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『宇治拾遺物語』 橘以長説話再考

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はじめに

  『宇治拾遺物語』 (以下『宇治拾遺』 )に収められている一九七話には、 他に同文話が確認されていない話が五四話あるとさ れ (( ( 、その割合を考え ると、 『宇治拾遺』固有の説話について考察することは、 『宇治拾遺』が いかなる説話集であるかを解明する上で重要であると考える。本稿にお いて論じようとする橘以長も『宇治拾遺』固有の説話である第七二話と 第九九話に登場する人物であるが、諸注釈書は『尊卑分脈』によった説 明にとどまっており、 『平安時代史事 典 (( ( 』にも、    大江匡房の養子の広房の子。大膳亮にして五位蔵人。筑後守。嘉応 元 年 に 卒 去。 礼 節 を 重 ん じ た 老 練 な 侍 で あ っ た こ と が『 宇 治 拾 遺 』 に見える。 と あ る だ け で、 そ の 人 物 像 に つ い て は あ ま り 把 握 さ れ て い な い。 ま た、 稿 者 の 興 味 も と り わ け 説 話 を 彩 る 人 物 た ち に あ る が、 特 に『 宇 治 拾 遺 』 に お け る 摂 関 家 周 辺 の い わ ゆ る 家 司 階 級 の 人 々 は、 編 者 や 語 り の〈 場 〉 を考える上で重要な役割を担っているとされ る (( ( 。   そこで本稿では、橘以長が登場する『宇治拾遺』第七二話、第九九話 を改めて検討するとともに、解釈の手立てとするために、古記録等に見 られる以長に関する叙述を年譜形式でまとめることで、以長という人物 の把握から『宇治拾遺』で以長の存在がどのように機能しているのかを 考察したい。また、橘氏の長者であった以長と両話のもう一人の登場人 物である藤原頼長との関係を見ていくことで、院政期における橘氏の有 り様についても言及していきたい。

  『宇治拾遺』第七二話について

  まず、 『宇治拾遺』第七二話を以下に掲げ る (( ( 。      これも今は昔、大膳亮大夫橘以長といふ蔵人の五位ありけり。宇 治 左 大 臣 殿 よ り 召 し あ り け る に、 「 今 明 日 は か た き 物 忌 を 仕 る 事 候 ふ 」 と 申 し た り け れ ば、 「 こ は い か に。 世 に あ る 物 の、 物 忌 と い ふ

『宇治拾遺物語』橘以長説話再考

  

  

  太

  郎

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― 59 ― ことやはある。たしかに参れ」と召しきびしかりければ、恐れなが ら参りにけり。      さる程に、十日ばかりありて、左大臣殿に、世に知らぬかたき御 物忌いできにけり。御門のはざまに、かいだてなどして、仁王講お こなはるゝ僧も、 高陽院のかたの土戸より、 童子などもいれずして、 僧ばかりぞ参りける。御物忌ありと、この以長聞きて、いそぎ参り て土戸より参らんとするに、 舎人二人ゐて、 「「人な入れそ」と候ふ」 とて、 立ちむかいたりければ、 「やうれ、 おれらよ。 召されて参るぞ」 といひければ、これらもさすがに職事にて、つねに見れば、力及ば で、入れつ。      参りて、蔵人所に居て、なにともなく声だかに、物いひゐたりけ る を、 左 府 聞 か せ 給 ひ て、 「 こ の 物 い ふ は、 た れ ぞ 」 と 問 は せ 給 ひ け れ ば、 盛 兼、 申 す や う、 「 以 長 に 候 ふ 」 と 申 し け れ ば、 「 い か に、 かばかりかたき物忌には、夜部より参りこもりたるかと尋ねよ」と 仰せければ、行きて、仰せの旨いふに、蔵人所は御前より近かりけ るに、 「くわ、〳〵」と大声して、憚からず申すやう、 「過ぎ候ひぬ る比、わたくしに物忌仕りて候ひしに、召され候ひき。物忌のよし を申し候ひしを、物忌といふ事やはある。たしかに参るべき由、仰 せ候ひしかば、参り候ひにき。されば物忌といふ事は候はぬと知り て候ふ也」と申しければ、聞かせ給ひて、うちうなづきて、物もお ほせられで、やみにけりとぞ。   こ の 話 は、 以 長 が 宇 治 左 大 臣 藤 原 頼 長 の 召 し 出 し に 対 し て、 物 忌 に よって出仕できない旨を申し上げたが、それでも厳しく召し出されたの で、恐る恐る参上することになる。しかし、今度は頼長に重い物忌が持 ち上がり、頼長は自邸における人の出入りも極力控えさせるのだが、こ れを知った以長は土戸で止める舎人を振り切ってまで頼長邸に入る。そ して、自らが物忌のときに強引に召し出した頼長の言動と行動の矛盾を 指 摘 し、 頼 長 は そ れ に 物 も 言 え ず に 終 わ っ て し ま っ た と い う 話 で あ る。 以長は「職事」として頼長に仕える身でありながら、主人たる頼長に対 し、その矛盾を遠慮なく指摘し、頼長もそれにやりこめられてしまうと ころに本話の面白さがあると言える。   ちなみに、本話に登場する「盛兼」は、頼長に親しく仕える人物であ ることが窺えるが、その詳細は物語の中で語られることはない。それが かえって『宇治拾遺』の語り手や語りの〈場〉に近い人物であることを 感 じ さ せ る の で あ る が、 諸 注 に も 具 体 的 な 言 及 は な く、 「 伝 未 詳 」 と さ れている。この盛兼について伊東玉美は、    天養元年(一一四四)三月三日、頼長が忠実に、中原師元を介して 節供についての教えを乞い、それを宇治から京へ連絡する際の使者 として『中外抄』上六五条に名の見える「盛兼」と同一人物と見て よいものと思われる。 と述べ、忠実、頼長周辺に仕えた人物と推測してい る (5 ( 。稿者も当然、忠 実や頼長の周辺にいる人物であると考えるが、新日本古典文学大系『中 外 抄 』 の 当 該 話 の 脚 注 に は、 「 底 本 は「 成 憲 」 で 諸 本「 成 兼 」、 「 盛 兼 」 等とあるが、 「盛憲」が正しいか」としており、 『中外抄』諸本には異同 があるようだ。そうであるならば、 『中外抄』の「盛兼」を『宇治拾遺』 の「 盛 兼 」 と 同 一 視 す る こ と に は 一 考 を 要 す る。 『 中 外 抄 』 の 脚 注 が 指 摘する 「盛憲」 は、 頼長の日記である 『台記』 にも多くその名が見られ、

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― 58 ― 頼長に家司として親しく仕えた藤原盛憲のことで、 『保元物 語 (6 ( 』にも、    盛憲・経憲は、左府の外戚なれば、事の趣をも存知し、近衛院・美 福門院を呪詛し奉り、後徳大寺を焼きたりし事をも知りたるらん とあって、保元の乱の後、頼長に連座して、佐渡に流された人物として 知られる。たしかに、 頼長との関係性からすれば、 この「盛憲」が、 『宇 治拾遺』の「盛兼」であっても不自然なことはなく、むしろ頼長の物忌 中であっても近侍する者としてふさわしい人物であるとも言えよう。し かし、 管見によれば、 『台記別記』 仁平元年 (一一五一) 六月二十六日条、 仁平三年(一一五三)八月八日条にそれぞれある春日詣の雑事定の記録 に は、 「 盛 憲 」「 盛 兼 」「 以 長 」 三 者 の 名 が 確 認 で き る。 つ ま り、 「 盛 憲 」 とは別に 「盛兼」 という人物も頼長に仕えていたということであり、 『宇 治拾遺』の「盛兼」は人物像こそ把握できないものの、以長と同時期に 頼長に仕えた家司であると推察される。   さて、本話において物忌にもかかわらず、頼長に召し出された以長で あ る が、 こ の 物 忌 を 破 る と い う こ と に つ い て 考 え て お き た い。 同 じ く 『 宇 治 拾 遺 』 第 一 二 二 話 に は、 天 徳 二 年( 九 五 八 ) に 没 し た と さ れ る 算 博士の小槻茂助が物忌の最中に呪い殺されたという話がある。茂助は才 覚優れていたが、その茂助を敵視する者が、陰陽師を伴って物忌のため に固く閉ざされた茂助の家を訪れ、嘘によって茂助に遣戸から顔を出さ せた。その声を聞き、顔を見た陰陽師ができる限りの呪いをかけたこと で、茂助は三日経って死んでしまったというのである。その話末評語に は、    物忌には声高く、よその人にはあふまじきなり。かやうにまじわざ する人のためには、それにつけて、かゝるわざをすれば、いとおそ ろしき事也。 とあり、ここからは、物忌中の外出や人との面会は避けるべきこととし て捉えられていたと理解できよう。また、物忌を破ることは、 『江談抄』 に見える藤原行成の逸 話 (( ( にあるように怨霊に憑依される、すなわち自己 への他者の侵入を許してしまうことにもなり、物忌はそのようなことを 恐れ、防ごうとする心性の具象であると捉えられる。これに関連して伊 東玉美は、本話について次のような解釈を提示している。    王朝の人々にとって、邸宅は外界と閉ざされた空間で、そこに厳重 に籠もれば物の怪さえ侵入することはできない。邸は主人と不可分 な存在であり、 邸宅は主人そのもの、 主人の力を象徴したのである。 ( 中 略 ) 七 二 話 で は、 意 外 な こ と に そ の 侵 犯 者 は 警 戒 し て い た 外 部 からの物の怪ではなく、しかじかの事情で物の怪などものともしな くなった身内の以長であったというわけである。 伊東は本話を「邸宅譚」として読み、邸宅が主人の力の象徴であるとい う解釈を提示してい る (8 ( 。 稿者もその解釈には、 首肯するところであるが、 その力の象徴たる邸宅を突破した以長の存在は、単なる物理的な侵犯者 というだけではなく、象徴的な意味において結界を超越しうる存在とし て認めることができ、宮廷社会における秩序や権力を〈転倒〉あるいは 〈 無 力 化 〉 す る も の と し て 機 能 し て い る と 言 え よ う。 そ う で あ る か ら こ そ、第七二話における頼長は「物もおほせられで、やみにけり」という

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― 5( ― 結末に終わってしまうのである。また、この〈転倒〉や〈無力化〉にま つわる面白さが、摂関期から院政期にかけて〈語 り (9 ( 〉の対象を下級官人 や庶人へと拡大させ、歴史物語や説話集を多く誕生させることへとつな がったとも考えられる。   さらには、以長の行動を呼ばれもしないのにやってくる「推参」とい う視点で解する見方もあ る ((1 ( 。「推参」については阿部泰郎が、    「推 参 」 は、 芸 能 を 触 発 し、 そ れ に よ っ て 生 み 出 さ れ る 興

因 果 論ではなく互いに循環する運動としての

そういう芸能の本質と 深くかかわった人間のありかたと言ってもよい。その興がもたらす 転倒や転換は、世の制限や規範を逸脱し乗り越えさせてしまう。 と 論 じ て い る ((( ( が、 こ れ に 本 話 を 重 ね る と、 「「 く わ、 〳〵」 と 大 声 し て、 憚 か ら ず 申 」 し て い る 以 長 を、 「 声 わ ざ 」 の 芸 能 者 と し て 捉 え る こ と を も可能にし、見えざる力によって閉ざされた頼長邸は、この以長の推参 によって、芸能の場へと昇華されていく様相を読み取ることもできるで あろう。

  『宇治拾遺』第九九話について

  次 に、 『 宇 治 拾 遺 』 に 以 長 が 登 場 す る も う 一 話、 第 九 九 話 に つ い て 考 えてみたい。第九九話は以下の通りである。      これも今は昔、橘大膳亮大夫以長といふ蔵人の五位有りけり。法 勝 寺 千 僧 供 養 に 鳥 羽 院 御 幸 有 り け る に、 宇 治 左 大 臣 参 り 給 ひ け り。 さきに、公卿の車行きけり。しりより、左府参り給ひければ、車を 押さへて有りければ、御前の随身、下りて通りけり。それに、この 以長一人下りざりけり。 いかなる事にかと見る程に、 通らせ給ひぬ。      さ て 帰 ら せ 給 ひ て、 「 い か な る 事 ぞ。 公 卿 あ ひ て、 礼 節 し て 車 を 押 さ へ た れ ば、 御 前 の 随 身 み な 下 り た る に、 未 練 の 物 こ そ あ ら め、 以 長、 下 り ざ り つ る は 」 と 仰 せ ら る。 以 長 申 す や う、 「 こ は い か な る仰せにか候ふらん。礼節と申し候ふは、前にまかる人、しりより 御出なり候はば、車を遣り返して、御車にむかへて、牛をかきはづ して、榻にくび木を置きて、通し参らするをこそ礼節とは申し候ふ に、さきに行く人、車を押さへて候ふとも、しりをむけ参らせて通 し参らするは、礼節にては候はで、無礼をいたすに候ふとこそ見え つれば、さらん人には、なんでう下り候はむずるぞと思ひて、下り 候はざりつるに候ふ。あやまりてさも候はば、打寄せて、一言葉申 さるやと思ひ候ひつれども、以長、年老ひ候ひにたれば、押さへて 候ひつるに候ふ」と申しければ、 左大臣殿、 「いさ、 この事、 いかゞ あ る べ か ら ん 」 と て、 あ の 御 方 に、 「 か ゝ る 事 こ そ 候 へ。 い か に 候 は ん ず る 事 ぞ 」 と 申 さ せ 給 ひ け れ ば、 「 以 長、 古 侍 に 候 ひ け り 」 と ぞ仰せ事ありける。      昔は、かきはづして、榻をば、轅の中に下りんずるやうにをきけ り。これぞ、礼節にてはあんなるとぞ。   本話は、法勝寺千僧供養に参上の道途、ある公卿が、後方から頼長の 車が来たことに気づき、車を止めた。すると、頼長の随身たちは馬を下 り、公卿の車の前を通り過ぎようとするのだが、以長だけは馬を下りな かった。周囲の人々が不思議な目で以長を見るが、その後、頼長が以長

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― 56 ― にその事情を尋ねると、以長は公卿側の礼節を欠いた行動を指摘し、そ の よ う な 礼 節 を 知 ら な い も の に 礼 を 尽 く す こ と の 不 必 要 を 頼 長 に 説 い た。頼長はこの以長の行動について 「あの御方」 に伺いをたてるが、 「あ の御方」は「古侍」と以長を評したというのである。以長が主張する礼 節については野本東生が詳細に考察してい る ((1 ( ので、ここでは改めて言及 す る こ と は し な い。 し か し、 「 あ の 御 方 」 の 発 言 に あ る「 古 侍 」 と い う 表現を諸注が「老練な侍」という賞賛を含む表現として解釈しているこ とに対し、野本は以長の主張する路頭礼は時代錯誤であるとして、    以長が「古侍」として称揚されるとは考えにくいのだ。ここは以長 の行為に、困惑の嘆息を漏らしているのである。 と 指 摘 し て い る。 「 あ の 御 方 」 は 頼 長 の 父 忠 実 で あ る と さ れ る ((1 ( が、 そ の 忠 実 の 言 談 録『 富 家 語 ((1 ( 』 一 一 八 に は、 『 宇 治 拾 遺 』 第 九 九 話 に も 通 じ る 次のような話がある。    仰 云、 獄 門 近 衛 面 ヲ ハ 不 通。 西 洞 院 面 ハ 令 通 給 也。 但 指 大 殿 仰 ソ ト ハ 雖不聞食、本自不令通習給也。 殿下通給之由、以長不審を申云々。    (仰 せ て 云 は く、 「 獄 門 の 近 衛 面 を ば 通 ら ず。 西 洞 院 面 は 通 ら し め 給 ふ な り。 但 し、 さ せ る 大 殿 の 仰 せ ぞ と は 聞 こ し め さ ず と い へ ど も、 も と よ り 通 ら し め ず習ひ給へるなり」と。 〈殿下通り給へる由、以長不審を申すと云々。 〉)   これは永暦元年(一一六〇)の言談であるが、基実が通らない習いで ある左獄の近衛大路側を通ったことに対して以長が疑問を呈したという の で あ る。 『 宇 治 拾 遺 』 第 九 九 話 同 様、 以 長 の 故 実 へ の こ だ わ り、 相 手 が誰であれ堂々と指摘する人物像が読み取れ る ((1 ( 言談であるが、それは主 人の側から見てみれば、野本が指摘するとおり、困惑するものであった か も し れ な い。 し か し、 『 宇 治 拾 遺 』 の 語 り 手 は、 以 長 を 批 判 的 に 捉 え ているわけではない。むしろ、以長の煩わしいとも言える性格によって 主 人 を 困 惑 さ せ た こ と に 話 の 中 心 を 置 い て い る か の よ う で あ る。 そ う い っ た 意 味 に お い て は 第 九 九 話 も 第 七 二 話 と 同 じ よ う に 権 威 の〈 転 倒 〉 と〈無力化〉を指向する話として捉えることができるのではないか。

 

以長と頼長との関係

  こ こ ま で、 『 宇 治 拾 遺 』 第 七 二 話 と 第 九 九 話 に お け る 以 長 に つ い て、 権 威 を〈 転 倒 〉〈 無 力 化 〉 す る 存 在 と し て 読 み 解 い て き た が、 そ れ は 一 方で『宇治拾遺』独自の頼長像を語ることにもつながっている。頼長に ついてある程度の紙幅を割いて叙述しているものに『今 鏡 ((1 ( 』ふじなみ中 「かざりたち」があるが、そこには、    日記などひろくたづねさせ給ひ、事おこなはせ給ふことも、古き事 をゝこし、 上達部の著座とかし給はぬをも、 みな催しつけなどして、 おほやけわたくしにつけて、何事もいみじくきびしき人にぞをはせ し。道にあふ人、きびしく恥がましき事多く聞えき。公事に行ひ給 ふにつけて、をそく参る人、障り申すなどをば、家焼きこぼちなど せられけり。 と あ り、 頼 長 は、 公 事 に 遅 参 し た り 障 り を 申 し た り す る 人 に 対 し て は、 家を焼いたり毀したりするほど厳しい人間であっ た ((1 ( と語られている。こ

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― 55 ― の『 今 鏡 』 の 叙 述 か ら す れ ば、 『 宇 治 拾 遺 』 第 七 二 話 に あ る よ う に 物 忌 を理由に参上を一度は断りながも「恐れながら参る」という以長の行動 は、致し方のないことであったと想像される。その一方で、主従関係に ありながら意趣返しを可能にしたのは、以長と頼長との関係に何らかの 理 由 が あ っ た と も 考 え ら れ る。 そ こ で、 『 台 記 』 に あ る 以 長 に 関 す る 叙 述を中心に見ていくことで、以長と頼長との関係について考察する。   『 宇 治 拾 遺 』 第 九 九 話 は、 以 長 が 頼 長 の 前 駆 を 勤 め た と き の 説 話 で あ るが、後掲の年譜からも明らかなように、以長は頼長をはじめ、頼長の 子 息 た ち に も 仕 え て い た。 ま た、 忠 通・ 頼 長 兄 弟 が 争 っ た 保 元 の 乱 ( 一 一 五 六 ) 以 後 は、 忠 通 の 子 息 で あ る 基 実 の 前 駆 を 勤 め た り、 兼 実 の 元服にも勤仕したりしていることから、頼長の側近くに仕えてはいたも のの先掲の藤原盛憲のように政争との関わりは薄かったものと推察され る。また、 『台記』保延二年十二月九日条には、 「今日予前駈(中略)橘 以 長〈 大 殿 下 勾 當 ((1 ( 〉」 と あ り、 以 長 は「 大 殿 下 」 す な わ ち 頼 長 の 父 で あ る忠実にも仕えていた。以長の祖父以綱や父広房は、頼長の祖父師通の 『 後 二 条 師 通 記 』 や 忠 実 の『 殿 暦 』 に も そ の 名 が 多 く 見 ら れ、 こ の こ と から院政期において橘氏の長者は代々摂関家の家司としての役割を担っ てい た ((1 ( と理解できる。それは、橘氏の是定をめぐる問題とも関わりがあ ろう。是定については『平安時代史事典』に、    本来は橘氏長者をいい、氏人の爵に推挙すべき人を是とし定めると いう意味を持つ。橘氏出身の納言参議の者がこれに当たったが、永 観元年(九八三)十一月以降橘氏で参議以上になる者がなかったの で、 橘 氏 の 氏 院 で あ る 学 館 院 の 別 当 職 と 氏 挙 を 行 う 者 が 別 に な り、 前者は橘氏の棟梁が、後者は橘氏と血縁ある他氏の公卿がなり、そ れ を 橘 氏 是 定 と い っ た。 藤 原 氏 で は 九 条 流 の 者 が こ の 任 に 当 た り、 源氏・王氏の棟梁も是定を務めた。 とあるが、摂関家が橘氏の是定を担うことによって、摂関家と橘氏長者 と の 結 び つ き を 必 然 的 に 強 い も の と し て い っ た と 考 え ら れ る。 『 台 記 』 久安三年(一一四七)三月三十日条には、 「昨日、 橘氏是定宣旨下了 (昨 日、 橘 氏 是 定 の 宣 旨 下 し 了 ん ぬ。 ) 」 と あ り、 頼 長 は 保 元 の 乱 に よ っ て 没 す る まで、この是定の地位に就いていた。また、以長も同日是定の件で頼長 のもとを訪れており、その直後の四月十七日に頼長の奏請によって以長 は橘氏の氏院である学館院別当の職についてい る (11 ( 。さらに五月十八日に は、頼長が学館院や橘氏の氏神である梅宮について法皇に密奏して裁許 を 請 う て お り、 頼 長 が 是 定 と し て 橘 氏 に 強 く 関 与 し て い た こ と が 窺 え る。 た だ、 当 時 の 学 館 院 に つ い て は、 『 台 記 』 久 安 三 年( 一 一 四 七 ) 七 月七日条に、 【頼長周辺系図】 師   通 忠   実 忠   通 基   実 師   長 兼   長 隆   長 範   長 基   房 兼   実 慈   円 頼   長

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― 5( ―    遣侍為経、 貞宗等朝臣於学館院。密々令見地形、 還来曰、 皆以耕田、 但築垣纔残    (侍為経、 貞宗等朝臣を学館院に遣る。 密々地形を見せしむ。 還り来て曰はく、 皆以て耕田なり。但だ築垣のみ纔かに残る。 ) とあって、当時すでに学館院は氏院としての機能を失っていたようであ る。 頼 長 は、 『 今 鏡 』 に「 古 き 事 を ゝ こ し 」 と あ っ た よ う に 古 儀 の 再 興 にも熱心であったことが知られているが、同年十月十日には早速、学館 院の木造始を行ったことが『台記』に記されていることから、学館院の 再興も頼長の志向した古儀再興の一環として積極的に取り組まれたと理 解できよう。こうした政治課題の共有が以長と頼長の距離を近くした一 つの要因であったことは想像に難くない。   さらには、頼長と以長の結び付きを物語るものとして『台記』久安二 年(一一四六)正月十五日条には、次のような逸話がある。    於南所替沓之間、俄欲小便無其所、前駆以長自懐取出大費献之、不 堪感、帰宅後賜紅単、    (南 所 に 於 い て 沓 を 替 ふ る の 間、 俄 に 小 便 を 欲 せ ど も 其 の 所 無 し。 前 駆 以 長 懐 より大費を取り出だし之を献ず。感に堪えず、帰宅の後紅単を賜ふ。 ) 頼長は南所において小便を催したが、用を足す場所がなかった。そこで 前駆として 扈 従していた以長が「大費」を懐から取り出し、頼長に献じ た。このことに感激した頼長は帰宅後、以長に紅の単を与えたというの である。 「大費」が具体的にどのようなものであったかは不明であるが、 お そ ら く は、 と っ さ に 小 便 の で き る よ う な 入 れ 物 で あ っ た と 推 察 さ れ る。以長の機転のきいた行動とそれに感動する頼長という構図は、説話 的なものを感じさせるが、この逸話は以長の忠臣としての側面が叙述さ れ て お り、 『 宇 治 拾 遺 』 の 以 長 と は 違 う 一 面 が 映 し 出 さ れ て い る。 野 本 東生は、 『宇治拾遺』第七二話と第九九話の共通点を    以長が頼長の非をいささか大げさな演じ方で主張する箇所、主人頼 長との馴れ合いに生じる我の強さであろ う (1( ( 。 と し て い る が、 『 宇 治 拾 遺 』 の 語 る 以 長 像 に『 台 記 』 の 以 長 像 を 重 ね 合 わ せ る と、 『 宇 治 拾 遺 』 に あ る 以 長 の「 大 げ さ な 演 じ 方 」 が よ り 強 調 さ れる。ゆえに、 『宇治拾遺』 に語られる以長の行動は、 作為的かつ 「猿楽」 にも通ずる能芸性を帯びた振る舞いとして捉えられ、権威や秩序を逸脱 した〈場〉を創出することに成功しているのであ る (11 ( 。

 

おわりに

  こ こ ま で、 『 宇 治 拾 遺 』 第 七 二 話・ 第 九 九 話 に 登 場 す る 橘 以 長 に 着 目 してきた。以長については、これまであまり詳しく考察されることはな かった。しかし、藤原頼長の日記『台記』や平信範の日記『兵範記』に は、摂関家の家司としての活動の様子が窺える叙述が散見された。その 中でも注目すべきは、藤原頼長を橘氏の是定と仰ぎ、頼長とともに当時 すでに廃れていた学館院の再建を企図していたことである。最終的に再 建に至ったのかは不明であるが、以長は家司として頼長の政治的な指向 を支えつつ、自らの基盤をも確かなものとしようとしていたと考えられ る。

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― 5( ―   また、以長周辺にも目を向けてみると、以長の父広房は文章得業生で 大江匡房の養子となってその娘を娶ったが、匡房の没年である天永二年 ( 一 一 一 一 ) に 本 姓 の 橘 に 還 っ て い る。 こ の あ た り の 事 情 は 詳 ら か で は ないが、広房の父である以綱には広房以外の男子が見られないので、氏 長者の継承が関係しているのかもしれない。いずれにせよ院政期を代表 する学者である匡房の学問の影響が、広房を経由して以長に及んだとし ても不思議ではなく、学問上のことについても以長は頼長と共有できる 部分があったのではない か (11 ( 。一方、以長の子息に目をやると、以長から 氏長者を継承した以 政 (11 ( にまつわる説話が『古今著聞 集 (11 ( 』神祇篇にある。    前摂津守橘以政朝臣、わかくより賀茂につかうまつりけるに、四品 の望につかれて、 思ひあまりて申文を書きて、 御戸開の夜まいりて、 何となき願書の由にて、社司をかたらひて御宝殿にこめてけり。御 戸さしまいらせて後、四品の所望かなはねば、大明神の御計らひに ま か せ ま い ら せ ん と て、 申 文 を こ め つ る な り と 披 露 し け れ ば、 社 司・氏人等、当社の御ふかくに成りぬべしとて、神主以下一日に百 度をなんしける。はたして四品ゆるされにけり。   以政は四位に叙されることを強く望み、社司を騙って宝殿に申文を籠 める。しかし、 四位になることは叶わず、 申文を籠めたことを暴露する。 それを知った社司たちは賀茂社の面目に関わることとして、百度の祈願 を 行 っ た。 そ の 結 果、 以 政 は 四 位 に 就 く こ と が で き た と い う の で あ る。 本 話 で は、 四 位 に な る こ と が で き た 後 の 以 政 の 心 情 は 一 切 語 ら れ な い が、橘氏の長者たる以政の位階に対する思いは、以長の学館院再興の思 いと同質のものであったとも考えられよう。   翻って、本稿で取り上げた『宇治拾遺』の以長説話について考えたと き、以長の振る舞いには能芸性があることを再度確認しておきたい。そ れは『宇治拾遺』の語りの 〈 場〉や編者の問題とも絡み合う。新間水緒 は、 『宇治拾遺』にある忠通や頼長の描写を検討した上で、    『宇治拾遺』の編者は、忠通にごく近い所ですべてを見ていながら、 摂関家内部の政治的抗争についても、中心人物の忠通本人について も 何 も 語 ろ う と し な い。 ( 中 略 ) 忠 通 と 頼 長 と い う 宿 命 の 兄 弟 を め ぐる説話の語り方から見た時、編者は摂関家に近い所にいながらな おかつ政治構想の埒外に身をおくことのできる人物

出家者では なかったかと考えている。 と結論づけてい る (11 ( 。稿者も頼長が登場する以長説話が摂関家周辺のいわ ゆる〈巡物語〉の場で語られた可能性が高いと考えているが、頼長に近 侍していた以長が保元の乱の後、忠通の子息たちに仕えている事実を踏 ま え る と、 『 宇 治 拾 遺 』 編 者 は、 必 ず し も「 出 家 者 」 で あ る 必 要 は な い も の と 考 え る。 む し ろ、 以 長 の よ う に 摂 関 家 の 近 く に あ り な が ら、 「 政 治構想の埒外に身をお」いていた人物が、それなりにいた可能性を考え ると、ここで、特定の人物の名を挙げることはできないが、摂関家の家 司たちの中に『宇治拾遺』編者を求めるのが穏当であると考える。 ( () 小 林 保 治・ 増 古 和 子 校 注・ 訳『 宇 治 拾 遺 物 語 』( 新 編 日 本 古 典 文 学 全 集 / 小 学館/一九九六年七月)付録「関係説話表」による。 ( () 角田文衛監修/角川書店/一九九四年四月。

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― 5( ― ( () 天 野 文 雄「 家 司 階 級 と 説 話 文 学

『 宇 治 拾 遺 物 語 』 の 伝 承 圏

」( 『 日 本 文学論究』三六/一九七七年三月) ( () 『宇治拾遺物語』の引用は、 新日本古典文学大系本による。なお、 これ以降、 引用文の表記は、私意で改めた箇所がある。 ( 5) 伊 東 玉 美「 『 宇 治 拾 遺 物 語 』 の 邸 宅 譚 を め ぐ っ て 」( 『 共 立 女 子 短 期 大 学 文 科 紀要』四一/一九九八年一月) ( 6) 『保元物語』の引用は、新編日本古典文学全集本による。 ( () 『江談抄』 (新日本古典文学大系本)二 -二七 又 云、 行 成 大 納 言、 為 蔵 人 頭 之 時、 依 堅 固 物 忌 籠 居 里 亭 之 間、 自 禁 中 称 大 切 事 有 召。 令 参 上 時、 於 殿 上 俄 心 神 度 失。 乍 恐 参 清 涼 殿。 主 上 先 識 気 色、 揚 音 タ ソ ア レ ハ ト 被 仰。 即 応 御 音 称 朝 成。 留 御 簾 限、 行 成 入 御 前 免 此 難 云 々。 是 則行成祖父一条大将与朝成、大納言依為敵人欲凌云々。 (また云はく、 「行成大納言、蔵人頭為りし時、堅固の物忌により里亭に籠居せし間、禁 中より大切の事と称ひて召し有り。参上せしむる時、殿上においてにはかに心神度を失 ふ。 恐 れ な が ら 清 涼 殿 に 参 る。 主 上 先 づ そ の 気 色 を 識 り、 声 を 揚 げ て、 「 誰 そ あ れ は 」 と仰せらる。すなはち御声に応じて「朝成」と称ふ。御簾の限りに留む。行成御前に入 りてこの難を免かると云々。これすなはち、行成の祖父一条大将と朝成、大納言に敵人 為るに依り、凌がんと欲ふなり」と云々。 ) ( 8) 前掲 ( 5)論文。 ( 9) 院 政 期 の〈 語 り 〉 に つ い て は、 拙 稿「 院 政 期 に お け る〈 語 り 〉 の 一 側 面

『 今 鏡 』 を 中 心 と し て

」( 『 立 教 大 学 日 本 文 学 』 第 九 八 号 / 二 〇 〇 七 年 七月)で触れた。 ( (0) 前掲 ( ()解説「 『宇治拾遺物語』の説話連絡表」による。 ( (() 阿 部 泰 郎『 聖 者 の 推 参

中 世 の 声 と ヲ コ な る も の

』( 名 古 屋 大 学 出 版 会/二〇〇一年一一月)第三章「推参考」 。 ( (() 野 本 東 生「 宇 治 拾 遺 物 語 第 九 九 話「 大 膳 大 夫 以 長 前   駆 之 間 事 」 考

古 侍の路頭礼

」( 『東京大学国文学論集』第四号/二〇〇九年三月) ( (() 頼 長 が 忠 実 に 故 実 に つ い て 質 問 す る こ と に つ い て 柳 川 響 は、 『 藤 原 頼 長

「悪左府」 の学問と言説

』(早稲田大学出版部/二〇一八年五月) 第六章 「二 つの伝

源有仁と藤原忠実」において、   頼 長 は 父 か ら 助 言 や 教 訓 を 受 け る 一 方 で、 父 に 逆 ら う こ と が で き ず、 忠 実 の 庇 護 下 で 自 ら の 行 動 に 制 約 を 受 け な が ら 政 治 に 携 わ っ て い た。 頼 長 に と っ て 忠 実 は 尊 敬 す べ き 人 物 で あ る と 同 時 に、 決 し て 抗 う こ と が で き ない絶対的な存在だったのである。 と述べている。 ( (() 『富家語』の引用は新日本古典文学大系本による。 ( (5) 新 日 本 古 典 文 学 大 系 の 脚 注 に も「 宇 治 拾 遺 物 語 ((、 99に は、 以 長 が 先 例 と 理屈で藤原頼長をやり込めた話がある。いかにも 「不審」 を申しそうな人物。 」 とある。 ( (6) 『 今 鏡 』 の 引 用 は『 今 鏡 本 文 及 び 総 索 引 』( 榊 原 邦 彦 ほ か 編 / 笠 間 書 院 / 一九八四年十一月)による。 ( (() 頼 長 の 公 事 へ の 厳 格 な 態 度 は、 次 の『 台 記 』 保 延 二 年( 一 一 三 六 ) 十 月 三十日条からも窺える。 『台記』の引用は増補史料大成本による。   今 日 又 大 殿 御 灸 治 也、 予 雖 堅 固 物 忌 参 也、 大 殿 被 仰 曰、 物 忌 来 条 如 何、 予 答 曰、 去 二 十 八 日 雖 被 催 陣 定、 依 御 灸 治 不 参、 而 今 日 私 物 忌 日 不 参 御 灸 治 ハ、 軽 公 事 テ 重 私 事 尤 有 恐 事 也、 雖 物 忌 父 為 破、 居 家 去 忌 ニ ハ マ サ リナム   今 日 又 大 殿 御 灸 治 な り。 予 堅 固 な る 物 忌 と 雖 も 参 る な り。 大 殿 仰 せ ら れ て 曰 く、 「 物 忌 な れ ど も 来 る 条 如 何。 」 予 答 へ て 曰 く、 「 去 る 二 十 八 日 陣 定 を 催 さ る と 雖 も、 御 灸 治 に よ り 参 ら ず。 而 し て 今 日 私 の 物 忌 の 日 な り。 御 灸 治 に 参 ら ざ る は 公 事 を 軽 く し て 私 事 を 重 く す る な り。 尤 も 恐 れ 有 る 事 な り。 物 忌 と 雖 も 父 の 為 に 破 る は、 家に居て忌去るにはまさりなむ。 」) ( (8) 〈   〉 内 は 割 注 を 示 す。 忠 実 が「 大 殿 」 と 呼 称 さ れ て い た こ と は『 台 記 』 か ら も 理 解 さ れ る こ と だ が、 こ こ に あ る「 大 殿 下 」 も 同 様 に 忠 実 の こ と を 指 す と解する。 ( (9) 石田豊 「「陪従清仲」 考

『宇治拾遺物語』 第七五話の人物考察

」( 『二 松 學 舍 大 学 人 文 論 叢 』 第 六 八 輯 / 二 〇 〇 二 年 一 月 ) で は、 『 宇 治 拾 遺 』 第 七 五 話 に 登 場 す る「 陪 従 清 仲 」 を 仁 平 二 年( 一 一 五 二 ) に 没 し た 橘 清 仲 と 推 定 し、 清仲と摂関家との関わりをも指摘している。 ( (0) 『 台 記 』 久 安 三 年( 一 一 四 七 ) 四 月 十 七 日 条 に は、 「 以 以 長、 可 為 檀 林 寺 別 当 之 由、 同 可 宣 下、 ( 以 長 を 以 て、 檀 林 寺 別 当 と 為 す べ き の 由、 同 じ く 宣 下 す べ し ) 」 と あ っ て、 頼 長 は、 以 長 を 学 館 院 別 当 に 加 え て、 檀 林 寺 別 当 に も 就 け る べ き

(10)

― 5( ― で あ る と い う 意 思 を 示 し て い る。 檀 林 寺 は、 嵯 峨 天 皇 の 皇 后 で あ っ た 橘 嘉 智 子 が 承 和 年 間( 八 三 四 ~ 四 八 ) に 創 建 し た と さ れ る が、 平 安 時 代 中 期 に は す で に 荒 廃 し て い た。 そ の 別 当 職 を 学 館 院 別 当 と 兼 任 さ せ よ う と し て い る こ と からも、頼長が橘氏の中興を意図していたことが理解される。 ( (() 先掲 ( (()論文。 ( (() 小峯和明は、 『宇治拾遺物語の表現時空』 (若草書房/一九九九年十一月) 「8 古事談と十訓抄

院政期以後」において、   院 政 期 以 後 の 話 群 は た ん に 年 代 の 新 し さ だ け で な く、 猿 楽 や パ ロ デ ィ の 面など『宇治拾遺物語』の構造にかかわる本質的な意義を担って いると述べている。 ( (() 『今鏡』ふじなみの中「かざりたち」に   堀 川 大 納 言( 稿 者 注、 藤 原 師 頼 ) に、 前 書 と か 聞 こ ゆ る 書、 う け 伝 へ さ せ 給 へ り け り。 そ の 書 は、 匡 房 の 中 納 言 よ り 伝 は り て、 読 み 伝 へ る 人 か たく侍るなるを、この殿(稿者注、頼長)ぞ、伝へさせ給へりける。 とあり、 匡房が読み伝え、 その後、 あまり読み伝えることのなかった 『前漢書』 を頼長は読み伝えていたという。 ( (() 以 政 は 仁 安 元 年( 一 一 六 六 ) に『 橘 逸 勢 伝 』 を 著 し た と さ れ、 そ こ に は 御   霊 信 仰 が 背 景 に あ る と さ れ る が、 『 国 史 大 辞 典 』 で は、 「 そ の 作 成 を 命 じ た   の が 誰 で あ っ た か は 不 明 で あ る が、 橘 氏 是 定 で あ っ た 藤 原 基 房 の 可 能 性 が あ   る 」 と し て い る。 仁 安 元 年( 一 一 六 六 ) は 以 長 最 晩 年 で あ り、 以 長 が 関 わ っ   た可能性も否めない。 ( (5) 『古今著聞集』の引用は、日本古典文学大系本による。 ( (6) 新 間 水 緒「 『 宇 治 拾 遺 物 語 』 編 者 の 位 置

忠 通 と 頼 長 を め ぐ っ て 」( 『 花 園 大学国   文学論究』/一九九四年十二月)

(11)

― 50 ― 橘以長年譜    *【   】内は依拠資料 院政 天皇 年号 西暦 月 日 位 官 事    項 鳥羽 崇徳 保延二 一一三六 十一 十六 六位 豊明節会。頼長の前駆として伺候する。 【台記】 二十四 大原野祭。頼長の前駆として伺候する。 【台記】 二十五 頼長、内大臣に任ぜられる。以長、参内の前駆として伺候する。 【台記】 十二 九 頼長、大饗を行う。以長、前駆として伺候する。 【台記】 十三 頼長、慶賀を申す。以長、前駆として伺候する。 【台記】 十八 頼長、直衣始。以長、前駆として伺候する。 【台記】 近衛 久安二 一一四六 正 十五 頼 長 が 小 便 を 催 し た 際、 懐 か ら「 大 費 」 を 取 り 出 し 頼 長 に 献 ず る。 頼 長 は 感 に 堪 え ず、 帰 宅 の 後、以長に紅単を与える。 【台記】 九 十三 五位 鳥羽法皇、四天王寺参詣。以長、頼長の前駆として伺候する。 【台記】 十一 十一 蔵人 頼長、五節舞姫を献じる。以長、前駆として伺候する。 【台記】 十四 豊明節会。一献の瓶子を務める。 【台記】 三 一一四七 三 二十八 藤原忠実七十賀で忠通より忠実に献ぜられた馬を牽く役を務める。 【台記別記】 三十 散位 橘氏是定の件で頼長のもとを訪れる。 【台記】 四 十七 従五位下 学館院別当に補せられる。 【台記】 二十二 橘清資の功課別当の件で頼長を訪れる。 【台記】 二十三 功課別当は指貫を着すべきか頼長に尋ねる。 【台記】 五 二十七 梅宮の件で頼長に召される。 【台記】 二十八 梅宮の件で頼長に召される。 【台記】 九 十二 鳥羽法皇、四天王寺に参詣。頼長に命ぜられ各所に灯明をあげる。 【台記】 十六 頼長に命ぜられ、四天王寺金堂に灯明をあげる。 【台記】 十 二 政、平座に伺候する。 【台記別記】 十 学館院木造始に赴く。 【台記】 十一 二 梅宮祭に見参する。 【台記】 四 一一四八 正 三 橘氏大夫七人で頼長を訪れ、氏爵で清仲の子、周愷を推挙する。 【宇槐記抄】 四 十三 頼長から梅宮預に基仲、権預に仲遠を任ずることを伝えられる。 【台記】 六 二十三 頼長の子、兼長が慶を申す。以長、騎馬にて伺候する。 【台記】 八 五 頼長、梅宮参詣。以長、前駆として伺候する。 【台記別記】 九 頼長の女、多子従三位に叙す。以長、頼長の参内の前駆として伺候する。 【台記別記】 十 十三 兼長、慶を申す。以長、騎馬にて伺候する。 【台記】 二十三 頼長に騎馬にて伺候する。 【台記】 十一 十 兼長の雑色所別当に任ぜられる。 【台記】

(12)

― (9 ― 二十六 多子入内の雑事を定める。以長、前駆の行事となる。 【台記別記】 十二 四 藤原頼方に代わって、禁中の御簾の寸法を測り、枚数を数える。 【台記別記】 五 一一四九 正 二十三 頼長服暇により以長、従服を著する。 【本朝世紀】 十 一 頼長の子、師長元服の雑事を定める。以長、殿上御装束の行事となる。 【兵範記】 十九 師長、元服。尊者の食事の役、松明を取る役を務める。 【兵範記】 十二 十九 頼長の命で上達部に車を準備する。 【台記別記】 六 一一五〇 正 十五 頼長の子、範長、加冠。以長、前物陪膳を務める。 【台記】 十九 多子、女御となる。以長、禄を賜る。 【台記別記】 二十二 天皇遷御の輦役を務める。 【台記別記】 二十八 多子の侍所の簡を付ける。 【台記別記】 二 二十 頼長の命で多子立后を梅宮に祈請する。 【台記】 四 二十八 兼長、初めて史記五帝本紀を読む。以長、後の宴席で手長を務める。 【台記】 十 二十三 頼長の春日詣に伺候する。 【台記別記】 仁平元 一一五一 三 二十三 石清水臨時祭。頼長に伺候する。 【台記】 六 二十六 春日詣定。禄の行事となる。 【台記別記】 八 十 頼長、春日詣。以長、兼長の前駆として伺候する。 【台記別記】 十一 春日詣の禄を妓女に与える。 【台記別記】 九 二十七 大学大夫 秋の除目始に伺候する。 【山槐記除目部類】 十 十五 春日祭使雑事を定める。以長、雑具の行事となる。 【台記別記】 十一 十一 春日祭使、発遣。以長、伺候する。 【台記別記】 二 一一五二 正 十 師長、婚す。以長、前駆として伺候する。 【兵範記】 十九 師長の前駆として伺候する。 【兵範記】 正 二十六 頼長、東三条殿で大饗を行う。以長、瓶子、敷座の役を務める。 【台記・兵範記】 二 十三 鳥羽法皇五十御賀雑事定。以長、元興寺御誦経使となる。 【兵範記】 二十五 鳥羽法皇五十御賀試楽。以長、元興寺御誦経使を務める。 【兵範記】 八 五 御賀の雑事定。庭燎の行事となる。 【兵範記】 十四 頼長、石清水詣。以長、前駆として伺候する。 【兵範記】 十二 八 叡子内親王御月忌仏事の堂童子の役を務める。 【兵範記】 三 一一五三 八 八 春日詣雑事を定める。以長、陪従ならびに競馬の右の行事となる。 【台記別記】 九 十六 兼長、叙任の慶を申す。以長、前駆として伺候する。 【兵範記】 十一 十七 春日詣の調楽に陪従として見参する。 【台記別記】 二十一 春日詣の調楽に陪従として見参する。 【台記別記】 二十六 大膳大夫 頼長、春日詣。陪従として伺候する。 【台記別記・兵範記】

(13)

― (8 ― 閏十二 二十七 兼長、慶賀を申す。以長、前駆を務める。 【兵範記】 久寿元 一一五四 正 三十 師長、春日祭上卿。以長、奉行を務める。 【兵範記】 二 二 頼長の命により春日祭で前駆の装束の色を目録として作成する。 【兵範記】 三 三 平等院一切経会。以長、楽行事を務める。 【兵範記】 十一 十三 師長、慶賀を申す。頼長の前駆として伺候する。 【兵範記】 二 一一五五 四 二十 頼長、賀茂詣。以長、兼長の前駆として伺候する。 【台記別記】 六 八 頼長室、幸子御葬礼。以長、迎火の役を務める。 【兵範記】 後白河 十 二十九 大嘗会御禊。以長、前駆として伺候する。 【兵範記裏書】 保元元 一一五六 九 二十五 藤原基実拝賀に伺候する。 【兵範記】 十一 十三 基実を是定とする宣下状を持参する。 【兵範記】 三十 御八講始。堂童子の役を務める。 【兵範記】 二 一一五七 二 十二 春日祭。前駆として伺候する。 【兵範記】 八 十九 基実、右大臣に任ぜられる。以長、前駆として伺候する。後の大饗で瓶子を務める。 【兵範記】 十 八 新造の大内裏に天皇遷幸。以長、宣耀殿の調度品の行事を務める。 【兵範記】 二十二 従五位上 造大内裏の勧賞による叙位。 【兵範記】 十一 七 東三条殿で行われた御神楽の奉行を務める。 【兵範記】 十二 五節沙汰。童女の担当となる。 【兵範記】 三 一一五八 正 二十九 藤原兼実元服。高坏の役を務める。 【兵範記】 二 二十八 天皇、春日行幸。基実の前駆として伺候する。 【兵範記】 後白河 二条 八 十五 基実参内。前駆として伺候する。 【兵範記】 二十三 勧学院学生が基実の第に参賀。以長、伺候する。 【兵範記】 九 九 法成寺惣社祭の奉行を務める。 【兵範記】 永暦元 一一六〇 基実が左獄の近衛大路側を通ったことに対して疑問を呈する。 【富家語一一八】 六条 高倉 嘉応元 一一六九 卒。 【尊卑分脈】

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