旧西原村
(生家はこのあたり) 尋常西原小学校
西 浦小学校 (高等科)
適すると指定したものを教師が選んで教えるような状態 だった。また,村の子供のほとんどが尋常小学校を卒業 すると農家の働き手になるのが当たり前,途中で来なく なる児童も少なくない時代と土地柄だった。
明治19(1886)年に政府の「小学校令」の制定により, 尋常小学校の上に4年間の高等課程が設置されることに なったが,彼の通っていた西原村の小学校には設置され なかった。14歳になった荒三は,隣町にできることに なった西せい浦ほ小学校の高等科への進学を熱望する。村でた だひとり,編入試験に合格し,荒三は4年間,18歳まで 片道二里(約8㎞)の山道を歩いて通い続けた。 高等小学校でも優秀な成績をおさめていた荒三だった が,経済的な事情から上級学校への進学を断念し,岡山 県が行っていた「授業生」(見習い教員)の試験を受験 した。日給8銭で高等小学校の教員助手をしながら,正 教員の資格試験に備える制度である。19歳で簡易科,21
カリスマ地理教師から経営者へ
静岡県立裾野高等学校 伊藤 智章
1.はじめに
2017年8月12日,倉敷市立美術館で行われた「守屋荒 美雄展」(帝国書院100周年記念事業)において,標記の タイトルでギャラリートークをさせていただいた。倉敷 市は,帝国書院の創業者である守屋荒美雄(1872∼1938 年)の故郷であり,25歳で上京するまで教員をしていた 土地である。本稿は,倉敷で行った講演の内容をもとに, 守屋荒美雄の生涯を紹介し,彼の仕事の現代的な意義を 示すことを目的とする。
帝国書院の創業者が,地理の教員であったことは意外 に知られていない。高等小学校卒の学歴から独学で教員 資格を取り,キャリアを積み上げ,既存の権威に現場の 立場からの反論を試みながら教材のイノベーション(革 新)を進めた。実業界に転じてからは,自らつくった教 材の普及と後進の育成に心血を注いだ。その生涯は, 100年たった今からみても痛快そのものであり,現代の 地理教育,ひいては教職のあり方に一筋の光明をもたら すものであると確信している。
帝国書院の100周年を記念して復刊された,守屋荒美 雄の追悼文集『守屋荒美雄傳』(1940年刊)を史料に, 彼のキャリア形成とイノベーションの軌跡,その現代的 な意義について述べてみたい。
2.独学の青年教師
―倉敷時代の守屋荒美雄守屋荒美雄(幼名:荒あら三ぞう)は,明治5(1872)年に岡 山県浅口郡西原村(現:倉敷市西阿知町)に生まれた。 高
たか 梁 はし
川の下流に位置する農村地帯で,米とい草の産地で ある。
図1は,大正14年修正の地形図である。高梁川は下流 で二手に分かれ,荒三の生家は,西側の本流に面してい た。東側(旧高梁川)は大正14(1925)年に廃され,河 跡には現在,水島臨海鉄道の線路が走っている。 病弱だった荒三は,ほかの子供よりも3年遅れて地元 の尋常西原小学校に入学した。荒三が入学した当時は寺 の客殿を間借りした教室で,教科書も子供向けのものは なく,さまざまな専門書,実用書から文部省が教科書に
―守もり屋や荒すさ美び雄おにみる教員のキャリア形成と教育イノベーション―
図1 守屋荒美雄の生家と学校(大正14年修正 1:50000「玉島」)
帝国書院100周年記念特別企画
原寸より69%に縮小。
歳で尋常科,22歳で高等科の教員資格を得た荒三は,数 学科の教員として師範学校卒と同等の資格を得て,小学 校の正教員になった。23歳の時には,鷲わし羽ゅう山ざんのふもとに 新設された学校の分校の立ち上げをまかされ,その学校 が本校に格上げされた際の初代校長に就任するなど,順 風満帆な教員生活をおくっていた。
3.地理教師への転身
―中学校教員時代の守屋荒美雄 (1) 上京転機は24歳の時に訪れた。病身の父を看るために校長 職を辞した荒三は帰郷し,母校である西浦小学校の一教 員に戻ることになった。このころから荒三は,中学校教 員への転身を図り,文検(文部省中等教員検定試験)の 受験を志して猛勉強を始める。合格者は各教科若干名と いう狭き門である。
25歳の5月,文検の1次試験に合格し,東京で行われ る2次試験の通知を受け取ると,荒三は,退路を断つべ く辞職する。かつての同僚をたよって上京し,文検受験 に備えたのである。さらに,高等文官試験(現在の国家 公務員総合職試験)の準備を行い,東京で中学校教師を しながら官僚をめざす道を志すのである。
このとき,荒三は,文検の試験科目として専門の数学 ではなく,「地理」を選択していた。その理由は定かで はないが,いずれにせよここで彼が地理を選び,まった く独学で勉強したことが,のちの地理教育の歴史を大き く変えることになる。明治29(1896)年6月,文検「地 理科」の最終合格者は,氏を入れてたった3名だった。 文検に合格し,中学校教員の免許を得た荒三だったが, 9月に行われる高等文官試験に向けた受験勉強は続いた。 ところが,結果は不合格だった。都内の小学校で教員を しながら中学校からの内示を待つものの,まったく声が かからないまま年は明け,ようやく2月末になって荒三
は青森県師範学校から採用内示を受けて青森へ赴任する ことになった。
(2) 挫折
26歳,青森での生活は荒三にとって快いものではな かったようである。『守屋荒美雄傳』によると,当初彼 は会議の席などでもまったく無口であったため,彼を 引っ張ってきた校長に対して彼の資質を疑うような陰口 がふきこまれることもあったという。しかし,師範生徒 への就任演説を求められた際に,音吐朗々理路整然と発 言したところ一目置かれたとの逸話が紹介されている。 高等師範学校卒の教員集団に囲まれた「文検」合格者。 集団の中で明らかに異質な存在である荒美雄は,深い孤 独の中で新人教員としての日々を過ごしたようである。 その年の夏休み,荒三は,研究会に出席するためとの 理由で東京に出張の許可を得て,東京から辞職願を出す という型破りな方法で青森県師範学校を辞職した。ひそ かに準備してきたその年の9月の高等文官試験も不合格 となる。深い挫折と徒労感の中で荒三は,東京での日々 を過ごすことになった。
そんな荒三に声をかけたのが,新進気鋭の私立学校 「獨逸学協会中学校」(現在の獨協中学校・高等学校) だった。生徒にドイツ語を習得させ,図書館にはドイツ 直輸入のあらゆる文献をそろえていた同校は,旧制第一 高等学校などへの合格者をのばして人気を高め,新校舎 を建設するなど拡大を図っているところだった(写真 1)。上級学校をめざして全国から秀才が集まる男子校 の地理教員として,荒三は再スタートを切ることになる。 このころ,ちよ夫人と出会い,夫人と岳父の影響を受 けてキリスト教の洗礼を受け,荒美雄と改名。明治32 (1899)年,荒美雄は28歳で結婚した(写真2)。
(3)「カリスマ地理教師,守屋荒美雄」の誕生
「休み時間に職員室に戻らず,教室から教室へ嬉々と 写真1 獨逸学協会中学校の校舎
明治35(1902)年に新築された。
獨協学園史資料センター所蔵
写真2 ちよ夫人と結婚したころの 守屋荒美雄(28歳) 獨協学園史資料センター所蔵
写真3 明治40(1907)年,獨逸学協会中学校の 修業式の写真におさまる守屋荒美雄(36歳)
獨協学園史資料センター所蔵
向けの教科書,さらに文検の地理受験者向けの大著『動 的世界大地理』など,精力的に執筆活動を進めて行った。
4.起業
大正6(1917)年,46歳の守屋荒美雄は,六盟館の専 属作家を辞し,出版社「帝国書院」を創業した。資本金 は450円,社屋は当時住んでいた長屋の一角である(現 在の千代田区九段下)。従業員はなく,開成中学校に入 学したばかりの次男の美賀雄氏(数学者・上智大学第6 代学長)が助手(使い走り)という,個人営業からのス タートだった。執筆から製版所と交渉して印刷・出版し, 営業し,代金の回収,経理と何から何までひとりでこな した彼のビジネスは,ともすれば「元教員」の向こうみ ずな挑戦のようにもみえるが,着々と実績を積み重ね, 9年後には現在の千代田区西神田に自社の社屋を構える にいたる。
経営が軌道に乗るきっかけになったのは,大正8 (1919)年に出した『地理ノート』の大ヒットである。 白地図と解説を取り入れた薄くて手軽な小冊子が爆発的 に売れた。大正13(1924)年,荒美雄は雑誌『地理学研 究』を発刊。現職の地理教員向けに世界の最新事情を伝 え,教員や教員志望者の論説を広く募った。この雑誌は 地理学の学術誌の草分け的な存在である。ちなみに,日 本地理学会が発行する学術雑誌『地理学評論』が発刊さ れたのは,1年後の大正14(1925)年である。
昭和13(1938)年2月8日,67歳の生涯を閉じるまで, 荒美雄が帝国書院から出した出版物は200冊近くにのぼ る。自ら書き,自ら編集し,自ら売ることに徹する一方 で,現職の教員や教員志願者,とくに文検で中等学校の 教員をめざす若者への支援を惜しまなかった。また,郷 土出身の若者の上京を支援して寮を立て,夕食後にふら りと現れては岡山弁丸出しで書生たちと議論することを 楽しみにしていたという。政界への進出も熱心に勧めら れていたが一切断り,晩年は帝国書院の経営と学校の設 立(現:関東第一高等学校,吉祥女子高等学校)に尽力 した。
5.考察
−守屋荒美雄のキャリアとイノベーション 帝国書院は,創業100周年を記念して創業当時の教科 書と地図帳の復刻版を出版した(写真4)。薄く,軽く, 鮮やかなカラー刷りの地図帳と,巻頭言で既存の小学校 の地理教育に鋭い批判を加えたうえで,現役教員による して動き回り,生徒たちと議論を楽しみ,相撲が大好きな先生」「例え話が上手で授業が本当におもしろかった」 「守屋先生とは言わずに,あえて守屋君と呼ばせていた
だきたい」…当時の同僚や,各界の名士となった教え子 が語る「青年教師,守屋荒美雄」は,実に はつらつとし た人気者である(写真3)。
その一方で,荒美雄は教材研究を怠らず,地理学に関 する最新の文献を読み込み,その中で感じた論点を書き とめ,教育雑誌に論文として投稿を続けた。また,仲間 と共同で自分と同じ境遇にいる若い教員(小学校の教員 等をしながら文検で中等教員資格を取得しようと独学し ている者)のために通信講座を企画した。「地理科」を 担当した荒美雄は,若手の地理学者との交流や,勤務校 で手に入るドイツの最新の地理教育事情を取りあげなが ら,ときに厳しい筆調で当時の地理教育界,とくに教科 書や教材のあり方について鋭い批判を展開し,誌上討論 を試みた。
当時,「地理」といえば地質や地形など,自然地理的 な分野が大半を占め,残りはわずかな「地誌」(地名と 物産の羅列)で,教科書の執筆は帝国大学の大御所。文 語体の翻訳調で地図や解説図もほとんどなく,無味乾燥 なものだった。荒美雄は,こうした実情を批判するだけ でなく,自ら実践し,検証して論文化して世に問うこと を繰り返す中で,人々の暮らしが土地利用や景観に現れ て行く姿を「動的な地理」と定義し,教科書の改革を訴 え続けた。
荒美雄のこうした一連の活動に目をつけたのが,「六 盟館」という新興の出版社である。帝国大学の大御所と 大手出版社が独占していた教科書業界に風穴を開けるべ く,同社は荒美雄に教科書の執筆を依頼する。内容の斬 新さに加え,若い教員のカリスマ的な存在になりつつ あった「守屋荒美雄」のネームバリューに期待するとこ ろがあったのかもしれない。出版社の意図は見事に当た り,彼が執筆した『日本新地理』『外国新地理』の2冊 は,大ヒットした。明治39(1906)年,荒美雄34歳のと きである。以来,46歳で帝国書院を立ち上げるまで,六 盟館は,守屋荒美雄著で61冊(現職教員時代27冊,専属 作家時代34冊)もの教科書を刊行した。
明治44(1911)年,荒美雄は40歳で獨逸学協会中学校 を退職した。病に伏したちよ夫人(2年後に死去。享年 30歳)と3人の子供たちのことを考え,執筆活動に専念 することになった。その間,荒美雄は小学校から中学校
共同執筆という,当時としては斬新な編集方法でつくら れた教科書は,地理教育界における荒美雄の立ち位置と, 帝国書院の使命を体現する象徴ともいえる作品である。 当時の教科書や地図帳は,分厚く,内容もかたく,図 版も少ないのが主流だった。軽くて,オールカラーで, 手ごろな値段で買える地図帳が,1人1冊支給できるほ どの価格でつくられ,それでいて利益が出るしくみをつ くった荒美雄は,明治・大正のイノベーターといえる。 今,高校の地理が大きな転換点にさしかかろうとして いる。2022年度入学生から実施される新学習指導要領で 約30年ぶりに地理が必修科目として復活するが,その担 い手の多くが,高校時代にまったく地理を履修しなかっ た(学校や教員の都合で開講されず,履修させてもらえ なかった人を含む)若い教員である。
「地理教育の父」,守屋荒美雄も,専門的な地理教育は 一切受けていないが,独学と試行錯誤を積み重ねること で,正規の教育を受けた地理プロパーらが誰も成しえな かったイノベーションを起こした。また,彼の起こした ビジネスが100年以上にわたって受け継がれているとい う事実は,これからの地理教育の人材育成を考えるうえ で一考に値する。会社名の「帝国」は,創業当時は今日 イメージされるような国粋的,軍国的な意味はほとんど
なく,世界に開かれた進取の精神を象徴する言葉として 広く使われていたようである。第一次世界大戦が終わり, 日本人が世界に出て行く時代の節目において,旧来の慣 習やビジネスモデルにとらわれず,安価でわかりやすく, そして美しい教科書や地図帳を子供たちに届けようとし た,たったひとりの出版社の屋号として荒美雄が選んだ 言葉なのである。
これから高校地理にたずさわる若手教員ないし教員志 望者は,自身の学習歴にしばられることなく,大いに学 び,地理教育,教材にイノベーションを試みてほしい。
6.おわりに
クリスチャンだった守屋荒美雄は,東京都府中市のカ トリック府中墓地に埋葬された。葬儀は故郷,倉敷市西 阿知でもとり行われ,父母が眠る墓のそばに遺髪をおさ める墓所が建てられた。生家のあった集落を高梁川越し に見下ろす丘の上に立つ墓所からは,彼の通った小学校 や,山陽本線の線路を一望に見渡すことができる(写真 5)。また,彼が通った小学校には,二宮金次郎像と対 をなす形で荒美雄の胸像が地球の形をした台座の上に鎮 座している(写真6)。また,彼が毎日通った山道,若 かりしころに赴任した干拓地の小学校など,「地理教育 の父」をしのぶ「聖地」にはこと欠かない。
■参考文献
・伊藤 智章(2011)「評伝:守屋荒美雄−地理教育にかけた生涯」 (1)神田・神保町編,「地理」56 -4,48∼52頁。(2)倉敷市・ 西阿知編,「地理」56-5,98∼105頁。(3)東京・新橋編,「地 理」56 -7,100∼106頁。(4)東京・獨協中・高編,「地理」 56-8,101∼107頁。
・帝国書院100周年記念行事実行委員会(2017)『守屋荒美雄傳 復刻版』
写真4 左:復刻版
『帝国地理 大正7年』 (教科書)と
右:復刻版
『帝国地図 大正9年』 (地図帳)
イラストや写真を用いて地 理的事象を説明したり,視 覚的にわかりやすく表現し たりするなど,現場のニー ズを反映させた,当時とし ては画期的な教材である。
写真6 西阿知小学校にある 「守屋荒美雄像」と筆者 写真5 守屋荒美雄の墓所から見た高梁川と
西阿知集落(筆者撮影)
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