第二章 在位前期における高宗の聖学
第一節 高宗の講鑓の進行、および高宗の聖学態度
1 君主の聖学
「聖学」は君主の学問を意味する102)。朝鮮において、君主は単なる君臨者ではなく統治者 であり、君主の統治的力量が政局に及ぼす影響は多大であった。こうした君主の国政運営に必 要な資質と能力を向上させるため用意されたものが聖学であった。儒教において君主に求められ たことは、 「修己治人」として集約することができるが、聖学は「修己」に当るものであった。君 主が聖学を重視すべきであった理由は、自らの修練無しでは他人を治めることができないためで あり、直接の統治活動である「治人」よりも「修己」の実現が優先されていた103)。
朝鮮君主には経簸104)を通じた聖学への専念が持続的に強調されており、それは創業君主か ら始まった。太祖1(1392)年酒官は、 「創業した君主は子孫の模範となるものである。もし殿下 が経産を急務にしなければ後世はそれに愚籍して学問をしなくなるだろう」、 「殿下は毎日経鑓 に参加し、 『大学』を進講させ、格物・致知・誠意・正心の学問を極め、修身・斉家・治 国・平天下の効果を成し遂げるべきである」105)と、創業君主の取るべき聖学への姿勢ととも
102)聖学は元々聖人になるための学問、すなわち尭舜周孔の要法を体得して王道と仁政を実現するための学問という 意味であった。学問を通じて習得した「格物致知」を政治に行えば王道になるのが道学であ1) .これは『大学』
の勉強の目的と方法を内容として、君主をはじめ治者一般に共有される学問・政治論であった。その中で、臣と は違って絶対性が規定される君主のための学問という意味で、聖学は帝王学・君主学になり、聖学における帝王 学と士大夫学の分離が起きた。朝鮮朱子学の展開過程では鄭道伝・幽光祖を経て李彦辿に至って聖学論が本 格的に提起されるようになった。また、聖学が『大学』と関連しながらも、それと区別される君主学・帝王学として 成立するようになったのは朱子の文集と語録を通じた朱子・朱子学の研究が一層具体化される16世紀半ば頃で あった。この時、李滉の『聖学十図』と李珊の「聖油画要』によって、君主の聖学に対する理論が定着した。
特に、李珊の聖学論は君主の聖学に官僚集団が主導する君主教導論を導入し、臣権優位の政治運営を目指 すとともに君権を制約する論理として作用していた。そして、このような君権を制約する聖学論は宋時烈によって更に 強化された一金駿錫『朝鮮後期政治JLr−L想史の研究』(知識産業者、2003)、 pp246−249
103)朴忠錫・♀モ立『朝鮮における政治思想』(平和出版者、1980)、pp54−62
104)「経簸」は、君主の受ける授業を表す言葉である。君主の教育は、減船と講規を整えて朝講・昼講・夕講な どに区分されて行われたが、これらをすべて「法講」と読んだ。経籠の実際の運営は弘文館で担当していたが、
経莚官、または講官と呼ばれる高位官僚が公服を着て参加した。経篭は君主の教育の場とはいえ、普段朝廷の 高位官僚が参席することによって、君臣間の政治会合の場としての役割も果していた。これが勢道政治期に入って は、年少な君主が即位し、君主が経籠を通じて君臣会合を主導する能力が不足していたため、君主の即位初期 には、法講より簡素化した勧講・進講という名で、講鑓官が君主の教育の輔導を担当した。そして、このような勧 講・進講では、現実の政治問題よりは教育する冊子の意味の解釈が主に行われた一権延雄「世宗朝の経簸と 儒学」(『世宗文化研究(1)』、1982)、同「朝鮮英祖代の経籠」(『東亜研究』17、西江大学、1989)、南 智大「朝鮮初期の経鑓制度」(『韓国史論』6、ソウル大学、1980)、李泰鎮「朝鮮王朝の儒教政治と王 権」(『韓国史論』24、ソウル大学、1990)などを参照
105)「且創業之主、子孫之所儀刑也。殿下若以経莚爲不急、則後世籍以爲説。其流必至於不學、豊細故 哉」、 「伏願殿下日日経鑓、進講大峡、以極格致誠正之學、以致修齊治雫之効」(『太租實録』太耐印 位(1392)年11月14日)
に、君主における聖学の重要性について論じた。太祖に求められた聖学精進に基づいて修身治 国を達成する任務は、以後における朝鮮君主に対しても代々力説されていった。朝鮮の官僚・
学者は、君主の経笹開催の回数が聖学の水準、すなわち君主の修身の程度と比例すると判断 し、君主の持続的な経鑓開催を促していた106)。そして、君主に対する聖学の重視は、学者で ありながら政治家でもある朝鮮固有の君主像を作り出すこととなった。
儒教を統治理念として掲げて、尭舜社会を具現すべき理想的目標として提示した朝鮮社会に おいて、君主の聖君的な資質の養成はいつも政治家・学者らの関心の焦点であった。儒教で 天と民を代弁して統治主体になれる唯一の存在が君主であっただけに、統治を前提とする君主 の学問は107)、一般民のそれとは比べにならないほど、重視されざるを得なかった108)。言い換え ると、君主は、学問をつうじて統治上の基盤や基準を形成すべきであり、朝鮮の政治家・学者 は聖学、すなわち統治の根本を窮めさせるため、君主に学問の充実を唱えたのであった。これ は、高宗即位初期の左議政趙斗淳の、 「帝王の学問は、匹夫の記諦と比べにならない。匹 夫が学問に勤めなければ、その害が一身に止まるが、帝王が学問に勤めなければ、その害が
一国に及ぶ」109)という発言からよく窺うことができる。
一方、聖学に対する強調は、その教育の担当者、あるいは政治を輔導する官僚の地位や権 威を強化する口実になっていた。君主が生まれつきの資質と能力を持っているのか、それを統治 活動の中で実現できるのか、または、統治活動を補佐する優秀な官僚集団の形成が可能であ るのか、という重大な問題が、朝鮮では偶然の出来事に委ねられていた。したがって、君主によ る意外で突発の状況の発生を縮小して統治能力を高めるため聖学が重視されたが、これは君主 の教育と統治活動を輔導・補佐する官僚の地位と役割の拡大につながっていた。要するに、君 主が儒教的政治社会を具現するうえで必要な聖学の向上には、有識階層の協力が不可欠で あったので、聖学の強調と比例して、その役割を担当する官僚の地位も伸長されたのであった。
このように、聖学論には、君主の円滑な政治運営において知識官僚階級の協調が要求されるが
106)韓容源「朝鮮実学時代における君臣間の学問活動」(『南冥学研究」16、2003)、pp431−436
107)正祖は、政治家・学者がいくら聖人の資質を持っていたとしても、君主の地位への代替が不可能であることを力 回したうえ、君主と匹庶との学問の差異について、次のように論じた一「上知、 「難以孔孟面心言忌、一嘗不自 任於治平之功。而特以不得其位、不行其道而然也。以旧観之、難匹庶、亦量可不念於治平之学乎。但 帝王三筆、与匹庶、差有緩急之殊。在営庶、則学未到治平之域、姑可塑徳修業、以責成敷。此乃聖人 所謂幼学壮行也。至於帝王、則沖幼之時、帰任治平之責 。其可委高慢修斉以上工夫之未造、子忌以 治平之功、譲而不居乎。四劫一邊用工、一邊倣治也。是以帝王之為学、為尤急四重、而与匹庶、熟有 殊論者、誠以此也』」(『正祖実録』正祖2(1778)年12月15日辛未)
108)「帝王之學異於匹庶、求其出治之本、必須學間中出來 」(『日省録』1864(高宗1)52)
右議政任百経の発言も次のようにしている。
「禺湯文武、莫不由白血血忌徳。詔命周召、訳義以學而輔其君。自古帝王之學、爲致治之本故也。錐閲 巷章句之儒、立志筍不誠實、程課易致間断。弓庭崇高三位、繋有萬機之ec ll(『三三院日記』1865(高 宗2)120、大臣政府一局堂上引見、同搬入善時)
109)「斗淳日、 『況帝王之學、非匹庶記論二品、二言而不純二藍、二二二二於一身、帝王不勤其學、二二 三門於一子」」(『承政院日記』1864(高宗1)429)
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ゆえ、官僚を尊重・優遇すべきであるという論理が、含まれていた110)。そして、このような事実 は、神聖不可侵の君主の権力に対して、臣権の干渉できる余地を与え、君臣間の均衡の模索 とともに、双方の関係の変化の原因となっていた。また、聖学への精進や上達如何が、臣下と の政治的軋礫で優位を占める土台も、臣下によって批判・制圧される理由ともなる現実のなか で、君主は臣権を牽制して君主の確固たる地位を保つためにも聖学に励むべきであった。
君主の聖学の持続的な強調は、君主が政治運営に及ぼす多大な影響力に対する反映で
あった。朝鮮の現実政治は、君主の資質と活動如何に大きく左右されており、政治勢力は君主 を間に挟んで権力闘争を広げていた。基本的に国家権力の中心・根源が君主であった状況 で111)、政治集団は君主の支持・同意が獲得できない限り、いくら論理整然とした主張を展開 するとしても、政権を掌握して政策を推進することができなかった。このように、統治における君主 の決定権が多大であったため、朝鮮の政治家・学者らは、君主の資質を養成・向上させる方 法を講究して、君主がそれを実践することをつうじて、国家の安定と発展を図ろうとした。そして、その代表的な人物の一人が栗谷李珊であった。栗谷は『聖学輯要』112)を著述して君主の治 道と方略について重点的に取り扱うほど113)、統治における君主の役割を重視しており、 『軸重 問答』では君主の役割遂行の形態や役割の模型を提示して、君主の持つべき姿勢について具
体的に説明した114)。
110)金駿錫『朝鮮後期政治思想史研究』(知識産業社、2003)、pp264−266
111)儒教では、君主の権力は天命と民意によるものであるが、それは実際に、具体的に証明するのが不可能であるた め、現実的には天命と民意が託されたと見倣される君主を国家権力の源泉とするしがなかった
112)『聖学山山』は栗谷が1575(回忌8)年、君主の学問の内容を整理した8冊の本である
113)栗谷が宣祖に『聖学割要』を提出したことについて、 『宣祖実録』には次のように叙述されている。
「李珊進『聖学輯要』、有補治道、深用為嘉。珊鋭意於血合、乃着払経伝及史冊之要語、切干学問政事 者、彙分次第、以修己治人為序、凡五篇書成、献干上。翌日、上御経鑓、謂珊日、 『其書甚切要、此 非副手学之理博、乃聖賢之言也。甚有補考治道。但如我不敏姫君、恐不能行耳」。珊起而野地日、
『計上毎有三教、臣隣極以為悶。殿下資質卓越、其三聖学、不為也、非不能也。願勿退托、篤志自 奮、以成允徳焉』。昔者、四神宗El、 「此発舜之事、朕何敢当』。 明道{秋三日、 「陛下此言、非宗社 臣民縛網。殿下善言、挙挙近引導』」(『宣祖実録』無異8(1575)年9月27日)
また、栗谷の為政をまとめて、
「為政者、治国干天下之町也。正家之目凹八。其一四則総論也。二章日孝敬、三章日刑内、四章日教 子、五章日親親老、言上於親刑干妻子友干兄弟書道也。其六章日謹厳、七章日節倹者、推演未尽謝意 也。其八章、乃説話敷、則斉家之止於至善老也。為政之目七十。其一章則総論也、二章日用賢、三章 日取善者、即大学所謂、仁人能愛一悪之謂也。四章日読時務、五章日法先王、六章El謹天戒老、即大 学所引『儀監干股、峻命不易』注意也。七章El立紀綱、即大学所謂、 『有国者不可逃隠慎、辟陰部天 下膠』山留也。八章日安民、九章日明教、即大学所謂、 「君子有黎矩之道、二二孝興悌不二』之意 也。其十章則終之以功敷、而治国平天下寸止於至善者也」
と、宣祖に申している(「宣祖修正実録』藩祖8(1575)年9月1日)
114)栗谷が1569(宣祖2)に完成した本。内容は、 「君道・臣道・君臣相得之難・東方道学不行・我朝古道不 復・当今之時勢・務実自修己之要・安民之術・教令之術・町鳶為用賢之要・正名為治道之本」となって いる。ここで、栗谷は、政治には「治」と「乱」があり、そこには各々二つの場合があるが、「治」は、君主 自らが賢君である、あるいは君主が賢臣を登用する場合に行われ、 「乱」は、君主が自分の聡明さを自負して 臣下を信じない、あるいは好臣を信じて耳目が塞がる場合に起きる、としている。また、「治」の場合の中では、
「仁」を持って治める王道と、功利と私を持って治める覇道があり、「乱」を引き起こす君主としては、自慢に 陥った暴君、忠臣・好臣が区別できない二君、優柔不断な庸君がいる、と論じている