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ドキュメント内 HERMES-IR : Research & Education Resources (ページ 82-86)

金聲根9

v茸靖19

4/48

溝風金高 金學性11

晶晶鋤

2/16

豊山柳氏 柳亭亭21 1/21

羅州林野 論意株1

サ晶殊1

2/2

播南此後 朴爾壽8

高霊朴氏 朴永輔6 1/6

大丘徐氏 徐承轍7 徐堂輔4 2/11

雫山斗氏 申錫禧9

¥磨潮9

更麓ノ4 ψ命〜疲17 2/18

青松華氏 沈敬澤1 1/1

同幅華氏 呉徳泳22 杞漢寸寸 愈鎭五8

咊v善2(1) 2/10

南原サ氏 粟鼎1 1/1

廣州李氏 ・李柄教9

延安李氏 李世宰5

龍仁李氏 李源命4 ・李敦梱9 1/4

全州李氏 晶系夏6 李承輔5 李會淳1

i鍾淳)

2/6

豊川任氏 伍鰭準5

ウ子準3

東莱鄭氏 鄭基世8 鄭撰靭7

A雲斗6

1/8

昌寧曹氏 曹亭亭7 1/7

林川趙氏 趙黒雲1

i在1悪)

1/1

楊州趙氏 趙兼式6

豊壌趙氏 趙鍵夏14 三乗昌2

i然昌)

1/2

漢二藍氏 趙性教8 1/8

三原黄氏 黄鉱顯ノ 1/1

南陽重氏 洪鍾序9

^二二10

洪淳學8

2/19

豊1」」洪氏 洪疎周ノ!

22 18(55%)/121(57%) 9(27%)/47(22%) 3(9%)/34(16%) 3(9%〉/12(5%) 33/214

黄氏から各一人が参加しており、披平P氏・海平サ氏・三二李氏・韓山李氏・豊山洪氏が なくなって、新たに大丘徐氏・青松沈氏・南原P氏・林川趙氏から一人ずつ出席した。高宗 即位!年から3年まで感官として多数参席していた牛三二二二埣と韓山回氏李景在一1866年4

月29日に領議政を辞職一がなくなって、新たな姓氏の人々が大いに登場したのは、大院君政 権期における政界変動と関連して注目されるところであると考えられる。高論の中では安東金氏が 約40%の比重を占めており、その次は南陽洪氏〉清風三二〉杞渓愈氏の順になっている。

 少論は、総参加人数9名が47回参加して、全体の25%と22%を占めて、前年よりやや増えて いる。羅州林氏の二人と高高朴氏・大引徐氏・龍仁李氏の各一人が新たに登場して、前年 度に引き続き正正金山・東莱鄭氏・昌寧温温・豊壌趙氏が各一人ずつ参加している。少論 の中では、慶州金紙〉東莱鄭氏〉昌寧曹氏〉高霊朴氏の順で講鑓参与比重が高い。南人で は、豊山柳氏の一人の他、全州李氏と漢陽趙氏の各一人の3人が34回にわたって講官として活 動している。これは前年よりも増加した全体の16%の比重であり、南人の講鑓担当が徐々に増え つつあることが見て取れる。二人は苦州急心・清風二二・全州李氏が各一人ずつ12回を参加 して依然として5%前後の参与率を示している。1867年には、安東金氏をはじめ上位5位までの姓 氏が、全体の57%を占めて、高宗の聖学を主導していた。豊丘趙氏では講官の趙乗昌(素論)

が2回、参賛官の趙康夏(老論)が14回講鑓に関与し、宗親・塔派では新たに李承輔(南人)

と、嘉言官として参加してきた李会淳(北人)が面出として登場した。脇立閲氏と武臣出身の講官

はいない。

 時原品議政の講籠参加を見ると、安東金氏の金左根と金無学(高論)が各々1回と23回を出 席しており、豊山柳氏柳厚所外(山人)が21回参加している。1867年に時原素議政として講鑓に関 与した人はこの三人しかいないが、その参加数は合わせて45回の2!%で、以前よりむしろやや増 加した。特に、左議政から1867年5月18日に領議政に昇進した金気学は持続的に論宗の聖学 の輔導に積極的に関与しており、同日左議政になった柳厚酢一同年7月15日に辞退一も講 莚に多数参加して高宗の学業を督励していた。

 個人の出席状況は、安東金氏金追追(古論)が23回、豊山柳氏柳厚酢(南人)が21回にわ たって参品目ており、安東金品金世均(二品)が15回、慶州金言金永爵(少論)が14回、清風 金氏金学性が11回、南陽洪氏洪淳穆(以上老翁)が10回出席して、前年度に引き続く高い関 与度を表している。彼ら6Aは、講義参加総回数において44%の比率を占有していた。その他 は、平山心服の申錫禧・申瓦葺と南陽洪二二鍾序(以上老心)が各9回ずつ、杞憂愈城島鎮 五(老論)と東莱二面鄭基世(少論)と漢陽趙氏趙性教(三人)が各8回ずつ参加した。

 1868(高話5)年の講鑓官の構成は、《表11》のとおりであり、18の姓氏から23名の講官が 169回の講鑓に参加した。前年度に比べて参加講官・参加回数同時に大いに減少した。1868 年の名一党派の比重を見ると、三論と少論の比重が多少増加しており、三人の比重が減った反

一一@79 一

《表l!》 高宗5(1868)年の講莚官名簿

老論 詳論 南人 尋人

講官 参賛官 講官 参賛官 講官 参賛官 講官 参賛官

慶州金氏 二丁蒔5 1/5

光山金氏 金在顯10 1/10

安東金氏

幅広學18

熕「均14 熬??

3/34

延安金氏 金々淵1 1/1

清風金氏 金學性11 1/11

二一朴氏 朴一声10

p孝正2

オん承儒15

2/12

高難朴氏 二二輔4 1/4

卒1」.1申氏 申錫禧2

¥鷹朝4

2/6

南原弄氏 歩棄鼎エ3 1/13

慶州李氏 李裕元3 1/3

延安李氏 李豊翼3 孝源瑳7 1/3

龍仁李氏 李源命8 1/8

全州李氏 李懲辰14 李會淳5

i鍾淳)

1/5

東莱鄭氏 鄭基世9 1/9

草摺鄭氏 鄭顯裕15

昌寧曹氏 曹錫雨9 啓『段承7 1/9

林川趙氏 趙基慮14

i在職)

1/14

豊壌趙氏 趙留永8

漢陽融解 趙性教9 1/9

南陽洪氏 洪鍾序5

^淳穆8(1) 憎憎學5 2/13

豊山洪氏

洪遠纏6

18 12(52%)/102(60%) 7(30%)/41(24%) 1(4%)/9(5%) 3(13%)/17(10%) 23/169

面、北人が10%以上に増えていた。老論講官の構成は、12名の人々が102回にわたって参加 し、各52%と60%の割合を占めている。高宗の丹田における老論講官の高い関与度は、高宗 即位元年から持続していたことである。老論では安東金氏が3人で最も多く、前年度に引き続き

平山申氏と南陽洪氏が二人ずつ、光山金高・清風晶晶・南原罪氏・林川趙氏が一人ずつ 参加している。その他、新た上安金氏の一人が加えられ、大回徐氏・青松沈氏・一八愈

氏・昌原黄平がなくなった。特に1867年には二人が18回も講鑓に出席した平山申氏が、1868 年には一回目参加していない。三論の中では安東金氏が圧倒的な優位を示しており、その次は 林川趙氏〉南陽洪氏・南原弄氏〉清風金氏〉光山金氏の順になっている。

 少子は、総参加人数7名が41回参加して、全体の30%と24%を占めて、前年よりやや増えて いる。前年に引き続き慶州金氏・高霊朴氏・龍仁李氏・東莱鄭氏・昌寧曹氏が一人ずつ二

漏しており、慶州李氏の李心元が再登場して延言李氏が新たに登場し、羅州林氏・大丘徐 氏・晶晶趙氏がなくなっている。少論の中では、東莱鄭氏・昌寧曹氏〉龍仁李氏〉慶州金氏 の順で講篭参与の比重を表している。南人では、漢陽趙氏の一人が9回参席しているのみで、

前年に比べてユ0%以下に落ちているが、これは前年に2ユ回も田丸に参加した柳二品の議政辞 職が原因であると考えられる。北人は3名が17回参席して10%以上の関与度を示している。前年 の各州姜氏と清風金氏がなくなり、全州李氏の一人目密高富氏の二人が新たに加えられ、論宗 即位以後に初めて10%を越える比重を占めるようになった。1868年には、豊壌趙氏・感興晶 晶・武臣出身の講官がおらず、宗親・温温は遠出淳(北山)の一人になった。

 出原任議政の講鑓参加では、安東金氏の心柄学(素論)と慶三冠氏の李民謡(少論)の二人 が唯一講義に参加していた。金柄学と李裕元は各々18回と3回講莚に出席したが、これは全体 の!2%をやっと越える比率であり、高湿即位から1867年まで20%前後の比重を占めていた時原 任議政の講鑓への関与度が大きく減少したことが分かる。その主な理由は、1866年から前議政 を排除して現職議政を中心とした講鑓出席が行われているなか、1868年においては領民政金柄

学の独相体制がほぼ持続一李計帳の左議政就任への命令は、閏4月11日行われたが李裕

元の辞退意思によって同月23日に取り消された一していたためであった。このように、1868年忌 は金心学の独相体制のうえで、原任大臣の参加がなくなって時任大臣のみが講鑓に出席したこ とによって、時原品議政の講論参加比率が下落するしがなかった。

 個人の出席状況を見ると、安東品詞金点学が18回、安東金氏出世均と林川趙氏趙磁界

(以上無論)が各14回参席し、10.6%と8.3%の割合を示している。その次は南原サ氏サ乗鼎が 13回、清風金氏金無性がll回、光山金氏金魚顕(以上老翁)と密陽朴氏雨承輝(八人)が各 10回にわたって参加した。彼ら7人は函嶺参加総回数の53%を占め、二二の学習を主導してい た。その他は、東莱鄭氏鄭基世・昌寧曹氏曹宿雨(以上少論)・山陽趙氏趙性教(南人)が 各9回ずつ参加していたが、彼らは高宗即位初期から持続的に講話に関与して、高宗の学問の

.ヒ達に協力した人物である。

 1869(出訴6)年の訟訴官の構成は、《表12》のとおりであり、24の姓氏から35名の講官が 180回の講話に参加した。これは、高宗在位前期の講鑓において、年別の講官数が最も多い 数値であるが、それに比べて講鑓参加数は多くない。このように講官の人数が増えたのは、領 議政田柄学の建議によって、5月の内に7回の日講(朝講1回目昼講6回)が実施されて、議政と 講武官の出席と別途に特進官が参席したためである。1866年の各党派の比重を見ると、老論 の占める比重が一宗の講鑓が始まって以来初めて50%以下に落ちており、その他の党派の参加 率が全般的に上昇していた。

 老論感官は、14名が81回の講篭に出席し、40%と45%の割合で前年度に比べて約15%ほど 激減した。魚蝋では安東金氏の講官二人と特進官一人が26回で全体の14%を越えており、光

一81一

ドキュメント内 HERMES-IR : Research & Education Resources (ページ 82-86)