香法

' 8 9 ) ‑ 1 0   ‑

(11)

(26) 

なった。

工業化された世界において,資本を基礎とする生産力をすべての消費者に利用できる ものにしなければならないのは,国家を統轄者とする人間の制度である。米国では,幸 運にもその建国の父祖たちが自由社会の向わねばならない方向に気付いていた。彼らが 独立宣言および憲法において述べた経済についてのガイドラインは,その基本原理を変 化する工業的生活事実に適用する際に用心深くありさえすれば,技術発展の進んだ段階 においても,民主主義の繁栄する方法を用意している。

国家は,労働力のみをもって生産に参加し,収入を稼ぐ過少生産者の資本による生産 力および収入力を大きくするため,その守護者的・監督者的機能を積極的に果さねばな らない。国家は,余りにも多くの資本生産力を求める人々による資本所有の不毛化およ び不健全化を禁止しなければならない。この

2

つの責任は異なる側面から見た同一の機

(27) 

能である。

セーの法則によれば,生産への参加者にその生産への投入のため支払われた費用の総 計は生産への全参加者によって受取られた個人収入に等しい。全参加者に分配される収 入の総計は,自由市場機構によって,その期間中に生産された財貨とサービスの市場価 値に等しくなるよう,自動的に調整される。

1

図は,自由市場経済がある種の複式簿記に基づいて機能している, ということも 明らかにしている。生産された財貨とサービスの市場価値の総計は帳簿の左側での国民 総生産になり,生産の参加者にその生産への投入に対してなされた支払は右側での消費 者収入の総計になる。生産された財貨とサービスのすべての価値が生産者に個人収入と

して分配される。市場過程によって分配された購買力は,もし消費のため用いられるな らば,現在の市場価格で産出高全体を購入するのに十分である。その期間中生産に参加

(28) 

しない消費者は経済的な収入の分配に参加しない。

②  工業化とセーの法則

セーの法則によれば,不況,恐慌および景気後退として知られる様々な現象は生じえ ない,はずである。しかし,それらは産業革命の発端から生じてきたし,ますます深刻 になってきた。セーの法則は伝統的な経済学者には謎にとどまった。なぜならば,彼ら は,個人が生産に参加し収入を得る唯一の方法は労働である,との誤った想定の下にそ れを解釈しようとした。

各人が供給と需要の両面において役割を演じており,各人による資本財の獲得と所有 は政府の介入と規制に服する,ということが理解されたときにのみ,工業社会にとって のセーの法則の意味が明らかとなる。工業社会では,(株式所有その他の)私的に所有さ れた資本によって生産に参加し収入を稼ぐ人々は正当に生産に従事している。彼らは資

(12)

米国従業員持株制度の理論と政策ールイス・オー・ケルソーより一(2)(市川)

2

図 労働作業と資本作業の両方を認識

(29) 

するため修正されたセーの法則

消費者の生産への投入 消費者の受取った消費可能な収入

同 量

労働作業者,

資本作業者または

生産への投人から 人の生産への年間の投入 各人に生じる年間の収人

本作業者

( c a p i t a lw o r k e r s )

である(第

2

図参照)。

2

図を理解するために,仮に

1

5 , 0 0 0

万ドル以上の資本資産をもつ個人生産者がい るとしよう。消費財の購入や住居費に用いられない資本収入部分はより多くの収入を得 るため投資されるであろう。この

1

5 , 0 0 0

万ドルの投資は税引後年間

1 , 0 0 0

万ドルの収 入を生じるとしよう。生産者とその所帯は毎年その金額に相当する財貨とサービスを消 費するであろうか。そんなことはまず不可能であろう。その家族は,

1 0 0

万ドルも使えば,

本当にぜいたくな生活ができるであろう。その残りはほぼ確実に生産的な資本に投資さ れるであろう。これは消費財とサービスの支払に用いられない超過資本収入をより一層 多くするであろう。そのような超過収入は,かくして生産と消費の循環市場に戻されな いのであって,不毛化する。それはより多くの生産財を獲得するためにのみ用いられる ことができる。資本手段が財貨とサービスの生産手段であることに気付くならば,富の

(30) 

集中は全く新しい光の中に現われる。

工業化によって生産はますます資本集約的となり,ますます労働集約的でなくなるこ とを認識しながら,先の

2

つの図によって示された命題を要約してみよう。

・個人は市場経済では生産に従事することによってのみ収入を稼ぐことができる。そ の収入は,市場のプロセスにより,各々が生産に投入したものの市場価値に比例す

る。

8‑4  ‑ ‑ 6 2 5  

(香法

' 8 9 ) ‑ 1 2 ‑

(13)

• 生産への参加者が,超過生産力(通常,超過資本蓄積である)によって,彼が消費 するよりもより多くの収入を稼ぐならば,彼は必然的に彼の隣人をものもらいにす る。

• 生産されるもののみが消費できる。

• 生産する者は稼ぐ者である。しかし彼は彼の生産への投入に比例してのみ稼ぐこと ができる。

・市場経済の経済的繁栄を維持するためには,稼ぐ者および彼に依存する者が現在稼 いだ収入を現在の消費に向けることが必要である。

• かくして,市場経済が生産への参加者に彼の消費を支えるため自動的に分配する収 入は,収入を消費のため用いるつもりもなく,正当に用いることもできない,人々

(31) 

の所有する資本生産力の不毛化によって,減じられるだろう。

③  病的資本

(MorbidC a p i t a l )  

市場経済における複式簿記の論理が,ある与えられた期間について,生産への各々の 参加者によって生産された財貨とサービスの市場価値と,生産過程から彼らに支払われ る収入とを等しくする。したがって,消費に用いられるものを超過する収入は,その超 過の理由がどのようなものであれ,資本生産力を追加するためにのみ用いられることが できるし,用いられるであろう。その追加された資本生産力はさらにより一層の超過収 入を生産するであろう。その超過収入はさらにより一層超過する資本生産力を獲得する ため用いられるであろう。この繰り返しは無限に続くであろう。そのような超過生産力 は病的資本と名づけられる。なぜならば,その性質が,ガン細胞のように,その付着す る有機体との共生関係なしに,成長する。

病的資本は,英国の財産についてのコモン・ローにはっきり示されている事柄をわか りやすく表したものである。その事柄は

1 7 8 9

年の米国憲法の採用によって米国の財産に ついてのコモン・ローの一部となった。それは人がその所有物に関して有する権利に対 する

2

つの制限に関係する。特に,私有財産の所有者は, (1)その財産を他者の財産また は人格を害するように用いてはならない,または(2)その財産を公益ないし公共の福祉を

(32) 

害するように用いてはならない。

病的資本はその所有者に利益とならない。彼はそれが稼いだものを消費できないし,

消費しないであろう。さらに言えば,それは他者から資本作業者として収入を増やす機 会を奪うことによってその者をものもらいにする。病的資本は公益に反する。なぜなら

ば,それは,生産の過少な者や生産のない者に援助するため,税金その他の立法的手段 や労働組合的手段による,収入の再分配を強制する。その結果は社会的な闘争,個人的 な災難と零落,自由の侵食であり, とどのつまりは無政府状態であるが, これは全体主

七 〇

(14)

米国従業員持株制度の理論と政策ールイス・オー・ケルソーより一(2)(市川)

義国家をもたらす。

超過生産力の蓄積には,現在または将来の消費に関係する動機の外に,別の動機があ る。そのうち最も強制的なものは,経済的崩壊のおそれであり,不安定な,ー要素市場 経 済

( o n ef a c t o r  market e c o n o m i e s )

においては常に存する危険である。その動機と

(33) 

しては,貪欲や権力欲もありうる。

個人への慈善的な再分配を行うために過剰に稼ぐことは,民主主義の理念と個人の自 立という目的に,社会の一部の者でなく全員のための生命,自由および経済的幸福追求 の権利という目的に矛盾する。福祉,私的な慈善,無益な公共事業による厘用その他の 再分配の方法は,一時的な政治的便法または急場の便法としては必要でありうるかもし れない。しかし,いやしくも民主資本主義の目的が達成されたとすれば,慈善その他の

(34) 

再分配方式はもはや必要とされないであろう。

民主資本主義

①  目的

「資本主義」という用語は,今日,慣用的なものであれ,理論的なものであれ,何らか の経済制度についての正確な情報を与えるものでない。我々にその言葉を与えた初期の 工業制度から引き出されえたであろうような,

1

つの真実の,実りある推論はそれから 引き出されなかった。無生命のものが,生命あるものと同じ意味において富を生産する,

したがって経済的な世界では,無生命のものが生産に関して人の労役にとって代ること ができる,という考えは,それから決して引き出されなかった。政治経済史を通じて一 貫してそうであったように,経済的思考が,工業化後のすべての現実を,生産の

2

要素 のうちの

1

つつまり人の労働という用語においてのみ,解釈するという,工業化前の思 考方法によって支配されている限り,そのような考えはそれから引き出されえなかった。

(35) 

ー要素経済思想は主な生産手段が非人間的なものである現実世界を説明できない。

民主資本主義は「少数者の手への資本の集中」または「富のそのような集中を促進す る制度」を決して擁護するものではない。これらは,発展途上国の工業化を阻止し,西 側工業経済が自らの産出物を消費するのを妨げている,歴史的な階級資本主義の辞書的 定義である。民主資本主義は,生産手段の私的所有と有効な競争市場の両方が自由で,

一般的に豊かでかつレジャーのある工業経済にとって必須のものである,と主張する。

私的所有と自由市場は歴史的な階級資本主義の教義でもある。だが民主資本主義の概念

は生産手段の単なる私的所有,または単なる自由企業では満足しない。それは「誰の私 的所有か,誰の自由企業か」を問う。それは「国家の富」を問題とするだけでは満足せ ず,国家の内部の個々人の個人的富も問題とする。経済への生産的投入が主として非人 間的な要素によってなされ,私有財産の分配原理が貫徹しているとすればそうであらね

8‑4‑623 

(香法

' 8 9 ) ‑14 ‑

(15)

ばならないように,生産から取り出す収入が生産への投入に基づく場合には,資本所有

(36) 

の普遍性

( u n i v e r s a l i t y )

の問題が最も重要となる。

工業経済では,富の大部分は,工業化前の諸条件の下でのように人の労働によってで はなく,資本手段によって生産されているが,民主資本主義の理論はその工業経済に調 和と正しい論理を導入する。その経済目的はあらゆる家族が最高度の豊さ(人にとって 有益な財貨とサービス)を生産し享受することであり,かつこれを経済的資源や生産力 の最適利用および人々の消費欲望と両立させることである。民主資本主義の政治目的は,

個々人の最大限の自立,公職の保有者が行使する政治権力と市民が保有する経済権力と

(37) 

の分離,および私的に所有された経済権力の広い分散である。

民主資本主義の究極目的は経済的正義と自由の確立を超えて,すべての人々がその生 涯の大部分においてレジャーを享受することである。かくしてそれは,初期の労働制経 済が誰に対してもなすことのできなかったこと,そして奴隷制を基礎とする文明化され た労働制経済が少数の者に対してのみなすことに成功したことをすべての者に対してな すことを目的とする。進歩した工業生産の下では,奴隷を機械に置き換えることによっ て,過去の奴隷制社会が少数の者にのみなしたことを国家資本主義と混合資本主義はす べての者になすことができる。しかし富の生産と分配における資本と労働の関係につい ての基本的な誤りと混同のゆえに,両者はこの結果を明瞭かつ一貫した目的としていな い。むしろ両者はしばしば反対の方向に向きがちである。民主資本主義のみが,その原 理の健全さと一貫性によって,人間的に正しい結果を,すべての人々にとっての良き生

(38) 

活を目的とする。

②  前提

民主資本主義の理論は,労働ではなく資本が自由な工業社会において本当の豊かさを 可能にする唯一の源であるということを最重要な前提としているが,その他にもいくつ

(39) 

かの仮定をもっている。

(1)  経済的仮定

a  大量生産は大量消費を伴う。財貨とサービスを生産する工業力を作り出すために は,その産出高を消費する家族や個人のそれに見合う経済力を作り出さなければならな

し)

数百万の家族が明らかに貧困であり,残りの大多数が物理的に実現可能である水 準よりもかなり低い水準で生活している所において,一般的な豊かさを実現するには,

米国やカナダのような発展した工業経済においてさえも,米国やたいていの西側経済諸 国において現在達成されている

3.5%

ないし

4 %

の経済成長率の数倍の成長率が必要で あろう。その成長は,消費者に有益な財貨とサービスを生産する経済力の真の増加を表

六 八

(16)

米国従業員持株制度の理論と政策ールイス・オー・ケルソーより一(2)(市川)

すものでなければならず,その成長は余分な軍需品,宇宙用機器,超音速の旅客機(人 口の

90%

が貧しすぎて現在の亜音速のジェット航空機を利用できない時に)等々のよう な,人為的に作られた仕事の増加を表すものであってはならない。消費者に有益な財貨

とサービスの産出高を増加しないが,しかし購買力を追加したり,現存の経済における 生産から生じる購買力を再分配する手段は,あらゆる者にとっての本当の豊かさを実現

(40) 

するため必要な大量の新資本を形成できない。

c  市場経済における生産と消費は自然に等しくなる。これはセーの法則の意味する ところであり,それによれば,市場経済においては,生産された富の市場価値総計が生 産過程によって作り出された購買力総計に等しい。問題は,あらゆる所帯が経済に対し 生存可能な生産的投入を行い,これによって自動的にその生産への貢献に等しい購買力

(41) 

を受取るような方法において生産を構築することである。

(2)  倫理的仮定

民主資本主義の理論は人の性質についての次のような仮定に基づいている。すなわち,

す べ て の 人 は 彼 お よ び 彼 の 家 族 が 消 費 し 享 受 す る こ と を 望 む 富 を 生 産 す る こ と を 欲 す る。誰も自己の生活を他人の恣意にゆだねることを望まない。誰もが施しを受けるのを 嫌がる。誰もが寄生者を軽べつする。これらの人間的な感情は普遍的であると思われる。

これらは平和にかつ互いに尊敬して共に生きることを望むすべての人々の社会的倫理で

此 。

(3)  良き社会についての仮定

民主資本主義の理論は良き社会について

2

つのことを仮定している。その

1

つは,社 会の最も重要な価値は自由である,ということである。自由についてまじめに考慮する

あらゆる社会は,経済権力を個々の市民の手にゆだねながらもこれを広く分散するよう に,その経済制度を構築しなければならない。大多数の経済的な良好状態が適度に確保 されない限り,産業民主主義における自由は長続きしない。歴史上,普通選挙権は決し て健全な経済的土台の上に建設されることがなかった。民主制度の悪名高いもろさは,

この欠点に起因するのであって,通常の人々が自由に対処する能力を欠いているからで

(43) 

はない。

2

に,民主資本主義の理論は文明化した社会の豊かさの定義にとってレジャーが本 質的であるということを仮定している。知性ある人が誰でも個人的には避けるところの

もの,つまり生活財のための不必要な労役を集団的には尊重することは,人間的な感覚 ではない。今日,西側の工業社会において,技術が解放を提供している歴史的なまさに その時において,生活全体に労役を提案する全体主義的な主張を見る。ドイツ人の哲学 者ジョセフ・ピーパーが理解しているように,全体主義的労役国家は多数の者が無資産

8‑4  ‑621 

(香法

' 8 9 ) ‑16‑

(17)

(44) 

で あ る こ と に 起 因 す る 。 も し 分 配 制 度 が 多 数 の 者 に , 真 実 の も の で あ れ 偽 り の も の で あ

(45) 

れ , 労 役 を 運 命 づ け て い る な ら ば , 自 由 と 同 じ く レ ジ ャ ー も 工 業 社 会 に 存 続 で き な い 。

③ 

3

原 理 (1) 序

民 主 資 本 主 義 の 理 論 は

3

原 理 か ら な る 。 す な わ ち , 財 産 の 原 理 , 参 加 の 原 理 お よ び 制 限 の 原 理 で あ る 。 別 々 に 考 え た の で は , そ れ ぞ れ の 原 理 は 無 意 味 で あ る 。 実 践 に お い て 3原 理 す べ て が 同 時 に か つ 平 等 に 認 め ら れ た 場 合 に の み , 民 主 資 本 主 義 は 存 在 す る と 言 えるし,経済的正義が行われていると言える。

3

原 理 は 民 主 資 本 主 義 と い う 鼎 の

3

本 足 である。

1

つ の 足 が 欠 け て も , そ の 建 物 は 倒 れ る 。 も し

1

つ の 足 が 他 の

2

つ の 足 と 関 係 な し に 伸 び た り 縮 ん だ り す れ ば , そ の 建 物 は バ ラ ン ス を 失 っ て ひ っ く り 逗 誓 。

(2)  財 産 の 原 理

自 ら の 労 働 力 で あ れ 資 本 手 段 で あ れ , 既 に 何 ら か の 財 産 を 所 有 す る 人 は 追 加 的 な 財 産 を ど う よ う に し て 正 当 に 取 得 で き る の で あ ろ う か 。 こ の 問 題 は , 財 産 の 追 加 取 得 を 正 当 化できるのは財産のみであって, も し 人 が 全 く 財 産 を も た な い と す れ ば , す な わ ち も し 彼 が 彼 の 自 然 権 に 反 し て 先 天 的 財 産 で あ る 労 働 力 を 奪 わ れ た 奴 隷 で あ る と す れ ば , 彼 は 先 天 的 財 産 の 回 復 を 正 当 に 要 求 で き る が , そ れ が 回 復 さ れ る ま で , 彼 は 追 加 的 財 産 を 正

当に取得できない, ということを前提としている。

そ の 基 礎 に あ る 命 題 は

2

面 的 で あ る 。 一 方 で は , 人 が 特 定 の 富 の 生 産 要 素 に 財 産 権 を 有 し な い 場 合 , 彼 は 生 産 さ れ た 富 に 対 し て 財 産 権 を 要 求 す る 正 当 な 土 台 を 有 し え な い 。 他 方 で は , 人 が 特 定 の 富 を 生 産 す る の に 必 要 な す べ て の 生 産 手 段 を 財 産 と し て 所 有 す る

(47) 

場 合 , 彼 は 生 産 さ れ た 富 の す べ て に 対 し て 正 当 に 財 産 権 を 要 求 で き る 。

こ の こ と か ら 次 の こ と が 生 じ る 。 も し 複 数 の 人 々 が 富 の 生 産 に お い て 各 々 の 財 産 を 共 同 し て 使 用 す る と す れ ば , 生 産 さ れ た 富 全 体 の 分 配 に お け る 各 人 の 分 け 前 は そ の 富 の 生 産 に お い て 各 人 の 財 産 の 使 用 に よ っ て 各 人 が し た 貢 献 に 比 例 す る 場 合 に 正 当 で あ る 。 人 が 独 立 の 貢 献 者 と し て 富 の 生 産 に 参 加 で き る の は 彼 の 生 産 的 財 産 つ ま り 彼 の 資 本 手 段 ま た は 彼 の 労 働 力 に よ っ て の み で あ る 。 奴 隷 は そ の 労 働 力 が 主 人 に よ っ て 所 有 さ れ 使 用 さ れ る の で 独 立 の 貢 献 者 で な い 。 し た が っ て 奴 隷 は , 正 義 を 厳 格 に 貫 ぬ く と , 生 産 さ れ た

(48) 

富の分配に何の分け前も要求できない。

2

つの仮定例を用いてこの基本事項を説明しよう。

1  . 

ロ ビ ン ソ ン ・ ク ル ー ソ ー の 経 済 を 想 定 し よ う 。 そ し て ま ず , ま だ フ ラ イ デ ィ は 出 現 し て い な い が , ク ル ー ソ ー が 既 に 島 を 所 有 し , 若 干 の 飼 い な ら さ れ た 動 物 や 案 出 さ れ た い く つ か の 道 具 等 も 所 有 し て い る 状 態 を 想 定 し よ う 。 ク ル ー ソ ー の 生 産 す る 追 加 的 な 富 の す べ て は 彼 自 身 の 資 本 と 労 働 力 の 生 産 的 使 用 か ら 生 じ る 。 ク ル ー ソ ー の 産 出 物 の 一

六 六

(18)

米国従業員持株制度の理論と政策ールイス・オー・ケルソーより一(2)(市川)

六 五

部は追加的な資本財であり,残りは消費財であるだろう。そのすべては誰に属すべきか。

誰もが一瞬のためらいもなく正しい答えつまりクルーソーに与えよと答えるであろう。

人は彼自身が生産する富のすべてに対して正当に権利を取得する。

2 .  

次に同じ島の経済であるが,

2

つの要素が追加されて複雑になった状態を想定し よう。

1

つはフライディであり,彼はクルーソーの奴隷であるとしよう。もう

1

つの要 素は別の人であり,彼はスミスという名をもち,クルーソーの奴隷ではないとしよう。

クルーソーが島とそこにあるすべての資本財および利用可能な奴隷を所有しているの で,スミスは交渉の後クルーソーと約束する。それによってスミスは自らの労働力を拠 出することによって富の生産に参加し,生産された富の分配においていくらかの分け前 を受取ることが合意される。

スミスが富の生産に参加できる唯一の方法は彼所有の唯一の財産すなわち彼自身の労 働力を用いることであるという点が注意されねばならない。労働力の拠出のみがつまり 富の生産へのスミスの参加が生産された富の分配において分け前をスミスが正当に要求 できる土台である。

クルーソー所有の人つまりフラィディや彼所有のヤギ,犬,道具,土地等のすべてが 多かれ少なかれ富の生産に積極的に参加する。しかしこれらの参加はこれらの側での所 有財産を含んでいないので,それはこれらが生産された冨の分配における分け前を要求

(49) 

する土台にならない。

クルーソーは彼の犬,彼のヤギおよびフライディを拠出する。これらはクルーソーの 財産として生産に参加し,独立に参加するのでないので,これらが生産した富のすべて を,クルーソーは自分のものとして正当に要求できるc しかし,スミスがクルーソーに よって使用されるクルーソーの財産としてでなく,スミス自身の労働力の自主的な使用 によって独立に生産に参加しているので,スミスは,フラィディとは異なって,分配に おいて分け前を要求する権利を有する。

ではスミスの正当な分け前はどれほどか。先の仮定例において,スミスの生産全体へ の拠出の価値が拠出全体の

1 0

分の

1

であり,他の

1 0

分の

9

はクルーソー所有の労働と資 本(つまり彼所有のすべての種類の生産的財産)によって拠出されている,と想定しよ

う。このような想定の下では,分配におけるスミスの分け前が全体の

1 0

分の

1

であるべ きことが疑われえようか。もし人が自ら生産した富のすべてに対し正当に権利を有する ということが明白であるとすれば,数人が協力して富を生産した場合,各人は問題の富 の生産への各々の拠出の価値に比例する分配上の分け前に正当な権利を有する,という

(50) 

ことも同じく明白でなかろうか。

上述の仮定例は各々の所有する生産的財産つまり資本または労働力ないしその両方の

8 ‑4  ‑619 

(香法

' 8 9 ) ‑ 1 8   ‑

(19)

使用によって生産に参加した人々に対する富の分配についての正義の原理を例示する。

これらの例は,各々か独立の参加者である場合に生産された寮全体の分配上の分け前を 受取る権利を有する, ということを具体的に小している。またこれらの例は,各々の場 合に分配

L

の分け前が

1 E ' 1 i

であるためには,各人かその所有する財産の使用によって喜 の牛産に向けてなした拠出に分け前が厳密に比例しなければならなし\, ということも具

l:ill 

体的に小してし\る。

これは,生産された崖の分配が軍の生産に使用された財産権に依拠して正当であるこ と(})できる唯•の原罪てある。さらにし[えば,それは,生産要素を財産として所有する 権利を是認する唯→ (})分配原理である。なぜならば,そのような財産の本質は,所有す

(52) 

る牛J辛要素が生坪する窟の部分(または比例的な分け前)を受取る所有者の権利にある。

牛産財である財産において最も屯要なものは,資本によってであれ自らの労働力によ

(53) 

ってであれ,所有するものによって生み出されたすべてのものを受取る権利である。し たがってケルソーによれば,財産は富の生産に参加する手段であると共に生産された富 の分配(/)某準でもある。つまり財産の!原理は同時に分配の原理でもある。また財産は基 本的なかつ奪取不可能な人権である。それは経済的正義と経済的参加の礎石

( k e y s t o n e )

(54) 

であり,かくしてそれは民

t

資本

t

0)概念に本質的なものである。

生産への各々独立の参加者は彼が生産した富を正当に受取る権利を有する。富の生産 に参加する人々の間では,各々は各人がその富の生産になした貢献の価値に比例する分

(55) 

け前を受取るべきである。この原理を適用するためには,各々独立の参加者が生産にお いてなした貢献の経済的価値を評価できなければならない。その経済的価値は,どのよ うにすれば,公平かつ客観的に,そして自由社会の諸制度と両立する方法において,決 定できるか。もっとはっきり言えば,

A, B,  C

という

3

要素によってなされた生産へ の貞献の価値を評価するものは何か。それを基準としてそのような生産要素の所有者に 生産された富全体の比例的分け前を受取る権利を与るものは何か。その答えは,ケルソ

(56) 

ーによれば,自由競争である。

財貨とサービスの交換価値は,その性質そのものからして,意見の問題

( am a t t e r  o f   o p i n i o n )

である。自由かつ有効な競争が存在する場合にのみ,交換されるものに付され た価値は,すべてのもしくは少なくとも多くの潜在的な買手と売手の意見の自由な作用 を反映する。価値を決定する他のすべての方法は,価値についての恣意的な意見の強要 を含むに違いない。その意見は

1

人の意見であることもあれば複数の人の意見のことも あり,組織された集団の意見であることもある。そして恣意的な意見による価値の決定 が効力を有するためには力によって強制されねばならない。

異質な商品の交換にさいして正義を達成するために価値の同等性を測定する唯一の正

六 四

参照

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