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第2回研究会資料 原因論 原因論研究会

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Academic year: 2018

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(1)

[この対照表について]

• 和訳について、『純粋善について』は小村優太、『原因論』は小林剛、『神学綱要』は西村洋平による。

• ただし、訳注は省いてある。テクストの扱いや哲学的解釈も含めた詳しい訳注ついては、それぞれの訳を参照。

• 原文は、底本にしたがう(文献表参照)。なお、アラビア語については、小村がローマ字に音写したものを掲載する。

• 底本と違う読み、あるいは句読点の違い、写本に問題がある箇所などの原文は斜体(イタリック)で表記する。詳しく

は、それぞれの訳者の註を参照。

• プロクロス『神学綱要』の対応個所について、必ずしもすべてが厳密に対応するわけではない。一語ないし文全体のう

ちの一部が対応している場合には、対応すると思われる部分に下線を引いたが、全体が自由にパラフレーズされている 場合は、そのまま下線を引かないである。詳しくは、西村の訳注を参照。

• [ ]内の数字は、『原因論』の節番号に対応している。『純粋善について』については、(底本頁数、行数)を、『神学 綱要』については、命題数(底本頁数、行数)を併記した。

(2)

『純粋善について』第 2 章

[19](p. 4, l. 17 - p. 5, l. 1)

あらゆる真なる存在は、永遠の上にあ りその前にあるか、永遠と共にあるか、 永遠性の後にあり時間の上にあるか のどれかである。

kullu anniyyatin bi-ḥaqqin immā takūnu aʻlā min al-dahri wa-qabla-hu, wa-immā maʻa al-dahri, wa-immā baʻda al-dahri wa-fawqa al-zamāni.

[20](p. 5, l. 1)

永遠の前にある存在について言えば、 それは第一原因である。というのもそ れは永遠にとっての原因なのだから。 ammā al-anniyyatu allatī qabla al-dahri fa-hiya al-ʻillatu al-ūlā li-annā-hā ʻillatun la-hu;

『原因論』第 2 章

[19]

上位の存在はすべて、永遠よりも上位 に在り、永遠以前に在るか、永遠とと もに在るか、永遠の後、時間を超えて 在るかのいずれかである。

Omne esse superius aut est superius aeternitate et ante ipsam, aut est cum aeternitate, aut est post aeternitatem et supra tempus.

[20]

実際、永遠以前に在る存在は第一原因 である。なぜなら[第一原因は]永遠に とって原因だからである。

Esse vero quod est ante aeternitatem est causa prima, quoniam est causa ei.

『神学綱要』§87–88 = 第 2 章

[19]≈ prop. 88 (p. 80. 25–26)

真に存在するものはすべて、<永遠> に先行するか、<永遠>のうちにある か、<永遠>に与るかのいずれかであ る。

Πᾶν τὸ ὄντως ὂν ἢ πρὸ αἰῶνός ἐστιν ἢ ἐν τῷ αἰῶνι ἢ μετέχον αἰῶνος.

[20]?

(3)

[21](p. 5, ll. 1-2)

また永遠と共にある<存在>につい て言えば、それは知性である。という のも[知性は][ひとつの状態にあり作 用を受けず変容しない]定立された原 因なのだから。

wa-ammā <al-anniyyatu> allatī maʻa al-dahri fa-hiya al-ʻaqlu, li-anna-hu al-anniyyatu al-thābitatu;

[22](p. 5, ll. 2-3)

そして永遠の後にあり時間の上にあ る存在について言えば、それは魂であ る。というのも[魂は]永遠の地平の下 にあり、時間の上にあるのだから。 wa-ammā al-anniyyatu allatī baʻda al-dahri wa-fawqa al-zamāni fa-hiya al-nafsu, li-anna-hā fī ufqi al-dahri suflan wa-fawqa al-zamāni.

[21]

一方、永遠とともに在る存在は知性体 である。なぜなら[知性体は]或る一つ の状態に即した第二存在であり、それ ゆえ受動せず滅びないからである。 Sed esse quod est cum aeternitate est intelligentia quoniam est esse secundum, secundum habitudinem unam, unde non patitur neque destruitur.

[22]

他方、永遠の後、時間を超えて在る存 在は魂である。なぜなら[魂は]永遠と の境の下部に在り、時間を超えている からである。

Esse vero quod est post aeternitatem et supra tempus est anima, quoniam est in horizonte aeternitatis inferius et supra tempus.

[21]

[22]Cf. In Tim. III, p. 32. 29: 時間は 魂を越えてある。prop. 192 (p. 168. 11 sqq.)

(4)

[23](p. 5, ll. 3-4)

そして第一原因が永遠の前にあるの が明らかだということの証拠は、それ

(永遠)のうちにある存在が獲得され たものだということである。

wa-l-dalīlu ʻalā anna al-ʻillata al-ūlā qabla al-dahri bayyinun, wa-dhālika anna al-anniyyata fī-hi mustafādatun;

[24](p. 5, ll. 4-6)

さて我々は言う:あらゆる永遠は存在 である。しかしあらゆる存在が永遠な のではない。存在は永遠よりも範囲が 広いのだ。また第一原因は永遠の上に ある。なぜなら永遠は第一原因の結果 なのだから。

wa-naqūlu: kullu dahrin anniyyatun, wa-laysa kullu anniyyatin dahran – fa-l-anniyyatu aktharu <saʻatan> min

i. wa-l-ʻillatu al-ūlā fawqa al-dahri

[23]

第一原因が永遠そのもの以前に在る ということを示すのは、永遠のうちに 在る存在が獲得されたものであると いうことである。

Et significatio quod causa prima est ante aeternitatem ipsam, est quod esse in ipsa est acquisitum.

[24]

また私は次のように言う。永遠はすべ て存在であるが、存在のすべてが永遠 なわけではない。だから存在は永遠よ りもより共通的である。そして第一原 因は永遠を超えている。なぜなら永遠 は第一原因の結果だからである。 Et dico quod omnis aeternitas est esse, sed non omne esse est aeternitas. Ergo esse est plus commune quam aeternitas.

[23]≈ prop. 88 (p. 80. 27–32)

じっさい、〔真に存在するものが〕〈永 遠〉に先行することは、すでに証明さ れた(prop. 87)。[…]そして、〈永遠〉 とは第一につねに. . .というものであり、 分有によって〈存在〉である。

ὅτι μὲν γάρ ἐστι πρὸ αἰῶνος, δέδεικται. […] ὁ δὲ αἰὼν τὸ μὲν ἀεὶ πρώτως, τὸ δὲ ὂν κατὰ μέθεξιν·

[24]≈ prop. 87 (p. 80. 15–23)

永遠的なものはすべて存在するもの であるが、存在するものはすべて永遠 的なのではない。[…]すると、〈存在〉 は〈永遠〉よりもより多くのものによ って分有される。したがって、〈存在〉 は〈永遠〉の彼方にある。

Πᾶν μὲν τὸ αἰώνιον ὄν ἐστιν, οὐ πᾶν δὲ τὸ ὂν αἰώνιον. […] τὸ ἄρα ὂν ὑπὸ πλειόνων μετέχεται ἢ ὁ αἰών. ἐπέκεινα

(5)

[25](p. 5, ll. 6-7)

そして知性は永遠と軌を一にしてい る。なぜなら[知性は]永遠と共に引き 延ばされており、変化することも変容 することもないのだから。

wa-l-ʻaqlu yuḥādhī al-dahra, li-anna-hu mumtaddun maʻa-hu wa-lā yataghayyaru wa-lā yastaḥīlu.

[26](p. 5, ll. 7-8)

そして魂は永遠の下に固着している。 というのも[魂は]知性よりも刻印付け にかんしてより重いのだから。また[魂 が]時間の上にあるというのは、[魂が] 時間の原因だからである。

wa-l-nafsu lāṣiqatun maʻa al-dahri suflan, li-anna-hā athqalu ta’thīran min al-ʻaqli, wa-min fawqa al-zamāni li-anna-hā ʻillatu al-zamāni.

[25]

そして知性体は、永遠[に当てられてい る、つまり、永遠]と等しくされている。 なぜなら[知性体は]永遠とともに引き 延ばされているからである。なおかつ 変化も消滅もしない。

Et intelligentia [apponitur vel] parificatur aeternitati, quoniam extenditur cum ea; et non alteratur neque destruitur.

[26]

そして魂は、永遠の下部に結びつけら れている。なぜなら[魂は]知性体より も刻印をより受け取るからである。そ して[魂が]時間を超えているのは、[魂 が]時間の原因だからである。

Et anima annexa est cum aeternitate inferius, quoniam est susceptibilior

impressionis quam intelligentia, et est supra tempus, quoniam est causa temporis.

[25]?

[26]?

(6)

『純粋善について』第 3 章

[27](p. 5, l. 10)

あらゆる高貴な魂は、三つの働きをも っている;[その三つとは、]魂的活動、 知的活動、神的活動である。

kullu nafsin sharīfatin fa-hiya dhātu thalāthatin afāʻīla: fiʻlun nafsāniyyun, wa-fiʻlun ʻaqliyyun, wa-fiʻlun ilāhiyyun.

[28](p. 5, l. 11)

そして神的活動について言えば、[魂 は]魂のうちにあり第一原因に由来す る能力によって、自然を統括している のである。

fa-ammā al-fiʻlu al-ilāhiyyu fa-inna-hā tudabbiru al-ṭabīʻata bi-l-quwwati allatī fī-hā min al-ʻillati al-ūlā.

『原因論』第 3 章

[27]

高貴な魂はすべて3つの働きを有し ている。すなわち、その働きには魂的 働き、知性的働き、神的働きが在る。 Omnis anima nobilis tres habet operationes; nam una ex operationibus eius est operatio animalis et operatio intellectibilis et operatio divina.

[28]

[高貴な魂の]働きが神的であるのは、 この働きが、この魂のうちに在り、第 一原因に由来するところの力によっ て自然を準備するからである。

Operatio autem divina est quoniam ipsa parat naturam cum virtute quae est in ipsa a causa prima.

『神学綱要』§201 = 第 3 章

[27]≈ prop. 201 (p. 176. 1–3)

神的魂はすべて三様の活動をもつ。す なわち、(a)魂としての活動、(b)神 的知性を受容したものとしての活動、

(c)神々に依存するものとしての活 動である。

Πᾶσαι αἱ θεῖαι ψυχαὶ τριπλᾶς ἔχουσιν ἐνεργείας, τὰς μὲν ὡς ψυχαί, τὰς δὲ ὡς νοῦν ὑποδεξάμεναι θεῖον, τὰς δὲ ὡς θεῶν ἐξηρτημέναι·

[28]?

(7)

[29](p. 5, ll. 11-12)

そして[魂の]知的活動について言えば、 [魂は]魂のうちにある知性の能力によ って、諸事物を知るのである。

wa-ammā fiʻlu-hā al-ʻaqliyyu fa-inna-hā taʻlamu al-ashyā’a bi-quwwati al-ʻaqli allatī fī-hā.

[30](p. 5, ll. 12-13)

そして[魂の]知的活動について言えば、 [魂は]魂のうちにある知性の能力によ って、諸事物を知るのである。

wa-ammā al-fiʻlu al-nafsāniyyu fa-inna-hā tuḥarriku al-jirma al-awwala wa-jamīʻa al-ajrāmi al-ṭabīʻiyyati li-anna-hā hiya ʻillatu ḥarakati al-ajrāmi wa-fiʻli al-ṭabīʻati.

[29]

その[高貴な魂の]働きが知性的である のは、この働きが、この魂のうちに在 る知性体の力によって事物を知るか らである。

Eius autem operatio intellectibilis est quoniam ipsa scit res per virtutem intelligentiae quae est in ipsa.

[30]

その[高貴な魂の]働きが魂的であるの は、この魂が、第一物体とすべての自 然物とを動かすからである。なぜなら、 この魂が諸物体の運動の原因であり、 自然の働きの原因だからである。 Operatio autem eius animalis est quoniam ipsa movet corpus primum et omnia corpora naturalia, quoniam ipsa est causa motus corporum et causa operationis naturae.

[29]≈ prop. 201 (p. 176. 11–13)

[…]神的に活動するだけではなく、 知性的にも活動する。その神的な活動 は自己自身のうちにある一を土台と し、知性的な活動は〔それ自身のうち にある〕知性を土台としている。 […] ἐνεργοῦσιν οὖν οὐ θείως μόνον, ἀλλὰ καὶ νοερῶς, τὴν μὲν κατὰ τὸ ἓν τὸ ἐν αὐταῖς, τὴν δὲ κατὰ τὸν νοῦν ἱδρύσασαι ἐνέργειαν.

[30]≈ prop. 201 (p. 176. 13–15) そして、(a)固有の本質に基づいた活 動が第三のものとしてそれらの魂に 属する。それは、他のものによって動 かされることをその本性とするもの を動かし、[…]。

τρίτη δὲ αὐταῖς πάρεστιν ἡ κατὰ τὴν ἰδίαν ὕπαρξιν ἐνέργεια, κινητικὴ μὲν ὑπάρχουσα τῶν φύσει ἑτεροκινήτων, […].

(8)

[31](p. 5, ll. 13-14)

そして魂がこれらの活動をするのは ただ、[魂が]上方にある力の似像だか らである。

wa-innamā faʻalat al-nafsu hādhihi al-afāʻīla li-anna-hā mithālun min al-quwwati al-ʻāliyati,

[32](p. 5, ll. 14-15)

つまり、第一原因は知性を媒介にして、 魂の存在を創出するのだから。それに よって、魂は神的な活動をおこなうよ うになったのである。

wa-dhālika anna al-ʻillata al-ūlā abdaʻat anniyyata al-nafsi bi-tawassuṭi al-ʻaqli, wa-li-dhālika ṣārat al-nafsu tafʻalu fiʻlan ilāhiyyan.

[31]

そして魂は、上位の力の像だからとい うのでなければ、これらの働きを行わ ない。

Et non efficit anima has operationes nisi quoniam ipsa est exemplum superioris virtutis.

[32]

なぜなら、第一原因は知性体を介して 魂の存在を創造し、このことのゆえに 魂は、神的働きをするものとなったか らである。

Quod est quia causa prima creavit esse animae mediante intelligentia, et propter illud facta est anima efficiens operationem divinam.

[31]?

[32]?

(9)

[33](p. 5, ll. 15-16)

それから第一原因が魂の存在を創出 したとき、[第一原因は]魂を、あたか も知性が魂のうちでその諸活動をお こなう知性の敷物のようにするので ある。

fa-lammā abdaʻat al-ʻillatu al-ūlā anniyyata al-nafsi ṣayyarat-hā ka-bisāṭi al-ʻaqli yafʻalu al-ʻaqlu fī-hā afāʻīla-hu,

[34](p. 5, l. 16 - p.6, l. 1)

そのため、知的魂は知的な活動をおこ なうようになったのである。そして魂 が知性の刻印付けを受け入れたとき、 [魂は]魂の刻印付けのもと、魂よりも 下位にあるものへの刻印付けにおい て、知性より劣った活動をおこなうよ うになるのである。

fa-li-dhālika ṣārat al-nafsu al-ʻaqliyyatu tafʻalu fiʻlan ʻaqliyyan. fa-lammā qabilat al-nafsu ta’thīra al-ʻaqli ṣārat adnā fiʻlan min-hu fī ta’thīri-hā fī-mā taḥta-hā,

[33]

だから、第一原因は魂の存在を創造し た後、魂を、知性体がそれのうちへと 自らの諸々の働きを生み出すところ の、知性体の敷藁として置いたのであ る。Postquam ergo creavit causa prima esse animae posuit eam sicut stramentum intelligentiae in quod efficiat operationes suas.

[34]

それゆえ、このことのゆえに知性的魂 は知性的働きをするのである。そして 魂は、知性体の刻印を受け取るので、 自らの下に在るものへ自らが刻印を するのに際して、知性よりも下位の働 きを持つようになった。

Propter illud ergo anima intellectibilis efficit operationem intellectibilem. Et quia anima suscipit impressionem intelligentiae, facta est inferioris operationis quam ipsa in impressione sua in id quod est sub ipsa.

[33]≈ prop. 201 (p. 176. 10–12)? また、(b)知性的な存立をもち、その 存立ゆえに神的魂は知性的な本質存 在の下に敷かれてあるものなので、神 的に活動するだけではなく、知性的に も活動する。

καὶ διότι νοερὰν ὑπόστασιν ἔχουσι, δι' ἣν καὶ ὑπεστρωμέναι ταῖς νοεραῖς οὐσίαις τυγχάνουσιν, ἐνεργοῦσιν οὖν οὐ θείως μόνον, ἀλλὰ καὶ νοερῶς.

[34]?

(10)

[35](p. 6, ll. 1-4)

というのも、魂は運動によってしか、 諸事物のうちに刻印付けをしないの だから。つまり、魂よりも下位にある ものは、魂がそれを動かすのでなけれ ば、魂の活動を受け入れないのである。 この原因のため、魂は諸物体を動かす ようになるのである。というのも魂の 特徴のなかには、魂の力が諸物体に流 出するときそれに生命を与えること、 そして諸物体を適切な活動へと導く こともあるのだから。

wa-dhālika li-anna-hā lā tu’aththiru fī al-ashyā’i illā bi-ḥarakatin, aʻnā anna-hu lā yaqbalu mā taḥta-hā fiʻla-hā illā an tuḥarrika-hu; fa-li-hādhihi al-ʻillati ṣārat al-nafsu tuḥarriku al-ajrāma, fa-inna min khāṣṣati al-nafsi an tuḥiya al-ajsāma idhā fāḍat ʻalay-hā quwwatu-hā wa-tusaddida-hā ayḍan ilā al-fiʻli

[35]

なぜなら魂は、運動によらなければ諸 事物に刻印をすることはないからで ある。つまり、魂の下に在るものは、 それを魂が動かさなければ、その[魂 の]働きを受け取らないからである。こ のため魂が諸物体を動かすというこ とが生じるのである。つまり、諸物体 に生命を与えるということが魂の固 有性に属する。なぜなら、[魂は]その 力を諸物体の上に流出させるからで ある。そして[魂は]諸物体を正しい働 きへと直接導くのである。

Quod est quia ipsa non imprimit in res nisi per motum, scilicet quia non recipit quod est sub ea operationem eius nisi ipsa moveat ipsum. Propter hanc ergo causam fit quod anima movet corpora ; de proprietate namque animae est ut vivificet corpora, quoniam

[35]≈ prop. 201 (p. 176. 13–17) そして、(a)固有の本質に基づいた活 動が第三のものとしてそれらの魂に 属する。それは、他のものによって動 かされることをその本性とするもの を動かし、生命を外からもたらされた ものとしてもつものに生命を与える 活動である。じっさい、これはすべて の 魂 が 実 現 す る 固 有 の 活 動 で あ る

[…]。

τρίτη δὲ αὐταῖς πάρεστιν ἡ κατὰ τὴν ἰδίαν ὕπαρξιν ἐνέργεια, κινητικὴ μὲν ὑπάρχουσα τῶν φύσει ἑτεροκινήτων, ζωοποιὸς δὲ τῶν ἐπείσακτον ἐχόντων τὴν ζωήν· πάσης γὰρ ψυχῆς τοῦτό ἐστι τὸ ἴδιον ἐνέργημα […].

(11)

[36](p. 6, ll. 5-6)

よっていま、魂は三つの活動を持って いることが明らかになった。というの も魂は三つの能力を持っているのだ から:つまり、神的能力、知的能力、 固有能力である――我々が描写し、定 めたところによれば。

fa-qad waḍaḥa al-āna anna al-nafsa dhātu afāʻīla thalāthatin, li-anna-hā dhātu quwan thalāthatin: quwwatun ilāhiyyatun, wa-quwwatun ʻaqliyyatun, wa-quwwatun dhātiyyatun - ʻalā mā waṣafanā wa-bayyannā.

[36]

したがって今や、魂が3つの働きを有 するということは明らかである。なぜ なら、私たちが述べ、明らかにしたこ とに従えば、[魂は]3つの力を有して いるからである。すなわち神的力、知 性的力、その本質の力である。

Manifestum est igitur nunc quod anima habet tres operationes, quoniam habet virtutes tres : scilicet virtutem divinam et virtutem intelligentiae et virtutem eius essentiae, secundum quod narravimus et ostendimus.

[36]?

(12)

『純粋善について』第 4 章

[37](p. 6, l. 8)

創出された諸事物のなかで最初のも のは存在であり、それを越えてほかの 被創出物はない。

inna awwala al-ashyā’i al-mubtadaʻati al-anniyyatu, wa-laysa min warā’i-hā mubtadaʻun ākharu,

[38](p. 6, ll. 8–10)

というのも、存在は感覚より上であり、 魂より上であり、知性より上であるの だから。そして第一原因の後で、それ よりも幅広く、より多くのものを結果 として生み出すものはないのである。 wa-dhālika anna al-anniyyata fawqa al-ḥissi wa-fawqa al-nafsi wa-fawqa al-ʻaqli. wa-laysa baʻda al-ʻillati al-ūlā awsaʻu wa-lā aktharu maʻlūlātin min-hā,

『原因論』第 4 章

[37]

創造された諸事物の中で第一の事物 は存在であり、存在以前に創造された ものは他にない。

Prima rerum creatarum est esse et non est ante ipsum creatum aliud.

[38]

なぜなら、存在は、感覚、魂、知性体 を超えており、第一原因の後の結果で、 存在よりも[結果を生み出す点で]より 広く、より多いものはないからである。 Quod est quia esse est supra sensum et supra animam et supra intelligentiam, et non est post causam primam latius neque plus causatum ipso.

『神学綱要』§138, 177 = 第 4 章

[37]≈ prop. 138 (p. 122. 7–8)?

神的特性を分有し、神的なものとなっ たもののうち、存在が第一で最も頂点 にある。

Πάντων τῶν μετεχόντων τῆς θείας ἰδιότητος καὶ ἐκθεουμένων πρώτιστόν ἐστι καὶ ἀκρότατον τὸ ὄν.

[38]≈ prop. 138 (p. 122. 9–11)

じっさい証明されたように(prop. 101)、 もし存在が、一のつぎに最も多くのも のの原因であるので、知性よりも生命 よりも彼方にあるならば、存在は最も 頂点にある。

εἰ γὰρ καὶ τοῦ νοῦ καὶ τῆς ζωῆς ἐπέκεινα τὸ ὄν, ὡς δέδεικται, εἴπερ πλείστων τοῦτο μετὰ τὸ ἓν αἴτιον, ἀκρότατον ἂν εἴη τὸ ὄν.

(13)

[39](p. 6, l. 10)

そのため、[存在は]あらゆる創出され た諸事物のなかでもっとも高位のも の、もっとも強力に統一したものにな ったのである。

wa-lidhālika ṣārat aʻlā al-ashyā’i al-mubtadaʻati kulli-hā wa-ashadda-hā ittiḥādan.

[40](p. 6, ll. 10–11)

そのようになったのはただ存在の、あ らゆる面で多性を持たぬ純粋な存在、 真実の一者への近さによるのである。 wa-innamā ṣārat kadhālika li-qurbi-hā min al-anniyyati al-maḥḍati al-wāḥidi al-ḥaqqi alladhī laysa fī-hi kathratun min al-jihāti.

[39]

だから、このことのために[存在は]、 創造されたどの事物よりも上位に在 り、より強力に一体的になった。 Propter illud ergo factum est superius creatis rebus omnibus et vehementius unitum.

[40]

[存在が]そうなったのはただ、それが 純粋な存在、真なる一に近いからとい うことしかない。純粋な存在、真なる 一には、何らかの仕方で多性が在ると いうことはない。

Et non est factum ita nisi propter suam propinquitatem esse puro et uni vero in quo non est multitudo aliquo modorum.

[39]≈ prop. 138 (p. 122. 11–12) というのも、存在はこれら〔知性と生 命〕よりもより高い一性をもち、それ ゆえにまた、当然より厳かなるもので ある。

τούτων μὲν γὰρ ἑνικώτερον, καὶ διὰ τοῦτο πάντως σεμνότερον·

[40]? Cf. prop. 62 (p. 58. 24–25) というのも、〈一〉により近いものは、 より〈一〉に似ているからである。そ して、〈一〉は多となることなくすべ てのものを存立させるのだった(prop. 5)。

ὅμοιον γὰρ τῷ ἑνὶ μᾶλλον τὸ ἐγγύτερον· τὸ δὲ ἓν πάντων ἦν ὑποστατικὸν ἀπληθύντως.

(14)

[41](p. 6, l. 12)

そして創出された存在は――ひとつ なのであるが――多化している、つま りそれは多を受容しているのである。 wa-l-anniyyatu al-mubtadaʻatu – wa-in kānat wāḥidatan – fa-inna-hā tatakaththaru aʻnī anna-hā taqbalu al-kathīra;

[42](p. 6, ll. 12–14)

ただそれが多になるのは、存在は、被 創出物のうちにそれよりも純一なも のがない、純一なものであるのだが、 有限と無限から組み合わされている からである;

wa-innamā ṣārat kathīratan li-anna-hā, wa-in kānat basīṭatan laysa fī al-mubtadaʻāti absaṭu min-hā, fa-inna-hā murakkabatun min nihāyatin wa-lā nihāyatin

[41]

創造された存在は、一ではあるが、し かし多数化している。それはすなわち、 この存在が、多数性を受容するという ことである。

Et esse creatum quamvis sit unum tamen multiplicatur, scilicet quia ipsum recipit multiplicitatem.

[42]

これ[創造された存在]は、純一であり、 創造された諸々のものの中でこれよ り純一なものはないが、しかしそれに もかかわらず、[創造された存在が]多 になるのはただ、有限と無限から複合 されているからである。

Et ipsum quidem non est factum multa nisi quia ipsum, quamvis sit simplex et non sit in creatis simplicius eo, tamen est

[41][42]≈ prop. 138 (p. 122. 13–14) ところで、存在とは限定と無限定から なるので、一なる多である。

πλῆθος δὲ ἑνιαῖον τὸ ὄν, ὡς ἐκ πέρατος ὂν καὶ ἀπείρου.

(15)

[43](p. 6, ll. 14-15)

というのも、それらのなかで第一原因 に後続するすべてのものは、能力とあ らゆる有徳性において極限的に完成 しており完全な知性なのだから。 wa-dhālika anna kulla mā kāna min-hā yalī al-ʻillata al-ūlā fa-huwa ʻaqlun tāmmun kāmilun ghāyatan fī al-quwwati, wa-sā’iri al-faḍā’ili

[43]

すなわち、その[創造された存在の]中 で、第一原因のすぐ後に来るものはす べて「アキリ」、すなわち、能力とそ の他の諸善において完成されている 究極の知性体[第一知性体]である。 Quod est quia omne quod ex eo sequitur causam primam est achili id est intelligentia, completa et ultima in potentia et reliquis bonitatibus.

[43]? Cf. prop. 160 (p. 140. 5–10) 神的な知性はすべて、一性をもち完全 で第一義的に知性である。また自己自 身から他の知性を生み出す。

というのも、もし神的であるならば、 神的ヘナデスに満たされており、一性 をもつからである。またもしそうなら ば、神的善性に満たされているので完 全である。そしてもしそうならば、 神々と一になっているので第一義的 に知性である。[…]

Πᾶς ὁ θεῖος νοῦς ἑνοειδής ἐστι καὶ τέλειος καὶ πρώτως νοῦς, ἀφ' ἑαυτοῦ καὶ τοὺς ἄλλους νόας παράγων. εἰ γὰρ θεῖός ἐστι, πεπλήρωται τῶν θείων ἑνάδων καὶ ἔστιν ἑνοειδής· εἰ δὲ τοῦτο, καὶ τέλειος, τῆς ἀγαθότητος τῆς θείας πλήρης ὑπάρχων. εἰ δὲ ταῦτα, καὶ πρώτως ἐστὶ νοῦς, ἅτε τοῖς θεοῖς ἡνωμένος· […]

(16)

[44a](p. 6, l. 15 - p. 6, l. 16)

そして知性のうちにある知的形相は より広範で、より全体的であり、それ より下位のものもまた知性である。と はいえ、その知性より完全性、能力、 諸有徳性において劣っているのだが。 wa-l-ṣuwaru al-ʻaqliyyatu fī-hi awsaʻu wa-ashaddu kulliyyatan, wa-l-asfalu min-hu fa-huwa ʻaqlun ayḍan, illā anna-hu dūna dhālika al-ʻaqli fī al-tamāmi wa-l-quwwati wa-l-faḍā’ili.

[44a]

その[第一知性体]の中に在る知性的諸 形相は、より広く、より強力に全体的 である。それ[創造された存在]の中で 下位に在るものは、再び知性体である が、しかし、完全性、力、諸善におい て、かの [第一]知性体の下位に在る。 Et formae intellectibiles in ipso sunt latiores et vehementius universales. Et quod ex eo est inferius est intelligentia iterum, verumtamen est sub illa intelligentia in complemento et virtute et bonitatibus.

[44a]≈ prop. 177 (p. 156. 1–4)?

すべての知性は形相の総体であるが、 ある知性はより全体的な形相を、ある 知性はより個別的な形相を包摂する。 Πᾶς νοῦς πλήρωμα ὢν εἰδῶν, ὁ μὲν ὁλικωτέρων, ὁ δὲ μερικωτέρων ἐστὶ περιεκτικὸς εἰδῶν·

≈ prop. 177 (p. 156. 5–7)?

じっさい、より上位の知性は、後続の 知性よりも一性の度合いが高いので、 よりすぐれた力を有する。他方、より 下方の知性は、より多性をもつので、 それらは力を弱めてもつ。

οἱ μὲν γὰρ ἀνωτέρω δυνάμεσι χρῶνται μείζοσιν, ἑνοειδέστεροι τῶν δευτέρων ὄντες· οἱ δὲ κατωτέρω, πληθυνόμενοι μᾶλλον, ἐλαττοῦσι τὰς δυνάμεις ἃς ἔχουσι.

(17)

[44b](p. 7, ll. 1-2)

そしてそのうちにある知的形相は、か の知性のうちにある知的形相の広さ ほどには広範でない。また創出された 第一の存在は、全体として見れば知性 である。とはいえ、そのうちにある知 性は、我々が述べたやり方で多様なの であるが。

wa-laysat al-ṣuwaru al-ʻaqliyyatu fī-hi awsaʻa ka-saʻati-hā fī dhālika al-ʻaqli. wa-l-anniyyatu al-mubtadaʻatu al-ūlā ʻaqlun kulla-hā, illā anna al-ʻaqla fī-hā yakhtalifu bi-l-nawʻi alladhī dhakarnā,

[44b]

そして、それ[第一知性体の下位に在る 知性体]のうちに在る知性的諸形相は、 かの知性[第一知性体]において知性的 諸形相の広がりがそうであるほど広 くない。そして、創造された第一の存 在は、全体として知性体であるが、し かしながら、それ[創造された第一の存 在]のうちに在る知性体は、私たちが述 べた仕方で[知性的諸形相の広がりの 点で]様々である。

Et non sunt formae intellectibiles in illa ita dilatatae sicut est earum latitudo in illa intelligentia. Et esse quidem creatum primum est intelligentia totum, verumtamen intelligentia in ipso est diversa per modum quem diximus.

[44b]≈ prop. 177 (p. 156. 13–15)? それゆえ、もしかの〔上方の〕知性が より少ない形相を通してより多くの ものを生み出すならば、それら〔上方 の知性〕のうちにある形相はより全体 的である。そして、もしこれら〔下方〕 の知性がより多くの形相を通してよ り少ないものを生み出すならば、それ ら〔下方の知性〕のうちにある形相は より個別的である。

εἰ οὖν ἐκεῖνοι δι' ἐλαττόνων πλείονα παράγουσιν, ὁλικώτερα τὰ ἐν αὐτοῖς εἴδη· καὶ εἰ οἵδε διὰ πλειόνων ἐλάττονα, μερικώτερα τὰ ἐν τούτοις.

(18)

[45](p. 7, ll. 2-4)

そして知性が多様なので、そこで知的 諸形相は多様なものになる。そしてひ とつの形相が下位の世界において多 様なものになると、それから、多性に おいて無限の諸個物が生じるように

――それと同じく創出された第一の 存在は、多様化したとき、無限の諸形 相が生じるのである。

fa-lammā ikhtalafa al-ʻaqlu, ṣāra hunāka ṣuwarun ʻaqliyyatun mukhtalifatan. wa-ka-mā anna al-ṣūrata al-wāḥidata idhā ikhtalafat fī al-ʻālami al-sufliyyi ḥadatha min-hā ashkhāṣun lā nihāyata la-hā fī al-kathrati – ka-dhālika al-anniyyatu al-ūlā al-mubtadaʻatu : lammā ikhtalafat ẓaharat al-ṣuwaru allatī lā nihāyata la-hā,

[45]

知性体が様々であるがゆえに、知性的 形相もそこで様々になるのである。或 る一つの形相からは、[それが]下位の 世界[物体世界]において様々であるが ゆえに、多性において無限の個が生じ る。それとちょうど同じように、創造 された第一の存在からは、それが様々 であることによって、無限の知性的諸 形相が現れる。

Et quia diversificatur intelligentia, fit illic forma intellectibilis diversa. Et sicut ex forma una, propterea quod diversificatur in mundo inferiori, proveniunt individua infinita in multitudine, similiter ex esse creato primo, propterea quod diversificatur, apparent formae intellectibiles infinitae.

[45]?

(19)

[46](p. 7, l. 5)

とはいえ、[それらの諸形相は]たとえ 多様化していても、個体同士の違いの ようには、お互いが多様ではない。 illā anna-hā wa-in ikhtalafat fa-inna-hā lā yatabāyanu baʻaḍu-hā min baʻḍin ka-mubāyanati al-ashkhāṣi,

[47](p. 7, ll. 5- 7)

つまりそれらは消滅し合うことなく 統一されており、互いに相違すること なく分離しているのであるから。なぜ ならそれは多を持つ一であり且つ、一 性を持つ多なのだから。

wa-dhālika anna-hā tattaḥidu min ghayri tafāsudin, wa-tatafarraqu min ghayri tabāyunin, li-anna-hā wāḥidun dhātu kathratin wa-kathratun wāḥidāniyyatun.

[46]

しかしながら、[無限の知性的諸形相 は]様々であっても、諸々の個体が分離 するように互いに分離しはしない。 Verumtamen, quamvis diversificentur non seiunguntur ab invicem, sicut est seiunctio individuorum.

[47]

すなわち、無限の知性的諸形相は、消 滅することなく一つであり、分離なし に離れている。なぜなら[無限の知性的 諸形相は]多性を有する一であり、一性 のうちに在る多性だからである。 Quod est quoniam ipsae uniuntur absque corruptione et separantur absque seiunctione, quoniam sunt unum habens multitudinem et multitudo in unitate.

[46]?

[47]? Cf. prop. 176 (p. 154. 26–27) すると、知性的な形相のすべては、一 性をもつ仕方で互いのうちにありつ つも、また区別された仕方で互いに離 れてある。

πάντα ἄρα τὰ νοερὰ εἴδη καὶ ἐν ἀλλήλοις ἐστὶν ἡνωμένως καὶ χωρὶς ἕκαστον διακεκριμένως.

Cf. prop. 171 (p. 150. 5–6)

知性はあらゆる点で永遠的であり、物 体を超越しており、そのうちにある多 性は統一されている。

ὁ δὲ νοῦς κατὰ πάντα αἰώνιος, καὶ ἐπέκεινα σωμάτων, καὶ ἥνωται τὸ ἐν

αὐτῷ πλῆθος·

(20)

[48](p. 7, ll. 8-9)

そして第一の諸知性は、第二の諸知性 の上に、第一原因から獲得された諸有 徳性を流出させる。<そして>そのう ちにある諸有徳性は、それらの最後に 到達するまで入り込んでゆく。 wa-l-ʻuqūlu al-uwalu tufīḍu ʻalā al-ʻuqūli al-thawāniyi al-faḍā’ila allatī tunālu min al-ʻillati al-ūlā, <wa> tansaliku al-faḍā’ilu fī-hā ilā an tablugha ākhira-hā.

[48]

諸々の第一知性体は諸々の第二知性 体の上に、[自らが]第一原因から受容 する諸善を流出させ、諸善は諸々の第 二知性体のうちに、それらの最後のも のに到達するまで及ぶ。

Et intelligentiae primae influunt super intelligentias secundas bonitates quas recipiunt a causa prima, et intendunt bonitates in eis usquequo consequuntur ultimam earum.

[48]≈ prop. 138 (p. 122. 15–17) なぜなら、後続のものへの輝きにおい ても、一のみが存在の彼方に及び、存 在は一のすぐ後なのだから。

ἐπεὶ καὶ ἐν ταῖς εἰς τὰ δεύτερα ἐλλάμψεσι μόνον τὸ ἓν ἐπέκεινα φθάνει τοῦ ὄντος, τὸ δὲ ὂν εὐθὺς μετὰ τὸ ἕν.

Cf. prop. 134 (p. 118. 27–29)

それゆえまた、〔神的知性は〕すべて のものに、神として自己自身を分与す るが、知性としてすべてのものに現前 するのではない(cf. prop. 57)。とい うのも、知性的な特性が発出しないと ころにまで神的なもの〔善性〕は発出 するのだから。

διὸ καὶ πᾶσι μὲν ἑαυτοῦ μεταδίδωσιν ὡς θεοῦ, οὐ πᾶσι δὲ πάρεστιν ὡς νοῦς· καὶ γὰρ ἐφ' ἃ τὸ νοερὸν ἰδίωμα μὴ πρόεισιν, ἐπὶ ταῦτα φθάνει τὸ θεῖον.

(21)

[49](p. 7, ll. 9-11)

そして第一原因に後続する高次な第 一の諸知性は、廃れず、二度目の繰り 返しを必要としない、確固とした第二 の諸形相に刻印付ける。そして第二の 諸知性について言えば、それは魂のよ うな、傾斜しており束の間の諸形相に 刻印付ける。

wa-l-ʻuqūlu al-ʻāliyatu al-ūlā allatī talī al-ʻillata al-ūlā tu’aththiru al-ṣuwara al-thāniyata al-qā’imata allatī lā tadthuru fa-lā taḥtāju ilā iʻādati-hā marratan ukhrā. wa-ammā al-ʻuqūlu al-thawāniyu

<fa-tu’aththiru al-ṣuwara al-mā’ilata al-zā’ilata ka-l-nafsi

[49]

[第二知性体よりも]上位に在る諸々の 第一知性体は、第一原因のすぐ後に来 るものであり、諸々の第二形相を刻印 する。この第二形相は、とどまってお り、消滅してもう一度それを繰り返さ なければならないということはない。 それに対して諸々の第二知性体は、魂 のような、[物体世界に]傾き、分離し 得る諸形相を刻印する。

Intelligentiae superiores primae, quae sequuntur causam primam, imprimunt formas secundas, stantes, quae non destruuntur ita ut sit necessarium iterare eas vice alia. Intelligentiae autem secundae imprimunt formas declines, separabiles, sicut est anima.

[49]? Cf. prop. 194 (pp. 168. 30–169. 3)

すべての魂はあらゆる形相をもち、知 性はそれを第一義的にもつ。

[…]じっさい、存在することによっ て作り出すものははすべて、それが第 一義的にそれであるものを、生じるも ののうちに第二次的な仕方で与える のだから。したがって、魂は知性的な 形相の投影を、第二次的な仕方でもつ のである。

Πᾶσα ψυχὴ πάντα ἔχει τὰ εἴδη, ἃ ὁ νοῦς πρώτως ἔχει. […] πᾶν γὰρ τὸ τῷ εἶναι ποιοῦν, ὅ ἐστι πρώτως, τοῦτο τῷ γινομένῳ δευτέρως ἐνδίδωσι. τῶν νοερῶν ἄρα εἰδῶν ψυχὴ δευτέρως ἔχει τὰς ἐμφάσεις.

(22)

[50](p. 7, ll. 11-12)

というのも[魂は]、創出された存在に 下から後続する第二の諸知性の刻印 付けによるのだから。

fa-inna-hā min ta’thīri al-ʻuqūli al-thawāniyi> allatī talī al-anniyyata al-mubtadaʻata suflan.

[51](p. 7, ll. 12-13)

そして諸魂が多化したのはただ、それ によって諸知性が多化するような種 類[のやり方]によってのみである。と いうのも、魂の存在も、有限であるの だが;それよりも下位のものは、有限 でないのである。

wa-innamā kathuratu al-anfusu bi-l-nawʻi bi-lladhī bi-hi takaththarat al-ʻuqūlu, wa-dhālika anna anniyyata al-nafsi ayḍan dhātu nihāyatin; wa-mā kāna min-hā suflan

u in

[50]

実際魂は、下位のものとして、創造さ れた存在[知性体]のすぐ後に来る諸々 の第二知性体の刻印に由来する。 Ipsa namque est ex impressione intelligentiae secundae quae sequitur esse creatum inferius.

[51]

そして諸々の魂が多数化するのはた だ、諸々の知性体が多数化する仕方に よってのみである。なぜなら、魂の存 在も限度を有しているが、魂の存在の 中の下部は限度なしだからである。 Et non multiplicantur animae nisi per modum quo multiplicantur intelligentiae. Quod est quia esse animae iterum habet finem, sed quod ex eo est inferius est infinitum.

[50]

[51]

(23)

[52](p. 7, l. 13 – p. 8, l. 2)

つまり知性に後続する諸魂は、完成し ており完全で、[傾斜と消滅が少ないの である]。そして<存在>に下から後続 する諸魂は、高位の<諸魂>より劣っ た完成と傾斜のうちにあるのである。 fa-l-anfusu allatī talī al-ʻaqla tāmmatun kāmilatun [qalīlatu al-mayli wa-l-zawāli]. wa-l-anfusu allatī talī <al-anniyyata> suflan hiya fī al-tamāmi wa-l-maylāni dūna

<al-anfusi> al-ʻāliyati.

[52]

だから、「アラキリ」すなわち知性体 のすぐ後に来る諸々の魂[上位の魂]は 完成しており、完全で、[物体世界への] 傾き、分離が少ない。そして、下位の ものとして、存在[知性体]のすぐ後に 来る諸々の魂[下位の魂]は、完成と[物 体世界への]傾きにおいて、諸々の上位 の魂の下に在る。

Igitur animae quae sequuntur alachili [id est] intelligentiam, sunt completae, perfectae, paucae declinationis et separationis ; et animae quae sequuntur esse inferius sunt in complemento et declinatione sub animabus superioribus.

[52]? Cf. prop. 193 (p. 168. 20) すべての魂は知性のすぐ次に存立す る。

Πᾶσα ψυχὴ προσεχῶς ἀπὸ νοῦ ὑφέστηκεν.

(24)

[53](p. 8, ll. 2-3)

そして高位の諸魂は、知性から受容す る諸有徳性を、<下位の>諸魂の上に 流出させるのである。

wa-l-anfusu al-ʻāliyatu tufīḍu bi-l-faḍā’ili, allatī taqbalu min al-ʻaqli, ʻalā al-anfusi

<al-sufliyyati>.

[54a](p. 8, ll. 3-4)

そして知性から、より多くの能力を受 容するあらゆる魂は、刻印付けについ て強力で、魂によって刻印付けられた ものは固定し存続するものであり、そ の運動は絶え間ない円運動である。 wa-kullu nafsin taqbalu min al-ʻaqli quwwatan akthara fa-hiya ʻalā al-ta’thīri aqwā, wa-yakūnu al-mu’aththaru min-hā thābitan bāqiyan, wa-takūnu ḥarakatu-hu ḥarakatan mustadīratan muttaṣilatan.

[53]

そして諸々の上位の魂は、知性体から 受容する諸善を、諸々の下位の魂の上 に流出させる。

Et animae superiores influunt bonitates, quas recipiunt ab intelligentia, super animas inferiores.

[54a]

知性から力をより多く受容する魂[上 位の魂]はすべて、刻印においてより強 力である。そのような魂によって刻印 されるものは固定的で、とどまってお り、その運動は均等で継続的である。 Et omnis anima recipiens ab intelligentia virtutem plus, est super impressionem fortior, et quod impressum est ab ea est fixum, stans, et est motus eius motus aequalis, continuus.

[53]?

[54a]?

(25)

[54b](p. 8, ll. 5-6)

そして魂のなかでも、そのうちに知性 の能力が少ないものは、第一の諸魂よ りも刻印付けについて下にあり、それ らによって刻印付けられたものは弱 く、円[運動]が不可能である。

wa-mā kāna min-hā quwwatu al-ʻaqli fī-hi aqalla, yakūnu fī al-ta’thīri dūna al-anfusi al-uwali, wa-yakūnu al-mu’aththaru min-hā ḍaʻīfan mustaḥīlan dā’iran.

[55](p. 8, l. 6)

とはいえ、刻印付けられたものは、そ のようであるけれども、生成によって 持続するのである。

illā anna-hu, wa-in kāna ka-dhālika, fa-inna-hu yadūmu bi-l-kawni.

[54b]

魂の中で、それから来る知性の力がよ り少ないところの魂[下位の魂]は、刻 印において諸々の第一の魂[上位の魂] の下に在り、それ[下位の魂]によって 刻印されたものは弱く、消えて滅ぶも のである。

Et illa in qua ex ea est virtus intelligentiae minus, est in impressione sub animabus primis, et est quod ab ea impressum est debile, evanescens, destructibile.

[55]

しかしながら、[下位の魂は]そのよう であるけれども、しかし、生成におい てとどまる。

Verumtamen, quamvis sit ita, tamen permanent per generationem.

[54b]?

[55]?

(26)

[56](p. 8, ll. 7-9)

よって以下のことが明らかになった。 なぜ知的諸形相が多数になったか―

―しかしそれはただ単一で純一な存 在である――そしてなぜ諸魂が多数 になったか、そのあるものがほかのも のよりも強力か――しかしそれらの 存在は単一で純一で、そのうちに多様 性はない。

fa-qad istabāna lima ṣārat al-ṣuwaru al-ʻaqliyyatu kathīratan, wa-innamā hiya anniyyatun wāḥidatun mabsūṭatun, wa-lima ṣārat al-anfusu kathīratan, baʻḍu-hā aqwā min baʻḍin, wa-anniyyatu-hā wāḥidatun mabsūṭatun lā khilāfa fī-hā.

[56]

だから、①なぜ知性的諸形相は多とな り、かつ、[それらの]存在はただ一で あり、純一なだけであるのか②なぜ 諸々の魂は多となり、それらのうちの 或るものは他のものよりもより強力 で、それらの存在は一であり、純一で あり、そこに相異性はないのかが、す でに明らかとなった。

Iam ergo ostensum est quare factae sunt formae intellectibiles multae, et non est esse nisi unum, simplex, et quare factae sunt multae animae, quarum quaedam sunt fortiores aliis quibusdam, et esse earum est unum, simplex, in quo non est

diversitas.



[56]?

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