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ドキュメント内 HERMES-IR : Research & Education Resources (ページ 92-98)

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林川論賛 趙基磨14

i在慮)

1/14

二二二二 超二二8

重陽重氏 二二教5 1/5

清洲韓氏 塁壁源1 1/1

南陽洪氏 洪二二4

熬煢̲3(2)

2/7

豊山洪氏 学年誕〃

昌原書氏 黄鍾,顯6

19 1!(46%)/44(47%) 9(37%)/29(31%) 3(13%)/16(17%) 1(4%)/4(4%) 24/93 備考①1872年には進講が5月14日から始まったため、講…鑓回数が少ない。

@ ②1872年11月5日、高台は兵曹判書の騙戸閾一閲歩歩を講官に任命した。

@ ③1872年に姜渚の講鑓参加は、彼が10月13日置左議政に任命される前のことである。

目される。

 少論は、9名が29回の講鑓に参席して、37%と31%の比重を占めて、参加人数と回数ともに 30%を越えている。少論では昌寧曹氏の:二人が!0回、東莱鄭氏の3人が9回の講鑓に参加して おワ、前年に続いて龍仁李氏が2回、羅下林氏が1回出席した。また、新たな姓氏として披平サ 氏が4回と温陽子氏が3回参与したうえ、持続に長官を出した高霊朴氏がなくなった。南人は、3

人が16回の講読に参加し、各13%と17%の割合を占め、1870年と71年における2年連続の20%

を越える比重から下落した。南人姓氏では前年に引き続き全州李氏が10回、漢陽趙氏が5回の 講話に関与しており、清三韓氏が新たに登場した反面、陽川旧記・豊山二二・朔寧崔氏の 姓氏出身がなくなった。乱人は晋州姜氏の一人が4回の出席して、その地位を維持しているのみ であった。1872年目姓氏構成において注目される点は、王妃の姓氏である山高閾氏が二三即 位以来初めて講官として参加するようになったことである。豊山趙氏・武臣出身の高官がおら ず、宗親・踏:派は再び李承輔(二人)一人に減った。

 時原品議政の山高参加は、領議政の南陽二言洪高点(正論)の4回と右議政の清州韓氏韓 最弱(南島)の1回に止まって、激減現象を示している195)。これは、全体の5.4%にも満たない数 値であり、これまでの時原任大臣の20%前後の高い比重に比べて、その関与度が急落したこと が分かる。1872年に入って出原任議政が講鑓に出席しなくなった原因は明らかではないが、

1872年9月領議政の安東金氏品柄学が母親の喪にあって辞職する以前にも講莚に参加しておら ず、晋州姜氏姜滝が!0月に左議政に任命された後に一回も講鑓に出席しなかったこと、現職議 政の洪訳語と韓啓源もあまり講鑓に関与しなかったことから、1872年忌議政歴任者が高宗の教育 を積極的に主管しなかったのは確かである。このような現象は翌年にも続いており、高宗の教育が 時心任議政ではなく講義官によって主導されるようになったと判断することができる。特に、高湿即 位初期から持続的で能動的に論宗の聖学を輔導していた安東金高金柄学の前年に引き続く講

話関与の後退は、大漁君政権期における彼の政治的行跡一例えば、昇進・退陣や政策決

定への影響力行使の程度など一と、その脈絡をともにしていると思われる。

 個人の講鑓参加の実態を見ると、講鑓参加回数が急減しただけに、特定人物の参加の頻 度も減っていた。林川趙氏高義応(老論)が14回の15%の比率で単独優位を占めたうえ、全州 李氏李承輔(画人)が10回で10%を越える比重で後を継いでいる。二人以外に10回以上参加し た人物はおらず、依然として昌寧曹氏曹店是が8回、東莱鄭氏鄭基世(以上少論)が7回、安 東金武金山均(老論)が6回参加した。彼ら5人の全体における比重は48.4%で、持続的に高宗 の教育を主管する代表的人物として存在していた。その次は、二三淫酒閲致摩(老論)と漢陽趙 氏趙性教(南人)が各5点ずつ、光山金氏金在顕・南陽洪氏洪淳穆(以上老論)・披平弄氏 サ滋承(評論)・三州姜氏姜渚(二人)が各4回三二に参席した。その中で騙興閲氏閲致痒と披 平サ氏7二二を除けば、皆持続的に講鑓に関与してきた人物である。このように高話の教育を 担当する講温言の構成に大きな変化がなくなったことは、二院君政権の安定化と密接な関連が あり、新旧人物の交替も大引君政権内部の政治的変化の過程を窺わせていると言える。

 1873(高宗10)年の講莚官の構成は、《表16》のとおりであり、19の姓氏から20名の一己が

195)1872年に、謡言は4鼠講鑓に参加したが、それは1872年10月13日目彼が左議政に任命される前のことであった  ので、時原町議政出席の計算から除外した

一89一

《表16》 高宗10(1873)年の旨旨官名簿

老論 少論 南人 福人

講官 参賛官 講官 参賛官 講論 参急斜 講官 参州官

留州姜氏 姜蘭馨2 姜渚1 2/3

慶州金氏 金昌熈4

光Ll」金氏 幽棲顯4 1/4

安東金氏 三世均7 1/7

朧興閲氏 闇致痒6 鰐奎鍋;4 1/6

播南朴氏 朴珪壽8 朴二三4 1/8

大丘徐氏 徐堂輔1 1/1

卒しLI申氏 申慮朝! 1/1

寧越嚴氏 嚴錫鼎5 1/5

披碍子氏 ヂ滋承2 1/2

龍仁李氏 李冤榮4

眞寳李氏 李啓魯3ζ2ノ 1/3

全州李氏 李承輔12 1/12

昌寧曹氏 曹錫雨3 1/3

林川趙氏 趙基慮12

i在慮)

1/12

楊州趙氏 趙船楼5 趙乗徽5

i徽林) 立腐熈8 1/5

豊里置生 趙乗昌6

i然昌)

1/6

漢陽綾南 趙1生教6 1/6

蘇州韓氏 韓啓源2 1/2

陽川丁丁 丁丁8 1/8

昌原罪氏

黄鍾劇

南陽洪氏 洪淳穆3 1/3

19 7(35%)/41(42%) 5(25%)/17(18%) 5(25%)/30(31%) 3(15%)/9(9%) 20/97

備考①1873年3月5日、礼曹判書の三州二二二乗徽と二曹判書の平山申二二二二を二二と任命。

@ ②1873年10月27日、弘文館提学の陽川許氏許伝を三三に任命したうえ、10月30日に刑曹判書

@   に指名。

@ ③1873年12月25日、新たに全州李丁丁承輔・楊州趙丁丁丁丁・安東丁丁金丁丁・光[⊥1金氏

@   金在顕・寧越厳氏厳錫鼎・騙興聞氏聞致痒・林川趙氏国華応・漢陽趙氏趙性教・

@   清風亭亭金高錆・陽川昌昌許伝を「日無官」に任命

97回の講簸に参加した。!873年の全般的な様相は、各姓氏からの人物が比較的均等に講鑓 に参加していたことである。1872年に続いて講鑓参加回数は100回を下回っており、老論と総論 の講官参与度が減少して、南人と北人のそれは増加した。

 老論は、7名が41回出席して、35%と41%の割合を占めて、再び下落した。老論では二人 以上を出した姓氏がなくなり、各姓氏から一人ずつ講鑓に参与した。その中では林川趙氏の一 人が!2回で最も多く、播南朴氏8回〉安東金氏7回〉朧二二氏6回〉光Ll」二二4回〉南陽二二3 回目平しLI申氏1回の順になっている。1872年に続いて驕興閲氏の人物が講莚に出席しており、

平山二二が再登場した。

 詰論では、5名が17回の二二に参席して、25%と18%の比重で、両方とも前年より10%以上 急落していたことが見て取れる。少論の中では、豊壌高富と両州趙氏が再登場して、各6回と5 回参加しており、その次は既存の昌寧曹氏と披平二二が各3回と2回、再登場の大記帳氏が1 回の講鑓に出席した。1873年も南山が第2党になり、5人が30回の二二に参加し、各25%と 31%を占め、近臣参加回数では少論を大きく上回った。南人姓氏では前年に引き続き全州李 氏が12回で最も多く、再登場した陽川二二と晋州二二が8回と2回、既存の漢畑鼠氏と信州韓 氏が6回と2回の講鑓に関与した。二人も前年より増えて、3人が9回の二二に出席した。再登場 の寧越鳥氏が5回、新たに登場した匠気李氏が3回、既存の温州姜氏が一回の参与を表して いる。1873年には、騒興閾氏が前年に続いて三二に関与しており、宗親・培派と二心前記か らも一人の講官が出席した。武臣出身の講官はいない。

 時原品議政の講篭参加の実態を見ると、前年に引き続き、議政歴任者の誌面関与が低迷し ていたことが分かる。前議政の出席はなく、領議政の南陽洪氏洪淳穆(老論)が3回、左議政の 濠州姜氏亭亭(北人)が1回、右議政の濠州韓氏韓啓源(南山)が2回の参与したのみである。

これは、全体の6.2%にも満たない前年のような低い比率で、時原任大臣が講鑓をつうじた高上 の学習の奨励にそれ以上積極的に関与しなくなったことを表している。

 個人の講籠参与の状況では、林川晶晶晶出応(老論)と全州李高上出血(山人)が各12回の 講鑓に出席して、12%を越える高い比重を占めている。二人の講鑓関与度は前年に続いて最も 高い数値である。引き続き播南朴氏朴珪壽(老論)と陽川許氏許(南人)が各8回の講鑓に関与 した。この上位の四人による占有率は40%以上で、論宗の教育との深い関連を表している。その 次は、安東金匠金田均(高論)7回目騙興聞氏聞致痒(老論)と漢陽趙凝血性教(南人)6回〉楊 州趙品品乗徽(無論)5回〉光山金氏金高顕(老論)4回〉南陽悉無洪淳穆(議論)・昌寧曹氏 曹錫雨(図心)・真二二氏李啓魯(乳人)が各3回の順で参加した。

 1874(一宗11)の講話官の構成は、《表17》のとおりであり、17の姓氏から22名の織匠が61 回の講論に参席した。姓氏と講二三に大きな変化はないが、高富参加回数は更に急減した。

全般的に老論と少論の講官数が増加し、南人のそれが減少したものの、参加回数の比重の面 では前年と同じく鳥人が少論より高く、二番目を維持している。二二の講簸が領議政李心元の 提案によって日講に昇格されたことによって、1869年5月に領民政金柄学の建議で日講が開催さ れた例のように再び特進官が講莚に出席した。また、旧臣が特別ゲストとして出席し、高言の学 問精進を督励していたが、そこには生父である二院君を政界から退陣させたことに伴う高宗の意 図、すなわち政権掌握の正当性と名分を唱えながら、宗親・熔派を親君主勢力として包摂しよう とする目的が含まれていたと考えられる。その上、二二官としてしか参与していなかった武臣が講 官に登場したことも注目されるところである。

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