第三章 大山君政権期の統治
第一節 大院画の権力基盤の形成
1 大崎君の政治参与過程と高宗の支持
門院君は息子の君主としての地位を基盤として政治運営に関与するようになった。約10年間に わたって政権を掌握しつつも、一度も政府の公式的なポストに就いていなかった大町君の統治権 の行使は高吟を媒介としており、当然高宗の理解と支持が必要であった205)。言い換えると、政 府内の如何なる官職も持っていなかった大男君が政治的な地位を確保して、政局に影響力を発 揮するためには、君主の統治権力の委任が不可欠であったのであった。そして、この作業は君 主である高宗と垂簾同聴政を行っていた神貞王后の権威を借りて、王室の公式行事に高宗と同 席し、神酒王后から景福宮重建工事の担当の委任を受けて、ひいては宗室として国婚や王家 の出産などに介入することをつうじて、着々と進められていった。
高宗の早舟である大院君に対する処遇問題は、高野の即位式が行われた1863年12月13日 から本格的に論議されるようになった。神州王后は垂簾同戸政の儀礼が終わった後、大隅君の 待遇について大臣らと相談したうえで・戸曹へ大君の例に依って大国君に宮結と三宅の支給を 定めるように命じた206)。そして、同月ユ5日、戸曹から大院君宮に銀貨二千両と戸曹の豆一百 石、宣手甲の米一百石を支給するという報告があったが207)、大院君の辞退によって毎月米10 田環「朝鮮の開国と近代化』(渓水社、1997)、James Palais B, Politiαal Leadership in the Yi Dyuasty, University of Washington Press, Seattle and London.1976、藤間生大「大院君政権の構 造」(『近代東アジア世界の形成』、1977)、藤間生大「大院君政権の歴史的意義Ill・一束アジア近代史研 究の方法論と関連させて一」(「歴史評論」254〜255、1971)、糟谷憲一「大院君政権の権力構造」(『東 洋史研究』49−2、1990)、糟谷憲一「二院君政権期の地方官の構成」(『東洋文化研究』1、学習院大学 東洋文化研究所、1999)、などの研究がある
205)このような事実は大敵君の権力が流動的で安定性のないものであったことを意味している一方、権力行使.ヒの限 界や範囲が定められていなかったため、君主に匹敵する、あるいは上回る統治権の行使が可能であったことを表し ている
206)『H省録』1863(高誼即位年)1213 一 金姻佑は、大院君への財政支援が国家公式機関から提供された ことは、大院君の政治的地位を表すためであり、大回君がそれを辞退したのは、臣下の待遇を拒絶することを以て 臣下としての地位を脱皮するためであったと解釈している 一金鮫洲「幻影君の政治的地位と国政運営」、P4 4。大院君の地位が一般大君や大臣と異なっていたのは、彼のみが唯一大院位として呼ばれており、《註210》
の「待以旧臣之礼」と「設座位於大臣之上」の文句から窺うことができる
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石と銭100両の支給に決められた208)。また、1864(高宗1)年1月7日、大院君の私家である雲 蜆宮に対する補修工事のための財源が戸曹から支出され、同月10日には、軍議政金左脳が 大臣君の親・喪家の双方の3代の追贈を建議して実施されたが209)、これらはすべて大尊君の 権威を高める作業の一環であった。
この過程で、大院君に国家行事に公式的に参与できる機会を提供した人は神貞王后であっ た210)。彼女は、哲宗の国葬の手続について大臣と論議するうち、哲宗が普段は倹素な生活を していたと述べ、彼の志に従って国葬を簡素にすべきであると強調したうえ、諸臣が国葬にかかわ る諸般問題を大転瞬と相談して処理するように命じた211)。これは、神貞王后の支持によって大壷 君が国葬という国家と王室の最大行事を公式的に主導するようになったことを表している。要する に、大院君は神貞王后の積極的な協力を得て、国政問題に介入することができたのであった。
また、大院君は君主の生酒として高宗とともに正式に国家の行事に登場していた。高宗は 1864(高宗1)年4月18日、 「今度太廟に展謁する時、宗親府堂上が塔派212)の人物のうちソウ ルに居住する文蔭武・儒生を率いて参加せよ」と命じ213)、塘派人の宗廟参拝への同席を許可 したうえで、それを定式とすることを指示した214)。それによって4月21日、毎年初めに王が宗廟と 永禧殿と景慕宮215)に拝謁する時、大院君をはじめとする多数の宗親と塔派人が高宗や政府官 僚らとともに参席した。ここで、高宗は宗廟に拝謁する前、二回にわたって二院君を呼んで同席 を求めていたが216)、これは、大回君が単なる宗親ではなく君主の二二という事実を強調するため であった217>。大院君が高宗とともに宗廟に拝謁したのは、彼の持つ特別な地位を確認・表明す
207)「大頬髭宮免税結一千結、田土憤銀子二千雨楡途、宮避寒備前、本曹太一百石、恵露米一百石、限五 年輸迭」(「日省録』1863(高宗自1]三年)1215)
208)「新院君宮田結等節、依例畢行、巳有成命、而固離不已、不得不勉從。其一度支、月途米十石、銭一 一雨、以遠億約之意」(「日立録』1863(高音自IJ位年)1218)
209)「承政院日記』1864(高宗1)110
210)官撰史料では、神技王后によって大目君の大君封爵以外の待遇が命じられたのは1863年12月13日からであり、
公式業務を担当するようになったのは哲宗国葬が議論される12月27日からである。しかし、鄭喬と朴素燗は、高高 の即位日、神貞王后によって大院君の庶政参決と不臣の礼遇に対する命令が下された、と述べている一 鄭喬 『大隠笠年史』1、p1「血煙親興善君為大鑑君、参伍庶政、待以朝臣之礼」、朴斉燗『近世朝鮮政鑑」
(上)「大王三二下二日…二院託宣協賛大政…大王大三下教、百官有司、先稟事於二院君第…朝参別三座 位於大臣之上」
211)「大王盲虻立教日、 『大行大王臨御内内四年、宵肝憂勤、一念爲民、興作之擾、豊亨之學、未必有 焉、國人之所共知也。今於終事之地、何敢不仰膿雫日節倹之盛徳、使斯民被遺澤乎。俘文濫費之有可 灌侍者、蛇別下付簸以入事、分付三都監。凡係勢民之事、務從省約之意、申筋華甲螢。…大王大野殿 日、此此距骨豊大行朝八寸本意・諸大臣二大二君相議、知委於都監堂上以下、似好 』」(『日省録』
1863(高宗自IJ位年)1227)
212)全州李氏のうち、朝鮮王族から出た宗派
213)「教EI、 『今番太廟展三時・宗府堂上率塔派人在京文蔭武儒生、入参干南紳門外』」(『承政院日 記』1864(高宗1)418)
214)「伝日、 「毎年歳首、太廟展謁時及親祭時、塔暇人、応酬入参事、詔旨定式』」(『承政院日記』
ユ864(高宗1)421)
215)永禧殿は太祖・世祖・元宗・粛宗・英祖・純祖の影傾を奉安して祀る所であり、景慕宮は正野の父親であ る荘献世子と妃の恵慶宮の祠堂である
216)「承下院日記』1864(高宗1)421
る最:上の方法であり、大院君はこうした機会を利用して自らの権威を周辺に認識させようとした。
言い換えると、大院君は、歴代君主の位牌が祀られているところに高宗と同席して拝謁することを 以て、君主の実父として、君主に類似した地位を持っていることを示したのであった。
この場で高宗は、一家の間の親睦を重視するのが王家の法であると論じたうえで、 『一下譜 略』218)の迅速な刊行を命じ、王族の系統や族譜を的確にすることを求めた。戸曹判書李敦栄
(全州李氏孝寧大君派)が、哲宗の意向によって1860年より『踏源続譜』の刊行を展開したの に、 『塔源譜略』の編纂に協力していない派があるため、作業が進行しないことを述べると、高 宗は、そのことを即位前から知っていたと語り、宗親と略派問題にすでに関心を持っていたことを強 調した219)。高宗の潜邸での思考に父親である大院君が多大な影響力を及ぼしていたことを勘案 すれば、 『塔源譜略』の刊行が大品君の推進する王室・宗親の地位と権威強化の一環で あったと見敬すことができる。また、高宗は宗親府の地位・役割の強化のため、すでに同年4月 11日に、宗簿寺を宗親府に合併するという命令を下し、 『塘源二二』の刊行作業を宗簿寺か ら宗親府に移転させた。ここでも彼は即位前から両機関合併の論をよく聞いていたと語り220)、そ れが大院君の四面であることをほのめかした。このように、哲宗代から哲宗の協力を得て、宗簿 寺の主管の『塔源譜略』の修補作業を宗親府に移して宗親府の役割の増大と地位の向上を 図るとともに、王家の系譜を正確に整理して王室の権威を高めようとした大縞君の二面は、哲宗 の死去・宗親の非協調・壬晶晶乱の勃発による状況悪化などによって延期されていたが、大面 君の影響を受けた高宗が即位して彼の意図を忠実に代弁することで、再開されるようになった。
その上、高宗は、無派の儒臣、および武臣向けの試験の施行を命じ、疇派人の官職進出 への道を開こうとした。また、自らが試験場へ親臨すると述べて、宗親・塔派勢力の拡大の重 要性と直接の関与の意を表明した221)。これも政界に宗親・踏派の登用を増やして政策推進の 基盤としようする大州君の意図の反映であったと考えられるが、君主になって半年も経っていない 13才の高宗が、宗親・塔派の糾合と官職登用に対する計画を本格的に樹立するのは無理なた めである。それゆえ、高宗の即位以前から宗親・踏派の地位と役割の強化を通じて王室の基 盤を堅固にしょうとした大二君の政策に、高宗が積極的に協力していたと見倣すことができる。
このように、大晶晶は太廟に拝謁する高這と同席して自分の存在を公に表していたが、彼の特
217)金嗅薬『大朝君の統治政策』、p130 218)朝鮮王室と一一族の族譜
219)「.と日、 『睦親之誼、我家之法、今日此庭管見、意仮在焉。卿等皆野敦親、勿失和気』。…敦栄臼、
「語源続譜開刊、是大行大王敦宗之特念拙意也。自庚申始刊、已有詑工入園者、而其後因循、尚未就 完、錐縁遠居回諸派、未能三三三二、事体二三未安。更加申筋於諸派門長、如有不遵宗法之人、則自 臣子依旧例予予、朝官則甘筋警吏・兵曹、寺塔前、勿為検擬於政注之意、定式施行、何如』。上日、
『依為之。予於潜邸、慣知之 。益加判筋各派、斯速告功』」(「承政院日記』1864(高宗1)421)
220)「答臼、 「…減寺合府之論、自在潜邸、聞之巳久、如此、然後可無三三筍銀之弊、有敦宗睦親之美。
事係官制、令廟堂、稟処』」(『承政院日記』1864(高宗1)411)
221)「命書伝忌日、 『参班王容派儒武、再出日当心証試取 。該房知悉。春塘台親臨磨錬、武士、兵乱高取 於丹楓亭』」(『承政院日記』1864(高宗1)411)
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