Osaka Gakuin University Repository
Title
微分法の発見と神の完全性 ニュートン−ライプニッツ論争
The Discovery of the Differential Method and the Perfection of God
The Controversy between Newton and Leibniz Author(s) 松山 壽一 (Juichi Matsuyama)
Citation 大阪学院大学 人文自然論叢(THE BULLETIN OF THE CULTURAL AND NATURAL SCIENCES IN OSAKA GAKUIN UNIVERSITY),65:15-39
Issue Date 2012.09.30 Resource Type Article/ 論説 Resource Version
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大阪学院大学 人文 自然論叢 <論 説
>
第65号 2012年 9月微分法 の発見 と神 の完全性
ニ ュー トン ーライプニ ッツ論争
D松
山
壽
一
The Discovery ofthe Differential Method and
thc Perfection of God
The Controversy between Newton and Lcibniz
Juichi Matsuyama
I いわゆる「近代科学」の勃興期、これを押 し上げる母体 となったのは中世以来の古いカ リキュラムによる教育が行われていた大学ではな く、むしろ「サロン」や「アカデ ミー」 や「協会」 と称される好事家集団であつた。たとえばイタリアではルネサ ンス期様 々なア カデミーで文芸活動や今 日言うところの「科学」活動 (実験等)が
なされた。ガリレオが 所属 していたの もその一つ「アカデ ミア・デイ・ リンチェイ」だった'。 17世紀の英国に1)本
稿 で は、 以下 、 ニ ュー トン とラ イプニ ッツの著 作 か らの引用 、参 照 は次 の よ うな略 記 に よって行 い、す べ て訳 文 は拙 訳 に よる。既 存 の邦 訳 文献 は必 要 に応 じ併 記 す るが、 ラ イプ ニ ッツ著作集 (工作 舎)の
場合 、巻 数 とペ ー ジ数 (たとえば、3,214)の み を記す。 ニュー トン: op:rsαα `ゴ Ⅳ `″′ο″′(ン`″ ?γαι`覆″″′ο″″′α,commcntariis illustrabat S.Horsic光 5 Vols,
London 1779-1785 MP:2吻 θル0″
`″α″ια′)"θぉ(プおααε Ⅳ`″わ″,cd.by D T Whitcsidc,8 Vols,Cambridgc 1967‐81
Pr:おααθ Rぃわ″'sP力〃bs9′力′α
`′α″″ノ7s′″レε″′α″α″ι″α′たσ,the Third Edition(1726)with
variant Readings,eds By A Koyrc&I B Cohcn,Cambridgc 1972
USP:]神
″ι′おみιグSc・J`″r′ε)"ιβρ/おααεⅣ`″ゎれ,cd byA R Hall&M.B Hall,Cambridgc
1962
ライプニ ツツ:
GM=G Wl Lcibniz,ルをr/7`″α′おε力ι Sc力′′
`″,hrsg von C I Gcrhardt,Bcrlin 1848-Hallc 1863.
GP:G W Lcibniz,DJι ′力′あs9ρ力Isσ″ι″Sc力′′′″,hrsg.von C.I.Gcrhardt,Berlin 1875-90.
AA:Gottfl・ied Wllhclm Lcibniz,S魏 ″′′た力ι Sc力′′ `′
″″″B′ブψ,BCrlin 1923“
2)拙
稿「 ガ リ レオにお ける大学 とア カデ ミー」 本誌 第59号 (2009年 9月)pp 12-14参照 。-15-眼 を移せば、われわれの-15-眼 を引 く集団はジ ョン・ ウィルキ ンズ (ウ ォダム・カレッジ学寮 長
)や
ジ ョン・ ウォリス (サヴィル幾何学教授)を
中心 に参集 したオ ックス フォー ドの討 論 グループである。そこにはロバー ト・ボイルや クリス トファ・ レンや ロバー ト・フ ック な ども参加 していた。 ところが、1660年の王政復古 によって、 グループは解散 を余儀 な く される。メ ンバー中、オ ックスフォー ド大学の要職についていた中心人物たちが ピュー リ タンだ とい うことで同大学 を免職になったためである。そ こで彼 らはロン ドンの グレシャ ム・ カリッジに移 り、それ を機 にウィルキ ンズやボイルたち12名が会合 を公的な ものにす べ く動 き出 し (同年11月)、 その努力が実 を結ぶ ことになる。二年後の1662年、国王 の認 可 を得たことでその名で呼ばれるに至 る「王立協会」RoyJ Socictyで ある°。 会合 は週一回、毎回三つか四つの実験が行われ、 また書簡 として送 られて くる論文の読 み合 わせ も行われた。会合 にて実験 を担 うことになったのが若手の フックであ り、事務局 を預か り、文通 を一手 に引 き受け、協議の上、それ らの中か ら優 れた ものを公刊す る労 を とることになったのが、ブ レーメン生 まれの ドイツ人ハ インリッヒ 。オルデ ンブルクにほ かな らなかった (彼は英語式 にヘ ンリー・オルデ ンバーグと呼ばれるのが常ゆえ、以下で はわれわれ も彼 をオルデ ンバーグと呼ぶ としよう)。 オルデ ンバーグ宛書簡 として王立協 会 に送 られて きた優 れた諸論文 を掲載す るこ とになった雑誌、いわば史上初の「科学 雑 誌」、 それが、 かの 『哲学 会報』P力あsリカたα′ル "Sαε′′ο″sであ る (1665年3月創刊)。 ニュー トンの最初の論文「光 と色についての新理論」が掲載 されたの もこの雑誌 (1672年 2月)で
あ り、掲載 とともに、彼 は会員に選出 される (時に彼30歳)°。 本稿が論ずべ き主題の一つである微積分法発見の先取権の問題 に関 しては、最初 は もの 静かで紳士的な書簡のや りとりに留 まっていたが、その仲介役 となったのは、ほかな らぬ 協会事務局長のオルデ ンバーグであった。父無 し子 として生 まれ、母か らも引 き離 され、 片田舎 の農場 で孤独 な少年時代 を過 ご したニ ュー トンは自力で数学的な才 を磨 き開花 さ せ、1669年、26歳 に してケ ンブ リッジは トリニテ ィ・ カレッジの ルー カス教授 (数学教 授)に
抜擢 されていた。 カレッジでは教 えるべ き学生 もほ とん どお らず、彼は一人黙 々 と 自室 にこもり、時 に寝食 を忘れるほ ど研究 と実験 に没頭することがで きた。 この頃の彼 は いわばカレッジの「隠士」の如 き存在だった と言ってよい。片や、 ライプツイヒ大学の道 徳哲学教授 の子息 ライプニ ッツは社交的野心的で、宮廷人 としての生涯 を送 るこ とにな3)島
尾永康『ニュー トン』岩波新書、1979年、pp 63‐66参照。 4)R S Wcstfall,Aセッθ″α′Rωr И BJograpり て√おααθⅣ `wゎ″,CambHdgc 1980,pp 238ffナ6訳 (田中 。大 谷訳)『ア イザ ック・ ニ ュー トン』 平凡社、1993年 、I,pp 257“ 本邦訳 は三分冊 と して刊行 されてお り、以下 で は邦訳 Iも しくは邦訳 Ⅱとのみ表記す る。 なお、 ニ ュー トンの新理論 は ヨー ロ ッパでの華 々 しい学界 デ ビューの機会 を与 える もの と なったが、実質上、王立協 会 を仕切 っていた フ ックか ら激 しい批 判 を招 き、彼 との論争 に嫌 気 が さ し、以後、 ニ ュー トンは論争 を忌 避す る ようにな り、後の論 争 に これが独特 の影 を落 とす こ とともなる。微分法の発見 と神の完全性 ニュー トンーライプニ ッツ論争 る。 1668年 初 頭 (21歳)、 最 初 に任 官 した の はマ イ ンッ宮廷 で あ り、 1770年 には24歳の 若 さで、平 民 と して は最 高位 の枢 密 法律顧 問官 に昇 進 す る。「昇進す るや い なや、 か れ はみ ずか らを全 ヨーロ ッパの知的な舞台で脚光 を浴 びる者へ と押 し上 げるための猛烈 なキ ャン ペー ンを展開 した。キヤンペー ンの第一段階は、文壇の中心 となる人び とへのダイレク ト メール作戦だった。」うオランダ、 フランス、 イタリア、 イギ リス文壇、学界へ。 イギ リス では特 に老 ホ ッブズ、それに王立協会事務局長のオルデ ンバーグ。彼 は同郷の よしみか ら であろう、学問上無名の ドイツの少壮学徒 に眼 をかけ続 ける。彼 との文通 を通 じてニ ュー トンの級数展 開を知 る機会 を得 たライプニ ッツは、デ ンマーク人数学者モールよ り再度そ れを伝 えられた折、オルデ ンバーグにその証明 を送 って もらえれば 自身の級数論 を返送す る と申 し出る (1676年5月12日付書簡)。 この 申 し出が記 された ラ イプニ ッツの手紙 が ニュー トンに転送 され、彼はそれに返事 を書いている。同年6月13日付のいわゆる「前の 手紙」である。そ こには、一般二項定理 とその応用例、 さらに逐次近似法、導関数の級数 展開法が記 されていた。 これを受けて、 ライプニ ッツはこれ らをさらに詳 しく解説 して も らうよう要望。 これ に応 えて書 かれたのが論文 の ご とき「後 の手紙」(同年10月24日付) にほかな らなかった。そこでは、方法の核心 はアルファベ ッ トの並べ替 えによるアナ グラ ムとして記 された。それをライプニ ッツが解読 したか どうかは ともか くとして、その八年 後 (1684年)、 旧友チル ンハ ウスが微積分法 とい う新 しい計算法発案 を自分の手柄 に しよ うと 目論 ん だ こ とに ライプニ ッツは怒 り、つ い に 自説 を公 表 す る。『学術 紀 要』И `″ ル ν″′ο′ν″ (同年10月号)° に掲載 された「極大 と極小 な らびに接 線 を求め る新方法」 で ある。 これに対 してニュー トンは自著 『プ リンキ ピア』(1687年
)で
次の ようにや んわ り と応 じる。「 この うえな く熟達 した幾何学者G.G.ラ
イプニ ッツ と十年前 に交わ した書簡 [いわゆる「後の手紙」]で
は、私は極大極小 を決定 し、接線 を引 き、無理項 に同 じく有理 項 に対 して も機能す る方法 を手 に していることを示唆 しなが ら、「任意の個数の流量 を含 む方程式 を与 えて、その流率 を見 出す こ と、 またそ の逆」 とい う命題 を文字の置 き換 え [アナグラム]に
よって隠蔽 した ところ、 この著名 人は同 じ方法 に到達 した とい う返信 を 寄 こしたが、彼の方法 は用語法、記号法 こそ私の もの とは違 え、私の もの とほ とん ど違 い なかった。」(P■,3681)7)5)Mス
チ ュアー ト(桜井 ・朝倉訳)『宮廷 人 と異端 者』 書肇 心水 、2011年 、p109
6)『 学術 紀要』Иσ″ ル7ル
α″″ は、 ホイヘ ンス も創刊 に力 を貸 し、 ライプニ ッツが常 連 の寄稿 者 となる ライプ ツ イヒの学術 雑誌 であ る。7)ニ
ュー トンの 自己理解 に よれ ば、「両者 の方法 の基礎 は この補助 定理 [第二 篇補助 定理2] に含 まれ てい る」(P■,368)。 第二版 (1703年)で
は、上 に引用 した文言 を含 む注解 をそ っ く り書 き換 え、 コ リンズ宛書簡 (1672年12月 10日付)に
認 めた主張一一 ス ルーズの接 線 法 を全 曲線 に も拡張 した ばか りか、無 限級 数 に よって無理 数 を含 む方程式 に も対応 可能 な一般 的方 法へ と拡 張 した一一 を引 きつ つ、最 後 の点 をす で に1671年 に執 筆 した論 文 (「方法 論 」)で
扱 ってい る こ とを強調 してい る (′ι″)。-17-Ⅲ 両者 によるその後の直接のや りとりはな く、事態 はこの まま何事 もな く推移す るかに見 えたが、黙 っていなかったのは、ニュー トンの取 り巻 きたち、信奉者たちだった。彼 らの うちに、スイス出身の若手で才気換発 なファシオ・ ド・デュイリエ とい う人物がいた。彼 はニュー トンが主著では棚上げに した重力の真の原因を探 ろうとしたばか りか、主著の改 定版 を出す ことをニュー トンに勧め、 自ら編集者 を買って出、 自身の注解や解説 を入れ る とい う提案 まで行 っていた'。 この彼が 自著 (『幾何学的研 究』1699年
)の
中で、 ライプ ニ ッツが唱えている方法がニュー トン説か らの借 り物ではないか という疑念を表明するこ とに なる9。 もっ と もこの表 明 を ライプニ ッツは無視。彼 が実 際 に喰 いつ い たの は、 ニュー トン派 自然学の最初の教科書 を刊行 した「ニュー トンの太鼓持 ち」Ю'ジ ョン・キー ルによるライプニ ッツ攻撃だった。『学術紀要』Иι″ Fr閉物 ″″ (1705年 1月号)に
掲載 された匿名のある書評 (ニュー トンの「求積論」に対す る書評)の
執筆者 をライプニ ッツ と呪んだキールが 自身の論文 (『哲学会報』P力あsの力たα′ル “ sαε′ブο′s1708年
9-10月 号) の中で、ニュー トンの先取権 を主張 したばか りか、 ライプニ ッツによる剰窃 を匂 わせてい たか らである。「流率算術 (A五thmctica nuxionum)を
最初に考案 したのがニュー トン氏であることに微塵の疑い もないことはウォリスによって公刊 された氏の書簡 を読む ものが 容易 に断定 しうるとお りだが、後にこれ と同 じ算術が異なる名前 と異 なる表記法の もとで 『学術紀要』誌上 にライプニ ッツ氏 によって発表 された」n,とい うように。 ライプニ ッツはこうしたキールの「不当極 まりない避難」に対 して抗議の手紙 (1711年 3月
4付
)を
送 る。 これ に対 し、 ロ ン ドンの王立協 会 (その黒幕 は会長ニュー トンその 人0)は
先取権 の再主張 のみ な らず、劉窃の出所 をニュー トンの ライプニ ッツ宛両書簡 (前記のいわゆる「前の手紙」 と「後の手紙」)と
す るキールの手紙 を事務局長の添書 (こ の下書 きを書いたの もニュー トンその人だった)と
ともにライプニ ッツに送 りつける。そ8)島
尾前掲 書 pp l10-114参 照。 9)「事 実 に基づ く証拠 か ら、私 はニ ュー トンが微 積 分算 の最 初 の [¨]発
見者 だ った と認 め て い る。[.¨]こ
の計算 の第二の発見者 ライプニ ッツはニュー トンか ら何 か を借 りたので は な いか [.¨]」 Zレιαι b″ッおs′″ブグθsθθ77sだ ルッ “″ gα′′ο gη ″′″′εα a″ ′θχ,London 1699,p 18Citcd by A R Hall&R S Wcstfall Ci A R Hall,P″あs9′力
`バα′″br 2物`0″αrraノろθ4●・`θ
′
Ne″′ο″α″″五ιJι″レ,CambHdge 1980,pp 106f;R S Wcstfall,9ρ ε″,pp 7131:チ6副民Ⅱ,pp
280■ 10)ベルヌ イに よる評。Wcstfan,″ ε
jr,p721:邦
訳 Ⅱ,p290
なお、 キー ルにつ いては拙 著 『ニ ュー トンか らカ ン トヘ』 晃洋書房、2004年 、pp 101-102,116-118参 照。 11)P力j′οsの力たα′}α″sαε′′0′な,26(1708-9),p 186 Cited by Westfan,9ρ ε″.,pp 7151:チ6副RⅡ , p 285 12)1703年、実 質上協会 を仕切 っていた フ ックが他界 したの を機 に、 ニ ュー トンは王立協 会 の 会 長 に就任 す るや、 フ ック色 を一掃 し、協 会 を自身の カラーに染め上 げ る。王室 に倣 った貴族 化 とパ リア カデ ミー に倣 った組織化 であ る。 島尾前掲書pp 147■微分法の発見 と神の完全性 ニュー トンーライプニ ツツ論争 こで、 ライプニ ツツは協会事務 局長 に宛 てて再抗 議文 を送付 す る。 「 ジョン・ キール博士が最近あなたに書 き送 った書状 は前 に もま して私の潔 を否定 して お ります。[.¨
]こ
の御仁が私の考 え方 にかけてお ります嫌疑 は発見の業 に習熟 した者 の 業 とも思 え ませ ん し、 それ を教 え諭す ため に反論す るに も及 び ます まい。私がいか に異 なった道、別事 に役立つ道 を選んで きたかは友人たちが知 ってお ります。 この御仁が 自説 を擁護す るため に『学術紀要』 中の例 [「求積 論」へ の書評]を
引 いて も無駄 で あ りま す。 とい うの も、私 はそ こに誰であれ人 を貶 め る ような もの を何 一つ 見出 さないか らで す。む しろ私は随所 に誰 もが相応の ものを得ているのを見出 します。私 も友人たち も、高 名なる流率法の発見者 は独力で私 どものそれ と同等の基本認識 に達 された とい う確信 を折 にふれ表明 して参 りました。 さ りなが ら、私は発見者 としての権利の主張 をゆるめるつ も りはござい ませ ん。[.¨]従
い ま して、私 は空虚 に して不 当 な怒号 を却 下すべ きか否 か は、貴方がたの正義感 に委ね ます。諸事万端 に通 じてお られる卓越 した人物ニュー トン御 自身、あの ような怒号 になびかれることな どなかろ うと思い ます し、氏 な らば、 この問題 について忌憚 な き御意見 を表明 されるもの と確信 してお ります。」(GM IM 586■:3,239■) こうした事態 に対す る対応 を会長ニュー トン本人に一任 した王立協会では、調査委員会 が設置 され、報告書が作成 される。1713年 1月 になって、当報告書が末尾 に収め られた書 簡集 (『ジ ョン・ コリンズ博士 らの高等解析 に関す る往復書簡』)が
公刊 され る。 そ こに は、 コリンズ所蔵の書簡類 (16691677年 までの書簡類)を
調査 した結果 として判 明 した 点が四点 にわた って列挙 され、 これ らを理 由 に、「ニ ュー トンが最 初 の発見者 で あ る こ と、キール氏が同 じ主張 を したか らといって、 ライプニ ツツ氏 を侮辱 したことにはな らな いこと」(Op.IV 588)と い う結論が記 されていた。 こうした結論 を引 き出せ る理 由 として 列挙 された第一点 は以下の ような事実認定 にかか わる ものであ った。す なわち「 ライプ ニ ッツが1673年初頭 ロ ン ドンにいた こと、そ う して3月 頃パ リに向か った こと、 そ こで 1676年9月 頃までオルデ ンバーグ氏 を介 して コリンズ氏 と文通 を続 けて後、 この折 ロ ン ド ンとアムステルダムを経由 してハ ノーファーに戻 ったこと。 また、 コリンズ氏がニ ュー ト ン氏や グ レゴ リー氏か ら得 た情報 を有能 な数学者 たちに惜 しみ な く提供 した こ と」(Op. IV 587■)こ
れである。第二点お よび第三点 における、1672年 12月 10付ニュー トンの書簡 お よび1676年 6月13日付書簡 (かの「前の書簡」)や
1669年の「解析論」へ の言及 を受 け て、第 四点 で は 問題 の核 心 に踏 み 込 ん だ指 摘 が な され る。「微 分 法 (the DiffcrentialMcthod)は
名称 と表記法 を除けば流率法 (thc Method of Fluxions)と まった く同 じであ ること、[.¨]し
たが って、 われわれが立て るにふ さわ しい問 いは [.¨]本
方法 の最初 の 発見者が誰だったかであ り、われわれの確信す る ところでは、 ライプニ ツツ氏 を最初 の発 見者 と見な している人 々は、彼 とコリンズ氏 との文通やはるか以前のオルデ ンバー グ氏 と の文通 について も、あるいはライプニ ッツ氏が ライプツイヒの 『学術紀要』 に本方法 を公 表 し始めた十五年以上 も前 に本方法 を手中に していたことについて もほ とん ど、いや何 も 知 らなかった。」(Op.IV 588)-19-Ⅲ 報告書 にあ る とお り、 ライプニ ッツは1673年初頭、確 かにロ ン ドンに滞在 していた。 シェー ンボル ン率いる外交使節団の随員 として。最初のロン ドン訪間中、 ライプニ ッツは まず文通 していたオルデ ンバーグを訪ね、 2月 1日 、王立協会の例会に出席するm。 彼 の 計 らいによ り、そ こにて 自作の計算器 を披露する機会が与 え られたか らであるm。
_週
間 後 に もライプニ ッツは同例会に出席す るが、(スリューズの接線 に関す る書簡が代読 され たのはこの折のことである)例
会後、モー レーに会い、それが機縁 となって、その翌 日か 翌 々 日、サ ミュエ ル・モー ラン ドと互いに計算器の実演 を行 っているD。 三年後の10月、 ライプニ ッツはロン ドン再訪の際、改良を加 えた完成品 を持参 し、一週間余 りの滞在 だ っ たため、例会での再披露 は叶わなかったものの、 これ をオルデ ンバーグに見せ、かねて よ りの約束 を果た しているゆ。再訪時の大 きな成果は、コリンズと面談できたばか りか、彼 の許可 を得て、ニュー トンの「解析論」の手稿お よび接線決定法の転写 を含むコリンズの 「史料」か ら抜 き書 きで きた ことであった。前者か らは、無限小 に関す る論 は無視 されて 級数展 開のみが、後者か らは接線決定法の具体例のみが書 き写 された'"。 ライプニ ッツがニュー トンの無限小 に関する論 を無視 したのは、「おそ らくはそれが彼 に とって は 目新 しい もので はなか ったか らであ ろ う」 と、あ る伝 記作家 は推測 して い るD。 実際、 ライプニ ッツはロ ン ドン再訪以前 に、パ リにて、無限小幾何学 における新 し い定理 (例の「変換 定理」)を
発見 していたD。 彼が数学研 究 において長足 の進歩 を遂 げ たのは、パ リ滞在期 (1672年3月 1676年H月
)、 とりわけ最初のロン ドン訪問か らパ リに13)Vgl J.E Hofmann,Dた
E′お″た〃″′gFg`sc力たみた ″θ″ι″ら″7zsc力ι″ ンИ″′力ι″α′ル ″クカ″″′desИ崚 ″″α′′ιS Pα″お
`′
672-767θ ,Minchcn 1949,S14;Lebcn und Werke von Gottfried Winhelm Lcibniz Eine Chronik,Bcrichtct von K,Miller und KIonncrt,Frankhrta M.1969,S 32.
14)E J Aiton,Lab′ ″ И3′
9g"″
,BHSt01 and Boston 1985,p44邦 訳 (エイ トン (渡辺正雄他 訳)『ライプニ ッツの普遍計画』工作舎、1990年)p74
15)あ″ 邦訳同ページ。「ライプニ ッツをヨーロッパの学界に知 らしめた第一の業績は、計算機 の制作であった。」「 ライプニ ッツの計算機の 『うり』 は、掛け算 と割 り算が機械的にで きる とい うことである。」佐 々木能章 『ライプニ ッツ術』工作舎、2002年 、pp.196‐206に、 ラ イ プニ ッツによる計算機の制作が単なる「エ ピソー ド」でないことが詳説 されている。 16)′らた1,p 66:チFヨ民p 103. 17)′わた1,p 67:チF言尺p 104 18)ん′こ:邦 訳同ページ。 19)パリでの数学 をめ ぐる知的交流の始 まりは、72年 秋におけるホイヘ ンス訪間だった。同一律 か ら級数の和 を求める一般的方法 を考案 していたライプニ ッツがホイヘ ンスにそれを告げた ところ、彼 はウォリスの 『無限算法』 とサ ン・ ヴァンサ ンの『幾何学考』 を読むことを勧 め、三角数の逆数か らなる無限級数の和を求めるとい う問題 を課 した。 この問題への取 り組 み と無限小幾何学への取 り組み とが微分積分学の発見につながってゆ くことは以下に述べ る とお りである。微 分法の発見 と神 の完全性 ニュー トン ーライプニ ッツ論争 戻 っ た1674年 秋20以降 の こ とで あ る。 前 年2月 ロ ン ドンにて ロバ ー ト・ ボ イル を 訪 問 した 際、 ラ イ プ ニ ッツ は数 学 者 の ジ ョ ン・ ペ ル を紹 介 されa)、 無 限級 数 に関す る 自 身 の 一 般 解 を提 示 した と こ ろ、 彼 か ら ル ニ ョーの解 がす で にムー トンの著書 に記 され て い る と指摘 され た2か 。 これ を暗 に剰 窃 の嫌 疑 をか け られ た と感 じた ライプニ ッツは、パ
A
りに戻 ってか ら自己の主張 を改 めて述 べ 、ペ ルの見解 を求 め た ところ、 回答が送 られ て き た。 これ を作成 したのが オルデ ンバー グの数学顧 間 を務 めていた ジ ョン・ コ リンズだっ た20。 無限級数の求和 をめ ぐる彼 との文通が きっかけ となって、 まる一年、 ライプニ ッツ は、 オルデ ンバー グとの約束 (計算器の完成品を送 る)を
そっちのけに して数学研究 に没 頭する。その成果の一つが「変換定理」の発見 にほかな らなかった。 これによって、算術 的求積す なわ ち有理数 を用 いた無 限級 数 に よって図形 の面積 を求 め る こ とが可 能 とな る2■ 。 これ は、 ライプニ ッツの指摘 す る ところに よれ ば (ホイヘ ンス宛書簡、1674年10 月)、「ヴィエ トやデカル トが直線幾何学の問題 を方程式 による数の計算に帰することを示 した」のに対 して、「 曲線幾何学の最重要な問題が どの ようにその幾何学か ら数列 による 有理数の算術へ と移 されるか とい うことを示す」(AA HI-1168:2,144)も
のであって、そ こで活用 されたのがパ スカルの「四分円の正弦論」(『デ トンヴ ィル宛書簡』所収)に
おけ る「微小三角形」の手法であった (図1参
照)。 ライプニ ッツはそれに倣 って、「 曲線の外 側に接線 を引 き、微小空間において、それが直観的に円弧 に一致す る とい う発想 を取 って いる」2・ 。「三角形の斜辺が無数に分割 された弧の断片になる」 とい うライプニ ッツに よっ て一般化 された「特性三角形」trianglum characterristicumの 発想 は、今 日われわれが見 る ことので きる史料中では、1675年末頃の もの と推定 されるデ・ロ ック宛書簡の下書 きに登 場す る20。 そこには、それは次の ように記 されていた。20)HOfmann,aaO,S102Eブ
′ `C力″′Jた,aaO,S36
21)Eブ″′cみ″″′た,aa.0,S32
22)Eiton,9ρ ε7/,p 44 ナ6副Rp 74 23)′らた1,p 48 チ率副民pp.79-80 24)林前掲 書p38ペ
ー ジ参照。 ライプニ ッツ自身 は「例 の有名 な算術 的求積 に思 い至 ったの は (思い出す こ とので きるか ぎ り)1674年だ った と回想 して い るが (晩年 の草稿 「微 分 算 の歴 史 と起源」GM V 401:2,320)、 実際 には彼 は1672年 末 にはす で に この問題 に取 り組 み、翌 年 にはす で にその成果 を得 ていた ことが判 明 して い る。林 同書p44,n19参
照。 25)林前掲書 p.55 26)同上参照。 E `ス
K R / / / ︲ C / R I 図1-21-―
「 こ こで私 の与 える定理 [変 換 定理 に よる算術 的求積
]は
、 あ らゆ る幾何 学 の 中で最 も 一般 的で、最 も可能性 を持 った ものの一つ です。 そ してそれ に よって放物 面や双 曲面 を含 め た既 知 のあ らゆ る図形 の求積 を幾何学的 に証明す るだけでな く、有名 な ウ ォリス氏 が 、 最 初 帰 納 法 に よっ て確 立 した だ けの無 限算術 の基礎 を証 明す る こ とが で きます。」(III-1, 361) ライプニッツのこうした知見は、今 日知 られているか ぎりでは、特性三角形の発想を接 線問題およびその逆に適用 しようとした一草稿 (1673年8月)2つ 以来の取 り組みの成果で あった。ライプニ ッツによる接線を見出すための計算のアルゴリズム化や独 自の記号法の 開発のプロセスを、われわれは1675年10月以降の求積解析論に関する彼の諸草稿によって辿ることができるが、カヴァリエリの
omn.に代えて考案された「和」を意味する記号∫
の導入、 またそれ と並んで「差」 を意味する記号 グの導入、お よび両者の操作が逆関係 に あること (「微分積分学の基本定理」)が
最初 に記 されたの も、 これ らの草稿の うちの一つ (「求積解析 第二部」1675年 10月 29日)に
おいてである2D。 新記号の導入 を含むほぼ一年 に お よぶ試行錯誤の末ついに、 ライプニ ッツは次の ような無限小解析す なわち微分積分 に関 す る基本公式 を確立す るに至 る。(GM
Ⅱ,140:2,239
なお記号 日は今 日の等号 に相 当す る)「
争 α
劉
.ま
た
逆
にぽ教日
井 」
この基本公式は、1676年10月 4日パ リを離れ、ハ ノーファーに向か う途上 (11月)に
執 筆 された と推測 される草稿 「接線の微分算」中に記 されることになった。 ここに、微分積 分 に関す る基本公式が記号法 とともに確立かつ定着 されていることをわれわれは確認で き る。 しか しなが ら、当時においては、実際にこうした成果が 『学術紀要』誌上 に公表 され るのは八年後の1684年 (「新方法)お
よび十年後の1686年 (「深奥 な幾何学」)の
ことであ る。前者の論文「新方法」(フル タイ トル「分数量 も無理量 も妨 げない極大 と極小、 さ ら に接線 に関す る新方法 な らびにそれ らのための特別 な計算法」)は
「 ライプニ ッツの微分 法のいわばマニフェス ト」a)と なっている。彼はまず図 (図2)の
AX,VX,WX,YX,ZX
をそれぞれ χ,ソ,″,ノ,Zと し、「差分」differcntiaの頭文字 グを冠 した 教,ル
等によって任意の微小線分 を指示 した上で、「
aが
与 え られた定量 とす る と、daは0に
等 しく、daxは
adxに等 しくなろ う、
yが vに
等 しい (つま り曲線yyの
任意の縦線が 曲線wの
それに対 応す る任意の縦線 に等 しい)な
らば、dyは dvに
等 しくなろ う」 とい う予想 を も記 しつ つ、加法 と減法、乗法や除法、幕や根の諸公式を提示 している。 これ ら諸公式 を提示 した 27)当草稿 の内容 につ いて は同上pp 63‐65参 照。 28)1875年10月 (「求積解析 第二 部」)か
らパ リを離 れ る翌年10月 までの取 り組 み (「記号的洗練 」 に対す る試行 錯誤)に
つ いて は林 同書 pp 66-72参 照。 29)「新 方法」訳者 (三浦伸 夫)解
説 (著作集2,308)。微分法の発見 と神の完全性 ニュー トンーライプニ ッツ論争 後、 ライ プニ ッツに よって記 された 自身の計算法 の意義 は次 の よ うな ものであ った。 「私が微分算
u酔
″″′ブα)と
呼ぶ、 この計算のいわばアル ゴリズム (И′ "″ お″0と
し て知 られた事柄 か ら、他のあ らゆる微分方程式が通常の計算 に よって見出 され、 また極 大・極小 さらには接線が得 られ る。分離量、無理量 または他 の根号 は取 り除 く必要が な く、 これ まで発表 した方法 によって、[計算が]行
われて然 るべ きである。」(GM M 222:
2,300) ライプニ ッツの微分算 の決定的意義 は、彼 自身、 アル ノー に対 して も強調す る とお り (1686年7月 14日付書簡GR
Ⅱ 61■)鋤、それが、先人 フ ッデやス リューズの計算法 の「煩 雑 さ」 を免れてお り、「分数や無理数 を苦 にせぬ」 ばか りか、彼 らのそれ、あるいはデ カ ル トの代数方程式で は処理不可能であった「超越的曲線」(サイクロイ ド、螺線、 円積線 等)に
まで適用可能 となる とい う一般性 にあった。 後者の論文「深奥 な幾何学」(フルタイ トル「深奥 な幾何学 な らびに不可分者 と無限の 30)前掲解 説 (同 pp.308‐310)にも引用 されてい る。 ―-23-―解析 について」
)に
おいて も、 この点に関 して、「超越的な問題 を計算 によって扱 うために は [.¨]私
の微分算すなわち不可分者 と無限の解析 (の たク/2rs″θα妨確κ′′ブαノ′sθνИ″αヶ,お ′″″ッおJιJ肋″ α″″θゴグがわ″″)以
上 に有効で簡単かつ一般的なものはほ とん ど考 え られ ない」(GM,vS.230:2,325)こ
とが強調 される。当論文では、クレーグが「バローの定 理 (軸上に取 られ、軸にあてはめ られた縦線 と曲線の法線 との間隔の和は最後の縦線の正方形の半分に等しくされる
)」を導き出そうとしながら、呆たせなかった課題も、∫記号
の導入 によって容易 に果た しうることが示 される。 「縦軸 を x,横 軸 を yと し、記述の法線 と縦線の間隔 をpとすれば、私の方法によって直ちに
pdy=xdxと
なることが分かり
[.…]方
程式を求和方程式に移せば、
∫
pdy=∫
Xdxとこ
こ
1`x群
11[lTfT「
[:去
よ
響
`
d';XX=XdXで
あ
る
こ
と
は
明
ら
か
で
あ
る
。
における幕と根のように、われわれにとって
は、求不
口と微分つまり∫と
dとは逆であるから
)。ゆえに∫
pdy=;xxと
なる。これが証
明されるべきことであった。
」
(GM M 231:2,326) ここに、公の もの としては初 めて、積分記号 な らびにいわゆる「微分積分学の基本定 理」が登場す るに至 った。今 日における微積分学の記号表記が ライプニ ツツのそれに倣 っ た ものであることは周知の事柄 だが、今 日の微積分学 に連なる18世紀末か ら19世紀初頭 に おける当学の数学的洗練が、ニュー トンによって 『プリンキピア』 に記 された幾何学的表 記、証明の代数記号化 を介 してなされたことも周知の歴史的事実である。 これは「歴 史の 皮 肉」 と言 うべ きか否か。以下、 この問題 につ いて、ニ ュー トンによる「流率法」 の形 成、確立過程、『プ リンキ ピア』 における幾何学の意味す る ところ と問題点等 を見なが ら 考 えてみ よう。 Ⅳ ライプニ ッツ同様、ニュー トンも大学 (ケンブ リッジの トリニテ イ・カレッジ)で
は新 しい数学や 自然学の教育 を受 ける機会 をもてなかった。当時において もなお、大学では中 世以来の旧態然たるカリキュラムに基づ く教育が なされていたためである・'。 ニュー トン は自身の興味か ら先人たちの数学書や 自然学書 を読み漁 り、独学によって「一世紀の間に 達成 された ものを自分の ものに し、 ヨーロッパの数学 と科学の最前線 に身を置いたのであ る」3"。 なん とまだ22、 3歳の無名の学生が流率法 (すなわち微積分法)を
発見 していた。 いや、それ どころか、彼 は同 じ時期 に重力の逆 自乗法則 をも発見 し、新たな色彩理論 まで 打 ち立てていたのだった。後年「驚異の年」anni miabilesと 呼ばれ ることになる「1665 31)拙著 『ニュー トンとカン ト』pp l18‐9参照。 32)R S Wcstfan,9′ `″ .,p・ 144:チ5訳I,p158
微分法の発見と神の完全性 ニュー トンーライプニッツ論争 年か ら66年のペス トの二年間の こと」3)すなわち大学の閉鎖期、故郷 ウールスソープでの ことである。 ニュー トンが流率法 を発想 した起点は、 自身の回想によれば、デカル ト『幾何学』 ラテ ン語訳 第二版 (155961年
)に
付加 され た論文 で知 った「 フェルマ ーの接線法」 にあ っ た。 これ を、 ニ ュー トンは「正 逆 二つ の仕 方 で抽 象 的 な方程 式 に適用 し一般 化 した」(MPI,149)の
だった。その際、彼 は同 じく同書の他の付属論文 に登場す るフッデの重根 発見法におけるアルゴリズム (デカル トのアルゴ リズムの簡素化)を
も利用 している")。 いずれにせ よ、1665年秋、 ウールス ソープにて執筆 された と推測 され る手稿 に、「流率法 の基本命題」 と称すべ き命題がはや くも登場す る。図 (図3)に
おいて、 「 もし二つの物体c,dが同 じ時間に直線ac,bdを描 き(ac=x,bd=yで
、pは
cの運動、qは dの
運動 としよう)、 そ してac=xと
bd=yの
関係 を表す方程式があ り、それ らの項 全体 はゼロに等 しくおかれているとしよう。その方程式の各項 に、その項でのxの
次数倍 のwあ
るいはIを
掛 け、 さらに、その項でのyの
次数倍の ぃ あ るいは子を掛 け よう。 そ れ らの積の和が、cとdの
運動の関係 を表す方程式である。」(MPI,344) 見 られるとお り、ニュー トンはこの時期すでに次の点に気づいていた。す なわち、二様(:を
i署
i使
讐 ξIII13,夕 ];;1皇
とを貴卜で曇 記すれ1よi器バ 機象量
i機
分)と
それ らの総和 (積分)と
が逆の関係、演算 になる とい うこと (いわゆる「微積分法 の基本定理J)、 これ らである3つ。 ここで決定的に重要 なのは、新種 のアルゴリズムを用い つつ も、基本量が無限小解析 における幾何学的直観の直証性 を残 した まま運動学的に処理 されている点である。先 に注 目した 自身の回想中、ニュー トンは自身の流率法に示唆 を与 えた人物 としてフェルマーの名のみ を挙げているが、「連立方程式の重根条件 によって接 線 を求めるデカル ト・フッデ流の代数的方法 と、接線 を、曲線上の異 なる二点 を通 る割線 の 『極限』 とみなす フェルマーの無限小解析的方法、そ して、曲線 を運動す る点の描 く奇 跡 と捉 え、接 線 を点 の速 度 と関係づ け るロベ ル ヴ ァー ルの運動 学 的方法が共存 して い 図3
33)ULC Add.39684185■
(ニュー トン自身の証言)Quatcd by D T Whitcsidc,“ NcwtonsMavcllous Ycar:1666 and an that,"in:Noras α′グRιεο,べら′R9ノα′Sοεブιクο′ιο′滅ο′,21(1966),
p 32
34)高橋前掲 書 pp 44-47参 照。 35)高橋 同書pp 61‐63参 照。
た」鉤当時において、ニュー トンはこうした共存状況を「運動学的方法」に収飲 したとい うことになろう。「流量」および「流率」 という術語 もこうした態度か ら案出されるに至 る。これ らは、 自身の流率法について包括的な解説 (「もっとも野心的な解説」 3つ
)を
試み た数年後の論文 (167071年 冬執筆 と推定される、通称「級数と流率の方法について」)の
中で初めて用い られる。そこで も要点は、変量が「無限小成分の集合体ではな く、点、 線、面の連続的運動によって生成 されるもの」鋤 と見なされる点にあった。自身の流率法 の基礎 となるべ き問題は次の二つ。加速であれ減速であれ任意の位置運動によって描かれ る空間に関して、 「 1.空 間の長さが連続的に (すなわち全時間に)与
えられるとき、指定された時刻の運動 の速 さを見出すこと。2.運
動の速さが連続的に与えられるとき、指定された時刻に描かれた空間の長さを見出 すこと。」(MP III,70) 問題 1は 接線の作図 (微分問題)に
関連 し、問題2は
求積問題 (積分問題)を
扱ってい る。 これ らの問題 を解 くために、具体的に言い換えると、「増加 と減少の速さ」を「互い に比較」するために、ニュー トンはまず、位置運動 において基準 となるべ き「時間」 を 「均等な流れで増加する」「ある量」 として想定する。「時間が均等な位置運動によって表 示 され測量 されなければ、われわれは時間を評価できない」(MP HI,72)か
らである。 こ こには じめて、 ニ ュー トンの流率法 に特徴的な「流量」■uensと い う術語が「流率」 nuxl。 とぃぅ術語 とともに登場する。「知覚 されはするが無際限に増加すると私の見なす 諸量 を、任意の方程式において既知、定数 と見なされ、a,b,c等
の最初の文字によって表 記 される他の諸量か ら区別するために、私はこれ らを流量と呼び、最後の文字 ッ,χ,ノ,Zに よって表示する」。 これに対 し、「流率」は、「流れる運動・生成する運動によって増加す る速さ」の呼称 として用いられ、文字 ′,″,″,パこよって表記される (め″)。 このように、ニュー トンは独立変量 としての流量を仮定し、これに対応する流率 (変化 率)を
求めたが、「彼はこの概念を駆使 して、現代の微分積分学で扱われている多 くの結 果を導出したのである」39。 前掲の問題 1は 、「流量の相互関係が与えられたとき、流率の関係 を決定する」 もので あ り、今日では、所与の関数か ら微分方程式を作成することに相当するものだが、その解 法はすでに「1666年10月論文」の命題7で
論 じられた「流率法の基本命題」 と同値であ 36)長岡前掲論 文p l10. 37) Wcstfall,ο′ εJr,p 226:す『尋RI,244
38)高橋前掲書 pp 1211 39)高橋 同書p124
高橋 は実例 と して次の もの を挙 げて い る。「 曲線 の接 線 、 曲線 の面積 と長 さ、極 大 と極 小、 また直交座標 と極座標 において 曲率半径 を求め る公式、 曲線 の 曲率 を見 出 す こ と、微分方程式 な ど」(同ペ ー ジ、注85)。微分法の発見 と神の完全性 ニュー トンーライプニ ツツ論争 り、ここ「方法論」 において新 しいのは、先の論文における「物体が瞬間に描 く無限に小 さい線」 とい う規定 に代 えて、「流量のモー メ ン ト」が次の ように定義 され、活用 されて いることである40。 「流量の諸モーメ ン ト (すなわち付加 によって無際限小時間間隔 に増大す る無際限小諸 部分
)は
、それ らの流れの速 さに比例す る。 したがって、 もし何 らかの流量 χのモー メ ン トがその速 さ 〃 と無限小量 οとの積 (すなわち “ο)│こよって表示 されるな らば、′ο,″ ο, ″ο,Ю が互いに ノ,″,′ ,′ に比例す ることか ら、他の ッ,ノ,z[・¨]の
モー メン トは あ,′ο,″ [.¨]に
よって表示 されるであろう」。 ここで比例定数的な役割 を も果 た してい る οは、「時 間」 の基本変量 をtと とれ ば、 ラ イプニ ッツに由来す る現代的表記の 洵 に相 当 し、モーメン トわ,″ο,″ο,Ю は変量 ν,χ ,ノ, zの「無限小増分」Jl・,教,の,ル に相 当す る4)。 「方法論」の うちわれわれは最初 の微分問題 のみに注 目したが、 この論 は問題 としてな お、極大極小問題や曲線 の接線問題 (問題2と 3)、 さらには曲率問題 (問題5と6)な
らびに求積問題 (問題7-9)や
他 の曲線諸問題 (問題1012)等
を扱 っている長大 な論文 であったばか りか、級数 と無 限小量 に基づ く巧 み なアル ゴ リズムに よって時代 の「新解 析」 に一時期 を画す るもの となっていた。それゆえ、後年の歴史家か ら、 もしこれが公表 されていれば、「それはまさしく当代 において数学的革命 をもた らしたであろ う」4'と評 さ れることになるほ どの ものであったに もかかわ らず、他の主要諸論文 (「解析論」(1669年 執筆)や
後年(169193年
執筆)の
「求積 論 」)同
様、 これ らの 中 間 に位 置す る当論 文 (「方法論」(167071年執筆)も
また執筆時 には発表 されなかった。ある数学 史家の判断 に 従って言 えば、それは、 自身の論文 に「不満」 を感 じていたためであろ う4)。「完全主義 者」の「完全主義者」たる所以 と言 うべ きか。 しか しなが ら、 こうした何事 に も徹底 的に 拘 る彼の性格が、後年、上 に見た ような先取権 を巡る論争 を引 き起 こす種 となったばか り か、それ を紛糾 させ る要 因 ともなった。加 えて、ニ ュー トンは、 ライプニ ッツの ように は、従来の無限小幾何学か らの決定的な切断 を完全 に遂行 したわけではなかった。いやそ れ どころか、彼 は後 には無限小の増加分 を1,夕 と表記す るとい う記号代数学上の工夫 をな お凝 らしなが らも (「求積論」169193年
頃執筆、MP VII,64,131)、 何 と古代 ギ リシア数 学の伝統へ と回帰するに至 るのである。 40)高橋 同書 同ペ ー ジ参照。 41)同上p126参照。 42)A R Hall,9′ cfr,p19 43)ボイヤ ー は流率法 に関連 す る「解析論」「 求積 論 」「方法論 」 の三作 と も、ニ ュー トンが発 表 しよ うとなか った理 由 を「主題 の論理 的基礎へ の不満足」 に求 めてい る。C B Boye■
ttθ ′力s′ο7q′′たCαたノ霞 α″′Jな Cο′ `q′rara′Dθッι′9ρ″`″,Ncw York 1959,p202 ―-27-―V
ニュー トンにおける古代への回帰は数学の領域に留 まるものではな く、神学の領域 にお いて も顕著 に認め られる。彼の神学研究は1670年代初頭か ら続 く80年代の半ば までのほぼ 十五年 間、錬 金術研 究 と並 行 して集 中的 に行 われ、『プ リンキ ピア』 執筆期 に中断 し、 1700年代の終 わ り頃 に再 開 され る40。 同書 第二版 に付加 された「総注」 に、「主 なる神 」 dominus Deus「万物 の支配者」薇″っψ′τωρなる神 とい うア リウス派的な神概念が登場 す るのは、神学研究三、四年後 (1713年)の
ことである。 「 この至高の存在者 は、宇宙霊魂 としてではな く、万物の主 として万物 を統治す る。そ してその支配のゆえに、主 なる神 (dominus Dcus)、 万物の支配者 (Πχντοψ′τηρ)と
呼 ばれるのが常である。 とい うの も、神 とは相対的な呼び名であって、僕 にかかわるか らで ある。」(P■,780) ア リウス派 にあっては、神す なわち創造者 とイエスをも含めたすべての被造物 とは峻別 されてお り、父なる神の支配力 とイエスをも含めたすべての被造物のそれへの従属が強調 されていた4,。 この点、ニュー トンは神学研究 を再開直後 (おそ らく1710年頃)枷 執筆 し た と推定 される草稿 『かつて成人に告げ られた信仰 について』 の中に次の ように記 してい る。「神が うπαソ770ψ′τωρ[万物の支配者]全
能者 と呼ばれるの も、彼 らがそれを、形而 上学的な意味で、万物 を無か ら創造す る神の力 と見なすか らであ り、彼 らがそのように見 なすの も、それが、われわれに従属 を教える力、万物 を支配す る抗 し難い君主的な力 をお もに意味 しているか らである。[.¨]神
とい う語 は相対的 な ものであ り、主や王 と同 じも の を意味 してはいる ものの、実 は もっと高度なそれを意味 している」4" 今 日知 られているとお り、ニュー トンは神学研究 をス ター トさせた頃すでにア リウス派 (三位一体説 を否定 した派で、むろん異端派)に
なっていたが、それは教会史研究 と教父 哲学研究による ものであった。その後、彼 は研究の重心 を旧約聖書 における預言書お よび 異教神学の起源の研究 に移 している・ 。 こうした研究 を通 じて、彼は歴史の手垢 にまみれ る以前の起源の純粋 な崇拝、純粋 な神概念 に至 りついている。80年代半ばの手稿 『異教神Cf R S Wcstfall,“ Ncwton's Thcological Manuscript," in: Z Bcchlcr(cd), Cο ″r`″′ο″αツ
New′ο′′α″Rasια “
εた,Dordrccht/Boston/London 1982,pp 138■
Ci J E Forcc,“Ncwton's God of Dominion:Thc Unity of Ncwton's Thcological,Scicntinc,and Pol■ical Thought,"in:Id&R H Hopkins(cds),おs`ッsο″r″
`Cο″′α′,Nα′″で,α″′
1…
`″εθ グ お′αεⅣι″わ′'sηりιο:Oy,Drotrecht/Bsoton/London 1990,pp 781
Ci′ ら′′,p96,n 12
Yahuda MS 15 5 Cited by F E Manuel,7/7′R′′ぼ ο′げ おααιⅣθ″ゎ″,Oxford 1974,p21
Ciめ
″,p136
なお 、 次 の 論 考 もユ ニ テ リア ン (アリウ ス派)と しての ニ ュー トンの 神 概 念 を丹 念 に掘 り起 こ して い る。J Force,“Newton's God of Dominloni[¨]"in:Id&RH.
Popkin(cds),op cit.,pp 75‐102 44) 6 ワ ′ 8 4 4 4微分法 の発 見 と神 の完全性 ニ ュー トン ーライプニ ッツ論争 学の哲学的起源』 によれば、キ リス トは他の預言者たちに続 く一預言者 としてやって きた にす ぎず、それ も人 々を起源の純粋 な崇拝 に引 き戻すためであった。ニュー トンはこの起 源の純粋 な崇拝 として、(われわれの堕落以前 の
)ノ
ア とその子孫 によるそれ を考 えてい る。彼 らこそ、真の唯一神、宇宙の倉1造者 を崇拝 したのだった4い 。 さらに興味深 い こ とに は、古代 に存在 したはずの真の宗教 に、われわれは自然研究 によって接近す ることがで き ると彼は考 えていた。『光学』「疑問31」 (1717年、初出は1706年の ラテ ン語版の「疑問23」) の最終パ ラグラフで も強調 されている とお り、 われわれ は「 自然哲学 によって」 自然の 「第一原因」 たる神お よびその「知恵」 を知 り、 さらには「われわれの神 に対す る義務」 をも知るのである(Op lv 264)m。
かの先取権論争 に続 いて再燃 した ライプニ ッツ との 論争 (自然神学論争)に
おいて、 こうしたニュー トンの宗教的信念、確信 と、それ と緊密 に結びついた自然観が噴出す ることになるの も当然の ことであろ う。以下 に触れなければ な らない数学の領域 における ドラステ イックな大転換 もまた、 こうしたバ ックグラウ ン ド あってこそ生 じた ものだ とい うことをここで強調 してお こう。 神学研究の開始期 と重 なる1670年代初頭、ニュー トンはデ カル トの 自然学 (『哲学原理』 第二部、第三部)を
批判 し始めるとともに・ )、 彼の数学 (『幾何学』)│こ対 して も批判 を加 え、すでに開始 していた古代ギ リシア研究 にのめ り込み、それが都合十年以上 (1678年頃 か ら80年代半ばお よび1691年か ら95年)も
の長 きにわたることになる5,。 それは、70年 代 後半に草 された手稿 (「古代人の立体軌跡 問題の解法」)で
の弁によれば、デカル トたちの 代数計算 の「嫌悪 を覚 えるほ どの冗長 さJに
対す る古代 の比例論 の「単純 さ」「優 美 さ」 にあった (MP IV 2761)。 彼 はこの ように古代ギ リシア数学の優越 を確信 し、記号操作 に 頼 る近代の代数解析 的な方法 を退けて、直観的厳密性 を備 えた古代の幾何学的な総合 的方 法 を採用す るに至 る。周知の とお り、彼 の主著 となった 『プ リンキ ピア』 の数学 的部 門 (第 1篇お よび第2篇
)は
幾何学的証明で埋 め尽 くされている。 この点、『プ リンキ ピア』 第一版 (1687年)の
「序言」 は きわめて象徴 的で、ニ ュー ト ンは自著の主題 をパ ッポスの 『数学集成』(古代 ギ リシア数学の集大成)つ における機械学 に関する議論 に即 しつつ提示 している。「序言Jの
冒頭 は、「古代 人たちは (パッポスによ れば)自
然研究 において機械学 を最重視 した」(Pr,15)と い う文言 か ら始 まってい る。 パ ッポスの所論に倣いつつ、ニュー トンが古代機械学について解説するには、古代人たち は「機械学」 を「理論的な」それ と「実践 的 な」それ に分 けたのだったが、彼 らに とっ 49) 50) 51) 52) 53) Cfめブ″,p.137 以上、 関連 問題 を も含 め、前掲拙 著 『ニ ュー トンとカ ン ト』pp 94-100参 照。 手稿 「重力論」 において。 ただ し、 ここで もなお「力」 の概 念 はデ カル ト的 な もの に留 まっ ていた。 この点、 同拙 著 『ニ ュー トンとカ ン ト』pp 29-35参 照。 高橋前掲書 pp 149-156,235-237参 照。 拙著 『 ドイツ自然哲学 と近代科学』 北樹 出版 、1990年 (増補改訂版1997年)pp 78-80参照 。 一-29-―て、厳密 な研究 を事 とする「幾何学」は前者 に属 し、後者 は実用的な「手工芸術」 にほか な らなかった。 この意味で、両者 は対立関係 に立つ。「職人たちは精度の低い仕事 をす る ものだか ら、機械学 は何であれ幾何学か ら区別 されて、精度の高い ものは何であれ幾何学 と呼ばれる」。「幾何学の誇 りとする ところは、仮のご く少数の諸原理か ら、要求 された き わめて多 くの ことを成就す ることにある」。だが他方では「幾何学 は機械的実践 に依存す るものであって、測量術 を精確 に提示 し証明す る一般機械学の一分野以外のなに もので も ない」(め″)。 ニュー トンの主著の主題 も、こうした機械学の広狭二義にかかわる。それ は「力」 を扱 うためである。 ただ し、それは、古代人たちの「手工芸術 に属す る五つ の 力」の ような「手先の力」ではな く、「 自然の力」 を扱い、 しか もその際、「術 よ り哲学 を 考慮 し」、「哲学の数学的諸原理」 を解明する。その理由は、理論的機械学す なわち自然の 「哲学の全困難が、運動諸現象か ら自然諸力 を探究 し、次いで これ ら諸力か ら残 りの諸現 象 を証明す ることにあると考 え られるか ら」(Pr.,16)で あった。 この ような考え方 に基づ いて、ニュー トンの主著は、数学的証明にあて られる最初の二篇 と、その実例が挙げ られ る最後の篇 とい う全二篇か ら構成 される (め″)・)。 『プ リンキ ピア』 の企図す るところは、要言すれば、「位置の時間による三階微分 と力 と の関係か ら全運動の叙述 を目指 した」 もの と言 えるであろうが、 こうした企図のためにこ そ考案 された代数解析的流率法は、それにもかか らず、当主著 には登場 しない。数学的証 明の出発点 に置かれているのは、古代的幾何学の比の理論 に近世的極限概念 を重ね合わせ た ものである。『プ リンキ ピア』 の叙述は、存在論的な直観 に訴えることがで き、かつ厳 密 な証明が可能 な「幾何学的流率法」 に基づ くものだか らである。そこで中心的な役割 を 果 たす もの、それが、かの「最初の比」 と「最後の比」の理論 にほかならなか った。『プ リンキ ピア』の全幾何学的証明のための出発点に置かれる「補助定理1」 は次の とお りで ある。 「諸量お よび諸量 の比 は、それ らが任意の時間内に絶 えず等 しくなる方向に向かい、そ の時間終了前 に、任意に与え られた差 より互いに近づ くとすれば、最後には等 しくなる。」 (Pr,73) この記述 を見 る限 りでは、当定理 は「読み ようによっては現代的な ε―δ論法の先駆 と も、極 限値 の定義 の整合性 の主張 ともとれるのだが、その後の叙述の展開か らす る と、 『か ぎりな く近づ くものは究極 には一致す る』 とい う極限についての近世的楽観 と見 るべ き」5,かもしれ ない。 しか しなが ら、全部で十一個か らなる「補助定理」 の提 示 にお い て、ニュー トンは不変量、定量のみ を扱 う古代幾何学 における存在論的確実性 と論証の厳 なお、以上 につ い て、 同書pp 791お よび前掲拙 著 『ニ ュー トンとカ ン ト』pp 45 286‐ 289 参照。 長 岡亮介 「 ニ ュー トンの数学 」 吉 田忠編 『ニ ュー トン自然哲 学 の系 譜』 平 凡社 、1987年 、 pp 1201 54) 55)
微 分法 の発 見 と神 の完全性 ニ ュー トン ーライプニ ッツ論 争 密性 を尊重 しなが ら、変量 を究極的状態 において扱 うために苦心惨愴 を重ねていることに 鑑みる と、「近世 的楽観
Jと
い う見方 にはなお議論 の余地が残 されているように思 われ る"。 ともあれ、ニュー トンは近代的な代数学的記号操作の冗長 さを嫌い、古代幾何学の 単純 さ、優 美 さゆえに、それ を尊重 し、『プ リンキ ピア』 での数学 的論証 を幾何 学 的 に 行ったには違いないが、古代幾何学の論証の煩雑 さに対 して無 自覚であったわけではけっ してな く、む しろ「補助定理」 を「古代幾何学者 たちの冗長で退屈 な証明のつ まらぬ演繹 を避ける」 ために、 自著の冒頭 に掲 げたのだった。「補助定理」 は最初のそれの他 に十個 加 えられている。そ こには古代幾何学 とは異 なって、時間が幾何学的諸量の変化 に応 じて 二様に介入 して くる。一つ には、連続量 に対 して継起的に行われる操作の離散的な時間で あ り、い ま一つ には、諸量 自体の生成 に起 因す る連続的な時間である5"。 この観点 に立 て ば、第2か
ら第5の
「補助定理」 を前者 として一括 りに、第6か
ら第11の「補助定理」 を 後者 として一括 りに捉 えることがで きるが、前者 はいわば「積分の補助 定理J、 後者 はい わば「微分の補助定理」 となっている5い 。 自著の第一篇 第一章の末尾 に置かれた「注解Jに
よれば、古代幾何学 の証明の煩 雑 さ は、近代の「不可分量の方法」 によって簡略化で きはす るが、 この「仮説」 は「あ ま りに 粗雑」で「非幾何学的」で しかな く、両者の難点 を回避するために、 ニュー トンは 自身に よる証明を「消 えゆ く量の最後の和 と比お よび生 まれ くる量の最初 の和 と比す なわちそれ らの和 と比 の極 限 に帰着 させ る こ とに した」(P■ ,86.)。 これが、 いわば「幾何 学 的流率 法」 における「最初 の比」 と「最後 の比」の理論 であ る。 この理論 に基 づいて、 た とえ ば、「補助定理2」 では、 曲線図形の面積が内接す る多角形 と外接 す る多角形の極 限 にな ること、相似 な図形の面積比が相似比の二乗 になることが証明 され る し (Pr,73■)、 ある いは「補助定理7」 では、「弧、弦、接線相互の比 の極 限は1に等 しい」(P■,78)こ
とが 証明 される。 自身の構築 した流率法が幾何学的に、すなわち比 の理論 として明示的に提示 されている のは媒質中の運動 を考察す る第二篇である。その第二章の「補助定理2」 は次の とお りで ある。「ゲニ タのモー メン トは、そのゲニ タを生ず る各辺のモー メン トに、それ らの辺 の ベ キ指数 とその辺の係数 を掛 けて得 られ る ものに等 しい」(Pr,364)。 ここに「 ゲニ タ」 genitaと称 されている ものは、ニュー トンの解説 では、「不定かつ流動 的 な もので、絶 え ず増大 または減少 している流 れの運動 の ような もの」(め″)と
され るか ら、十六年前 に (「方法論」1671年執筆)「流量」auensと 称 されていた もの に同 じであ る。「モー メ ン ト」momentumの
場合 も同論 (「方法論」)│こ等 しく、それは「量の瞬間的な増 し高 または減 り 高」(め″)で
あ り、「今 まさに生 じつつ ある有 限な大 きさの初源」(P■,365)い
わば「極 56)この点 につ いて は高橋前掲書pp 208‐211参 照。 57)Dc Gandt,9 εJ′,pp 224f高橋 同書pp 2091参照。 58)′らた湾,p 425:ナ6ヨ民II,pp 464 ―-31-限的増分」 に相当する量 にほかな らない。それゆえ、いかに微小であれ、有限量は「モー メ ン ト」ではない と注意 されている。 ライプニ ッツと異 な り「微分量 とい うものの形而上 学的・存在論的基礎 に神経質でそれを操作主義的に扱 わない」5"ニュ
_ト
ンは「当補助定 理では、モーメ ン トの大 きさではな く、生成 される最初の比 (prima nasccntium proportio)が見 られている」(P■,365)と 断っている。 「最初の比」であれ「最後の比」であれ、いわば「瞬間的生成量」 としての量概 念その ものは、直観的に理解で き、ニュー トンが実際 にそ うしたように日常言語 によって説明で きる ものではあれ、「極 限値 についての近世的楽観」 に立 たないか ぎり、処理不能な もの ではなかろうか。 この点 に関す るか ぎり、実在 との厳密 な対応関係∞)を棚上げ し、記号的 操作 の有用性 に自覚的につ き従 ったライプニ ツツm)の側 に、実際上 は分があったようであ る。周知の とお り、ニュー トン以後の解析学の歴史は、記号表記 を含め、ライプニ ッツが 指 し示 した代数学的記号操作の方向に沿って進 むことになった。ただ し「皮肉」なこ とに は、それは、ニュー トンが 『プ リンキ ピア』 に幾何学的言語 によって記 した世界像が代数 学的言語によって書 き換 え られ、洗練 される過程 として、そ うなった。オイラー、 ラグラ ンジュ、 ラプラスたちが遂行 した歩みである6"。 59)山本義隆 『古典力学の形成一一 ニュー トンか らラグランジュヘ』 日本詳論社、1997年 、
p102
60)興
味深いことには、後年、ヘーゲルは、この関係 に拘 って 『プ リンキピア』 におけるニ ュー トンの最初 と最後の比の理論 を批判することになる。拙論「ニュー トンとヘーグル」『現代 思想』ヘーグル特集号参照。61)彼
はオランダの神学者ニーウェンテイ トか ら自身の無限小解析に対 して、厳密性 を無視 した 便法にす ぎない とい う趣 旨の批判 を受けた際、 自身の方法が「推論 を簡略にする理想概念 と して、 とにか く役立つ」(GM Iv 92)と
反論 している。ただ数学 と自然学 (と りわけ運動 学)との関係の問題 として注 目すべ き点は、ライプニ ッツが両者をつな ぐものとして、彼 に とっては形而上学的な根本原理である「連続律」が持 ち出されていることである。(高橋前 掲書 pp 173-188参 照)。 さらに注 目すべ きことは、ヘ ヒ トも指摘す るとお り、ライプニ ツツ が無限小計算 を幾何学 と自然学 とを結合す る手段 と見 な していたことである。H Hccht, Gοrr/rブ″ ″7ル′′″ ι′′b″レ ル麟″ `″α′ル ク′グNα′ν″ おs′′ε″st′ ′″Pα″″g722αグιr i々′`ψみガル, Stuttgart‐Lcipzig 1992,S.98 ただ し、こうした問題点をニュー トン説の観点か ら見直 してみれば、座視できないある相 貌が浮かび上がって くる。すなわち「ライプニ ッツの微分法が不連続性、モナ ドの計算 だっ たのに対 して、ニュー トンは流れの連続性、時間とかかわつていた。微分算は相対的な もの に属 し、流率法は絶対なものに属す と言ってよかろう」(ARH・
all,の c″,p258)。 この よ うに両者の相違 を強調す るホールは「流率法が1670年 代、1680年 代にヨーロッパの数学界 を 席巻 していた とすれば、数学の発展は違った ものになったのではなかろうか」(め″)と い う 問いを投 げかけている。 また、ニュー トンの場合、今 日なお指摘 されること稀だが、神学 と 数学 と自然学 とが一体 をな していたことも看過 されるべ きでなかろう。 この点、J Forccの前掲論文Nc前on's Got of Dominion(pp 83‐
90)が
優れた洞察を加 えている。62)近
年の発見 (1967年の フェルマ ンの発見)に
よる と、興味深いことには、『プ リンキ ピア』刊行年 (1687年
)に
ライプニ ッツ自身も、この書の幾何学を代数学 に書 き換える試みを行 っ ていた。筆者が所蔵するのは次の仏訳。EA.Fcllmann(ed et t fr dCJ.E.Cou■inc),C″ ιιjら″74‐,ル″なレクノ′αレⅣθ″′ο″′P″′′
微分法 の発 見 と神 の完全性 ニ ュー トン ーラ イプニ ッツ論争 Ⅵ 皮肉と言 えば、 ライプニ ッツの死 (1716年、70歳