自然、偶然、技術 : プラトン『法律』第十巻における「知者たち」の説について
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(2) 自然、偶然、技術. 「すべての事物・事象は、現在においても、過去においても、未来 によって生じ、あるいは技. によって生じ、あるいは偶然(テユケ-)を通じて. においても、あるいは自然(ビュシス) 術(テクネー) 生じる。」(八八八2四-六) つづいて. 「それらのうち、最も大きく、最も見事なものは、自然と偶然が作 -9出し、技術が作り出すものはそれらに劣ったささいなものでしか ない。技術は自然からそれのもたらした最初の偉大なもろもろの作 品を受け取り、それらを整え、組み立てるのであるが、そのように. 然、偶然、技術がそれぞれいかなる意味で言われているのかというこ とに、特にかかわっている。以下では、この点を中心に検討をおこなっ. ていきたい。また、このことにより、プラトンの無神論批判のポイン トがどこにあるのか、さらに、プラトン自身の自然観がどのようなも 、これらを検討するうえでの重要な手がかりが与え のであるのか. られると考えられる.いまの問題関心からすれば、「知者たち」. 論のうち、最も重要な意味をもっているのは、仰の自然哲学の部分で ある。. I.?I.1,(.,,.. してできるものはすべて劣ったささいなものである。」(八八九a四-. 二. 「知者たち」の自然哲学の部分の全文を試みに訳出しておこう。. -. 「知者たち」の説は、このように、自然と偶然を技術と対比させ、自. ,;・ニ∴:.,::i,:[(1ノ..". 「彼ら [知者たち] の言うところでは、火や水や土や空気はすべて 自然と偶然によって存在するのであり、それらのいずれも技術によっ. i.:'・:"]'t.. I:I.,:.. ':1..:.. 't. I;!::. のおのおのが、それぞれにそなわって [火、水、土、空気] の偶然によって運動し、互いに出会って、一 いる力(デュナ-ス). それら. の次に て存在するのではない。また、それら [火、水、土、空気] くる物体 にしても、まっ 大地や太陽や月や屋のことであるが. T:[t::[,.:. 然と偶然に優位を与えるという基本的な構図のなかで、法(ノモス)、 神々などを技術の所産となし、それらの人為性、虚構性、相対性を暴 -という内容となっている。いまの引用のあとの「知者たち」の説の 展開の道筋をまとめておけば、次のようになる。 自然論ないし自然哲学(八八九b 1-c六) 技術論(八八九c六-2一). i.如[''=:i.:・i;.):::.. れてできあがってきたすべてのもの(≡.I. nぎTa. Oqbqa三TWy町yau・. 夕・テユケーン)、必然的に(エクス・アナンケ-ス)、混ぜ合わさ. よそ、対立するものの混合というかたちで、偶然にもとづいて(カ. 熱いものが冷たいものと、乾いたも 定の仕方で緊密に結び付き のが湿ったものと、柔らかいものが硬いものと結び付き、また、お. -. 法論(八八九e三-八九〇a二). の暴力主義的思想が主張されている。. 正義論(八九〇a二-八九〇a九) このうち、無神論の直接的な言及は㈱、仙においてなされ、また、仙 ではいわゆる「自然の正義」. 以上のような構成を取る「知者たち」の説には、必ずしも明確でな い点がある。それは、理論全体の前提となっている自然・偶然と技術. ㌔)I;71.iiJH5・:.. -、. の対比が、そもそもいかなる意味での対比となっているのか、また自. の理. -. -. 八) ㈱ 榔 ㈲ 肘.
(3) れているのであろうか。. 「偶然にもとづいて、必然的に」(八八九c. とはどう. 意味が明らかになれば、おのずと仙の問題も解決がえられるであろう0. 考えられる.このうち、特に、惚に即して「偶然」の意味を考えてみ よう.川と惚で「偶然」が同じ意味をもつならば、惚に即して、その. するものとして考えられている。この訳で正しいのであろ,'r,nk. これらの疑問は、いずれも、「偶然」の意味にかかわるものであると. いうことを意味しているのか。偶然と必然はふつう、あい対立. 1-二). 技術は自然だけでな-、なぜ、さらに偶然とも対立させられて いるのであろうか。そして、自然と偶然は、なぜ同列に並べら. 技術は自然、偶然と対立させられているが、この対立において、. るであろう。. ところで、いまの引用箇所を理解するうえで次の二つの疑問が生じ -、そのようにして、そのような仕方で、. T.Ee…Phqe"aTaTbx嘗iEぎぎ芸Sq…k8P&qOq)においても、同 文化否定的な自然主義的思想となっている。) 様の結び付きが生じて [天にあるもの]. 天の全体と天にあるすべてのものが生まれたのであり、さらにまた、 から季節のすべてが生じることによって、 これら. 動物や植物のすべても生まれたのである。そして、彼らが言うには、 これらが生まれたのは、理性によるのでもなければ、いずれかの神 によるのでもなく、また技術によるのでもなく、むしろ、いま述べ ているように、自然と偶然によってなのである。」(八八九b一-c ここでは、大まかに言えば、火、空気、水、土の四元から大地、天 体が生じ、天体から季節が生じ(太陽のことが特に念頭に置かれてい るのであろう)、さらに季節から動物、植物が生じたとされているが、 火、空気、水、土という第1次的i原初的な物体の存在.. 引用中ギリシア語を挿入した箇所(ここはテキスト校訂上はまった -問題がない)は意味が取りに--、かなり難解である。藤沢令夫氏. (wt9. それらの物体における魂・生命の欠如。. ほぼ次のようなことが基本的な観念として想定されている。. 川 物 ラ-セイ). のはすべて」と訳してお. のものどうしの混合とい. にかかると解した訳文となっている。加釆彰俊氏も同様に解. にかかり、「必然的に」は「混合させられる」(シュネケラ. で、必然的に混合させられるようなも 。「偶然にしたがって」は「混合」(ク. はここを「このほか1般に、偶然にしたがサて行なわれる反対の性質. :.TI‥..,i. あるが、要するにその意味は、反対の性質どうしの結合ということそ. 的に合成させられて一つになるかぎりのものすべて」と訳しておられ ).また、藤沢氏はこの箇所について言及され、「表現はやや難解で. 釈され、「また1般的に、反対のものの偶然的な混合によって、必然. ステ-). l:. それらの物体の運動、および運動によるそれらの物体どうしの. 衝突と結合、さらに結合による合成物の生成。 これ以外にも、無生物からの生物の発生、また、全体が発生論的図式 にもとづ-1 つの宇宙生成論となっていることなどが、この説の特徴 としてさしあたり挙げられるであろう。. (なお、ちなみに、このあと、技術は自然から発生し、法は技術に よって生み出されるというように一種の文化発生論が展開されている0 ただし「知者たち」 の説は、神々、見事なこと (立派なこと)、正し いこと(正義)などを技術によって存在するものであるとし、かつ、 を主張する. 三. それらの人為性、虚構性、相対性を暴き、「自然の正義」 自然、偶然、技術. [:.. 六) 、仙 ㈱ 燃.
(4) :・)t'J:[..i. I:i.7,. '・::,. l::::.:,. '... I.. J[..山''7T{.:':.(:,,;・!::I:T・:(. 自然、偶然、技術 '.;∼. ':::::.:.;I:,T7,. '{'. 't,. '(I:.;.+ I.. tj. をしているのは、たまたまそうなのであり、「偶然に′よる」ととらえ と呼んで. るであろう.それらをかりに、「机もどき」、「椅子もとき」. 四. は必然的であり、ある部. たったのは、「必然による」とも考えるであろう. すなわなち、地. 球の造山運動、岩の性質、風雨による浸食作用などさまざまな要因が. 重なり、それらが原因となって、必然的にその与っな形ができたので. ある、と。つまり、われわれにとって、それらは、一方では、「偶然. によって」机もどき、椅子もどきになり、他方では、「必然によって」. 机もどき、椅子もどきになったのである。かりに、子供が、それらが なぜ机、椅子のような形をしているのかとたずねてきたら、ふつうは、. ような形をしているだけであるといった趣旨の答えをするであろう。. 自然現象として必然的にそうなったのであり、たまたま、机、椅子の. が並列的に用いられる場合はないのか、もしあるとすれば、それはど ういう場合で、どういう意味においてなのか このことを、まず、. 組の岩があったと想定してみる。われわれは、それらが机、椅子の形. てよいであろう。しかし、「必然」と「偶然」は、一方で、対立する. は、決定的・確定的であるという事態を指して用いられているといっ. うか。いずれの場合も、「必然」は、ほかにありようがない、あるい. うでない場合がある。Lかし、このことは何を意味しているのであろ. このように、「偶然」と「必然」は対立してとらえられる場合とそ. している。. よる」を意味し、「必然によるのではな-」は「偶然による」を意味. は互いに対立する 言い方もなされる。この場合、「必然」と「偶然」 ものとしてとらえられている。「偶賂によるのではなく」は「必然に. れとも、偶然によるのか、偶然の介在する余地はあるのか」といった. むしろ並存しているということができるであろう。 しかしまた、「世界のもろもろの出来事は必然的に生じるのか、そ. この場合、「必然」と「偶然」は、特に対立しているわけではな-、. にして、やや一般的な形で考えてみたい。. 「偶然」と「必然」はどのような場合に並列的に用いられるのか、 また、その場合の「偶然」はどういう意味をむっているのか. われわれは、机、椅子、あるいは寝台を目にして、それらが偶然の. 例で考えてみよう。. 然」、「必然」の関係についても、一定の見通しをえたい。次のよう吃. 下ではこのことを検討⊥よう。またその検討を通じて、「自然」、「偶. -. 産物であるとは患わない。しかし、ある山の頂上に机、椅子に似た一. 、以. われわれの自身の日常の言葉の使用とそこにおける考え方を手がかり. しかし、先に掲げた拙訳では必然と偶然を並列させた。必然と偶然. られる。. 礎には、必然と偶然は互いに対立するものであるという考え方が認め. 分(ないしレヴュル)は偶然的であるという考え方にもとづくもので、 それ自体としては了解可能であるといえる。そして、その考え方の基. にも自然事象のある部分(ないしレヴュル). らの解釈・訳は、文法的に可能であることば言うまでもなく、内容的. 釈は、イングランドの注釈に基本的によっているように思紅、これ おこう。しかし同時に、他方では、それらがそのような形をとるにい. '[・;i:.:...:.. -. -. .[・;::;':I:;.17;:?.:f7;i.
(5) いて言われている。そのような状態が「非人工的」であるのは、しご -当然のことであり、かえって意味をなさないとも考えられる。だと. ものとして用いられ、他方で、対立するものとして用いられておらず、 しかも、「必然」のはうは、両方で、そのように同じ意味で用いられ. 「偶然」、「必然」の関係について一定程度考察しておこう。. を要することになるであろう。しかし、そのまえに、ここで、「自然」、. すれば、テキストで言われる「偶然」の意味については、さらに追究. は、それ. ているとすれば、二つの場合で、「偶然」が異なった意味において用 いられーていると考えられるであろう。だとすれば、「偶然」 ぞれの場合に、どういう意味をもっているのか。前の場合、つまり、 決定的・確定的でないという事態を指しているといってよいであろう0. される以上、「偶然」はその対比において「自然」と同じ側に属する. おいて十分であ各)、そのことば、1般に「人工」が「自然」と対比. 「偶然的」が「非人工的」を意味するとすれば(いまはこう解して. つまり、「ほかにありようがな-・決定的・確定的である、のではな. と考えられていることを示している。机もどき、椅子もどきは、人工. 対立するものとして用いられている場合は比較的単純で、「偶然」は、. い」という事態を意味していると考えられる。他方、後の場合の「偶. 考えられている。ここでは、「たまたま」と「自然」. えられうる。他方、「必然」についても、それは「自然」 の在り方と して、「自然」と結び付けてとらえられている.机むどき、椅子もど. は互いに言いか. 物に似てはいるが、しかし、やはり自然物であった。この場合、それ らは、人間の手によるのでな-、たまたま生じた、自然に生℃た、と. 然」はどういう意味をもっているのであろうか。いまは、かりに、こ の場合の「偶然」は、人間がつくったのではない・人工的でないとい う事態を給すとしておこう。「偶然によって」机もどき、椅子もどき ができたということは、実際の机、椅子と異なって、人間の手によら ずに机、椅子に似たものができたということを意味していると考えら. の作用によって、「自然」の作用の必然的なあり方によって、生じた. きが浸食作用などによって生じたと考えられている場合には、「自然」 につ. ということが念頭に置かれているといえるであろう。このように、. れる。机、椅子は人工物であり、机もどき、椅子もどきは人工物に似 た、しかしあ-まで、自然物である。このようにして、「偶然」. いて、二つの意味が抽出されたとひとまずいうことができるであろう0. 「偶然」は「自然」と「人工」の対比において「自然」 の側に属する ととらえられており、また、「必然」は「自然」と結び付けてとらえ. 「非人工的」ということで特に何がわれわれの念頭に置かれているの. 再び、「偶然」の意味について追究してみよう。さきに「非人工的」 という意味をひとまずえたが、これとは無関係にではなく、むしろ、. 対比において同じ側に置かれているということになる。. られており、結局、「自然」、「偶然」、「必然」の三者は、「人工」との. すなわち、「偶然的」には、仙非決定的・不確定的、似非人工的、と いケ二つの意味がさしあたり考えられる. いまのわれわれにとって問題になるのは、このうち、「偶然」 「必然」が並存している他の場合である.ひとまず、「偶然的」を「非 人工的」と解した。われわれの通常のその言葉の使用では、その意味 に解することによって、ほぼ十分にこと足りるであろう。しかし、テ キストを字義通りにとれば、「偶然にもとづいて、必然的に」という. か、この点を検討してみよう。「非人工的」は、言うまでもなく、ふ. 五. 言葉は、宇宙生成論の図式のなかで、人間が発生する以前の状態につ 自然、偶然、技術. と.
(6) 自然、偶然、技術. つうは「人間の手になるのではない」を意味する。しかし、幼い子供 が机もどき、椅子もどきを見て不思議がり、鬼のようなものがそれら を作ったのかと問うことがあるかもしれない。自然にできたはずはな. い、人間にも無理だろう、だとすれば何ものが作ったのか、という疑. 要なポイントになっているということができる。. テキストにもどろう。「知者たち」の説の問題箇所における「偶然」. いるのか。言うまでもなく、物体が物体がとしてあるだけでは、作ら. うことになる。しかし、「作る」ということで、何が念頭に置かれて. なわち、「偶然にもとづいて、必然的に」とは、対立するものどうし. ま得た「偶然」の意味をそこに読んでほぼ間違いないと思われる。す. と並存する意味での「偶然」である。そして、「偶然」. は、おそらく、「必然」と対立する意味での「偶然」でな-、「必然」 の意味も、い. れたことにはならない。物体が素材・材料として用いられ、それに手. 加える何ものか、といった観念が本来潜んでいるということができる. 子供の疑問の根もとには、意志し、思考し、目的、意図をもち、手を. 志や思考のたぐいが欠けているということは、ものそのもののうちに. て混合しているわけでもない、ということを意味していると考えられ る。つまり、混合は必然的である、しかし、ものがみずから混合しよ. とは異なった外的な何かが存在して、それが、意志や思考にもとづい. て生じたということば、特に言えば、何ものかが作ろうとして作った. うと意図して混合しているわけでもな-、何ものかが混合させようと. 神的な力でなく、純粋に物理的な力として考与bれているであろう)、. するかば必ずしも明らかではない。しかし、それは、少な-とも、精. 元には一定の力がそなわってお.り(ここで言われている力が何を意味. る力の偶然によって運動する」(八八九b五-六)という表現も、四. それぞれにそなわってい. のではない、あるいは、岩自身が自分をそのように作ろうとして作っ. 「人工」. またこの箇所に先立つ、「[四元は、その]. たのではない、つまり、意志の働きや思考といった精神の活動にもと. の精神が働いているのではない」を意味することになる。 また、このように見ると、「自然」、「偶然」、「必然」. と. づいて作られたのではない、ということを意味しているといえるであ ろう。だとすれば、「偶然的」ということは、特に、「意志・思考など. 意図して混合させているわけでもない。混合されてできあがったもの は、たまたま混合されてできあがったのである。. た、広く、精神的な事柄である。机もどき、椅子もどきは偶然によっ. であろう。ところで、「偶然」との関連で言えば、「作る」にまつわる さまざまな事柄のうち、特に関係するのは、意志、目的、思考といっ. 意志や思考のたぐいがそなわっていてみずからの意志や思考にもとづ いてみずからを混合しているわけでもな-、あるいは混合されるもの. の混合における意志や思考を欠いた必然的なあり方のことが言われて. いると解される。そして、・その混合が必然的であり、かつ、そこに意. 問がその子供には生じている。このように見てくると、「人工」 うことで、特に問題になるのは、人間よりも、むしろ、「作る」. ノ■ヽ. が加-与bれ、しかも作るものの意志、思考、さらに目的や意図、場合 によっては、計算や設計などをまって、はじめて作られることになる0. といとい. の対比においても、「意志・思考などの精神が働いているのでない」 と「意志・思考などの精神が働いている」ということがこの対比の重. と.
(7) 四元はその力によって運動する。しかしその力は意志をもっているわ けでもな-、また、何らかの外的な精神的存在に依拠しているわけで 滝ない。ただ、純粋に物理的な力として作用しているだけであると解. コイ)と言われており、魂4)区別された純粋に物理的な物体として想. 対比を検討して争)う.. 機械論として描いている。そしてプラトンはこれを論駁しようとする0 この論駁はいかなる形でなされるのか。しかし、それを調べるために も、ここでは、「知者たち」の説の前提をなす自然、偶然と技術との. 以上のように、プラトンは「知者たち」の思想を徹底した唯物論的. 定されている。魂をもつものである生物はのちになって発生し、ここ. ここで描かれている自然世界ば、徹底した機械論的・唯物論的自然世. きたものはすべて、たまたま・偶然に、できあがってきたことになる0. 要なポイントは、「意志・思考などの精神が働いているので甘い」と 「意志・思考などの精神が働いている」という点に求められた。「知者. 「作り出し」方においては、自然、偶然と技術とでは大きなちがいが. 技術のいずれもが、「生み出す」、「作り出す」ものとして示されてお り、その点において三者は共通している。しかし、「生み出し」方、. はいかなる意図・思考にももとづいておらず、生成してできあがって. な世界である。そこには必然にもとづく生成が見られるが、その生成. またもともと、四元そのものが「魂・生命を欠いている」(アブシュ-. で言われている自然世界は、魂、精神がまったく不在の純粋に物体的. 「知者たち」の説において、この対比はいかなる意味における対比 として措かれているのであろうか。この対比においては、自然、偶然、. されるであろう。. 五. 界である。ここでは、「偶然」は「魂・生命の欠如」を意味し、「知者 たち」の自然観が唯物論的・機械論的であることを示している。こう した自然観の典型として、われわれはレウキッボス、デモク-トスの. '…・'f;:,.:牝附鮎;..ES. る」。他方、技術は、「後になって生じてきた後発的なもの」(八八九. たち」の説でも、自然、偶然と技術の対比は、基本的には同様の形で とらえられているといえよう。自然、偶然はもともと「魂を欠いてい. ある。さきに見たところでは、自然、偶然、必然と人工との対比の重. S約Ar;㍍絹紬郎. っまり、機械論的に「生み出す」ことで凍る.他考技術が「魂によっ. す」とは、じつさいには、物体が、「偶然にもとづいて、必然から」. されているといえるであろう。自然、偶然が「魂を欠きながら生み出. ら生みだし」、技術は「魂によって生み出す」という形で対比が構成. c七)であり、「死すべきものども[人間]から生じた死すべきもの. afpJ4. 原子論を想起することができるであろう.プラトンの著作中には原子. 生じは. A:]DG. 論・原子論者への言及はない。しかし、レウキッボスの次の言葉に示 されている機械論的自然観は、「知者たち」 の自然観におそらくきわ しない。あらゆる生成に理由(ロゴス)があり、すべては必然(アナ. u=u r. めて近いであろう。「いかなるものもでたらめに(マテーン). ンケ-). によって生じる」(断片二)。「いかなるものもでたらめに生 しかし、その世界には、目的性がまったく見られな. じはしない」. い。その意味において、すべては「偶然によって」ただ生じているだ けであるといえるであろう。. 自然、偶然、技術. 七. -.
(8) を意味する。このように、「知者たち」 の説では、自然、偶然と技術 との対比は、前者が「物体が生みだす」:後者が「人間が魂によって. て生み出す」とは、じつさいには「人間が魂によって生み出す」. のように、「自然に従った本当の生き方」(ホ.カタ・ビューシン・オル トス・ビオス、八九〇a八)を主張する。しかし、その生き方という. ー自然を技術の上位におき、法を全面否定する「知者たち」は、当然. 九〇a二). いささかも自然によって生じているわけではない。」(八八九e三1八. 自然、偶然、技術. 生みだす」という形をとっている。そして、「知者たち」 「それら のうち、最も大き-、最も見事なものは、自然と偶然が作り出し、技. 術によっており、その定めるものは真実でない」(八八九d八-21). この発言は、人間が作り出すものである法(ノモス) の全面否定を意 味し、「知者たち」は法の非真実性・虚構性・相対性を、「神々」、「見 事なもの」、「正しいこと」の三者について、次のように主張する。. 「知者たち」の主張する「自然に従った本当の生き方」は、ホップズ. 的な自然状態に近い。しかし、ホップズとは異なって、「知者たち」. にはあくまで自然状態があるだけである。かりに社会状態という言葉. を用いるとしても、自然状態即社会状態であり、正義について、次の. ように言われる。「このうえな-正しいこととは、人が力ず-で勝ち. にとっ. 取るもののことにはかならな.い」(八九〇a四-五)。自然を技術の上. 位に置き、「物体」を「人間の魂」の上位に置-「知者たち」. 「より動物的に生きる」ということを意味しているといってよいであ. て、人間が自然に従って生きるということは、「より物質的に生きる」、. モイ)-によって存在するのである。現に、場所がちがえば、神々も異. ろう。. このように、「知者たち」における自然と技術の対比は、物質・物. 体を人間の魂の上位に置-対比として描かれており、そして、その唯. にしても、自然によって. かならない。また、見事なもの. 物論的・機械論的な内容が無神論・文化否定的な自然主義・暴力主義 につながるものとして措かれているということができるであろう。. 正しいこと(夕∴ディカイア)にいたっては、およそ自然によって存 在するのではない。むしろ、人々はつねに互いに言い争い、それを変 度し続けている。そして、いつ、何と変更されようとも、変更がなさ れた時点では、変更されたことがいずれも正当なこと (キュー-ア) であるのであり、それらは技術と法によって生じているのであって、. さて、プラトンはこのような「知者たち」の思想をどのような形で. 六. 見事なものと、法によって見事なものとは、別のものである。さらに、. (夕・・カラ). 自分たちの問で同意したことに応じて、衰なっているということには. なっているが、それは、人々がそれぞれ自分たちの土地で法を立て、. 「神々は技術によって存在し、自然によるのではな-一定の法(ノ. を支配して生きるという生き方」(八九〇a八-九)にほかならない。. のは「じつのところは、法に従って他人に隷従す.るのではな-、他人. ′ヽ. (八八. こと. 物論的な思想を展開していることになる。この考え方はさらに次のよ うに展開.される。「立法術については、その全体が自然によらずに技. 九a四-五)と主張し、自然、偶然を技術の上位にお-.この点にお いても」「知者」たちは、「物体」を「人間の魂」よりも上位にお-唯. 術が作り出すものはそれらに劣ったささいなものでしかない」. は.
(9) 論駁することになるのであろうか。プラトンは「知者たち」の思想の. 技術は魂と結び付き、偶然は魂と結び付かず、しかも、魂と物体は対. み合わせしか残されていない.これをさきの惚、㈱に照らしてみれば、. 大前提となっている自然・偶然と技術の対比を批判することによって、 論駁をおこなうことが当然予想されるであろう。その場合、この対比 をいかにとらえなおすかが問題になる。しかし、自然、偶然、技術の. ㈱は偶然と嶺術が並存する組み合わせであり、燃は偶然と技術が対立. 比されるとすれば、結局、技術と偶然は並存しえず、対比させられる しかないということになる。つまり、技術・魂対偶然・物体という組. 三者による対立の組み合わせは、三通りしかない。しかも、これまで. した組み合わせである。このようにして、プラトンは、「知者たち」 ・技術を偶然に対比させることにな. とになるであろう。. は技術と並存することによって、「知者たち」に. の意味づけが、「知者たち」の場合とは異なったかたちでなされるこ. ある」とされた神々、美、正義とも並存する可能性が開かれ、それら. 「技術によってある」とされた法(ノモス)とも並存し、「法によって. 自然(ビュシス). のえられたという叙述がなされてio&.しかし、そればかりでなく、. 「無秩序な状態にあった」言わば前物質から、「数と形でもって」とと. もともと存在するのではなく、逆に、製作神デー、、、ウルゴスによって、. 宇苗全体を魂と身体をそなえた1つの理性的動物とする宇宙論を展開 している。『ティマイオス』では、現実の宇宙を構成している物質も、. そのような自然観を展開している。また『ティマイオス』においても、. 自然でもある。じじつ、プラトンはこのあとの神の存在証明において、. 結び付きが本質的である以上、意志・思考といった精神的活動をおこ なうような自然である。そして、魂が生命をも意味する以上、生きた. 技術と並存していることば注目に値するであろう。それが意味してい るのは、技術的・作為的・意匠的自然である。そして、技術と魂との. しかし、例えば、この対比におけ鳩自然の位置、すなわち、自然が. の説を論駁するにさいして、自然・. 見てきたところからすれば、プラトンにとって、採用することができ つでしかない.. めから除かれる.残りのうちプラトンが選ぶことができるのは惚であ る。以下では、このことを考えてみよう。 「知者たち」の自然・偶然対技術の対比には、もう1組の重要な、 魂と物体の対比が含まれていた。「知者たち」は、この対比において 物体を魂の上位に置-、唯物論的・機械論的立場を取っていた。プラ トンにとって、「知者たち」の思想を論駁するということは、「知者た ち」がそのように物体を魂の上位に置いているのに対抗して、逆に、 魂を物体の上位に置きなおすような理論を展開するということにほか ならない。しかし、そのことは、魂対物体の対比そのものには手をつ けず、その優劣の関係を逆転させるということを意味している。とこ ろで、偶然が「魂の欠如」である限り、偶然が魂と結び付けてとらえ られるということはありえない。他方、技術と魂の結び付きは、技術 が意志や思考といった精神的活動によって支えられている以上、本質 的な結び付きであると言わざるをえないであろう。そのようにして、. る。. るのはそのうちの1. 自然・偶然 自然・技術. 偶然・抜術. 自然偶然技術. このうち、仙は「知者たち」の唯物論的・機械論的思想であり、はじ. 対 対 対. 自然、偶然、技術. EjT. (3) (2) (1).
(10) 自然、偶然、技術. この自然・技術対偶然の対比は、自然・技術・魂対偶然・物体の対 比であることを意味し、自然・偶然・物体対技術・魂の対比を大前提 としていた「知者たち」の唯物論的・機械論的思想を論駁するための 理論の大前提として、じつに多-のことを意味することになるといわ. いる。. giqzLedulim'eedePlaton,Paris,1974,pp・35-50が詳細に論じて. ては、LucBrisson.LeTnaTneet1.aLLtredanslastructuT・eOntOlo・. 前注榔を参照. における宇宙と人間の関連構造」、 拙稿「プラトンの『ティマイオス』 『横浜国立大学人文紀要第1頬哲学・社会科学』二九、l九八三年、五九 貢を参照されたい。デーミウルゴスの技術者としての種々の性格につい. p.453(ad889b5ff.).. E.B.Eng)and.TheLawsofPlato.Manchester,)92),vo)・日、. 藤沢令夫、『イデアと世界』、岩波書店、一九八〇年、1五七頁。 加来彰俊、上掲書、五九四頁。 藤沢令夫、上掲書、1八八頁.. ように訳している。本稿での「偶然」のとらえ方についても同書に負う ところが少な-ない。. F.M.Cornford.Plato.sCosmology,London.)937.p.)67がその. 加来彰俊(他)訳、『法律』(『プラトン全集』1三)、岩波書店、1九七六 年、五八七貢、(荏)三、R.F.S上a)ICY.An]ntT・OductiontoPlato.s Laws.Oxford.)983.p.)68を参照。 「それらによって」(ディア・トゥ-ト-ン、八八九b四)の読みは、G. v)astos}plato.sUniuerse.Seatt)e.)975,p.24,n.2に拠っている。. 注. なければならないであろう。. 仙 ㈱ ㈱ (7)(6)(5)(4) (9)(8). ⊂⊃.
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