第三章 大山君政権期の統治
第二節 大品君の統治政策374)
大全君は・年少な高直を輔導するという名分で約10年間、国政を統括していた。その間、彼 は三道政治期において疲弊・あるいは棄乱していた朝鮮を総体的に改善するため様々な政策を 推進した。彼は、国家紀綱を正して困窮した民生の問題を解決するためには、国家権力の中心 である王室が堅固でなければならないと考えて375)、君主と王室・かつ宗親・塔派の権威の回 復を、遂行すべき最大の目標として掲げていた376)。
大漁君政権における政策の目標や評価については議論の余地があるが・ここでは大院君の 王室と中央権力の確立と、地方勢力の統制政策について検討し、彼の10年間にわたる統治政 策が中央政府の統治権の強化を通じた国家再建作業であったことを明らかにしたい。それは、
第一・、景福宮世一工事が王室権威の伸長と国家結集力の強化に如何なる影響を与えていたの か、第二、書院撤廃に表れた登院君の在地両班勢力の弱体化と世論統制の:方針が何であっ たのか、第三、地方武断土豪の抑制政策が地方勢力の統制と中央権力の安定的遂行にどう 関連していたのか、第四、大院君の推進していた軍事政策が彼の権力の集中と安定化にどう作 用していたのか、の四つに分けて考察する。そして、大院君の究極的な目標である王室と中央 権力基盤の確保と拡大のため実施した、このような政策が、実際に彼の意図にどれほど符合・
寄与していたのかを分析する。また、大二君政権の政策が高高の親政宣布と親政以後の政策 推進に与えた影響、およびこの時期の高宗は大二君の統治政策をどう理解して関与していたのか を把握することとする。
374)下院君の統治政策については次の研究を参考した。一野冊株「興宣門院君の富国強兵政策研究』(ソウル大 学出版部、2001)、金匠佑『大込君の統治政策』(司勉、2006)、李喧根「韓国史最近世篇』(1967)、菊 池謙譲『近代朝鮮史』上(鶏鳴社、1937)、田保橋潔『近代日鮮関係の研究」上下(朝鮮総督府中枢院 編、朝鮮総督府、1940)、James Palais B, Politicαl Leadet・ship in the Yi Dynasty, University of Wasllington Press, Seattle and LQndon,1976、成大慶『大凶君政権性格研究』(成均館大学博士論 文、1984)、安外順「大院君執政期における権力構造に関する研究』(梨花女子大学博士論文、1996)、安 耳順「中院君の保守主義政治」(『行政史研究』3、1996)、柳国鉱「大院君の改革政策に関する研究」
(「韓国行政史学誌』3、1994)、李二王「興宣大院君の改革政治とその限界性」(『東学研究』11、200 2)、李下深「興宣大回君の内治の再照明」(「社会文化研究』2、旧邸大学校 社会科学研究、1983)、舎 。1蓉・転調蓋「朝鮮後期の社会構造的変化と大院君政策」(「東亜論叢一東亜大学校』37、2000)、徐種 泰「興宣大庇君と南人」(「韓国近現代史研究」16、2001春)、鄭玉子「興宣画院君の王室教育強化」
(「韓国史研究』99・100、1997)、7d&tn『興宣大町君の行政思想研究』(三国大学博士論文、1999)、
石披学術研究院編『興宣大院君史料下編」1−4(玄音燭、2005)
375)王室権威の伸長が国家・民生安定に寄与するという認識は、宗親府と景福宮再建事業に関する『承政忌日 記』1865(高宗2)年2月20日と4月2日の記録を参照
376)大院君の政策、特に王室・君主・宗親の権i威向上に関して、一概に論ずるのは容易ではない。なぜならば、
大院君の王室と宗親の権威強化政策が直接に君主である高宗の権威と権力の伸長につながるものであるかどうか は、簡単に答えられる問題ではないためである。しかし、大院轡の王室強化と中央集権化政策は、統治権の集 中に多大に貢献しており、高宗が親政を宣布する際、大院君に集中されていた権力を受け継ぐことができたという側 面から、君権強化につながるものであったと判断したほうがよいと思う
1 王宮再建、および政府機関の増築による中央権力の拡大・安定化政策
大夕影政権期の10年間は絶え間なく様々な建:築工事が行われた時期であった。大副君は、
景福宮をはじめとする各種の宮殿と政府官舎を再建・増築していたが、これは、王室と政府の 権威を高めようとする作業の一環であった377)。そして、彼は、自らが計画して断想王后が発議 した:景福宮工事によって、国政問題に公式的に参加できる機会を得て、国家を再建しようとする
計画を実行していった。
高宗の即位以前から、宗親の地位伸長や王室の権威回復に力を注いでいた大院君は、高 宗が即位すると、宗親府と議政府の機能の復旧や拡大に着手し始めた。前述したように、彼は 宗親府と議政府の役割を拡大して官員を増やすなど、実質的な地位と権限の強化を推進してい たが、ここに止まらず、政府官舎を再建・拡張して外的に表出される展示効果をつうじて、中央 権力の変化様相、すなわち、強力な中央権力が回復されたことを示そうとした。このように、中央 集権化政策が進んでいるなか、彼は大々的な景福宮再建の事業を推進して、王室と国家権威
の更なる確立を図るとともに、三軍府をも復活させてヨ三朝初期の姿を再現させようとした378)。
1865(七宗2)年4月2日、すでに建物の新築を行っていた議政府と宗親府官舎に引き続き、神 貞王后は景福宮の再建事業に対する教旨を下した379)。ここで、彼女は、景福宮が王朝統治 の始原であり、その再建は、国家中興の大業であると述べて、朝鮮において景福宮の持つ歴 史的な象徴性を強調した。また、神貞王后は、夫である翼宗と息子である憲宗が景福宮の再 建を試みており、今は高宗が祖宗を継承しようとする意で景福宮重建への決断を下したと語り、
景福宮建設が正面→身元→翼宗→孟宗とつながる大統の正統性とも関連していることを
表明した。
神語王后の教旨が伝えられた翌日、:景福宮再建に対する二品以上の官僚の意見が収議さ れたうえで、景福宮工事を担当する営建都監の都面面に、領議政趙斗淳・左議政金柄学、
些細に興細君李最応・左心成金嫡翼・判中枢府事金柄国・兼戸帳判書画敦栄・大旨軍 立珪壽・宗政卿李載元、副画調に大司成暗面墨・副護軍趙油点・回護軍昏惑夏が任命さ
377)囹奢円「景福宮復元の意味」(『建築歴史研究』35、2003)、李康根「景福宮重建」(『建築』35−2、
1991)、呈ス刊旦・週宮司「高宗朝景福宮重建に関する研究」(「大韓建築学会論文集』計劃系16−4、2000)
378)「日省録』1865(高宗2)526一このような景福宮前への議政府・三軍府の配置、および六曹や各軍営の移 動・再配置については、崔姻鉦『開化期の軍事政策研究』(景仁文化社、2000)、pp28〜31参照
379)「大王大七教日、 「景幅宮、部我議定鼎初漁建適正衙也。規模之正大、位置之凝議、仰見違人心法、
而政令施爲、無一不出於正、八二蒼生、成三幅佑、自此宮始焉。不幸兵賛之後、迄未重建、久爲志士 之墜歎。今因政府之重修、毎憶國朝盛峙、民物之般盛、明良之登庸、盆切欽諦羨慕之心。傍念翼聖代 理之年、屡幸奮闘、周到基肚、慨然有重跳鼠志、而未卒焉。霊廟屡欲出生指事、而又未及學。鳴呼、
若有待於今日 。今我主上、自在潜邸、亦嘗遊覧。而近日毎歎組宗御此宮時太卒氣像、何爲而今不如 古乎。此不但肯堂肯構之聖意也、有以見度量之弘大。是惟生霰之福、而無彊之基、實基於此。予心不 勝慶幸、重建此宮以恢中興大業。不可不心身大臣謀之、時原任大臣、明日賜鰻後留待』」(「承政院日 記』1865(高志2)42)
一 153 一
れた380)。そして、当日、神貞王后と政府官僚との間で景福宮工事問題をめぐる会議が開かれ た381)。ここで、神貞王后は再びこの工事が民のためであり、民力の消耗を減らさなけれぼなら ないと強調した。すると、政府官僚らはこれに同意しながらも、国家の大事業に民が喜んで自発 的に参加するだろうと述べ、この事業が基本的に民力によって進行するしかないという認識を示し た。この過程で神曲王后は、自らの力不足を理由として、景福宮再建工事を大院君に一斉委 任し、議政府以下のすべての官僚が大剛君の指示に従うことを公式に命じた。これによって、二 院君は以前の王室や宗親関連業務の遂行に加え、政府の政策を担当して政府官僚を統率でき る地位を獲得した。要するに、高宗の即位によって非公式的に政界に登場した大院君は、景福 宮再建という国家的大事業を主管することで、自らの政治的影響力を拡大する基盤を確保した
のである。
景福宮の再建において最も問題視されたのは資金の調達であった。当時の政府財政では壁 画建設に必要な莫大な経費を用意するのは無理であり、またそれは税金の増加をもたらして民生 の負担になりかねない危険性を持っていた。したがって、4月5日、政府官僚らは、政府の財政よ り民間からの寄付を主な資金源として活用する方案を提示したうえ、それも強制ではなく自発的な 形態を取るように定めた382)。このような寄付金の納付方案は、同日に三三王后が、すでに都城 内と塔派の寄付金が相当集まったと言及しているところがら、大回君が事前に門派勢力に寄付 金の納付を呼び掛けていたことが読み取れる。神貞王后は寄付金の順調な募金現象を以て、
天意に民心が符合している証拠であると主張し、全国の富裕な民に義掲金を納付することを促し たうえで383)、自ら率先して門門金10万両を提供した384)。これがいわゆる願納言385)と呼ばれる 寄付金の始まりであり、その後、景福宮建築のための寄付金が続々と集められるようになった。
そして、このような寄付金は景福宮再建のために特別に設置された営建都監で管理し、ほぼ毎
380)『承政院日記』1865(高跳2)43
381)「大王大妃殿日、 『今此重建、専為百姓之計、而豊可先費民力乎』。元容日、 『古制歳用民力三日、
如此国役、民宣不出力尽。純情得悦、則自忘其労 、臣推計財用猶属第二也。材石輸送之際、平民労 民之事、甚可悶、而此則在任事者之察民情而秒民勢、随事討力、則為好桑』。斗淳日、 『国之大役、
民之赴役、即左相所奏子趨父事之義也。凡於国役、用民之力、亦多己例 』。大王大妃殿日、 『然則 但用民力乎』。斗淳日、 『非但庶民而已、上自卿宰、下略庶民、当直皆出力 』。大王大妃殿日、
『如此重大之事、以予精力、有所不逮、故都二二二院君 、毎事必講定為之也』。斗西日、 『当身下 教為之 』」(『承平院日記』1865(高宗2)43)
382)「議政即応日、景福宮営建時辮財役民楽節、二品以上、倶為献議、而諭旨合従長稟処之命 、国有大 役、必有徴調、成周以来定制也。…而内以卿宰以下、外而藩梱守令以下、随力掲補、即道理也。三二 士庶言之、無論中外、如有願納隣人、則酬以野州、亦前漢之所已有也。団平朝家所以卜定而勒徴老、
惟在各司敷計測如何」(『承政院日記』1865(高宗2)45)
383)「大王大妃殿伝日、 「今此旧閾重営、豊出於為民求福、為国申休之計、而役費浩大、筍欲使民出力、
則果甚罪〉側、方此関念、旧聞昨今両日都 下冷納、数至十万、落馬助費、鉢生数万云、以此推之、則是 役之符合於天意民心、可以知之、而玄義響上之誠、民謡悦於古昔盛時 。…自廟堂措辞行関於八道四 都、一一暁諭於三曲三民』」(『三三院日記』1865(三三2>45)
384)『承二院日記』1865(高宗2)48
385)黄弦は願納という言葉に対して、これが民の恨みを買ったという理由で「願納」ではなく「三三な寄附」であると している一一黄域「梅泉野録』、p4