知って行う者たちの幸い――ヨハネ13: 1‑20の釈義 的研究――
著者 原口 尚彰
雑誌名 教会と神学
号 49
ページ 67‑101
発行年 2009‑11‑30
URL http://id.nii.ac.jp/1204/00024324/
1
知って行う者たちの幸い:
ヨハネ13: 1−20の釈義的研究
原u尚彰
はじめに
私がこの箇所の釈義的研究を思い立った直接のきっかけは,新約聖 書におけるマカリズム(幸いの宣言)研究の一環として, ヨハネによ る福音書に出て来るマカリズムの特色について考察する必要が生じた ことである。第4福音書においてマカリズムは後半の2箇所(ヨハ13:
17; 20: 29) に出て来ており,前者はイエスの洗足行為を伝える章節 の中に置かれている。 このマカリズムに込められた正確な意味を読み 取るために, そこに描かれているイエスが弟子たちの足を洗った行為 の意味を釈義的に明らかにすることが必要となったのである。
従来の研究の多くは, この章節の中にイエスの洗足行為にイエスの 自己犠牲的死の予表と解する部分と(13: 6‑11)シ弟子たちに対する模 範としての勧告的意味付けを見る部分(13: 12 17) とを区別し,前者 の方により深い意味があるとしてきた'。特に,一部の解釈者はイエス
」R. Bultmann,""a'""gL""畑〃 ルノイノル""""(KFK4; 10.Aun. jGcttin gen:Valldenh()cck&Ruprecht, 1941) 351 365;C.H.Dodd, 1ソIEIカメヒノか芯/""(〕〃
(」/〃『()戯"〃"IG)sPcI (Cambridge:CambridgeUniversityPress」953) 401 402;M.E.BoiSmard, "Lelavementdespieds, '' ノWg71 (1964) 5−24;G・Rich lefD/EFW"""f・ル""g/"7ルノノrα"" Jgf""j〃 (Regensburgz lJustet, 1967) 293294 ; R,EBrown, 7ソノ['GOsjj(3/ fr[]α"tz//"gわん〃J (2vols;GardellCity:
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の洗足行為にサクラメントを示唆するとすらしている2.しかし,テキ スト自身に本当にそのような二重の意味付けが存在するのかどうかが 問題であり, そのことは釈義的に検証されなければならない。
1. 私 訳
!:'過越の祭りの前にイエスはこの世より父のもとへ移る時が来たこ とを知り,世にある自分の者たちを愛し,最後まで愛し通した。
2食事になった時, シモンの子イスカリオテのユダが彼(イエス)を 引き渡すようにと,悪魔がその心に入っていたのだが, 3父がすべてを 自分に与え,神からやって来て神のもとへ赴くのだということを知っ て, 副食事(の席)から立ち上がり,服を脱いで, タオルを腰に巻く。 5そ れから,水をたらいに注いで弟子たちの足を洗って,腰に巻いていた DullbleDay, 1968‑69) 2. 548572;ID.GI)uI''L #:TheWashing(]fthcDisci plegFeet inlohn l3」20, '' ZNII' 61 (197{)) 247252:C.K. Barrett, 7ソ"
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ん〃"""""""g(J"r"〃 (4Bde;F1・eiburg: llerder」96485) 3632;D.A. Car s(m,71/i(/C(]SI)f/"、"ノT//"gルルル〃 (GrandRapids:Eerdmans, 1991) 458472;
J. C. Thumas. JTbi)/i"ざ/""且 ノ〃ん/"z /3"" 〃IEJ ICAα""〃IcC,"""""〃1 (JSNTSL1p61 : ShC価eld: JSOT, 1991) 8788;HRidderbDs, T/J['GDSpc/ q/
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〃〔,s f"狸f/""〃 (2Bde; Sstuttgart :K()hlhammer, 2001) 2.86 1(10IH.Thyen D(淵ノ。〃""" (: "gど"""J (HbNTl6;Tiibingerl :MohrSiebeck, 2005) 583 596を参照。
2HvonCflmpenhausen"ZurAL1slegungvD]1johl3,6‑10、 ' 'ZjVII'' 33 (1934) 25927]はイエスの洗足行為を洗礼の象徴と解し, J.AT.RDbinson, "The Significanceof theFr)otWashinR、 ' ! inN"/"/""""""c/Rrかた""(FSO Cullmann; edIMC.vanUnnik; Leiden:Briil, 1962) 143 147は聖餐を象徴す るとしている。
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知って行う者たちの幸い: ヨハネ13: 1 20の釈義的研究 3
タオルで拭き取り始めた。
6シモン・ペトロのところにまで来ると,彼はイエスに, 「主よ,あな たが私の足を洗うのですか?」と言った。 アイエスは答えてシ 「私がして いることをあなたは今は分からないが,これらの後に知るであろう」と 言った。 sペトロは彼に, 「私の足を永遠に決して洗わないで下さい」と 言った。イエスは彼に答えて, 「もし,私があなたを洗わなければ,あ なたは私のもとに居場所を持たなくなる」 と言った。 9シモン・ペトロ は, 「主よ,私の足だけでなく,手も顔も洗って ドさい」 と言った。
!'イエスは彼に, 「体を洗った者は[足以外を]洗って貰う必要がな い。全身は清いのだ。あなた方は清いのだが,全員が渭いのではない」
と言った。 」 !彼を引き渡す者を知っていたのだった。それだから, 「全 員が清いのではない」 と言ったのだった。
12しかし, イエスは彼らの足を洗って,服を身にまとい,再び横た わって(席に着いて), 「私があなた方に対して行ったことが分かる か? 】3あなた方は私を先生とも主とも呼ぶが, そう言うのは正しい。
その通りなのだから。 ・I主であり,先生である私が, あなた方の足を 洗ったのだから,あなた方は互いの足を洗い合いなさい。 15私がしたよ うにあなた方もするようにと,私は模範を示したのだ。 」6アーメン,
アーメン,私はあなた方へ言う。僕が主人に優ることはなく,使者が 遣わした者に優ることはない。 17幸いである,これらのことを知って行
う者は。
!g私はあなた方すべての者について言っている訳ではない。誰を選 んだのか私は知っている。しかし,「私のパンを食べる者が,私に向かっ て踵を上げた」という聖書が成就するためなのだ。 19今より,私はその
−69
事が起こる前にあなた方に言うが, それは起こった時に私であると信 じるためである。 20アーメン,アーメン,あなた方に言う。私が遣わす 者を受け入れる者は私を受け入れ,私を受け入れる者は私を遣わした 方を受け入れるのである。
2. 文脈・構成・文学類型
1) 文脈
福音書の後半部(13: 1‑21 : 25)の冒頭にこの洗足の物語(17: 1 20)は位置している。物語の前半(1 : 1 16: 33)では神の子イエスの
この世への到来(1 : 911, 14a) とその栄光の啓示が(1 : 14b, 18; 2 II)主題であったが,後半部では, イエスがこの世を去り,天の父の もとへ帰還する主題が中心となる(13: 1 1 16: 28; 17: l)。 この物語 が置かれているヨハ13: 1 17: 26はイエスが弟子たちと共にした最 後の晩餐の場面であり, イエスが弟子たちの足を洗う行為の描写(13:
120) とイエスを引き渡す手引きをすることになるイスカリオテのユ ダについての記述(13: 2130)とイエスが弟子たちに与えた告別の説 教(13: 31‑16: 33)と世に残される弟子たちの守りと一致を祈る大祭 司の祈り (17§ 1 26)から構成されている。 この場面では,迫り来る イエスの死と弟子たちとの別れのテーマが前面に出て来ており,終始 悲劇的な雰囲気が漆っている。
2) 構成
13: 1 世を去る時の到来とイエスの愛
7()−
知ってi丁う者たちの幸い: ヨハネ13: 1 2(lの釈義的研究 5
13: 2 11 洗足行為
13: 25準備と洗足行為の開始
v.2 イスカリオテのユダの心に悪魔が入る v.3 この世を去る時の到来の認識
v、4晩餐の席から立ち,着衣を脱いでタオルを巻く v.5盟に水を入れ,弟子たちの足を洗い始める 13: 6 11 シモン・ペトロとの対話
v.6ペトロの問い
v.7 イエスの答え:今は洗疋行為の意味を弟子たちは分から
ない
v.8aペトロの願い写自分の足を洗わないでくれ
v.8b イエスの答え:足を洗って貰わなければイエスとの関わ りがなくなる
v.9ペトロの願い:足だけでなく,手も顔も洗って欲しい v.10 イエスの答え尋弟子たちは既に体全体が清くなっている
から, その必要はない。
v.ll 注釈:すべての者が清い訳では言ったのは,引き渡す者 のことである
13: 1220弟子たちへの講話
13: 1217洗足行為の意味についての講話 v 12洗足行為の完了とその意味への問い v.13 イエスを先生,主と呼ぶ
v.1415模範に倣って足を洗い合う義務
v.16 アーメン章句:僕は主人に優ることはなく,使者は造わ
−71−
した者に優らない
v.17 マカリズム(幸いの宣言) :理解して実践する者の幸い 13: 182() イエスの死の予告と聖書の成就
v.18弟子たちの選びと聖書の成就 v、19予告する意味§信じるため
v.2() アーメン章句弓遣わされた者を受け入れる意味
3) 文学類型
様式史的な視点からすれば, この物語はイエスの洗足行為と対話を 叙述する部分(13: 1 11) とその意義に関すると講話(13: 12 17) と 死の予告(13: 182())からなるアポフテグマに属する。アポフテグマ は, イエスの行動と言葉が結合した文学形式であり,共観福音書にも (マタ9: 1 8, 9 13; 12: 1 8;マコ2: 1‑12, 13‑17 23‑28; 7: l‑15;
ルカ5: 1726,2732; 6: 1 5; 19: 1‑10他), ヨハネによる福音書に も (ヨハ5: 1‑47; 9: 1 41)見られる。
4. 資料と編集
この部分の根底には, イエスの洗足行為と (13: 45), その意味に 関する伝承があり (13: 12‑17), これを著者はイエスが世を去り,父 のもとに帰還する物語的文脈に結び付け(13: 1,3)3.その時に, イエ スとベトロとの会話や(13: 6‑10), イスカリオテのユダの喪切りを予
これに対して, Richter, 31#1 316: Segovia、 4851はヨハ13: 12‑17の力を後 の校i汀者の手に帰している。
7 )ロ− ‐
知ってi]:3:蒋たらしノ)ミ'稗い: ヨハネ13: 1 2()の釈炎的研究
弓 f P J
告する編柴部分が(13: 2, 1L18‑19)付け加えられた4. さらに後の校 訂者によって,宣教背の派遣に関するアーメン章句(13: 16,20)が付 け加えられたと考えられる5.
こうした複雑な形成過程を経た結果,現在の物語は, イエスの死と 弟子たちとの別れが迫る基本的設定のもとに(13: 1), イエスが弟子 の足を洗って模範を示す中心的主題を(13: 2 17),悪魔がイスカリオ テのユダの心を動かして裏切り行為に向かわせる主題が囲み(13: 2, 11, 18 19), さらには,宣教者の派遣と受容の意義を説く部分(13: 16, 20)がちりばめられる形にな‑〕ている。
5. 解 釈
13: 1 世を去る時の至│」来とイエスの愛
1節 「過越の祭りの前」という記述は,巡礼祭の一つである過越の 祭り(レビ23: 4‑8)を前にして, イエスー行が巡礼としてエルサレム へ上って来ているということを含意しており,ヨハ13: 1 17: 26全体 の場面設定を与えているc・ヨハネによる福音書はユタ.ヤ教の祭りの祭 にイエスがエルサレムに上る姿を多く伝えている (2: 23; 4: 45; 5:
1 ; 7: 14 ; 12: 12)。ヨハネによれば, イエスは神殿の庭に集まったイ スラエルの民衆に公に語るのを常としていた(7: 14,37)。 これに対し
』BLIltmann,352 ; Br()wI1,2.562を参鱸。尚, Bal・rett.436はこのエピソード全
体が, ルカ22: 27に雌づく福音非記攝の創作であるとしている。
3 これに対して, BLlllmann, 352は, この部分を街料に帰している。
, ヨハ2: 13, 23; 5: lは, イエスー行に過ぎ趣の祭りの時にエルサレムヘトる 習悩があったことをボしている。
7mIJ−
て, 13: 1‑17: 26はイエスが弟子たちだけに語り掛け(13: 1 16:
33),鹸後に父なる神に祈っている (17: 1‑26)。
13: 1 17: 26に展開されるのは,イエスが弟子たちと共にした殿後 の晩餐の時に起こった出来事であるが, この晩餐は「過越の祭りの前」
に行われている設定になっているので,共観福音審が描くような過越 の食事(マタ26: 1725;マコ14: 12‑21;ルカ22: 7 15)とはされて いない。 ヨハネの時間設定だと, イエスが十字架に架けられる日が共 観福音番の記述より一日早い過越の準備の日となり, イエスが過越の 子羊(出12: 2‑2(), 43=50; さらに, ヨハ19: 36を参照) として屠ら れ,世の罪を噸うという象徴的意味が生まれる(ヨハl : 29,36; Iベト 1 : 19を参照)7。
「この世より父のもとへと移る時が来た」という認識が,弟子たちを 愛し通したイエスがこれから行う洗足行為(13: 1−20) と告別の説教 (13: 31 16: 33) と大祭司の祈り (17: 1 26)の原動力となっている。
すべての事柄には定められた時があるというのが,旧約聖書以来の基 本認識であるが(コヘ3: 1 17),第4福音評は特に,特別な出来事が 起こる時を名詞(ljpaによって表現している (2: 4; 4 : 21, 53; 5: 25, 28; 7: 30; 12: 23,27; 16: 2,25,32; 17: 1 ; 19: 27)恩。この用法は,
共観福音書における名詞K(ILp6g (時)の用法に平行する(マタ13: 3() ; 26: 18;マゴl : 15; 13: 33;ルカ21 : 8を参照)。イエスが十字架に 掛けられてこの世を去って父なる神のもとに帰る時の到来は(13: l),
7Sclll]fl[1<Enbur9,3 15 16:Carson, $161 ;Ridderbos' 459;Wengg1, 287i 1,hVe[1, 58.1,
" f'i lil il djpaリ)i譜学的分析については, BauerAlan<1, 1787I789; (i. I)elling, 雌 , '' 7,カMW7、 11675681 ;HGiescn, 、 dj"!""IIW7、 31211 1214を参照。
−74
姉ってf」:う尚たちの幸い号 ヨハネ13; 1 211の職投的研究 9
イエスが栄光を受ける時の到来とも表現されている (12: 23; 17:
l)9.時が来なければ, イエスが受難と死に到ることはないが(7: 30;
8: 2()),時がやって来たならば,すべてはイエスの受難と復活・昇天 の出来事の成就へと向かうことになる。
「このlltより父のもとへと移る」ということは, イエスが天を離れて このil l:にやって来ており (ヨハl : 9; さらに, 3: 16; 17: 18, 21, 23 も参照),現在, 11tにあることを(1 : 10; 17: 11,113; 18: 37)前提 としている。世にあってイエスは言葉と業を通してその栄光を顕した (1 : 14; 2 : 11 ; 11 : 4; 17: 5,22,24)。 これから. イエスは「父のも とへと移る」が, それは, 「神のもとへと赴く」 (13: 6)ことに他なら ない。 ヨハネによる福音書において,神は独り子なるキリストの父と 呼ばれる(1 : 14, 184 2: 16; 3: 354 5: 17‑18)。神は世を愛する故に 御子を世に逓わしたが(3: 16‑17; 17: 18), それは御子を信じる者が 永遠の命を得るためである(特に, 3: 16bを参照)。御子は世にあって は,世を照らす光の役割を演じ (1 : 45,9; 3: 1921 ; 8: 12; 9: 5;
ll : 9‑1(1 ; 12: :16),父なる神を啓示した(1 : 18)。世の人々は一部を 除いて御子を受け入れなかったが(1 : 10 11),受け入れた者は永遠の いのちを得た (1 : 12 13)。
イエスは, 「世にある自分の者たちを愛し,最後まで愛し通した」の だが, 「世にある自分の者たち」とは, 1 : 1lにおける用法とは異なり,
先生が世を去った後にこの世に残されることになるイエスの弟子たち のことを指している(17: 11) 10。 「最後まで」とは, イエスがこの世を t'EJM()1()[1cy, 7y/(' (7"s/)['/ (1/./p/J" 亜郡/ α"イ/C(ノ"/[LY/ (Lcidcn: Bri ll 211()5) 265.
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去る最後の時までということで, イエスと弟子たちとの別離の主題が 前面に出て来る。 ヨハネによる福音書において,神が御子イエスを愛 したように, イエスが弟子たちを愛し (15: 9),先生であるイエスが 弟子たちを愛したので,弟子たちは互いに愛し合うように命じられる
ことになる (13: 34; 14: 15; 15: 12, 17)。
13: 211洗足行為
2節「食事になった時」とは,後の物語の展開からすると,夕刻で あり (13: 30を参照), この食事は晩餐である。 この句は内容的には,
2節後半よりも次に来る3節の方に上手く接続するので, イスカリオ テのユダの心に悪魔が入ったことを告げる2節後半は語り手が差し挟 んだ注釈のような機能を果たしている。シモンの子イスカリオテのユ ダとは,他のところで, 「イスカリオテのユダ」 (ヨハ12: 4)と呼ばれ るイエスの弟子と│可一人物であろう1 1.イスカリオテのユダはイエス の十二弟子の一人であり (マタ10: 4;マコ3: 19;ルカ6: 16リ ヨハ 6: 70), ヨハネによる福音書によれば, イエスー行の会計係を務めて いた(ヨハ13: 29‑30)。 このユダが,祭司長たちのところへ行き, イ エスが逮捕される手引きをすることになった(マタ26: 14, 47;マコ 14: 10, 43;ルカ22: 4748; ヨハ18; 23, 5)。イエスが選んだ十二 弟子の一人が, イエスを裏切ることになったのは大きな史的謎である が, それをルカによる福音書やヨハネによる福音書は悪魔の働きに帰
, ネストレーフーラント27版が採用している |イスカリオテのシモンの子ユダ」
(Ll'0711241他)では癒く.重要写本の多くが採用している「シモンの子イスカ リオテのユダ」 (P']f; i,:B他)の読みの方を採用する。
再J牛
/U
刷って行う荷たちの幸い号 ヨハネ13: 1 2(IU)釈舞的研究 11
しており,サタンがユダに入った結果,ユダが裏切りの行為に着手す ることになる(ルカ22: 3; ヨハ13: 27)。2節後半の注釈は, ヨハ13:
27の内容を先取りし,前もって予示している。これに対して,鮫近本 文が刊行されたグノーシス文壽のユタ'による福音書は,ユダの行為に よってイエスの十字架の死が成就したことに注目し,ユダの行為がイ エス自身の意思の実行であると解釈している12.
悪脆(6Lqp6AoE)は, この│{tに働く悪の力の人格化であり,古代世界 にあってはその実在が信じられていた。新約聖書において悪臓は,サ タンとも呼ばれ(マタ4: 10; 12: 26; 16: 23;マコl : 13; 3: 23, 26; 4: 15i 8: 33;ルカ10: 18; 1l : 18; 13: 16; 22: 3, 31 ; ヨハ 13: 27),人間を神から離反させるために唆す存在として描かれている (マタ4 : 1 , 5. 8, 11 ; 3: 39; 25: 41 ;ルカ4: 2# 3, 5, 6, 13; 8: 12;
ヨハ6: 7(1 ; 8: 44 ; 13: 2を参照)。
ヨハネによる稲音書は, イエスを官憲に引き渡す行動の背後にある ユダの心理過程に焦点を当て,悪魔がその心に入って裏切る気持ちを 起こさせたためであるとしている。 ここでユダの行動を描写するため に使用されている動詞wαpf6L6(DPLは,官憲に身柄を引き渡す行為を指 す行政用語である (ヨハ6: 64,71 ; 12: 4; 13: 11,21 ; 18: 2,5,3() ; 19: 11, 16; 21 : 2() ; Iコリ11 : 23を参照) │]。
鯉 コゾ 卜i濡与1本(チャコス写本)のファグシミリ版と校訂本と英訳が,解読ソ・−
ムにより2(11)711そに公刊されている。 R.KasscI'/GWursL7ソIE(jfJV)(/ 『リールィハハ /i狸・ノルソ抑"A〃〃Lf」//4'J# "/.P(J/[ノ' /〃〃ノ"紗,′"" . ['" /αB()"AJ "/、 」41〃"且( ノJ( 'Ai /J.「"〃
( "(/ 」IfC〃"("/〃「/"わ〃 (Washingt()nl).C. *NationalGe()gTaphic, 2{)(17) を参
旧iパロ 孔。
L' BaLlc],Ali1nd, 12 12 124 1 ;EBuchsel, ! !汀apd6L6い卜上L, '' 7ソノⅡⅣTZ、 17117・1 1 W, 1)( )1)k(&s, #'TTIp'pda6⑪山,"EIIW7, 3.4248を参照。
可ラ イ イ
3節イエスの手に神はすべてを委ねたという事実は,既にヨハ3§
35が述べている。このことは特に人間の救いと裁きについての一切を 御子の手に委ねたということであろう。御子を信じる者は永遠のいの ちを得るが,信じない者は裁きを受けることとなる(3: 36)。 「神から やって来て神のもとへ赴く」という句は, 1節が述べている, 「この世 より父のもとへ移る」ことと同じことを別の表現で言い表したもので ある。 「神のもとに赴く」ことは, この世に残される弟子たちとの別れ を意味しており, イエスは別れの前に弟子たちに最も重要な教えを行 動と言葉によって残そうとした。そのことが洗足行為の背後にある動 機である。 ここで「父」ではなく, 「神」という名詞が使用されている のは,前節の「悪魔」 と対照のためであろう14。
4−5節イエスは晩餐の席から立ち,着衣を脱いでタオルを巻き,
髄に水を入れ,弟子たちの足を洗い始めた。例えば,ギリシア・ロー マ世界においては古くから客のもてなしの一環として到着した客の足 を洗ってやる習慣があり,通常は奴隷の身分にある者がその任にあ たった(ホメロスIオデュッセイア』 19, 317, 344346, 356358, 374, 376;ヘロドトスI歴史」6.19;プルタルコス「英雄伝」 「テセウス」10;
Iモラリアj 12.249d;アテナイオス『食卓の賢人たち』9̲408他)』so古 代イスラエルにおいても,ホストが宿泊や食事のために訪れる客に,足 を洗う水を与える習慣があり (創18: 4; 19: 2; 24: 32; 43: 24;士
14Schnackenbllrg, 3.18 19
'5BKi)tti'1g"FuBwachung#'' IMC8 (1972) 743759: 'I、homas, 50‑56を参 照。
−78
知って行う者たちの幸い: ヨハネ13: 1 20の釈義的研究 13
19: 21),ユダヤ人世界ではローマ時代まで引き継がれていた(ルカ7:
44)。客の足を奴隷が洗うことはユダヤ人の問にも社会習慣として存在 した(「メキルタ・出エジプト記」21.12) '6. しかし,当時の社会習慣に 反してホストが客の足を洗ってやるということは,特別な象徴的な意 味を持つものであった。例えば,プルタルコスはペティキウスという 人物が, カエサルとの武力闘争に敗れて敗走するポンペイウスに│司情 して,足を洗ってくれる奴隷の従者を失った武将の足を洗い食事の準 備をしてやった挿話を伝える(プルタルコス「英雄伝l 「ポンペイウス」
73.67)。他方,旧約聖書のサム上25: 41は,アビガイルがダビデ王の 求婚を受けて,「わたしは御主人様の僕たちの足を洗うはしためになり ます」 と答えて,ダビデの妻になった話を伝える。同様な例は,古代 小説のIヨセフとアセナテ」 20.15において, アセナテが婚約者のヨ セフの足を洗ってやる行為にも見られる。当時の身分社会の中で奴隷 にあてがわれている仕事をするということは,相手に対する並々なら ない愛情の表現であった17.先生であるイエスが弟子たちの足を洗っ てやったことは, 「自分の者たちを愛し,最後まで愛し通した」イエス が,弟子たちに対して身を低くして仕えことを通して,彼らに対する 特別な愛情を示すことに他ならない。
多くの注解者たちは, イエスの洗足行為を自己犠牲的象徴行為と解 釈し,多くの人々のために自らのいのちを捧げることを指すと考えて いる!剛。物語的文脈の中で, イエスは既に良い羊飼いの職え(10: 11‑
'6SLBill"3. 557.
'7Ki>tting, 754 ;Thcmas, 5556、 8687を参照。
IEDodd, 401‑402; Barrett, 440;DIInn、 457462 ; I・lultgrCn, 540541 i BrDwn, 565; Schnackellburg、 32021 ;Cars[)n, 463;ThDmas, 87‑88;Thyen591 ;
ソ︺
79
18) JP,一粒の麦の嶮え(12: 23‑26)において(1() : 11‑18), 自己の 自己犠牲的死を│暗示しているし,大祭司のカヤファもそのことに言及 している(11 : 50)。 また,先に見たように, この物語が世かれている ヨハ13: 1 17: 26はイエスが弟子たちと共にした雄後の晩餐の場面 であり, イエスがこの枇を去って父なる神の下へ赴くことが冒頭に述 べられている(ヨハ13: 1 3)。イエスが弟子たちの足を洗う出来事の 描写(13: 1 2())の後には, イエスを引き渡す手引きをすることにな るイスカリオテのユダについての記述(13: 2130)とイエスが弟子た ちに与えた告別の説教(13: 31‑16: 33) と世に残される弟子たちの一 致を祈る大祭司の祈り (17: 1 26)が続いており,迫り来るイエスの 死と弟子たちとの別れのテーマが濃厚である。 しかし,足を洗う行為 そのものには死を暗示する要素はなく, イエスの十字架の死を指し示 す象徴的意味は認められない。
13: 611 シモン・ペトロとの対話
13: 611は, イエスの洗足行為の途中で交わされたイエスとシモ ン・ペトロとの対話の内容を伝えている。 ヨハネによる編音害におい て, イエスが特定の個人との間に交わす対話の中で重要な事実を明ら かにすることが多い。対話の相手は,ニコデモ(3: 1 13),サマリヤ の女性(4: 1 26), マルタ (11 : 1727), トマス (14: 5‑7; 2I) : 24‑
29), マグダラのマリア(2(} : 11 17),ペトロ (13: 6 11,3638; 21 : 15‑19)である。対話において語られるイエスの言葉の内容は ]う想外で
Wcl1gst, 2. 90,92R、八.Culppeper, 、&TheJ()hal''1i'1ellyp()deigm[l : ,ヘRerl[ling()f I()hn 1:{、 ''Sど"Ic/"53 (1991) 137‑]41
80
知ってi丁う背たちの幸い: ヨ′ 、不13: 1 21)の釈鐺的研究 15
あり,対話の相手はその場では理解できないのが通例である。
6節イエスが弟子たちの足を一人ずつ洗い,シモン・ペトロのとこ ろまでやって来た時に,ペトロは, 「主よ,あなたが私の足を洗うので すか?」 と述べる。 この問いには, イエスの洗足行為へのペトロの戸 惑いが表れている。先生が弟子たちの足を洗うことに対しては,他の 弟子たちも同様な戸惑いを抱いていたと推定されるので, ここではペ トロは弟子たち全体の反応を代表している 9.ペトロはイエスの十二 弟子の筆頭格の人物である (マタ10: 2‑4 ;マコ3: 1619;ルカ6写 13 16)20・ヨハネによる福音書でも,彼は兄弟のアンデレと共にガリラ ヤ湖畔で最初に弟子としての召しを受けた人物として描かれているが (ヨハl : 4042),ペトロの召しの出来事の詳細は共観福音吉の記述と はかなり異なっている (マタ4 : 1820;マコl : 1618;ルカ5: 1 11)。ペトロの本名はシメオンであり(使15: 14; I1ペトl : I) , その ギリシア語風の発音がシモンである (マタ4: 18;マコ1 : 16;ルカ 4: 38他)2」・ イエスは彼にアラム語でケファ(岩)という津名を付けた が(ヨハ1 : 42; Iコリ15: 5;ガラl : 18; 2: 9, 11, 14), そのギリシ ア語訳がペトロである(ヨハl : 42を参照)。 ヨハネによる福音書にお いて,ペトロはシモン・ペトロと呼ばれるのが通例だが(ヨハ1 : 40;
6: 8,68; 13: 6,9,24,36; 18: 15,25他多数), 21章の復活物語では,
』リSchnackenl)LIr9, 320,
20F.VFilsoI],"Peter,"JDB3.749757 1 K,D()nfricd│#I)cler, 、 'ABZノ5251 263 を参照。
2] BauerAland, 1319 1320;O, Cullmann、 "。Ⅱ《てpof/Kn"5," 71/ilIW7、6.99 112;RPGsch, "n(tpcE ! ''EIIW73. 1942()1を参照。
81−−
復活のキリストが彼を「ヨハネの子シモン」と呼んでいる(21 : 15, 16 17)。
ペトロはヨハネによる福音書においても重要な役剖を果たしてい る。6章において,イエスの言葉に蹟いて人々が去って行った時に,ペ トロはイエスに付き従う意思を表明した(6: 68)。イエスの逮捕の際 は,剣を抜いて戦おうとしてたしなめられている (18: l()‑1l)。大祭 司の官邸でのイエスの聴聞の際にしては,官邸の中庭にいた時にイエ スとの関与を問われて否定した(18: 25‑27)。 しかし,復活・顕現物 語において, イエスの墓が開いており空であるという女性たちの報告 を受け,彼は他の弟子と一緒に墓に出向き,空であることを確認して いる(20: 1‑1())。 さらに, 21章のガリラヤ湖畔での復活.顕現物語に おいてペトロは,復活のキリストから羊の群れを飼う務めを与えられ ている (21 : 15 19)。
7節イエスの答えは,今は洗足行為の意味を弟子たちは分からな いが, 「これらのこととの後に(IKTdTfro電α)」知るであろうという内容 であった。 「これらのこととの後に(峠T&てaoT(I)」とは, ヨハネによる 福音書の物語的文脈では洗足行為の完了後ということであろう認。 イ エスは弟子たちの足を洗い終わって,着衣をして席に戻った後に, 「私 があなた方に対して行ったことが分かるか?」 と尋ねることになるか らである (13: 12b)。
理Bllltmfl'''1, 355; [)lll]n,247‑252;Thomas, !)1 92は, イー瞳スの先と鯉活の催 (ヨハ21 22; 12: ]6).特に,聖謹が到来しイエスの言菜の意味についての認識を 弟子たちにノjえた後(1 1 : 26i l6: 13) と考える。
82
別って行う者たちの幸い: ヨハネ13: 1‑2()の釈義的研究 17
8節ペトロは自分の足を決して洗わないでくれと願うが, イエス は, 「もし,私があなたを洗わなければ,あなたは私のもとに居場所を 持たなくなる」 と答えて,洗足行為を続けようとする。ギリシア語名 詞畦poGは,元々は「部分」という意味であるが, ここでは「居場所」
という意味で用いられている(マタ24: 51 ;ルカ12: 46;黙21 : 8を 参照)23。 「私のもとに居場所を持たなくなる」という句は,ペトロが洗 足を拒めば, イエスに従う弟子としての関係を失い,弟子ではなくな ることを意味している。洗足行為は通例は,会食のために到着した客 に対して会食に臨む準備としてなされる。会食の冒頭でなされた洗足 を拒めば,最後の晩餐とそこで与えられる告別の説教に耳を傾ける準 備がなされていないことを意味する以上, イエスの弟子であり続ける
ことが不可能となるのである24。
9節足だけでなく,手も顔も洗って欲しいというペトロの言葉は,
咄嵯に出たもので余り良く考えられたものではないであろうが,洗足 行為の意味についてのイエスの言葉を引き出す効果を持っている。足 と手と顔は,人間の体では衣服の外に出ている部分であり,汚れる可 能性を持っている。 │日約聖書では,手足を洗うことは,祭司が祭儀的な 清浄を確保する手段として祭儀の準備行為として行っていた(出30:
1820; 4() : 31 ; レビ15: 4 12;王上7: 38;代下4: 6; IミシュナI
"LSJ llO4‑1105; BauerAland, 1024 l{125.
24HL'ltgrcn,541;Th()mas,9394は,ギリシア語名訶賑P が,新約聖普にお
いて終末時の運命に関連して用いられることがあることから (マタ24 : 51 ネルカ
12; 46;黙21 : 8を参照), ヨハ13: 8でも究極的な救い(=永遠のいのち)を指す
と解釈しているが,読み込みすぎである。
83−
「ヨーマ」3 2‑3,6; 4 5; 7.3を参照)。手を洗うことによって祭儀的清浄 を確保することは, イエスの時代のファリサイ派も食事に臨む準備と しておこなっていた(マタ15: 2;マコ7§ 3を参照)。ペトロの言葉 は,彼がイエスの洗足行為を旧約・ユタ,ヤ教の伝統から,祭儀的清浄 を得る手段として理解したことを示唆している。
1()節弟子たちは既に全身が清くなっているから, [足以外の部所 を]洗って貰う必要はないとイエスは答え,ペトロの願いを斥けてい る。本文批評上の点では, [足以外の部所を]を含む長文形と含まない 単文形に分かれている。外的証拠の点で言えば,長文形をP6675v'dAB C*WVgc'emsyhOr'x[他が支持し,単文形を獄itaurVgs│Orcom他が 支持しており,長文形の方が幾分有力である○内的証拠の点では,長 文形の方が内容上難しい読みであり,優先すると考えられる25.単文形 は, 「全身を洗った者は」 と文頭で述べられているのに合わせて, 「足 以外の部所を」 (洗って貰う)という例外を容認する句を削除したと考
えられる。
ここで問題になるのは, 「清い(Kueup65)」ということの意味である。
旧約聖書において,清さの概念は多くの場合,祭儀的な清浄の観念と 結びついている。動物は一定の条件を満たした動物が清いとされる一 方で, そうでない動物は汚れているとされる (創7: 3; レピll : 1 46)。祭儀に携わる祭司やレビ人の任職に際して,身を清い状態に保つ ために祭儀の前に水で清めることがなされた(レビ8: 513;民8: 5‑
25Th()mas, 1925を参照。
−84
川‑』てi]:う荷たちの幸い: ヨハネ13: 1‑211の釈炎的研究 19
12)。他ノj, │Ⅱ約聖書の中には,清さの概念を倫理化して「心の活さ」
に言及する簡所がある(創20: 56)。特に,詩24 : 4は心の清い苦が 主の山に上り,神殿に詣でるに相応しいと述べ,詩51 : 4, 12は罪か ら清められることを心の清さの中核に置いている。詩編119編は,律 法を守ることによって人生の道を清めることを語る(詩119: 9)。預言 の中にも,倫理的正しさのことを念頭に置いて,民の清さを問題にす るものがある (イザl : 16;エレ4: 11)。
新約時代になると, ファリサイ派が祭儀的清さを日常生活の中で徹 底しようとしているのに対して. イエスは倫理的意味での心の満さを 問題にしているので両脅の間に対立が生じた(マタ15: 1 2() ;マコ7:
1 23)。 l l l上の説教においてイエスは, 「幸いである,心が清い者は。彼 らは神を見るであろう」 と語るが, これは詩24 : 4と同様に倫理的間'i さと神の前に立つことを結び付けている。ヨハ13: 1()も祭儀的な清浄 の観念を否定し,倫理的な清さを対置していると考えられる。他方, 15:
3はイエスに連なる弟子たちは, イエスの言葉によって清められてい るとしている。同様に, 13: 10もイエスの言葉に聞き従う弟子たちの 心が洗われた状態になっていることを想定し, イエスは弟子たちに,
「あなた方は請い」と語っている。尚, イエスが弟子たちの足を洗う行 為も,他の部所を洗う行為と同様に,弟子たちを清くする訳ではない。
彼らは御言葉によって既に全身が清いのであるから,清められる必要 はないのである。足を洗うことは浄不浄の観念とは区別された,弟子 たちに対するイエスの謙遜と愛の行為として意味を持つのである暫働。
M」: l.MIcI11 , "I)crSinndcl‑FIIsswachung. '、B//) 40 (1959) 7(16
イキr nb−
11節この節は, 10節にある「全員が清いのではない」という留保 についての語り手の注釈である。 「すべての者が清い訳ではない」とい う発言は, イエスの身柄を「引き渡す者」,即ち, イスカリオテのユダ を念頭においてなされたことに読者の注意を促している。 ヨハネによ る福音害者は, 6章以来,繰り返し,ユダがイエスを引き渡すことにな ることを強調している (ヨハ6: 64, 71 ; 12: 4; 13: 2, 21 ; 18: 2, 2;
19: l1 ; 21 : 20)。イエスは早くから十二弟子の一人であるユダが自分 を裏切ることになると知っていたが(6# 64), そのことを弟子たちに 告げるのは最後の晩餐の時であった(13: 21)。
1220節弟子たちへの講話
(1) 1217節洗足行為の意味についての講話
ヨハ7: 12‑17は,弟子たちの足を洗い終えたイエスが,洗足行為の 意味について弟子たちに与えた講話を記している。講話の趣旨は明確 であり,洗足行為は,先生であり,主であるイエスが模範として行っ たのであり,弟子たちもそれに倣って互いに足を洗い合うように勧め ている (特に, 1315節を参照)。
12節洗足行為を完了すると, イエスは服を着て,再び食事の席に 着く。イエスの動作について使用されているdリⅨ汀〔てT(J (席に着く)は
「横になる」ことを意味する(マタ15: 35; 20: 28;マコ6: 40; 8: 6;
ルカl1 : 37; 14: 10; 17: 7; 22: 15; ヨハ6: 10; 13: 12)27.ギリ
BauerAland, ll7 118を参照。
86−
知ってi」=う荷たちの幸い; ヨハネ13: 1 2(ld)釈侭的研究 21
シア・ローマ世界の晩餐に席に着く姿勢が,片肘をついて寝そべる姿 勢だったので, このように表現されている。食事の席に着いたイエス は弟子たちに, 「私があなた方に対して行ったことが分かるか?」と問 い掛けて話を始める。 この文章をNestle‑Aland27版は疑問文と解釈 し,疑問符を文末に付しているが,文法的には,平叙文であるの可能 性もある。疑問文であれば,新たな問い掛けによって,洗足行為の意 味を良く考えるようにと弟子たちの注意を喚起する効果がある。平叙 文であるならば,弟子たちが互いに足を洗い合うように勧める前提と
して,彼らがイエスの洗足行為の意味を理解していることを確認する 意味がある。私はこの文軍は弟子たちの注意を喚起し,洗足行為の意 味を考えさせるためのl lilい掛けととる方が良いと考える。先にイエス はペトロの足を洗いながら,「私がしていることをあなたは今は分から ないが, これらの後に知るであろう」と述べている (7節)。洗疋行為 の完了によって, この特異な行為の理解が自動的に与えられるのでは なく, 12‑17節のイエスの講話によってその模範としての迩味が明ら かになるである。
13節この福音謀において,弟子たちはイエスをラビ(1 : 38, 119;
4: 31 ; 6: 25; 9: 2; 11 : 8), または, ラブニ(20: 16) と呼んでお り, そのギリシア語訳が先生である(1 : 38; 20: 16を参照)。弟子た ちは, イエスに語り掛ける時に,主と呼ぶことがある(ヨハ4: 11, 15,
19; 4 : 49; 5: 7他多数)。名詞KIjpLoE (主)は,第一に,身分関係を 表す言葉であり,奴隷の主人を意味する (マタ10: 24, 25; 13: 27;
18: 25‑34 ; 25: 18‑26;ルカ12: 3637, 4247; 14: 21 23; 16: 3,
−87−
5,8; ヨハ13: 16; 15: 15,20)28.第二に, この言葉は,会話の中で相 手への敬意を表す尊称として用いられることもある (ヨハ4: 11, 15, 19; 4: 49; 5: 7; 6: 34; 9: 36, 38; 11 : 21, 27, 32; 12: 21)。第三 に,七十人訳は, ヤハウェの言い換えであるヘブライ語のアドナイを K'jpLO5 (主) と訳したので, この名詞は神に呼び掛ける言葉としても 使用される (創2 : 4, 15, 16; イザ4() : 3;詩l : 2, 6; 2: 2; 8: 1, 9 他多数)。弟子たちがイエスに(主よ)と呼び掛ける場合は,大部分の 場合は第二の用法(6: 68; 11 : 12; 13: 6, 9, 37; 14: 5, 8, 22; 20:
15; 21 : 15, 16, 17)であるが,復活・顕現物語においては第三の用法 (20: 28) も見られる。
ヨハ13: 13において,イエスは弟子たちが自分のことを先生,また は,主と呼んでいることに言及し,それは正当なことであるとして肯 定する。 ヨハネによる福音書は, イエスと弟子たちの関係を,一貫し て先生(11 : 281 13: 13, 14; 20: 16) と弟子(2: 2, 11, 12, 17, 22;
3: 22,25; 4: 2,8他多数)の関係として描いている。イエスとの出会 いによって弟子たちは, それまでの職業を捨ててイエスに従う生活に 入ったのであり(1 : 35‑42,43‑51),弟子たちは先生であるイエスの=に1
葉や生き方から学び, それを実践することが求められている。
14 15節イエスは先に行った洗足行為の意味は,先生であり,主で あるイエスにならって弟子たちも互いに足を洗い合うように模範を示 したのであると述べる。新約聖書において倫理的行動への動機付けと
盤圖名詞KI)PLO9の詳しい語学的分析は,W FO"Sier/G.QUCll,・ K,jPLogKTノ・
刀jⅡⅣT3.1038 1098; 1.A.FitZmyer, ' KdpL・自 ''EIIWT2.311→821)を参照。
88−
知って行う者たちの幸い: ヨハネ13: 1 2Ⅱの釈義的研究 23
して,神やキリストを模倣することが勧められることは珍しくない。例 えば,山上の説教の愛敵の教えは,善人にも悪人にも等しく恵みを与 える父なる神の寛容にならって,敵を愛し迫害する者のために祈るよ うに勧めている(マタ5: 43‑48)。また,使徒パウロはフィリピ教会の 信徒たちに,神の子の身分にありながら,己を空しくして僕のかたち をとり, ・ '一字架の死に到るまで従順であったキリストに倣って,互い にへりくだり,互いのことを思いやることを勧めている(フィリ2 : 1 11)。ヨハネによる福音書において,模倣のテーマは多くの場合,愛の 主題と結び付いて出て来る。父なる神が神の子キリストを愛したよう に,子も弟子たちを愛する (15: 9; 17: 23)。 さらに,弟子たちはイ エスが彼らを愛したように互いに愛し合うことが求められる (13:
34)。互いに愛し合うことの具体的表現が,互いの足を洗い合うことな のである2,。
16節アーメン(d酌し)は,へプライ語1箇隣 (確かに, その通り)を そのまま音写し,ギリシア語表記したものである。アーメンは│日約聖 書において,祭儀において語られる神の言葉への会衆の応答の言葉と して使用される(民5: 22;申27: 15, 16, 17, 18, 19,2() ;代上16: 36;
ネヘ5: 13; 8: 6他)。この用法が初期ユダヤ教にも継承され,死海写 本に同様な用例が確認される (I宗規要覧(1QS)」L20; 2.10, 18他)。
初期キリスト教もこうした典礼的用法を継承し,頌栄句の結びにアー メンを使用している(ロマ1 : 5; 11 : 36; 15: 33; Iコリ14: 16#ガ
zuMichl , 71)U
−89−
ラ1 : 5; 6: 18;黙7: 12; 19: 4)。文頭にアーメンを置くのはイエス 特有の用い方で,重要な神の言葉の告知を前に聴衆の注意を喚起する 導入定式となっている (マタ5: 18, 26; 19: 23, 28;マコ3: 28; 9:
1 ;ルカ4: 24; 23: 43)割0・ヨハネによる福音書において,文頭のアー メンは二重になっており,さらに荘重な印象を与える(ヨハ1 : 51 ; 3;
3, 5, 11 ; 5: 19, 24, 25; 10: 1, 7; 12: 24他多数)。
16節の言葉は訣別の説教の中で再度言及され,弟子たちは記憶を呼 び起こすように促されている (ヨハ15: 20)。 16節の「僕が主人に優 ることはなく,使者が遣わした者に優ることはない」 という文章の前 半が伝える「僕が主人に優ることはない」 という句は,一種の諺とし て流布していた言葉であり, マタ10$ 24では, 「弟子たちは先生に優 るものではない」 という句と結び付けた形で引用され,宣教者がイエ スと同じように迫害を受けることへの覚悟を促している。
16節の後半部に出て来る名詞dw6●て0入o白はこの諺風の文の中で, 「使 徒」 (マタ10: 2;マコ3: 14;ルカ6' 13; ロマI : l ; Iコリl : 1 ; 9: 1, 2; 12: 28, 29;ガラl : 1, 17, 19他) という尊称としてではな く,一般的な「使者」 という意味で用いられている (ルカ9: 10を参 照) :弧。 「遣わした者」という句に用いられている動訶汀印、①は, ヨハネ 福音書が好んで用いる言葉であり (ヨハ1 : 22,33; 4: 34; 5二 23 24,
30; 30; 6: 38, 39他), dTY60fEAAQ (ヨハl : 6, 19, 24; 3: 17, 28; 4:
詳しくは,原LI尚彰「アーメーンの翻訳史的考察:二つの翻訳原理の対立」iキ リスト教史学」第51 ik (1997年) 128 135頁を参照。
31名詞dTTOcT・入・弓の詳しい語学的分析は, BauerAland,200*K.H,RengstDri, 師釦ToJLogKて入、 ''7ソrIIWT、 1.406‑446; J. A.BUhn"'、jw60ToAoE,''EWWTl342 351を参照。
−9()
illって{丁う一昔たちリ)幸い: ヨハネ13: 1 2()の釈義的研究 25
38; 5: 33, 36, 38; 17: 3, 8他) と同様に特別な任務を与えて使者を 送り出すことを指している郷。父なる神は御子を世に遣わし (3: 17;
4 : 34; 5: 23、24.3() ; 6: 38, 39; 14: 24他),御子イエスは弟子たち を遣わす(4 : 38; 13: 2(1 ; 17: 18; 20: 21)。
17節この文章は, マカリズム(幸いの宣言)の文体を用いて,理 解して実践する者の幸いを宣言している。新約聖書中のマカリズム (幸いの宣言) は,文頭に"K[iPLOg/IIC(KIiPLOLという言葉を置き, その 後に幸いとされる根拠またはその状態の描写が続く文学形式であり,
へプライ語の、弓蝿を"K[ipLog/l'crK[tpLo↓と訳した七十人訳の用語法に 倣ったものである33.幸いの宣言は,福音群や使徒言行録等の物語文学 にも (マタ5: 3‑12; 11 : 6; 13: 16: 16: 17; 24: 46;ルカl : 45;
6: 2023; 7: 23; 10: 23; l1 : 27, 28; 12: 37, 38; 14 : 14, 151 23:
29; ヨハ13: 17; 20: 29;使2() : 35),書簡文学にも (ロマ4 : 7, 8;
14: 22; Iコリ7: 40;ヤコl : 12,25; Iペト3: 14; 4: 14),黙示文 学にも見られる (黙1 : 3; 14 : 13; 16: 15; 19: 9; 20: 6; 22: 7, 14)忽4.
狸名詞而印両いり)詳しい語学的分析は. BEluCl・Aいnd, 211() ;K II RC]哩鵠t()I・f!
而印TT(,),'' r/ノ 1IW7, 1.406446市ⅡRi[t, 、、T"T(J! '' ノタⅡⅣ7, 3、 160 162を琴蠅。
33旧約・ユダヤ教における幸いの宣言の詳しい分析については,原I」尚彰
「4Q185/4Q525における幸いの'『〔両]「教会と神学l"#12号(20()6年) #1 1 68頁を
圭考昭
二王戸jMhO
34 J.Dupi)['LL('NB"""イ【/(3 (3v()Is; Faris: ()a1)alda, 195873) * 11.Frl']1k‑
m6ilE. I)icN1akarismen,..〃Zl5 (]971) 5455; S Schulz,Q.""S/'"イイル""('//(' (/〔γだ 曙〔j"ぷ/['" (Z(irich:Thc()I(,gischerVerlag, 1972) 76‑84 * R. (iuelich、
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91
ヨハ13: 17のマカリズムの文体は,定型からかなり離れており,形 容詞ILfMKfipLOLが文頭ではなく文中に出て来ている。また,幸いとされ る状態を名詞的に使用される分詞ではなく, モiまたは敵vに導かれる 副文で表現している。人称について言えば, このマカリズムは二人称 裡数形を用いている。マカリズムは通例三人称の形で評かれるが(詩 1 : 1 ; 32[31] : 1‑2; 84[83] : 4 13; イザ32: 2() ; シラ14 : 1‑2; 25:
8‑9;マタ5: 3, 5,6, 7,8,9, 10; ロマ4: 7, 8; 14: 22; Iコリ7: 40;
ヤゴl : 12, 25;黙l : 3; 14: 13; 16: 15; 19: 9; 20 : 6; 22: 7, 14;ディダケー1 .5;バルナバl.2; 10.10; Iクレ4() 4; 48 4),初期キ リスト教文書には二人称で書かれた例も見られる (マタ5: 12; 16:
13;ルカ6: 20,21,22, 23; Iペト4: 14;ヘルマス「幻」2.2.7; 「味え」
9.29.3)。二人称を用いる場合は対話的な性格が強まり,聴衆へ語り掛 ける効果が高まる35.
このマカリズムの特殊なのは, dTacraoM6側てE(もしあなたがたがこ れらのことを知っており) という句と,敵"禰。LflTEcLOて&(もしそれらを 行うならば)という句が, uaK[ipLo[とorモ (あなたがたは幸いである)と いう幸いを宣言する句を前後からシンメトリカルに挟む形になってい ることである。 fi Tacでα0職近E(もしあなたがたがこれらのことを知っ
L)ノcSど/"""s"".LJf""[、'・&''"'""(KOnigs(cin/Bonn:Hanstcin, 1986) *M.
Sat() , Qj""/ J'JTM,/Jc//c (WUNT2/29;Tiibi]1gen:M()1'r, 1988) 2:1726'1 ; J.
Kli)ppenb'}1・g! 7ル〔J偶〃ノ""抑〃⑰/Q(1'hiladel1)hia: FDrll・ess, 1988) 172 173 ; U.Luz,""N/"I""銀/""〃〃"〔・ル〃(""職fs (4Bde ネ 2.Aun. ;Ncuki1℃he]1VILlyn;
NeukirChenCTVCrlag、 2()02) 1. 267294,
"I‑l. 1)、Be"7W('S(""[ノ〃cJ〃〃IF〃D"打/ (Mi]'neal)olisH F(J]・Ir"s, 1995) 93 94 ;D. llCl lh()1m, ##BeatillIdeSandtheirlllocuti()I1aryFunCti()nS,''』j〃〃〃/〃〃(/
〃 ノヒノ(リ.〃ノJLノVノ(ノr//L'《僻〃〃//"B/h/FI"I(/C"""(』 (ed.A.Yarb()C()l l illH;Atlfinta:
ScI'()la'・sPI・ess, 1998) 284‑334.
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知って行う者たちの幸い宮 ヨ'、、ネ13: 1 20の釈義的研究 27
ており)と敏し、L旅a6Td(もしそれらを行うならば)は,共に三語か らなり, Eiが軸,′に, TcIoTcI(これらのこと)が帥Td(それら)に, 0(6(MTE (あなたがたが知っており)がn0LiTE (あなたがたが行う)に対応する。
このマカリズムは, この集中構造によって,知ることと行うことが一 致して人間の幸いの条件であることを強調している。知ることと行う
ことが密接不可分であることは,既に7: 17に述べられている。 ヨハ ネの理解によれば,行うことは知ることに基づくのであり,知ること は行いとして実践されなければならない。同様な理解は, Iヨハ2: 29 にも継承されている。
このマカリズムは,巌後の晩餐(13: 1 16: 38)の際に行われたイ エスと弟子たちの対話の中で語られている。 イエスは食事の途中で席 を立って弟子たちの足を洗う (13: 1 11)。後に,弟子たちに対して,
自分が行った模範としての行為への理解を求め, それに倣って互いに 足を洗い合うように勧める(13: 12 17)。 13: 17のマカリズムは, こ の勧めの言葉の結びの言葉として語られている。 このマカリズムにお ける, てα0℃a (これらのこと)やα6T[i (それら) とは, イエスが弟子た ちの足を洗った行為とその意味のことである (13: 7, 12を参照)36。
イエスは,告別の説教(13: 31‑16: 33)において弟子たちに,新し い戒めとして互いに愛し合うことを勧めが, その根拠はイエスが彼ら を愛したことである (13: 34; 15: 12, 17)。互いに愛し合うことの具 体的表現が,互いの足を洗い合うことであると考えられが, この時点 36M. j.Lagrange、E"""/《』 s('/("ノS"/"/ノ鯉〃 (Paris;Gabaldal936) 356;
ThZahn,""EIw"g('"""ノ 〃 /1ルル]"""(KNT4;6Auil;Leipzig; Dei・
cherL1921) 541) * R.EBT・Dwn,刀』f'G(Js/Jヒノac """gルノ()〃z (2vo1s;Garden City:Dollbledav, 1970) 2,570571
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では弟子たちはその意味を十分に理解していない(13: 7を参照)。イ エスの言葉や行いの真の意味を弟子たちが知るのは,真理の御霊(14:
17; 15: 26; 16: 13)である聖霊が彼らに下り, それらを再度想起さ せて深い理解へと導く時である(特に, 16: 1213を参照)。しかし, こ の福音書の読者であるヨハネ共同体に属する者たちにとって,物語の 空間では未来に起こるとされている聖霊の降臨は,既に起こり現在の こととなっている。彼らは真理の霊の導きによってイエスの行為と言 葉への理解が既に与えられている37。従って,彼らの自己理解によれ ば,彼らはイエスの洗足行為の意味を知っており, それを現在行うこ とによって幸いとなるように招かれている。
周辺世界であるギリシア・ローマ世界にも,知行合一を勧めるマカ リズムが存在する。例えば,ギリシアの詩人へシオドスはI仕事と日々」
の結びで, E'j6[Miu⑩UTEKcLi6A6Log6ETfi6E城りてaEL6(JgtpY虻叩aLi' αitLoc
&ecILjdToLoLIJ6plノLO"KpiりいしKα沁而印βα0ioLEd入籠u'U'ノ (幸福であり,祝福さ れている, これらすべてを知って働き,不死なる方々を怒らせること なく,烏を見分け,罪過を避ける者は) と述べている (「仕事と日々1 826827)38.ヘシオドスはこの詩作の中で,人間の起源と労働の価値を 説き,正義に従って生きることや,農事暦に従った農耕作業を行うこ
37GB()mkamm, !Zur lnterprctatiu'1desJohannesevfl'1geli''ma、'EII7ル28 (1968) 8‑25 (=ders.* Sr""/(wど"7H jW"〔]〃、報("" /, MU],Chen;Kaiser,
1985) ll8 l35;T.Onuki" "Diej{]halmeiIhenAbschiedredenunddieSynOptis‑
chETradition, ' A/BI3 (1977) 157268;大豊陸「世の光キリスト」講談社. 1984 年, 181‑187頁;同「テキスト効用論的釈義の試みヨハネ15: 18 16: 4aに寄せ て 」 「福音書研究と文学社会学」岩波書店, 1991年, 1752()9頁を参照。
3sギリシア語本文は,G.W・MDst,"tjs/Dfl .・ 7WIf"1""y, IM"蹄α"《/〃(I蝿 挽3"ノ"""〃(Cambridge,MA:HarvardUniversityPress, 2006) 152より引用
している。 日本語訳は筆者の私訳である。
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知って行う背たちの幸い: ヨハネ132 1‑20の釈義的研究 29
とを勧めている。 「これらすべてを知って働き」とは,具体的には『仕 事と日々」の中に展開されている,倫理的・実際的教えを理解しつつ,
社会生活において正義を行うと共に,職業生活において時に適った農 耕作業を行うことを意味する。 「不死なる方々」とは,オリュンポスの 神々のことであり, 「正義」とはゼウスをはじめとする神々の意思に合 致する倫理的行為のことである。
また,帝政ローマ期のストア派哲学者であるセネカはI倫理書簡集j 75.7において, nonestbEatuSquiscitilla, sedqui facit (幸いなの は, それを知るものでなく,行う者である) と述べている39。 「それ (illa)」 とはここでは,哲学的思索によって得られる知恵(sapientia) である。賢人は知恵について語るだけでなく,実践しなければならな いことをセネカは度々強調している(『倫理書簡集」20.1‑6; 24.1517)。
ストア派哲学者にとり,知恵とは理性によって得られる自然の摂理に ついての認識であり, それは人間の心を外的刺激によってかき乱され る情念から解放し,平静と自由を与える(I倫理書簡集』16.1‑5)。セネ カによれば, 自然に従って生きることこそ,徳を実践する最高善であ り,人間を幸福に導くこととなる(「幸福についてj1.15; 2 34; I倫 理書簡集」 74.1, 26)。
このように, これらの周辺世界のマカリズムの背後には, それぞれ に固有な世界観や状況が存在し,想定する知の対象や内容は,洗足行 為を通してキリストが示した生き方とは大きく異なっている。しかし,
39ギリシア語本文は,LD.Rcv]1()lds,L.他"r /S〔'"〔' (, L"(〃/""z (vDI l ;Oxford:Clarendon,1965) 234より引用している。日本語訳は筆者の私訳であ
づつ。
95
倫理規範は知っているだけでは不十分であり,実践されて始めて人間 を幸いに導くという認識はシ これらの文献とヨハネによる福音群の間 に共通しているのである。
新約聖脅中の並行例については,行うことの幸いを語るマカリズム がヤコl : 25に見られる。但し,ヤコl : 25本文は, 06てoS"KfipLo"'ノ rinOL,1"L (I6rOC¥Or(XL (このような者は, その行いにおいて幸いとなる であろう) となっており, ヨハ13: 7とは大きく異なるので,両者の 間に文献上の依存関係はない。
律法の言葉を聞いて行う主題は既に旧約聖書において採り上げられ (出24: 31申3() : 8‑10;エゼ33: 32),初期ユダヤ教に継承される (Ⅲマカ2$ 67:シラ知恵3: 1 ; 15: 15,24; 19: 2021 ; 51 : 28)$U。特 に,シラ3: lは救いに至るために律法の言葉を聞いて行うことが重嬰 であることを強調する(「ミシュナ」 「アボート」1.15; 3.9も参照)。 |司 様な考えは,新約聖書の一部にも反映されている(マタ7: 24‑27; 12:
50リルカ8: 21を参照)。ヤコフ害の著者によれば,人は信じるだけで は岬によって義とされない。肺への信仰は業として表現されるので,信 仰は必然的に業を伴う (2: 18‑19)。業を伴わない信仰は空しい(2:
20)。父祖アブラハムは, イサクを奉献する業によって義とされた(ヤ コ2: 20)。人は信仰だけでなく,信仰と業によって義とされるのであ る(2 : 2224)。ヤコ1 : 25が律法に目を注ぎ,行う者の幸いが宣言す ることは, 2章で展開する行いによる義の主題と呼応している。
ヤコブ謀が聞いた言葉を忘れることなく心に銘記して実践すること
4() Fril[1kcmi)I le. 337338
96
則って行う者たちの辛い: ヨハネ13: 1 20の釈義的研究 31
を強調しているのに対して,ヨハ13: 17はイエスの行為の意味を理解 し, それを模範として実行することを勧めている。 ヨハネによる福音 書は,弟子たちがイエスの行為や言葉の意味を理解する認識論的過程 に関心を寄せており,主知的な傾向を持っているが, ここでは理解す ることが具体的行いとなって表現さるべきことを, マカリズムの形で 提示している。
(2) 1820節イエスの死の予告と聖書の成就
この部分は内容的には,先行する部分の主題であるイエスの洗足行 為と結び付かず,むしろ, 17: 2にあるイスカリオテのユダの心に悪魔 が入ったという注記に呼応し,洗足行為についての叙述を囲い込んで いる。後続する13: 213(}は,弟子たちの中にイエスを裏切って敵対 者たちに引き渡す者がいる事実についての宣言と,ユダの外出を描い ているので,この部分は後続の主題への橋渡しの機能を果たしている。
18節イエスが選んだ弟子たちの中核にいる十二弟子の中に,イエ スの逮捕の手引きをする者がいたという事実をこの文章は,詩編の言 葉を引用しながら聖書の成就として説明している。「私はあなた方すべ ての者について言っている訳ではない」という言葉は, 17節のマカリ ズム(幸いの宣言)が該当範囲をイスカリオテのユダを除いた弟子た ちに限定している。 「誰を選んだのか私は知っている」という句は, イ エスによる弟子たちの選びに言及している(ヨハ6: 70; 15: 16, 19)。
選ばれた弟子たちの中にイスカリオテのユダも含まれると考えられる が(マタ10: 24;マコ3: 16 19;ルカ6: 13 16を参照), そのユダ
97
がイエスを裏切り, その逮捕の手引きをすることになった不可解な出 来事を, この節の後半は詩編41 [40] : 10の言葉の成就として説明す る。「聖卉が成就するためである」 (ヨハ17: 12; 19: 24,36),或いは,
「御言葉が成就するためである」 (12: 38; 15: 25; 18: 9,32) という 句は, ヨハネによる福音書の後半にしばしば用いられる旧約聖書の引 川定式である。イエスの受難が神によって定められた必然的出来事で あり, lu約聖評の預言の成就であるという理解がそこにはある。 イエ スの受難の出来事の意味を求めて初期の信徒たちが旧約聖書に見出し た結論が旧約聖諜の成就という主題であった。
詩編41 [4()] : l()の七十人訳本文は, 「そして,希望を桂トけた我の 平和の人,私のパンを食べている人ですら,私に対して踵を大きくし た(KuiYdp6Mwep⑩汀"ThgEip巾'1EiLDU"'6'/ ii入而Loα6"9i(A)'ノ卸roUglloU 印EYfiAUI'Eり前'砿耐てEpl'LUIL61′ )」 となっており, ヨハ13: 18はこの後 半部を引用している。 ヨハ13: 18の文言は, 「私のパンを食べる者 が,私に向かって踵を上げた(6Tp(jY(A)'' iLoUitpToレモmpE1' E打印モTnl 打T印'ノLOl'd'')」となっており,細かい言葉遣いが異なっている ' 1.詩編41 編は特にメシア的な詩編ではなく,前半では憐れみ深い者の幸いを宣 言し,後半では苦難の中から神に憐れみと助けを求めている。ヨハ13:
18はこの詩編をメシア的に解釈し,10節の文言に注目してイエスの受 難の預言と考えたのであった。
「食べる荷」を, 6t・9〔(J↓ではなく, 6Tp(jY(jJI↓と表現し,バンは襖数形でなく ili数形となっている。 また,動詞句は印EYdAUL'f'」 (大きくした)ではなく前fipf''
(上げた) と厳っている。
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知って行う者たちの幸い: ヨハネ13: 1 20の釈義的研究
り山J1
19節ユダの裏切りをこの時点で弟子たちに予告する意味は,出来 事が実際に起こった際に, 「私である(&Y(jEil」L) と信じるためである」
とされている。信仰を促すために予め告げるという発言は,後に告別 の説教の中で繰り返される (14: 29)。 また,将来の迫害については,
弟子たちが蹟くことがないように予告されている (16: 1)。 こうした 発言の背後には,予告されたことが起こった時に弟子たちがイエスの 言葉を思い出し, その真実性を理解する知的過程が想定されている
(16: 4)。
「私である(tY(jfiML)」という表現は旧約以来の自己啓示定式である (出3: 14; イザ43: 10)。この表現は, ヨハネによる福音書において,
fY(jfiuLは補語を伴い, 「私は……である」という形で用いられること が多い(ヨハ10: 7,9, 11, 14; 15: 1,5)。 イエスはこの定式を用いて,
自らを門(10: 7, 9),良い羊飼い(10: 11, 14),真の葡萄の木(15:
1,5)に職えている。補語を伴わない絶対用法は, ヨハ4: 26; 13: 19 に見られる。 ヨハ4: 26においてこの表現は, イエスの海上歩行の出 来事において弟子たちが目にしているのが亡霊ではなくイエス自身で あることを強調する意味を持つ。ヨハ13: 19の用例は,ヤハウェが自 分以外に神はないことを前提に,語っているのが外ならぬヤハウェ自 身であることを強調するイザ43: 10を思い起こさせる。特に, ヨハ 13: 19では,ユダの裏切りを予知し,予め語っていたのがイエス自身 であることを強調している。
20節このアーメン章句の内容は, 1215, 17節に展開される洗足 行為の意味についての議論や, 18‑19節に提示されるユダの裏切りを
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予告する意義についての発言とは結び付かず,少し前の16節にある アーメン章句に結び付いている。両節はイエスによる弟子たちの宣教 派遣を念頭に置きながら,弟子たちを使者に, イエスを派遣者になぞ らえている。 16節は,僕が主人に優ることはないように,使者は遣わ した者に優らないことを述べて,弟子たちがイエスに従属することを 強調し, 20節は弟子たちを受け入れる者は派遣者であるイエスを受け 入れることになることを強調している。16節は宣教者に向けた言葉で あり, 20節は宣教者を受け入れる側の信徒たちに向けた言葉である。
「私が遣わす者を受け入れる者は私を受け入れ,私を受け入れる者は 私を遣わした方を受け入れるのである。」は, イエスが弟子たちを宣教 のために遣わし (4: 38; 13: 20; 17: 18; 20: 21),父なる神は御子 イエスを世に遣わした(3: 17; 4: 34; 5: 23,24,30; 6$ 38,39; 14:
24他)事実を前提にしている。 ヨハネによる福音書において, イエス が「私を遣わした方(6而印"EPE)」 (4: 34; 5: 30; 6: 38,39,44; 7:
16, 28, 33; 8: 16, 18, 26, 29他) と述べるときは, イエスの父なる神 のことを指す術語的表現となっている。
結論と展望
ヨハ17: 1‑20において,一方ではイエスの洗足行為の特異さと弟子 たちの心理的抵抗感が描かれ(13: 68a),他方では,洗足行為を受け ることの必然性と (13: 8b),祭儀的清浄の観念が排除されることと (13: 10),師にならってそれを実践することの重要性が強調されてい ていることが(13: 12 17),釈義的に確認された。イエスの洗足行為
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