チベット訳 J ガルヤルコトヲルワ
㈹叩論日。云何得し知し有二染汚心一。︹論日o︺云何にして、その染汚の意が︹六識とは
lノワクスルヤノヲ
繰日。以二何道理一、能成冥立此義一。別に︺有ると知られるか。若しそれ︵染汚意︶が無
シケレパノガ ハチズカラクリト 論日。仙若無二此心一濁行無明則不レ可レ説し有。いならば、仙不共無明が無いという過失となるからトハノンシダズシテ
ヲク
鐸日。濁行無明其相云何。若人未し得二対治道一、能である。また②︹第六意識と︺五︹識︺との類似性フルワワク
トノハナニズルニワ
障二実麓一惑名二濁行無明一。此無明於二五識一非し有。何が無くなるという過失になる。このように五識身の ナノニシラパ ニズハスコトワワテノニシレ 以故、若人在二於五識一不し能し為し障。何以故、若是対倶有依は眼等︹の識︺であるからである。また③語ノズルハチレナレパナリテモノーレズルーワ
治道生虚、則是障庭。於二染汚意識一此亦非し有。何源学的解釈が成立しなくなるという過失となる。さ テノニシテノミノーニスペキガナリ ノトシテニ 以故、但由二此惑一心応二染汚一故。與二餘惑一相応共らに側無想︹定︺と滅尽定との差別が無くなるとゼバノハチズゼシガカバハテ二
行、濁行名則不レ成・若汝説下第六識由二濁行無明一染いう過失になる。なぜならば、無想定は染汚の意に 真諦訳﹃摂大乗論世親釈﹄における増広部分の検討︵二︶︵岩田︶真諦訳﹃摂大乗論世親釈﹄における増広部分の検討︵二︶
l釈依止勝相品︵所知依章︶I
※本稿は﹁身延論叢﹄第五号所載の続稿である。
岩田諦靜
真諦訳﹃摂大乗論世親釈﹄における増広部分の検討︵二︶︵岩田︶
ストチ。、二ズナラテノハルワラクワマ
汚上。則第六識一向不二清浄一。以三此無明不二暫息一、よって顕われるものであるのに対して、滅尽定は ガガゼンヤワテノ ハニトスルヲニシ
云何施等心成し善。以下第六識恒與二無明一相応上故。若︹それによって顕われるものでは︺ない。そうでな リテカバハトシテズトノニハチリ シ 有し人説一心與レ善相応生一、此人則有二過失一。若第六ければ、この二種︹の定︺は無差別となるからであガニーレパセチズイテワズルワシリテカバ
識恒被二染汚一則不レ得下引二対治道一生上。若有レ人説三染る。⑤若しもその無想︹天︺においても我執と我慢 ノ卜・ンテリトノノハクスルガヲ二
汚心相応有二別善心一、此善心能引二生対治道一故、染とが無いとすれば、無想︹天︺に生ずる間中に染汚 ハチスシサパノヲチシ汚心即滅。若作二此説一則無二過失一。︹意︺は存在しないという過失になる。また⑥善と
論日。②與二五識相似雌涜暎翰似眺嘩此五識不善と無記の心の中にも、一切時に我執があまねく
二ニリノ
ユルノナリ共一時有二自依止一・謂眼等諸根。起るけれども、善︹心︺と無記︹心︺の中には︹起
水クノハノニニルガ卜
鐸日。猶如三眼識等五識、眼等五根同時為二依止一、意ることが︺が無いからである。識雌嚥瓦同暁樅止。若不レ立二餘識一、亦無一此依それ故に、︹染汚意が六識とは別に有って、その︺
シレバテヲケンノ
クノクシテルガズルコトヲそ二L
止一。如下眼識無二依止一不し得七生、意識亦応レ爾・倶有︹依︺によってあまねく起ることと、︹種々の 二ノハニカルルコト論日。⑧復次、意名応し無し有し義。心と︺相応してあまねく起るならば、以上のような
ガキヤ シテテノヲサバトレダリテノミシ 穏日。云何無し義。若立二前滅心一為し意、此但有し名無し過失が有るのでは無い。ワテノニハテワストテノーガキヤシ
義。何以故、意以二了別一為し義。於二無中一云何可レ立。ここに︹四つの︺偶頌がある。 是識腿斉識一前己癖叩此審燐莞搾醜吟得。不し能二了別一。a、︹若し、染汚意が無いならば︺⑩不共無明と ズハスルコト テノキワナリ以レ無し体故。②五︹識︺との類似性があると、⑧︹無心の二︺
一一 卜トハニルルコトリワナノ 論日。側復次、無想定滅心定、応し無し有し異。何以定の差別と⑥語源学的解釈が無いとの過失となる。 (妬)一一
ハノノナルモ
ハズラシレパラ 故、無想定有染汚心所顕、滅心定不レ爾・若不レ爾、b、⑤無想︹天︺に生ずる期間において我執が無いノハニルナラ
此二定応し不レ異。との過失がある。
シッレパリトノハテハニチキリト
鐸日。若人立レ有二染汚心一、此人於二無想定一則説し有二側あらゆる場合︵行相︶に︹心が︺我執を具うこ テハ ニチクシト シテハノ二 染汚心一、於一滅心定︸則説し無二染汚心一。対二此人一二とも認められない。 ハチリ シレパクナラノテハニ ルガゼニ 定則有一︽差別一。若不レ如レ此於二二定一意識不レ行故二c、若し染汚の意が無いならば二︹不共無明と五識 ハチシリ定則無し異。との類似性︺は無く、三︹二定と語源学的解釈と
二己アノ二二ズ
ワ 論日。⑤復次、於二無想天一期一、応し成二無流無失一。無想天の生︺に相違があることになる。 キガ ニテニシクハシ ピ無二染汚一故、於レ中、若無二我見及我慢等一・それ︵染汚意︶が無ならば、我執はすべての処に
二ノノニシテワズ
ノ二
佃復次、一切時中起二我執一、遍二善、悪、無記心中一。有るのではない。 トスルガニ ピ 遣諏泌蝿但悪心︽藤︿二我執等一相応故、我及我d、真実を生ずる心に対して、常に障となると、 ニハノハンズルコトワテハトトノニチズズルコトヲ 所、此惑得し行。於一善、無記中一則不レ得し行。一切時に起るもの、それが不共無明といわれる。 シッレパニズルトシノ若立二二心同時生一、無二此過失一。意は染汚を有するが故に有覆無記であり、四種の
一 ナ ノニシケレパ ノノニハチカラン 鐸日。於二無想天生一、若無二染汚心一。一期生中則無二障の煩悩と常に相応する。色︹界︺と無色︹界︺に ピ ノニチケレパノハズニルノ
我執及我慢等一・此生便無二流失一、此定不レ応し為三聖人おいて働く煩悩の如くに、これは有覆無記である。ルルスルニニノルル七二ルノニハルコトヲ
所二厭悪一・既為二聖人一所一厭悪一故、知三此定有二染汚色︹界︺と無色︹界︺において働く意︹心︺は止識一・壁我執置柾錘、施等諸善篭亙一我執甑蝋我乳言ョ画昔寂静︶に蔵せられるものであり、︹染汚
二フシルレバヲチシノノハシルレパヲ
恒随。若離二無明一、則無二此事一。此無明若離二依止一、の︺意は常に︹善心と不善心を︺ともなっている 真諦訳﹃摂大乗論世親釈﹄における増広部分の検討︵二︶︵岩田︶真諦訳﹃摂大乗論世親釈﹂における増広部分の検討︵二︶︵岩田︶ チズルコトヲノノハシレテハ ワシルコトノ 則不レ得し有。此無明依止、若離二阿陀那識一無し有二別が故に︹無記︺である。
体一・︹釈日。︺また云何にして、それ︵染汚意︶が成立す
⑧論日。る道理を称するか。若し、それ︵染汚意︶が無である
ク トピノ
無二猫行無明、及相似五識一、ならば、不共無明は無いとの過失となる。また、不共
ノク ノニクルコトニ定無二差別一、意名無し有し義、無明とは如何とならば、対治を生じない時は真実の智
二ク ノハナリ無想無二我執一、一期生無流、を障げることであり、またそれ︵不共無明︶は五識に
ノニ ハズカラル善悪無記中、我執不し応し起。おいて現行しない。それを所依として障げない故に、
レテハワズナラトトス
離二汚心一不し有、二與レ三相違。能対治が有るところ、その処に、所対治もまたあると
ケレパレニハズズルコトヲ
無し此一切虚、我執不し得し生。いうことである。その染汚を有しない意識︵非染汚意︶
スルコトヲノヲ ハシメララ證二見真実義一惑障令レ不し起、の中にもまた︹不共無明は︺無であり、染汚であるこ
ニズルワニ ク ト恒行二一切虎一、名二濁行無明一。と︵染汚性︶に執着する故である。非染汚とは他の煩
ノハナルガニニス
論日。此心染汚故無記性攝。悩と現行を滅しない。この故に、煩悩により染汚の意
ノハレノナリテノニノハスルヤノ二
稗日。此心是無明所依。於二三性中一、此心属二何性一。識を認めるならば、善の染汚性に執着することが布施ルガ二二ス
ニワテノニルガ ナリ 由二染汚一故、属二有覆無記性一。何以故、有二染汚一故。等の善心を生ずることになろう。それはまた相応する ガリヤ云何有二染汚一。からである。また若し善と等しく転ずる意が有るなら
一一卜ス
論日。恒與二四惑一相応。ぱ、そのところにそれ︵煩悩︶と相応するところの染
ルガゼノワニシヲツテニス卜
鐸日。不し了二無我境一故、起二我執一、由二我執一起二我愛汚の意なるときに能対治の方に引くことは道理に合わ (詔)トヲノハニニル
我慢一、此四惑一切虚恒起。ない。また若し染汚の意と等しく転ずる善の心が有る
ヘパシノハレナルガノノ
論日。臂如二色・無色界惑是有覆無記一。此二界煩ならば、それ︵染汚意︶とそれ︵善心︶により引生す ハ ノナルガニ悩、著摩他所蔵故。るところの対治の方︵場所︶に生ずるとき、他が減す
ハテヲストレテトビヲツテ
縁日。界以二生性一為し義。離二婬欲及段食欲一、由二色ることからこの処に過失は無いのである。②五︹識︺二ズルガニクトレテノノワッテ
ニズルガ 欲一生故名二色界一。離二下二界欲一、由二無色欲一生との類似性として、︹醤えば︺眼識等の五において、 ニクトノノハモ
トストハ
故名二無色界一。此二界惑錐下與二第六鹿識一相応上不し失二眼︹根︺等の五の依と共に有る︵倶有依︶と同じようナルコトワルガノーナリノシラバノー
無記性一。由二八定所蔵一故。此惑、若在二欲界散心一に、意識においてもまたそれと共に生ずる依︵倶有依︶二ズワルガ、ノナルニニシ
ノトスレパそ 応し成二不善一。由二依止健一故。若與二第二識一相応、難しがあるからである。側二︹定︺の差別にとって、染汚ズトラニズニテノノモナルヲニシラパ
不し在二定中一亦非二不善一・以二依止最細一故。若在二色.の意が有るところが無想定であり、それ︵染汚意︶が 一一ノモナリトニレテセガナルガニズ
無色界一、依止雛し鹿、八定所レ摂心、軟滑故、亦非二あるからである。余にはそれ︵染汚意︶が無いから、ニクズレパヲズレナルニニス二
不善一。能生二生死一亦非一是善一。故属二有覆無記性一。それは差別がある。余とは二︹定︺において︹第六︺ノノノスモナリノナルガニズニハノナルガ
第二識所し起惑亦爾。依止細故非二不善一。是生死因意識が起らないならば差別が無であろう。③それによ 二ズレニモ故亦非二是善一。り語源学的解釈の過失が生ずる。このように我執とい
ノハニジテズ論日。此心恒生不レ暖。うのは、意というこの語源学的解釈に対する説明の根
ノハノトトトトノニニジテ
標日。此染汚心三性中、八定無想定無想天魔、恒生本である。六識が無間の識であるときに、その如きと ズ七不し康。の不可説は減のためである。⑤無想︹天︺の中に生じ
相続を得るとは我執が無いという過失を生ずる。かく 真諦訳﹁摂大乗論世親釈﹂における増広部分の検討︵二︶︵岩田︶この箇所は、染汚の意︵阿陀那識︶が前六識とは別に有ることを立証するところである。その中で、仰の部分が真 諦訳・笈多訳・玄英訳及びチベット訳に共有する部分である。しかし⑧の部分の解釈はなぜか真諦訳と玄英訳との二 訳にあるが、笈多訳とチベット訳には見当らないのである。 ⑧の部分の真諦訳について、独行無明︵不共無明︶等の偶頌に対する解釈はなされていない。解釈のあるのは偶頌
ハテヲスト
の後の文章に対する解説である。そこでは﹁界以二生性一為し義。﹂・と説き始めて、欲界、色界、無色界の三界と第二の 識としての染汚意などの解説を行っている。玄英訳については、全文を引用するのは略するが、玄英訳は不共無明等 の偶頌を引用しながら、それについて解説を行ってい篭 真諦訳﹃摂大乗論世親釈﹄における増広部分の検討︵二︶︵岩田︶ の如く、その時に有染汚の意が無いときに我執の無が 生ずるであろう。若しかくの如きならば、聖者ですら も誹誇せられないならば、それは誹誇そのものである からこれによりそれはその時︹我執が︺有るものとし て分別されるべきである。我執に随うが故にして、布 施等とはまた布施のために我執に随うものとなる。我 執に随うことは無明を離れては道理に合わないことで あり、無明は所依止を離れて有るに非ず、また所依止 が有染汚の意を離れては他体は無いのである。 (40)それに対して、笈多訳とチベット訳には偶頌とその次の文章についてなぜかなんの解釈もない。これは笈多訳とチ ベット訳の形式が本来的なものではなかったかと考えられるのであ壷その理由として、笈多訳には真諦によって増 広付加された﹁摂大乗論世親釈﹂に対して、より正しい訳出を試みたものと考えられるし、チベット訳については三 漢訳本より後代の訳ということから、﹃世親釈﹂の本来の形式は笈多訳とチベット訳との二訳本にあると考えられる からである。真諦訳にある独行無明の偶頌以後の解説は真諦自身のものであろう。それと同じく、玄英訳にある解説 も玄笑が偶頌にも注釈が必要と考えて真諦訳をまねて玄葵自身が加えた解説であろうと考えられるのである。 注 ︵1︶拙論﹁世親造﹃摂大乗講釈﹄所知依章の漢蔵対照㈲﹂︵﹃法華文化研究﹂第十八号、立正大学法華経文化研究所、平成四年 チベット訳 1 ルーノワレテハ ヲズカラベ 蝸論日。尋二第二体一離二阿梨耶識一不し可し得。︹論日。︺第三の心の体︵昌冨︲の閏胃巴はアーラャ
稗日。第一識鍵第一謹塁我乳・惹蕊謂一識此識識を離れて得られない。それ故にアーラャ識は心そ
ルコトヲニルッテ スルコトヲノヲノ 不し得し起・故知下有二第一識一今成中就第二識上。為しのもの︵昌冨尊四︶であることが認められる。それ ハサンガヲナリ顕二第一識一故。を一切の種子となすことにより、意︵ョm旨い︶と識
ノニワシテストッテニテスワ卜
論日。是故阿梨耶識成就為し意。依レ此以レ為二種子一︵ぐ言習、︶とが起るのである。 真諦訳﹁摂大乗論世親釈﹄における増広部分の検討︵二︶︵岩田︶ ︵2︶長尾雅人﹃摂大乗論l和訳と注解上﹄︵識談社、昭和五十七年六月︶。この部分について、この四つの偶頌は本来のもので、 その前後の長行は漢訳四摂大乗論の比較検討から後のものではないかとしている。一○○頁、一・七Aの注仙参照。︵以下、 長尾﹁摂論和訳﹂と略称︶ 三月︶、四十八頁。ルーノヲレテ
ヲズカラル ーノハ この箇所の摂論の漢訳を見ると、真諦訳は﹁尋二第二体一、離二阿梨耶識一不し可し得。﹂とあり、笈多訳は﹁故心体 ニシテレテ ワズカラルノハニシテシルレパヲシワキル
第三、離二阿梨耶識一不し可し得。﹂とあり、玄笑訳は﹁心体第三、若離二阿頼耶識一無二別可し得一・﹂とあり、仏陀扇多訳卜ピハニシテレズヲ
は﹁心及身第三離二阿梨耶識一﹂とある。チベット訳では﹁第三の心の体はアーラヤ識を離れて得られない﹂とある。 この箇所は真諦訳と他漢訳と比較しているノ、と論究されているが、本来の文章は笈多訳・玄英訳・チベット訳が一 致することから、この三訳本が原本のものであろうと考えられ誼 この真諦訳に対して、それは誤訳であるとする意見とそうではなく真諦自身の解釈によるものであるとする意見が あ篭それに対して筆者は真諦訳は誤訳ではなく真諦自身が意図的に訳出し解説したものと考えている。これについ て既に考察したことを次に略説す缶一Jj
この岨は岨において﹁意に二種有り﹂と説いて、その第一意は前滅後生の意であり、次第縁依であり、正生識であ く り、正生識と現識の依止の意であり、それは阿梨耶識である。第二意は有染汚意であり、阿陀耶識であると説いてい 真諦訳﹁摂大乗論世親釈﹂における増広部分の検討︵二︶︵岩田︶ ガルズルコトヲ餘識得し生。︹鐸日。︺また余にその雑染︵染汚︶の意が無いとは
レテヲシノノルモノノトピノ卜
糯日。離二第一識一無三別識体為二第二識因及生起識因一。それ︵アーラャ識︶を因とする意と転識とは起らないガクハノワノハなづクニガクハノワノハク
佛説二心名一、此名目二第二識一・佛説二識名一、此名目二と見られる。識と説かれるから第二の意と説かれるも二ガクハノヲノハクルナリニヲテノニ
六識一。佛説二意名一、此名目二第一識一・何以故、第二のである。その因による意が減する。それが意と説か識腿壁起魂蕊飢苣蝿後識諜舞卜仏褒第一識生、れるのは所得のためである。
ニジ ピクズルガワニイテク卜 及能生二自類一故、説名二意根一・ (42)1 1 る。これにより第一識は阿梨耶識であることは蛆で明白にしたものであり、岨では第二識を解説したものと考えられ ’ f る。故に﹁第二の体︵第二識︶を尋るに阿梨耶識︵第一識︶を離れて説くべからず﹂と解説したものと考えられる。 第一識はまた種子識であるとも言われる。それに対して、第二識は﹁第一識を縁じて我執を起すものであり、第一識 を離れて、別の識体の第二識の因及び生起識の因と為るもの無し﹂と説いて、第二識は阿陀那識の因と生起識︵前六 識︶であると説いている。その第二識は染汚識︵有染汚意︶であると解説する。その染汚識を更に二分して、一には 第一識を依止とする識︵阿梨耶識︶であり、二には第二識を依止とする有覆無記であると説いている。 ノハダリノミ これと同じような識論を真諦訳の﹁顕識論﹄に見ることができる。そこでは.切三界唯有し識。何者為し識。所 ニハ ニハ ナリ 謂三界。有一↓二種識一。一者顕識、二者分別識。﹂と解説する。その顕識とは阿梨耶識であり、分別識は更に二分して
ユルナリリノ
㈲有身者識と口受者識とに区別される。有身者識とは我見貧愛の為に覆されるもので染汚意を意味する。受者識は更 に三分化されて、細品︵阿梨耶識︶、中品︵阿陀那識︶、鹿品︵前六識︶の三品に区分する。﹁顕識論﹂における分別 識こそが真諦訳に説く有染汚意︵阿陀那識︶であり、染汚識︵有覆無記性︶であって第二識とされるものであり、第 二体の意に相応するものと考えられる。 注 ︵1︶長尾雅人箸﹃摂大乗論l和訳と注解I上﹄︵講談社、昭和五十七年︶、一○七頁、注仙参照。 ︵2︶袴谷惣昭﹁冨画冨望習回の、日、、言における心意識説﹂︵﹃東洋文化研究所紀要﹂第布冊、昭和五十三年︶、一九八’二○ 四頁。 武内紹晃著﹁玲伽行唯識学の研究﹂︵百華苑、昭和五十四年︶、一四二頁。 宇井伯寿﹁摂大乗研究﹄︵岩波瞥店、昭和四十一年︶、二四三頁。 勝呂信静﹁弁中辺論︵三且ご普厨ご一g”ぬ巴における玄奨訳と真諦訳との思想的相違について﹂︵﹁大崎学報﹄二九号、 真諦訳﹁摂大乗論世親釈﹂における増広部分の検討︵二︶︵岩田︶1 ガノヲイナスヤト ノセルノナルガ 咽論日。云何此意復説為し心。多種黛習種子所聚 f ナリ 故。
ワハクトノニハリヤノクノト
羅日。第一識或名二質多一質多名有二何義一。謂種種義ピノトナリトハうりニハニハ
及滋長義。種種者自有二十義一。一増上緑、二縁縁、 ニハニハニハニハニハニハ
三解相、四共作、五染汚、六業黛習、七因、八果、ニハニハナリノノニルガノークト
一一 九道、十地。此義中各有二多種義一故名二種種一。滋長 リ ニハリテノ スルニムワシテシクセニハ 有二三義一。一由二此十法聚集一、令二心相続久住一。ニノハクスノワニハレノノセルノナリ
此心能摂一持一切法種子一。三是種種法黛習種子之所ニスルトハハク
ノナリトハスルハクシテ 滋長一。種子者、謂功能差別因。所二滋長一者、謂変異 ルナリトルガノーニハイテワクト
為二三界一。由二此義一故、佛説二第一識一亦名二質多一。 チベット訳と笈多訳・玄笑訳とは一致するが、真諦訳は異っている。 真諦訳﹃摂大乗論世親釈﹂における増広部分の検討︵二︶︵岩田︶ 昭和四十年︶、四九’五○頁。 勝呂信静﹁アーラヤ識説の形成口lマナ識との関係を中心にして﹂︵﹃国訳一切経・三蔵集第四輯﹂、昭和五十三年︶、一四 ○’一四一頁。 ︵3︶拙論﹁真諦訳﹁摂大乗論世親釈﹄における阿黎耶識説について﹂︵﹁印仏研﹄四十五’二、平成九年三月︶二○三’二○六 頁。 チベット訳 ︹論日。︺また云何なる理由で、心と名づけられる か。種々の諸法から黛習の種子がすべて積集されて いる故である。 ︹鐸日︺また、これを訓釈するのは﹁種々の諸法から の薫習の種子が、﹂とは所取の故である。その中で ﹁種々﹂とは種々の差別のことである。﹁諸法からの黛 習の種子﹂とは功能の差別による因である。そのもの とは、実にすべての積集するという意味である。 (44)真諦訳では、第一識である質多︵昌冨、心︶に㈲種々の義である十義と㈲滋長の義である三義とが説かれる。こ の第一識は阿梨耶識のことである。阿梨耶識の十義とは⑩増長縁、②縁々︵所縁縁︶、側解相、側共作、⑤染汚、㈲ 業薫習、例因、⑧果、側道、⑩地である。滋長の義である三義とは仙十法聚集して心を相続する、②心は一切法の種 子を摂採する、⑧薫習する種子の滋長とである。 心の滋長の三義の部分が他の三訳本と似ているということになろう。 ガテ
ニルヤキノワピ力
川論日。云何於一声聞乗一不下説二此心相一、及説中阿梨耶、チベット訳 ノワ ナルノナルガナリ阿陀那名上。微細境界所摂故。︹論日。︺どうして声聞乗においては、その心をアー
イワフノワハジテフニノハナノ
間澤日。問し名問二名体一。答通答二両問一・此識於二所知ラヤ識と名づけ、或はアーダーナ識と名づけて説か 一 一ナリテノザルノーニノモレナリシ
中一、最微細。以レ非二二乗所縁一故、此識亦是境界。若ないのか。これは微細なる境の摂せられる故である。ムルワハズクスペシノニノハレノノ
求二仏果一人、必須レ通二達此識一。此識是応知等九義所諸の声聞乗は一切の境を知らねばならないものとし 依蔵故、故名二所摂一。復次、菩薩有二微細境界蔵一。て目標にしているのではない吐それ故に、それらに ノナルガニニクトーニハリナル
此蔽鵜解樅風一微細瀞界胤捜一。対してそれが説かれなくても︹声聞乗としての︺智
リナノニノハシシテ メニルコト ヲ 論日。何以故、声聞人無下有二勝位一為得中一切智智上。は成就するのであり、解脱も成就する為に説かれな ノニテハニルヤカノワ
ノハシテ ⑧澤日。何故於二声聞乗一不レ説二微細境界一。声聞人不しい。 サシクスルコトヲラントノヲ ハダスガノミワナリ作四正勤三求知二如来境界一、修行唯為二自利一故。諸の菩薩は一切の境を知らねばならないものとし
ノノノハリテノノノーナリレバスルコトワ
諸声聞人惑障由二苦等智鹿淺観行一、可レ得二除滅一。て目標にしている。その故に、彼等に対してそれを 真諦訳﹃摂大乗論世親釈﹂における増広部分の検討︵二︶︵岩田︶真諦訳﹃摂大乗論世親釈﹂における増広部分の検討︵二︶︵岩田︶
ノニテハノーレテノワツナスルニワ
論日。是故於二声聞人一、離二此説一由し成二就智一、説くのであって、その智が無くては一切智者の智を証 ムルガヲナラニズメーカ令二本願円満一故不二為説一・得することはできなくなる。
ハルノハ
ニシテムルワカンコトヲノワ p舞日。諸仏見三声聞人少欲智足、求レ除二自惑障一・ ︹釈日。︺﹁微細なる境のすべての摂せられる故である。﹂ ノハシレテノヲツテノーシルスルコトワハルモスルコトヲ 此障若離二此智一由二餘智一可レ得二滅除一、本願得し成、とは、それは微細であり、境であるから微細なる境であっズサスルコトワノワズセメテノヲスルコトワ
不し為し解二脱他障一、不し發下願求二如来法身一修行て、微細なる境の中に在り、或は難解のためである。声ノノワニズニカ
微細甚深道上。故不二為説一。聞は一切の境を知らねばならない意味を求めないで、た
ノハニツテメニベキガワニ
論日。諸菩薩応有二勝位一、為得二一切智智一故、だ単に自身の義利︵自利︶の因により、それらは鹿であ 八脚ニク仏為説。る苦等の智によって永く煩悩陣を断ずる。︹これに対し
ノハムルガセンコトヲノトビワ二 ⑪繰日。諸菩薩求レ滅二自他惑障及智障一故、修行正て︺菩薩は諸の自︹利︺と他︹利︺を行う。 この箇所の真諦訳の釈日の部分を㈹⑧。⑪⑧に五分した。その中で、⑧と⑪とがチベット訳等に相応する。そして、 ㈲。⑧はチベット訳等になく、真諦訳だけにある解釈である。しかしこの五分は㈹と⑧。と⑨⑧との三分にまとめる シルレバ ノヲ ノノハチズエズルコトワ ⑧鐸日。若離二甚深微細境一、十種次第修則不し得し成。 シレテノワ ハクキハキコトハシルコトノ 若離二此修一心煩悩易し除、法身易し得、無し有二此義一。 勤故、為二 スルガニ二 論日。何 ノことわり 是虚一・ニノノク
為二諸菩薩一説。 ワテノニシ・ 何以故、若錐 シレテノヲムコト ワシルコト 若離二此智一、得二無上菩提一無し有二 (46)ことができる。すなわち、㈹では仏果を求める人︵菩薩︶は必ず阿梨耶識と阿陀那識に通達する。そしてこの識は ﹁摂大乗論﹂に説かれる﹁応知等の九義の所依の蔵﹂であり、それは微細なる境界蔵であると説く。⑧。では、声聞 人は如来の境界を知ることを勤求しないで、ただ自利だけを求める。また声聞人は少欲知足に満足して、如来の法身 を求めて微細なる甚深の道を修行することを発願しないと説く。、⑧では、菩薩は自利利他のために煩悩障と所知障 を減することを求めて修行正勤するものであり、それは﹃摂論﹂に説かれる十種の勝相を修行することによって容易 に得ることができると説いている。 チベット訳 1 二ノハーナハ ニシ一丁ニワシテハス ㈹山論日。復次、此識於二声聞乗一、由二別名一如来曽顕。︹論日・︺また次に、声聞乗中においても同義語 りノ シズノハレリトワテノニ 澤日。復、有二別道理一。可し信二此識是有一・何以故、︵異門︶により、アーラャ識は説かれる。﹃増一阿 ナモ ニノハッテ二 二スレバナリ
於三声聞乗一此義由二別名一、虚虚顕現。含︹経この﹁如来出現四種功徳経﹂の中に﹁有
・ ソニフガテニどこワ
⑧論日。如二増一阿含経言一。於二世間一喜二楽阿梨耶一、情はアーラヤを愛し︵巴ご口出国目巴、︹アーラヤ シヲシ
ワス
ニニセンガ 愛二阿梨耶一、習二阿梨耶一、著二阿梨耶一、為し滅二阿梨を楽しみ︵樫、旨︲昌冨︶︺、アーラヤを喜び ワハクワ
耶一、如来説二正法一。︵巴昌画︲の画昌ョ且詳巴、アーラヤを喜悦する︵巴”怠︲
ハシテキワニテヲシテ
鐸日。初句略説二根本一、後以二三句一、約二現在、過去、号亘呂ョ巴。アーラャを断ぜんが為に、︹正︺法を二ニクスワストハニシニストハ
未来一、更広鐸し之。著二阿梨耶一者、約二現在世一、習二説く時に、︹声聞は︺聞かんと欲して耳をかたむけ 真諦訳﹁摂大乗論世親釈﹄における増広部分の検討︵二︶︵岩田︶ 注 ︵1︶長尾﹁摂論和訳﹂、二三頁注②参照。真諦訳﹃摂大乗論世親釈﹄における増広部分の検討︵二︶︵岩田︶ ワ シ
ニストハワスルナリ二
阿梨耶一者、約二過去世一、愛二阿梨耶一者、約二未来世一。て、遍く知らんとして心を喚ぴ起し、法にかなうと リピフトハヲレナリガ
復、有二別羅一・喜二楽阿梨耶一是現在世。云何現在ころの法︵善行︶を成就する。如来がこの世間に出 ナルヤピフハワルガ ニセルニニナリリテ卜 世。喜二楽阿梨耶一由三過去世著二阿梨耶一故。由三過去現現した時には、この不思議未曽有の法も世間に起る﹂トーセルニヲノニハス
ワ在数二習阿梨耶一、是故未来愛二阿梨耶一。と説くが如きである。この同義語によって、アーラ
ニハスノハズトナラシレパナラガリヤ
。復次、或執二此四句義不ウ異。若不レ異、云何有二四句一。 ヤ識は声聞乗中にも説かれている。 シニノス・リノ
クトトナリ
如二決定蔵論所c明。有二二種愛一、謂有愛無有愛。有また大衆部の阿含によっても、根本識と名づけら撚幽一界寒テ無有蕊諏勢ゴ界砿・喜鶏苛這心れるし、同義語としてもその如くにそれ︹アーラャ︺
ジテレバニジテノワジワジテノヲズヲ
生在二欲界一、縁二已得塵一生し喜、縁二未得塵一生し楽。が説かれる、︹替えば根本とは︺その根を所依としトハシガジテレバニダレザルワ一天シテノト
著者、若人生在二色界一、未し離し欲色界、食二著色界生て樹幹があるが如きである。ピノトニツテニタルノーテニジワズハノ
及色界塵一由二已得色界定一、於レ定生し染、不し楽二所し化地部の阿含によっても、窮生死の諸謹と名づけ表鶴室、鱗屯錘蕊解蝋故誠鐸毒習苛若堀られるし、その同義語としてまたその如く説かれて
ゼバニダレザルヲニハニクジテノヲ
生二無色界一、未し離し欲無色界、先且観二欲界過失一、いる。︹臂えば︺ある処に、ある時に、色と心が断ジノヲニジテノワテテノワズ
ノヲ 生二色界欲一、後観二色界過失一捨二色界欲一生二無色界欲一。 ずるのを見るけれども、アーラヤ識においては、そ ノハッテスルニワルルガゼニイテクトノハケトッテ 此欲由し習二諸定一所し成故説名し習。此三名二有愛一、依二 の種子が断絶しないが為である。 ニルトハ常見一起・愛者、蕊知灸繊遥最愛。諄識一・虫︹釈日。二有情はアーラャを愛す﹂とは、総標の
シテワムルガランコトヲニゼニイテクトノハチニシテ 執二断見一求レ不二更生一故説名し愛。此一即無有愛、︹初めの︺の句である。現在と過去と未来の三時の次ツテニル
依二断見一起。第の如く、補うべき語によって説明する。また別義に、
(48)ハシテニシワハシテニスワチ卜
或約二四倒一瀞二四句一、或約二四愛一鐸二四句一、即飲食﹁アーラャを愛する﹂とは現在のことである、﹁アーラトトトトノナリ
衣服住虚、有無有愛。ャを楽しむ﹂とは過去世においてである。先世にアー
ハシハシノワトワシテセノワハシハサント
或欲丁顕自法辮一令丙弟子得乙法癖因甲、或欲レ顕三一ラャを楽しんだことにより、今世︵現在︶にアーラャ ニルコトヲ ハシトノヲシテ・ンルルモノワッテ二 義有一︽多名一、或欲レ令下鈍根人若忘二此義一由二別名一を喜ぶのである。アーラャを楽しみ、或はアーラャを ツテセスルコトワハシトノワシテルガネテクコトニワニセヲ 還得七億、或欲レ令下鈍根人因二重説.名故得七解、喜ぶことにより、未来世においてもアーラャを喜悦すハスルガトノヲシテシルモセワツテニシヲ二
或欲レ令下別方弟子若不レ解二一名一、由二餘名一得も解故るのである。﹁法にかなうところの法︵善行︶﹂とは教クワハルモハジ
説二四句一。名異義同。えの如くに生ずる。
ハブカンコトヲ論日。世間楽し聴、また、︹大衆部の中で︺根本識というを生ずる。そ
ルナリノー稗日。依二信智両根一。の同義語によってもまたそのように説いて、︹根を所
二シヲ論日。故属し耳、依とする樹幹があるが如きである﹂と説く中で、そこ
ハスルルコトワノワチレナリ縁日。顕レ離二散乱心一、即是定根。において、根本識とは一切の識の因となるものである。
シテシラント論日。作意欲し知、替えば、樹の根は枝などの因のごときである。根が無
ハスシナワルコトヲナラチレナリ輝日。顕下起二恭敬一不中放逸上。即是念根。ければ枝なども生ずることが無い如くに、アーラャ識
シテヲ論日。生二起正勤一、とは根本識のことである。
ツテニシナワテワルワチレナリノ
穆日。因し此起二勇猛一。捨レ悪取レ善。即是精進根。此︹化地部の︺﹁窮生死の諸慈というを生ずる、また 二ハスレチナリ中所し明是即三慧。その同義語によっても亦という中で、また窮生死の諸
サニルスルコトワワ論日。方得し滅二壷阿梨耶一。蕊﹂なるものがそのものとして在る。
真諦訳﹁摂大乗論世親釈﹄における増広部分の検討︵二︶︵岩田︶(D) イテヲナリセヲ 説し名不レ鐸し義。 真諦訳﹁摂大乗論世親釈﹄における増広部分の検討︵二︶︵岩田︶
レハスワチレ
ナリ羅日。此明二道果一。即是識無生智。それ故に﹁有る処﹂とは無色界における色である。
スノトビヲ
論日。乃至、受二行如来正法及似法一。﹁有る時﹂とはある人々は三昧の分位において、醤え
クニノズワクストノワ
ワシ 鐸日。如レ教而行。是名し受一行如来所説一・名句味稲二ぱ、無想定の如きである。﹁アーラャ識の中において トノノなづクルワストーハヒ
正法一、名句味所し目義称一似法一。復次、正法謂二正は、その種子が断絶しない﹂という中で、色と心の重 ワハフトトワニハプテワシ卜
説一・似法謂二正行正得一・復次、正法以二阿含一為し体、習の因は後有の業により色と心とが生ずることになるハテワス卜
似法以一所得一為し体。う。
ツナノーノ
ナル ノハナ 論日。由二如来出世一是第一希有、不可思議法於二世二セリシノノ
ニハプテ 間一顕現。如二本識一、此如来出世四種功徳経由二別 二ナ ニノヲニセリ 義一於一声聞乗一此識已顕現。 ニリ ニハ ハ、ンカントノノノ 羅日。別義有三三種一・一別意、如来欲し説二自出世功 ヲザルモスルニハスコトヲワノハ
トスルガ 徳一、非し欲し顕二阿梨耶識一、此識與一︾功徳一相応 二クノワニハ ハダイテノミヲズカヲニハ 故説一此識一。二別名、如来但説レ名不レ説し義。三別義、 ナルノニシテテハニズ・ンカサクニダルガトスルニニ 微細境所摂、於一︾二乗一不し宜レ説。但由二義相応一故、 巻第二、塞 衆名章鴎︶ 論日。復玲 鐸 一一 復次、 依止勝相衆名品之二ノノニッテナル二
摩訶僧祇部阿含中、由一根本識別名一、 (50)この箇所は真諦訳と他の訳と大きく異っている。まず、玄葵訳は巻第二の初めであり、﹁所知依分第二之二﹂の箇 所である。しかし、真諦訳では、まだ巻第一が終らず、しかも巻第二の﹁釈依止勝相衆名品之二﹂を中に挾んでい る。笈多訳には区別はない。玄英訳はチベット訳に相応している。真諦訳に注意を置くと他訳と多く異っている。 真諦訳﹁摂大乗論世親釈﹂における増広部分の検討︵二︶︵岩田︶ ノヲセリヘバシノルガ二 此識顕現。替如二樹依匡根。 ノハルガノノトー 耀日。此識為二一切識因一故、
ノハルガノノトー
レノナリヘバシノ
鐸日。此識為二一切識因一故、是諸識根本。臂如二樹根一。ノワスルイテクトシルレバノワハ
芽節枝葉等所二依止一説名一樹根一。若離一此根一芽等不し 成。此識為呈餘識根 そ 論日。彌沙塞部亦 ヲテノニハトピト 何以故、或色及心 ハシルコト 種子無し有二断絶一・モ
ンガイナノヲスヤハデ
稗日。云何説一↓此識一為一窮生死陰一。生死陰不し出三色ワハルハルモノニハ
スシ
ノそ
心一。色有時有、諸定中相続断絶、如一↓無色界一・心亦 ルニハルモノースシ
ノテハ 有時有、諸定中相続断絶、如二無想天等一・於二阿梨耶 一一 ノハ・ンルコト ヲテノニルガノセル 識中一、色心種子無し有一断絶一。何以故、由下此黛習種 ハ一アハニニリテルーキーノハッテニシ
子、於窮生死陰一恒在不七蓋故、後時色心因し此還生、 草テハ ノニノハルガキーク ト 於一無餘浬薬前一、此陰不レ蓋故名二窮生死陰一。 宅此識為二餘識根本一亦爾。ぜノノルコトモノトナリ
テワケリノワク
ナリ 彌沙塞部亦以二別名一説二此識一、謂窮生死陰。一ハトピトハルハルトトヲノノノ
、或色及心有時見一相続断︹絶一︺、此心中彼三には、阿梨耶を喜楽するを現在世とする。その現在世とは過去世に阿梨耶に著したことであり、過去世と現在世 とに阿梨耶を数習することによって、未来世の阿梨耶を愛すると説く。 以上の三種の注解ができる。すなわち、一では愛︵現在世︶、習︵過去世︶、著︵未来世︶との順序で阿梨耶の三世 を観じ、二では著︵現在世︶、習︵過去世︶、愛︵未来世︶との順序で阿黎耶の三世を観ずると解説する。一と二では この﹁増一阿含経﹄の四阿梨耶を説く引用文は既にパーリ語の文献が明らかにされており、それはチベット訳にも 相応す篭それによればアーラャを愛し︵脚垣煙︲腎腎目.真諦訳喜楽︶、アーラャを楽しみ︵:雪”︲﹃画冨々真諦訳、 愛︶、アーラャを喜び︵巴画旨︲の画昌ョ屋氏冨々真諦訳、習︶、アーラャを喜悦する︵巴異画︲呂言愚日Pゞ真諦訳、著︶と いって、四阿梨耶を説いている。その阿梨耶とは﹃世親釈﹂によれば愛着処でありそれに関して七種の注釈がある。 それらの阿梨耶は過去現在未来の三世にわたって相続するものである。初めに真諦訳による四阿梨耶と三世との関係 について⑧の部分を解説してみよう。 一には、阿梨耶を喜楽するを根本︵総標︶として、阿梨耶を愛すを現在世、阿梨耶を習すを過去世、阿梨耶を著す には、阿梨耶を雪 引く。 真諦訳﹃摂大乗論世親釈﹄における増広部分の検討︵二︶︵岩田︶ チベット訳・玄英訳に相応する箇所は⑧とpとの部分に当る。しかし、、の後半は少し異る。仰と。との部分は他 訳本にはない。特に○の部分は長文の解釈になっている・○の初めに﹁決定蔵論﹂の名前があることは非常に注意を 二には︹阿到 世とする。 ︹ 阿 梨 を未来世とする。 耶を喜楽するを根本として︺、阿梨耶を著すを現在世、阿梨耶を習すを過去世、阿梨耶を愛すを未来 (鰯)
阿梨耶の三世観が全く逆になっていて順逆の二観となっている。玄英訳とチベット訳には一と三の注釈はあるが、二 の注釈はなく、二は真諦訳だけにある解釈である。 次に、この⑧の部分は他訳に全く無く、真諦訳だけにある解釈である。次に阿梨耶の四句について、﹃決定蔵論﹂ の中に解説があると説く。しかし、現在存﹁決定蔵論﹄三巻には⑥ほ部分の解釈は見当らない。初めに⑧の部分の内 容を見ることにする。愛に有愛と無有愛との二種があると説き、有愛とは三界の愛であり、無有愛とは三界断の愛で あると説く。次に有愛の三界愛を明す。喜楽とは、若し人が生じて欲界に在れば已得の塵を縁じて喜を生じ及び未得 の塵を縁じて楽を生ずると説く。著とは、若し人が生じて色界に在れば未離欲の色界には色界の生と色界の塵とに貧 著して、已得の色界の定に於いて染汚を生じ及び未得の定を楽︵願︶はず、色界定に於いて執着してあたかも解脱し たかのように説くことを著と説く。習とは、若し人が無色界に生じて在れば、未離欲の無色界に於いてまず取り敢え ず欲界の過失を観じて色界の欲を生じ、然る後に色界の過失を観じて色界の欲を捨てて無色界の欲を生ずる。無色界 の欲は諸定を習することによって、成ぜられることを習と説く。これらの三種は有愛であり、この三界の有愛は常見 によって起ると説いている。次に、愛とは、若し人が悪を行い苦報を受けることを畏れるものであり、或は断見に執 著して、更に生ずること︵輪廻転生︶の無いことを求めることを愛と説く。これは無有愛であり、断見によって起る と解説している。 真諦訳はこの しかし、我々は、 真諦訳﹃摂大乗論世親釈﹄における増広部分の検討︵二︶︵岩田︶ ﹁愛有二種﹂の解説を﹁決定蔵論﹂の中に明すと説くが、現存の﹁決定蔵論﹄三巻には見当らない。 この解釈に類似する解説を﹃職伽論﹄巻第六十七に見出すことができる。即ち次のようである。
ニノニシテアリ
ハレハレナリレニアリハクテトトニスルガノーチノハ
復次、此愛略有二二種一・初是有愛、後是受用愛。此復二種。謂於二已得未得一、所受用処差別故、又即此愛界 スル春9リ ハクナリシジニスルノヲハピ
ノノワシテ二
差別故。復有二三種一・謂欲愛色愛無色愛。若生二欲界一稀二求欲界後有一者、喜下於已得所受用事上。欣下於一朱得一所受ノワノルハレワヅクトシジニハジテ二二レノワ
スルノヲハピノノヲ
用事上、諸所有愛是名二欲愛一。若生二欲界一、或生二色界︷、已離二欲界欲一、稀二求色界後有一者、喜二於已得色界等至一。スルノノワノルハレヲヅクトクノクノ
モッテノーニルナリトチレノナリトトワ
欣二於未得勝上等至一諸所有愛是名二色愛一。如二色愛一如し是、無色愛随二其所応一当し知亦爾。即此後有愛。常見断見スガトースhピトワノーノワヅクズト二
為一依止一故建二立有愛及無有愛一。是故此愛名し遍二諸事一。 これにより真諦訳にある有愛の三界愛の常見の解説に関してほぼ一致するように考えられる。しかし、無有愛であ り断見に関する解説は引用の﹁聡伽論﹄より真諦訳の方が詳しく説かれている。 注 ︵1︶拙論﹁真諦訳﹃摂大乗論世親釈﹂における阿黎耶識説について﹂︵﹁印仏研﹄四五’二︶、七二八’七三○頁。 レ ハ 皿論日。是応知依止、阿陀那、阿梨耶、質多、根本識、 ナリ 窮生死陰等。ノハレノニノプルナリハレジテニノ
繰日。此三是大乗中所し立名。質多是通一大小乗一所レ ッルナリ ハレ ノノナリ ハし 立名。根本識是摩訶僧祇部所立名。窮生死陰是弥沙 ノノナリトハ ニテテク ト ニテテク 塞部所立名。等者正量部立名一果報識一、上座部立名二 卜 有分識一 ﹁玲伽論﹂巻第六十七 真諦訳﹃摂大乗論世親釈﹂における増広部分の検討︵二︶︵岩田︶ チベット訳 ︹論日。︺その故に、所知依において、アーダーナ 識と心とアーラヤ識と根本識と窮生死謹と有分とし て説かれる、それがアーラヤ識のことであって、実 にアーラヤ識の大王路を成ずるのである。 ︹鐸日。︺﹁実にアーラヤ識e・屋言︶の大王路を成ず (卿)あると解説する。 それによれば、質多︵心︶は大小乗に共通するものであり、根本識は摩訶僧祇部︵大衆部︶の所立の名であり、窮 生死謹は弥沙塞部︵上座部の末派︶の所立であり、果報識は正蛍部の所立の名であり、有分識は上座部の所立の名で 説明ということになる。 ると、前半はすべての詩 ニシテシ ニシテス シリ 次に、大王路の替えに三義有りと説いて、一に直無し岐、二に広平熟、三に光明無し障を説いている。この替えは 本識阿梨耶識を大王路に替えて説いたものである。 真諦訳﹃摂大乗論世親釈﹂における増広部分の検討︵二︶︵岩田︶ この箇所の論の漢訳本とチベット訳を比較すると、チベット訳に有分︵の﹃昼冨琶冨。旨四罫瞥自彊︶の名があ るが漢訳本すべてに欠けてい竜しかし、真諦訳にはなぜか有分識の解釈がある。また、チベット訳の注釈に注意す ると、前半はすべての漢訳本にあるが、後半の注釈はすべてに見出せないものである、故に、真諦訳の解瀞は真諦の ツテノニ ノニノ
ハニズワ
論日。由二此名一、小乗中是阿梨耶識已成一主路一・ツーナノークスヲノニキコトホキナリ
澤日。由二此衆名一、広顕二本識一・是故易し見猶如二王ノフハト
リ ニハニシテシ ニハニシテ 路一・言一王路一者、有二三義一。一直無し岐。二広平スニハシリモナリニシテシトハ
ヘノキニ 熟。三光明無し障。本識亦爾。直無し岐、醤二定無腰 上ニシテストハヘ ニムルニノワ シトハリフ 疑、広平熟醤三大小乗倶弘二此義一・光明無し障、警下 イチノワテスルニノワニフルナリ二 引一無量道理一以證中此識上。故替急王路一・ る﹂とは︹アーラヤ識は︺極めて広いという意味であ る。 そのアーラヤ識を摂取することから成立することは よく荘厳している。リ スラクトトトノハダルノミニシテハ w畑①論日。復、有二余師一執、心意識此三但名異義 ジ 同。
ノハシテニッナスワ
ニク 穏日。此義約二小乗一、還反二質小乗一。小乗云、阿梨耶 トーハツテラノニテ
ノニテテスト 識阿陀那識、由二自僻執一、於二同義異名中一立為二異 義寸此説斌匿鴻函似辨枇〆 卜ピトハニルノルヲニレノニモニル 論日。意及識已見一義異一。当し知、心義亦応し有し異。 ノニッルニトピトワ 棒日。小乗中立二意及識一、名義健墨鋤龍了肌”撰謎 シ ニシテクルワノズルトケテスガトーハテ 若了別、已謝能為二後識生方便一名為し意故。識以二了ワシトハッテズルヲ、シトクノノニルガ
別一為し義、意以二生方便一為し義。如三小乗中二名有ニニ 義一、本識ハ喬蹄体鉦捗名。故知、心名応し目二本識一。此二ルノハニなづクトノ
ズラフペ 義、不し可レ違。 リスラクノノクニストハ
②論日。復、有二餘師一執、是如来説、世間喜二楽阿ワクニノクノーリ
ヲイテクル 梨耶一、如二前所P説、此中有三五取陰説名二阿梨耶一。 ︵1︶長尾﹁摂論和訳﹄一二六頁、︹一・一二︺注仙参照。 注 真諦訳﹁摂大乗論世親釈﹂における増広部分の検討︵二︶︵岩田︶ チベット訳 ︹論日。︺⑩このある人々は謂う、心意識はただ一 義︵一つの意味︶だけであって、ここに言語の異な るだけという、その考えは許容できない。意と識と の二義の差別が得られる故である。その故に、心も また義は異なるものである。 ②またある人々は、世尊により﹁衆生はアーラヤ を愛す⋮﹂と言って広説する、その中で、五取蕊を アーラヤであると名づけると考える。③他の人々は 食を倶なう楽受をアーラヤであると名づけると考え る。側他の人々は有身見をアーラャであると考える。 ⑤それら︹の人々︺はアーラヤ識に対する愚知によ りその阿含︵聖教︶と理證によって考える。 声聞乗により、それらの︹アーラャの名を︺安立 (56)穰日。小乗諸師、約一阿梨肌忽一超四釧瓶峅励”ぅ阿梨恥春する道理によってもまた、それの安立するのは不合
ノハシテ
スルヤハサントノヲ ス ル ヲ ク 欲 し 顕 ︸ 何 義 一 。 愛 著 境 界 名 二 阿 梨 耶 一 。 理 で な い け れ ど も 、 そノノハノズジカラハスラクレナリハレノ
此愛著境其義不し同。或執是五取陰、取是貧愛別その︹経中に︺アーラャと安立したものを、アーラ
ニシテワノトスルワケテストノハレノ
名、貧愛所し縁自、五陰名為二取陰一。此取陰是衆生愛ャ識である弓句巴と理解して安立するのは最勝
ノナルガニイテクト ト著虚故、説名二阿梨耶一。である。云何が最勝であるか。なんとなれば、五取
リ スラクトトスルワイチクト ⑧論日。復、有二餘師一執、楽受与レ欲相応説名二蕊は一向に苦の諸悪趣の中に生ずるとは相反する。 卜阿梨耶一。それによって、それらの一向に無欲において一致す
ノハズノーシク
テニシ
霧日。此五陰非二愛著鹿一。若無二楽受一、於二楽受一若る︵和会する︶のは道理ではない。この故に、︹なケレパンカテニゼンワノニテノー
無二顛倒一、云何於二五陰一生二愛著一。是故於三楽受中一、んとなれば︺それらの人々はそれを遠離することをルガノガダセザルニニノハレナリ卜
由二欲顛倒心未穆滅故、此楽受是愛著虚。五陰与二楽求める。
トスルガニイテワスノトノニワ・ンクス
受︸相応故、説二五取陰一為二愛著虚一・是故楽受正為三また、貧を倶なう楽受は第四禅以上には無い。ま ノ卜愛著虚一。た、それ︵楽受︶を倶なう諸有情と相反することが
リ スラクヲイテクト 艸論日。復、有二餘師一執、身見説名二阿梨耶一。 あるから、それ︵楽受︶によってそれら︵諸有情︶・ンがカバハレナリトノズラノハリナク
稗日。若人説三楽受是愛著虚一是義不し然・此受由三能の一致するのは道理ではない。この︹正︺法の有身 ニスルニヲスルガワニスノヲへバクノスルガヲ 安一楽自我一、愛二自我一故愛二此楽受一。瞥如三人愛し壽見は無我を信解する人と相反することになる。それ 二スルガノワクノスルガワニスルナリノワ故、愛二涛資糧一、如レ此愛し我故愛二我資糧一。故に、そこにおいてもそれらは一致することは道理
キノノノフハニルピ
⑤論日。如レ此等諸師、迷昊阿梨耶一、由一↓阿含及修ではない。アーラヤ識の中に内我の自性︵自体︶を 真諦訳﹃摂大乗論世親釈﹂における増広部分の検討︵二︶︵岩田︶真諦訳﹃摂大乗論世親釈﹂における増広部分の検討︵二︶︵岩田︶
二ノースキノノヲ
得一。是故作一如レ此執一。認めるのは一向に苦趣において苦慈の生ずるのを離
澤日。識擬誠裁踏毎誕壽命舅譽鴎辨看護一道れることを求めるけれども、アーラャ識の中に、そ
しナリトハキハレナリトハクトピトハレ
是愛著虎一、有説二六塵是愛著虚一、有説二見及塵是愛著の我を愛することに縛られて︵我愛随縛︶いるのを ナリト虚一。離れることを求めるけれどもどうしてもそうならな
クノノノハズセ
ヲ ガルヤ 如レ此小乗中諸師、不し了二別阿梨耶識一。云何不二了い。セルニセリ
ニハリニニハルニトハク 別一・不二了別一有一︾二種一、一由し教、二由し行。教謂小第四禅以上に生じて、食を倶なう楽︹受︺と相反ノレナリハルガクノセノノヲニッテ二
乗阿含是、阿含不三如レ理決二判此識義一故、依一阿含一するに至るけれども、アーラヤ識の中に、我の自性 フノートハクノナリキガノクスルコトノノワニ 迷二於此識一。行謂鹿淺道。無三道理能證二此識義一故、を愛することに縛られる︵我愛随縛︶ことがあると ルモニフノ二由し行亦迷二此識。いうことである。かくの如く、この︹正︺法は無我
⑧論日。既畷腱爪乗孜風征一、是師所立潔示躍巽道塁。を信解する人により我見と相反するに至るけれども、ハリノーピレテ
ワプワシ
稗日。諸師依二小乗教一、及離二阿梨耶識一立二別名一・若アーラヤ識の中に我の自性を愛することに縛られるシナノースレパノモズあたうノハナルガノーノ
約一小乗道一推度、此義亦不し中。小乗理為一自悉檀所。ことがあるということである。それによって、アー スルナリ違故。ラヤ識をアーラヤそのものとして正しく理解するこ
シリテシテハニシテノー
p論日。若有レ人、不し迷二阿梨耶識一、約二小乗名一成二とが成り立つのである。スルハノヲノナリ
立此識一、其義最勝。以上、これまでアーラヤ識の同類語︵構成要素︶
ルノハハレナリツテトピトニ ハジノ 繰日。不し迷人是菩薩。由二阿含及行一、諸佛観二人根を解釈した。ワプテニッワテハノーリトモノ
テ ハ 性一、依一根性一立一阿含一。於二下品者一有二秘密説一、於二︹釈日。︺その中で﹁諸の愚ならざる人により︹その (58)ノーシノ
ノニサニスワッテノー
上品者一、無二秘密説一。是故具明二諸識一。由二此阿含一経中に︺アーラャ識を安立する﹂という中で、その中菩薩祇迩此謎一・瞬徹箸、若凡修猛施瑳齪界漢、で、愚ならざる人である菩薩はいかなる言葉によりそ
チルハニノルルコトワセ モナリシシテ 則見下自身為二色惑一所七縛、乃至無色界亦爾。若修行れを宣説するか。その中で、﹁アーラャ識に安住する﹂ 出無色界一、見三身被レ縛在一阿梨耶識収一一・凄塗蝿とはそれ故に一向に喜ぶということから造る。それ故 レパ ヲルハレテセルヲヲニスヲノハルガノーニズノー
縛一故修二十地一。諸菩薩由一甚深行一故、不し迷二此識一。に、アーラャ識はアーラャそのものの中に大善に安住シガクスレパノヲテノワなずクルモノーノー
若人能了二別此識一、以二小乗名一目二此識一、名義相することを、成就する人と名づける中による。 フガニスルヲワチスト
称故、成一立名義一則為一最勝一。その中で﹁悪趣﹂とは餓鬼と畜生と地獄とは悪趣で
ガナリヤ論日。云何最勝。ある。コ向に苦なる処﹂とは一向に非欲の業果が諸
スルモノノワテハノノ二子シ
樺日。顕二示小乗義過失︸、於二大乗義中一則無過失一。の悪趣のことである。如何、そこにおいて﹁ある時﹂是樅淀乗安工畷鵬鋤小乗週掲智、に楽受の生ずるそれは等流果であるところの異熟その
シシテワクレパトテニッテノ
口論日。若執一取陰一名二阿梨耶一、於二悪趣一随一道中、ものはそこにおいて諸の生ずる苦だけである。﹁︹若し︺ 二ノーナかしこニク亨一向苦受虚於レ彼受レ生。貧を具なう楽受︹をアーラャと名づけば︺と第四禅以
トハチナリテ
ノニッテルトノハ
樺日。悪趣即四悪趣。於四悪趣中一随入一︾一道一。此道上に尚あることはない。それを倶なうところの諸の有ンデレノナリキガノヒまじ低ルコトニクノノ
定是純悪業果報。無二餘受相雑一故、名一︾一向苦受情と相反することから、第四禅以上である。第四禅の卜テノニルハズルモワノハテハニズノ
虚一。於二彼中一有時生二楽受一、此楽受於二悪趣一非二果報後においても然りである。﹁それを倶なうから﹂とは二ダクルノミトダテノミワス
トノハ
果一・但名二相似果一。唯以二苦受一為二果報果一。是罪人そこにいる/∼生ずるということである。﹁アーラャ シテニクルガヲ二一フテニクレパトヲ虚一悪趣一受二苦報一故、言二於レ彼受ロ生。識の中に内の事︵法︶を立てるということから生ずる
真諦訳﹃摂大乗論世親釈﹂における増広部分の検討︵二︶︵岩田︶真諦訳﹃摂大乗論世親釈﹄における増広部分の検討︵二︶︵岩田︶
ノハモシス
⑧論日。此取陰最可二悪逆一。からそれを離れることを求める﹂とはいつでも生じな
卜トニハルガラブニフシトムテノノ二二 樺日。生時住時不し可レ忍故言し可し悪。於二此苦中一恒いというところの中で、その中で、﹁内我の法︵ぐ画切目.スセントyワワハクラハカニスカハニ
起下滅離食欲一意上。謂、我何時当し死、何時当し捨二事︶を立てると説く﹂は内我そのものを立てることで スベシノワニケテス卜離此陰一・故名為し逆。ある。﹁苦謹を減することを求める﹂とは苦受を離れ
ノノニハニズキースノピフトイウハズ
論日。是取陰中、一向非し可し愛。衆生喜楽不しることを請うものである。ゼニ
応一道理一。﹁アーラヤ識において我を愛することに縛られる﹂
ノノハニレノナリテニーンガズベキヤヲ 樺日。此悪道陰一向是苦悩資糧。於レ中云何生し愛。とはアーラャ識における我であると安立により愛する 二ピフトイウハク故喜楽乖レ理。︹醒若誕取農數阿梨耶一此義不″ことにより束縛される。
トノズ
ノハズゼニダノノニノミリノ
稗日。此受不レ遍冥三界一。但生死一分中有三此受一。シガニバノヲツテムルニンコトヲワチ
論日。若人、巳得二此受一、由し求レ得一︾上界一、則 瀞日。彼中衆生 スンコトヲワシテ 楽令三後陰圭 シし 論日。若是錘 シノ 皆無二此受一・ ダ コ ト ヲ ワ シ テ シ レ鴫.
ヲテノニノノハニヘパナリノシテランコトヲ 論日。何以故。彼中衆生、恒願二取陰断絶不P単ゼ
ラ ニ ゼ ニ後陰不二更生一・ ノノハッテノーシミ シセンコトワノワ 彼中衆生因二此苦一苦、願三楽滅一︾現在陰一、願四 トトストイハバリ シルマデ二 若是楽受与レ欲相応、従一第四定一乃至二上界一。 (60)論日。是縦衆当鱗屯喜鶏イゥ砥胤一道理一一。 シハゼニシクルワニシテムレパレンコトヲノ 鐸日。若楽不し遍二三界一、若受レ楽人、求レ離一︾此
ワテテノワスコトハトチズハ二
楽一、立二此楽一為冤愛著虚一則不レ称二道理一・ シレナリトイワパノノハシテワレバノ ㈹︽論日。若是身見、正法内人信二楽無我一、非二其所 毒論日。若是身見、正法 楽中一生二喜楽心一・ノーズノワ
ノニハ
論日。是故衆生、シガニジニッテルモノヲレバノハ
棒日。若人、已生二楽虚一已、得二有楽定一、見二此楽鹿 ニシーアレノクシキヲシシテノワメンコトヲノ 動是放逸虚、難し成易咳壊、起二厭怖心一求レ得二上界寂ワチシノワナニジ
ワナ
靜一、則厭二悪此楽一、於二楽虚一生二離欲心一、於二不苦不シカバハレナリトモズラワテノニ
舞日。若説二身見是愛著虚一、是亦不レ然。何以故。佛ノノハハシニハシテノージ.ワピ上
法内人、或約二聞慧一、或約二思修慧一、信二無我一及楽ニ ワ シナスルハワナリセンガワノニハズ 無我一、発願修レ道為し滅二我見一。是故我見非ニノニプテムルニンコトワワムトビトワシテ
其所愛一。由し求レ得一︽無生智一、令二我見及我愛、未二ラニゼノニテニズゼヲノハルモ
來不c更レ生。是故於レ中不レ生二喜楽一。此身見為三一ノノトスル
ノハルガ七二ズカラク
分衆生所一愛著一、一分衆生不一愛著一故、不し可レ説三身 ワスト ト 見為一愛著虚一・二|アニズゼワ
愛一、於レ中不レ生一喜楽一。ズヲ
生二厭悪一。 真諦訳﹃摂大乗論世親釈﹂における増広部分の検討︵二︶︵岩田︶ツテルーセノワジテノワスワツナ
緯日。由し不し了二別此識一、縁二此識一起一︾我執一。由二我二シヲツテノーズメスルコトワワスルガ
執一起二我愛一、由二此我愛一不し求レ減し我、欲し安二 鶏ラシノン雌蕊延識ナリ塗コト醗外具。 リニスルハモズトハノ
⑥論日。従二第四定一以上受生衆生、錐三復不レ楽二有欲ワテ
ノニノノハシテズし
楽受一、於二阿梨耶識中一、是自我愛随逐不レ離。 ニニカセリノテノーたダメテルルコトワワキヲ 舞日。前已明下衆生於一悪道中一、止求し離し苦、無七 シセバキノノワ 若起二如レ此我見一、 真諦訳﹃摂大乗論世親釈﹂における増広部分の検討︵二︶︵岩田︶ ノ ヲハニシナサバノト 論日。此阿梨耶識衆生心執為二自内我一、ノハシテノワヘラクノハレガナリノ
標日。六道衆生起二執著心一謂、此法是我自内我。此内 ハニシテヲスモトルガ二二ハハナリノ
我自在清淨能證為し相、由一外具一故或楽、或苦。是人ノガシルガノ
ニスレバノーし
緯日。此人、若有二悪業因縁一故堕二一向苦受悪道一、其 シナハニシテキモッテニダシワピストシ
計下我清淨無二変異一、由二外具一但證二変異一及染汚上起 ヲン卜トハシテヒルルコトワワテノニ ニ無有愛一、願下我与二外具一永絶相離上。何以故。 論日。阿梨耶識我愛藤繩旋蕪酋儲三幾鍵コト隙自 論日。輻,
シゼパ ノニハフノクシテランコトヲ 論日。若生二一向苦受道中一、其願二苦陰永滅不咳 ヲ 我一。 (62)ニノノハモ
シヲ
側論日。復、次正法内人、錐下復、願二楽無我一、違中ストニテ
ノニリノ
逆身見上、於二阿梨耶識中一亦有二自我愛一。ノハシ
ノニノハス
ノニラ
糯日。前復次約一︾仏法外人一、此復次約二仏法内人一・自 リ ニハルモノニニハルモノニニハルモノ二 有二三品一、一在二正思一、二在二正修一、三在二有学一、ノノノノハシヲハスヲヲテノニノ
此三品人中二人伏二我見一、一人滅二我見一・何以故。前ハシヲノハスルガヲナリブハスト
二人比二知無我一、後一人證二知無我一故。言し違二逆身 二一ア ノ二二スレパワモ
スト 見一、於二阿梨耶識中一、長時数習二我愛一、錐三復違二逆二テノ二
水ニスノーハザレパノ
身見一、於二本識中一我愛猶恒随逐。是故身見非二愛著 (I) スルコトテントワノニハカセリハリテノークノキモノ 欲し捨二我心一・此中、明丁衆生在二捨受虚一無言薬受可ニ ス スルコトハワクナルコトワノノスルガワ 愛楽一、厭悪楽受一、如丙悪道人厭乙悪苦受甲。 クシテ テ ノニスルガテントワニ ハ 無二因縁一於二阿梨耶識中一、欲し捨二我愛一故、阿梨耶識レナリ
是愛著虚。 論日。指 スト二ニズニク
ト 庭一、不し応し名二阿梨耶一。ツテノノニ
スレバノヲ ルモヒハ 鐸日。由二此愛著虚名一、比二度諸師執一名義不二相称一、 シッテノヲスレバヲ 上フニイテノノツルワ 若取二此名一比二度第一一名義相称。故引二彼所レ立名一、 真諦訳﹁摂大乗論世親釈﹂における増広部分の検討︵二︶︵岩田︶ 口 アノヲスルハノワチストノ
論日。以二阿梨耶名一安一立此識一、則為二最勝一。是 ハスレパナリノヲモ 名成一立阿梨耶別名一・この箇所は、㈹⑧。、⑧㈲⑥卿、と区分した。この中で、チベット訳等と相応する注鐸部分は⑨。と側の後半であ る。その外の伽⑧。⑧佃側の前半と①との解釈は真諦により増広されたものである。ここでは心意識の同義異名につ いて論じている。始めに、⑩小乗における意と識について説き、次に、諸師の説を説いている。小乗の諸師の説が説 かれる。②それは阿梨耶とは愛著する境界︵処︶であり、五取謹であると説くものがあると説いている。側大乗の諸 師の説として、始めに、小乗の諸師の説を否定し、五取陰が愛著処としての阿梨耶ではなく、﹁欲の顛倒心がまだ減 せざるに由るが故に﹂楽受が愛著処であると説く。側更に、諸師の説として、愛著処を楽受であると説く。その理由 として、替えば人の寿命の資糧を愛する、それが阿梨耶であると説く。⑤更に、以上の小乗の二師説と大乗の二師説 を招介したのちに、その外の諸師の説として、㈹寿命が愛著処であると説く説、㈲六通が愛著処であると説く説、例 六塵が愛著処であると説く説、㈲有身見と六塵が愛著処であると説く説を上げている。⑧の部分は㈲の部分に属する 説明であるが、論日の文章に注意して、⑧として区分したものである。その真諦訳の論日の﹁小乗の教と及び行とに 随うに由って、是の師の所立の義は道理に中らず﹂とある訳は、チベット訳では﹁声聞乗により、それらの︹アーラ ヤの名を︺安立する道理によってもまた、それの安立するのは不合理でない⋮﹂とあり、これは玄英訳等とも一致す ることから、この真諦訳は少し達意すぎるように考えられる。 ○の部分では、釈日の﹁迷はざる人は是れ菩薩なり﹂の注釈はチベット訳等の訳にもある。しかし、その外の解釈 真諦訳﹃摂大乗論世親釈﹄における増広部分の検討︵二︶︵岩田︶