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V論 Pサ塙5

ドキュメント内 HERMES-IR : Research & Education Resources (ページ 102-112)

姓氏 老論 評論 南人 北人 合計 豊平趙氏

1趙二三7 1国表昌14

Q超諄永1

3/22

漢二三氏

1趙性教74

1/74

朔寧崔氏

1崔遇亨20

1/20

清州韓氏

1韓啓源3

1/3

陽川許氏

1許傳38

1/38

昌原始氏

1黄鍾顯6

1/6

南陽洪氏

1洪鍾序83 Q洪淳穆75 R洪陵雲3 S洪鍾応2 T洪在哲1

5/163

豊山町氏

1洪肪婬4 1三遠麓1

2/5

素謡 杢邦鉱1李寅高1奎一丁夏1李沈鷹1丁丁株!李珪永1

專ヨ磨1山鼠丞1李敦磨2李起鋳1遅明慮1

11/12

合計 55(51.4)/1040(55.7) 30(28)/469(25.1)  12(11.2)/246(13.2) 10(9.4)/112(6) 107/1867

《表20》三三を多数輩出した姓氏

[凡例]表示は《表19》と同じ。

南陽洪氏

参加した姓氏は、慶州金盃・清風金氏・羅州林氏・高二三氏・大丘徐氏・披平サ氏・慶 州李氏・延安李氏・龍仁李氏・全義李氏・全州李氏・二三鄭氏・二二二二・昌寧曹

氏・楊一品氏・豊山趙氏の16である。

 その中では、東莱愚計の5人が110回で最も多く、その次は昌寧曹氏の二人が101回、龍仁 李氏の3人が51回、慶州金氏の一人が49回、三州李氏の二人が44回で後を継いでいる。そ の他は、全州李氏から3人、三州林氏・披平サ氏・楊素論氏・豊壌趙氏から二人ずつ出て いた。少論では昌寧一団が最も長期間にわたって高温を学習の輔導を担当し、1864年から 1873年までの10年間であり、その次は東瓦二三で1864年から1872年までの9年間、慶州李氏 は1864年・1865年・1874年と1868年から1871年までを合わせて計7年間、龍仁李氏は1867年 から1872年まで6年間、慶州金氏は1864年から1868年までの5年間、講話に参加した。

 南人は、面高総数12名であり、計246回の講鑓に出席し、全体の!1.2/13.2%の比率を表し た。南人は高宗即位元年に山山として一人も活動していなかったが、徐々に比重が増加して、

1870年には鼠紙を上回って二番手になって以来、1872年を除けば20%台を維持しながら、高這 の聖学の輔導に積極的に関与していた。二人の年平均講官数は3.3名であり、年平均20.5回の 授業に出席していた。南人の一人当りの講鑓参加数は20.5回で、老論の19回と少論の16回より 多く、一人当りの講鑓集中度が高い、すなわち一人が多数の講鑓に参加していたことが分か る。山人では二人の講官を出した姓氏が一つもおらず、各一人の講授が、暦州政氏・善山金

氏・豊山柳氏・幽霊申氏・慶応李氏・広州李氏・全州李氏・乱暴趙氏・朔寧詰込・清

州韓氏・陽川乱逆・豊山洪氏の12の姓氏から選ばれて活動した。

 南人では漢陽趙氏が74回の三三に参加して最:も多く、全州李氏が53回、陽川許氏が38 回、豊山柳氏が36回、朔寧崔氏が20回の丸払参加記録を持っている。漢陽趙氏は1866年か ら1873年目で8年間高温の教育に関与しており、全州李氏は1867年と1869年から!874年目で計7 年間、陽川許氏が1869年から187!年まで、1873年から1875年までを合わせて6年間、豊山柳 氏が1865年から1867年までと1871年の計4年間、朔寧崔氏は1866年目!869年から1871年までを 合わせて4年間、高田の学問精進を補佐した。

 北人は12年間で10名の講官を出したうえ、112回の講鑓に参加して、全体で94/6%の比重を 占めている。二人では年平均二人の講義が9.3回の講莚に出席した。一人当りの講莚担当数 は約11回であり、四つの党派の中で最も低く、北人は講官総数・講鑓参加総数・一人当り講 鑓担当比重などのすべてが低調であったことが見て取れる。

 北人の中では、密陽朴氏と豊川任氏が二人の二二を出しており、一人ずつが参加した姓氏

は、魚心姜氏・清風訴訟・寧越謡言・全州李氏・真宝李氏・白川趙氏の合わせて8であ

る。北人ではe州姜氏が50回で圧倒的な優位を示しており、堀越厳氏が15回、密陽田富と豊 川任氏が!2回、全州李氏が10回、清風金氏が9回の順となっている。晋山姜氏は1866年から

一99一

1867年と!869年から!873年までの計7年間にわたって講莚に関与しており、寧越厳氏は1869・

1871・1873・1874年の計4年、全州李氏は1867年から1869年までと1871年を合わせて4年、

清風金氏は1867・1869・1874年の計3年間、心添に参席した。

 各党派が講鑓において占める比重をまとめると、講官総数/講鑓参加総回数において三論

51.4/55.7%、詰論28/25.1%、二人11.2/13.2%、北人9.4/6%となる。これは、糟谷$。。一一 氏が 分析した大忌君政権の権力構造196)で議政・判書以上就任者の比率が各56.1/24.5/8.6/9.4%

で、参判以上就任者の比率が各48.3/25.8/13.2/6.6%であったことと比べれば、ほぼ一致してい ることが分かる。したがって、高山の教育を担当していた講官は、当時の政権上層部の権力構 造と連動・関連して構成・変化していったと判断してもよいと思う。

 二二の二三を出した姓氏は、48である。それは、晋州姜氏2名、三州金氏1名、光山三二3 名、善しL[金氏1名、安東金氏12名、延安三二1名、清風二二4名、豊山柳氏1名、山州林

氏2名、鷹興言氏1名、高霊三三1名、密陽朴氏2名、濡南朴氏2名、水原白氏1名、大丘 三三4名、恩津宋氏1名、高回申氏!名、平山申氏4名、青松沈氏2名、寧越厳氏1名、杞 渓愈氏2名、南原サ氏1名、披平歩氏3名、海平サ氏2名、三州李氏3名、広州李氏1名、

延二三氏1名、龍仁李氏3名、牛峰李氏!名、全義李氏1名、全州李氏9名、真宝李氏1

名、韓【」」李氏2名、豊川任氏2名、東莱鄭氏5名、温陽鄭氏1名、昌寧曹氏2名、白川趙氏

1名、三州趙氏3名、林川趙氏1名、豊壌趙氏3名、二三趙氏1名、三二崔氏!名、清州二

三1名、陽川許氏1名、昌原黄氏1名、南陽洪氏5名、豊山洪氏2名である。

 最も多く講鑓に参加した姓氏は安東金氏で、12名が244回の講鑓に関与し、全体の

!1.4/13%の比重を占めた。その次は南陽洪氏で5名が163回で全体の4。7/8.7%、清風金氏は 4名が116回で3.8/6.2%、三二三三は5名が110回で4.7/5.9%、昌寧曹氏は2名が101回で 1.9/5.4%、三二二三は2名が90回で1.9/4。8%、全州李氏は9名が75回で8.5/4%の比率を示し て後を継いでいる。このように、二二関与上位姓氏の中でも安東金氏は全体の10%を越えて単 独優位を表しており、二二参加数100回以上の上位五つの姓氏、すなわち、安東二二・南陽 二二・清風金上・東山鄭氏・昌寧曹氏は28名が734回の講莚に参加し、全体の26.4/39.3%

の比率を占めていた。これは、約40%の三二を彼ら五つの姓氏が担当したことを示しており、彼 ら家門が高上の教育を主導していたと見倣すことができる。

 時原任議政の二二参加の実態を見ると、高宗の聖学に関与した前現職議政歴任者は14名 であり、老論が8名、乱訴・三人・二人が2名ずつである。安東二二の4名が時信任議政とし て講鑓に関与しており、大高君政権期における議政歴任者の中で高宗の教育に参加しなかった 人物はいない。前述したように、時原任議政の温感関与は高話即位直後から頻繁に行われ、

1871年まで約20%の水準を維持していた。

196)槽谷口一一「二院君政権の権力構造」(『東洋史研究』49−2、1990)、p144・p148

 その具体的な内容では、安東金氏弓柄学(二二)が1864年から1871年までの8年間にわたって 102回の講鑓を主管して最も高い関与度を表わしている。金三二は1865年3月3日に左議政に なった後、1867年5月18日と!868年4月23日に領議政に任命され、大二君政権の最高位官僚 として高宗の学習輔導に積極的に臨んでいた。その次は、播南朴氏朴山回(三論)が89回の二 二に参加していたが、朴珪壽は高高が親政を宣布した直後の1873年12月2日に右議政に就任 して、親政初期の高湿の政治活動に補佐・協力した人物である。彼が、高宗の三二に関与し た時期は、!864年・1865年と!869年から1874年までの計8年間であり、1873年以前は講官とし て以後は右議政として出席した。南陽洪二三二二(試論)は75回の素鑓に1866年から1874年ま での9年間参加していた。二二穆は1869年1月22日に右議政に任命された後、試論学が母親 の喪で辞退したことをきっかけに1872年10月12日に領議政に昇進し、議政になる以前も以後も持 続的に高宗の学習に関与していた。

 高州二三姜渚(北人)は50回の講鐘に1866年から1867年と1869年から1873年までの7年間に わたって参加しており、山人全体の講鑓参加回数で45%を占めて、高山在位前期の二人を代 表する講官として活動した。回忌は洪淳穆とともに1872年10月12日に左議政に任命されたが、

左議政になってからは1回しか講鑓に出席しなかった。彼は、1873年11月に高宗の親政を唱える 崔益鉱の処罰を強力に主張して罷免された。高州李氏李裕元(少論)は1864年6月15日に左議 政に任命され、最初から議政として42回の授業に1864年・!865年・1874年と1868年から1871 年までを合わせて7年間出席した。李二元は1865年2月に左議政を辞退した後、1869年4月に 再び左議政に任命されたがすぐ辞任した。高宗が親政を宣布した1873年ll月13日に領議政に 登用され、二二の親政以後の政界改編と政治運営を導いた人物である。豊山高山柳厚示乍(二 人)は36回の二二に1865年から1867年までと1871年の4年間に参加しており、1866年1月4日に 右議政に、!867年5月3日に左議政に任命された。

 楊弓趙二三斗淳(老論)は30回の講鑓に1864年と1865年に関与した。趙斗淳は左議政として 高宗の即位に伴う様々な手続を主管して名分を提供し、高宗の即位に協力しており、1864年6 月15日に領議政に昇進した。高宗の謡講に2年間に30回も参加し、二二即位初期における学 習の奨励に大きく寄与した。彼の年平均講籠参加回数は15回で、最大講鑓参加数を示す安東 金氏金二四の年平均12.8回よりも高い数値を表している。韓三二二二景在(老論)は18回の講 莚に1864年から!866年までの3年間にわたって参加した。李:二二は高宗即位直後の1864年1月 2日に右議政に選ばれて同年6月に辞退した後、ユ866年4月に領議政に任命されたがすぐ辞任し た。安東金氏金柄国(老論)は17回の講鑓に参加していたが、その時期は1864年・1875年目 1866年から1868年の5年間である。弓柄国は三二学の弟であり、1872年9月に母親の喪にあう 前まで大院君政権で長期に三曹判書を担当した人物として、正宗の親政以後の第二次政界改 編の時、すなわち1874年12月17日に左議政の全州李氏李最応とともに右議政に抜擢された。

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