︑弥勅浄土から現世に下生して衆生を済度するといわれる弥勅菩薩の信
仰は
︑早くからわが国の貴族社会の聞に広まっていたが︑十和田湖伝説の主人公である南祖ノ坊も何とかこの弥
勅の示現を仰ぎたいという一念から全国各地を廻って苦行を続けたが︑その間霊夢により金の草軽を授けられこ
の草粧の緒の切れるところを汝のすみかとせよとの言葉をいただき︑北閣の旅を続けて来たところ︑ここ池ノ平
でその片方がふっつりと切れたといわれる︒この地余り広くはないがいかにもその形が草継に酷似していた︒
同村仁和兵助の祖先の勧請になるものであったが ︑大池畔に湯沼青竜大権現を祭神とする小さな桐堂があり ︑
正九年(一九二
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﹀一O
月工藤轍郎の発 願により起工︑
翌 一
O
年七月四聞に三聞の拝殿を建立初めの桐堂を奥院として池ノ平神社と呼び︑従来の氏子六
O
戸と工藤家小作人一二O
戸の氏神社とした︒なおここの池水はいかなる羊魅の年も︑またいかなる多雨の年も水量に絶対増減がないといわれている︒
四
石に関するもの
八ノ太郎の手形石
八幡岳の麓参道のそばにある六尺ばかりの巨石は︑八幡岳の大神と八ノ太郎との石投げ競争の時 ︑大神の機転
により八ノ太郎の投げ損じた石が落ちたものといわれる︒
南祖ノ坊との戦に敗れた八ノ太郎が十和田湖からのがれ出︑七戸川の本流を姥子石と委嶋山︿和田ダム左岸 ︑
俗称ヤケ山)との間で堰きとめ湖となして住もうと企てた︒
入ノ太郎に傍らの巨石を示し︑ これを知った大神は民の難儀を思い ︑
一計を案じて
この石をこの山頂から小川原湖に投げ入れることが出来るなら望み通りにさせよ
うといって︑石はどうとば
八ノ太郎がそれを持ち上げて投げようとする寸前ち
ょっと片袖を引いたものだから ︑
かり麓に落ち︑太郎は神威を恐れて逃げ去
った時のものといわれる
︒
石の中ほどに入ノ太郎の指あとだという大 きな穴があいており
︑
今も太郎の手形だといわれている
︒
なお参考のため記せば︑
十和田市白上にも巨石があ
り八ノ太郎の手
形石と呼ばれ指の形に似た穴があいてい
る
。
(当
姥
子 石 山屋の薬師堂の西南︑和田川の右岸の山の頂に小さな桐堂がある
︒
岩長姫を勧請しているが
︑
神体は高さ五丈 周囲一五尺にも及ぶ巨石である
︒
昔田代を開墾すベく八戸の長商代から入込んでいた老夫婦があったが
︑
ある時姥が長苗代まで出かけ
︑飯植を
背負い犬をつれてこのあたりまで来ると急に用が足したくなり背中の飯植を下さずし
ゃがんだ所
︑
そのまま犬も ろとも石となったというのである
︒
民 話・伝 説ー
一方こちらは老翁 ︑
姥の帰りが余りおそいのでチャホシの山に上って姥を呼んだところ
急に限がくらみ︑
姥が 帰れない姿となったと答えた夢を見たかと思うと
︑これまたそのまま石になったとい
う ︒
ハ岡村佐太郎)
なおこの姥子石には洞穴があり放牧中の牛がその中にはいったと思ったら
︑
何回か後長苗代の洞穴から出たと 第一章
︿工藤与左衛門)
いう話も伝えられている︒
ぅば
ζうそん
姥子石については
︑北畠守親(法号有末光尊﹀
を奉葬するため古墳形式の葺石塚を造ったという話がある
︒今
から 一
OO
年位前には塚のそばに小柄があったが︑今は山脚の大石のところに移し磐長姫として尊崇している ︒(和
田四
郎﹀
また
︑巨石の基部に神社があって︑﹁婆恋石大明神﹂という旗(のぼり﹀が置かれであるところを見れば
︑と
こを管理している西野の人たちは明神様として信仰をしていると思われる︒
(福田正一郎)
﹃七戸郷土誌﹄草稿には︑上記の伝説を紹介した後 ︑﹁
・ 霊
験余りに新たであったので︑衆庶陛れ戦いた︒宝暦
中瑞竜寺十三世悟山和尚が夢想によって法薙陀山と称号を与え ︑西野村幸四郎に守護せしむることとした﹂と記
して
おり
︑
﹁杜の縁起詳かなら .されども同社奉懸の鰐口は古くして銘不詳︒社はもと森の七戸史蹟調査会では︑
頂上墓爆の側にありしを ︑
約 一
OO
年前に現在の所に移遷したりと ︑里人パッコの社として尊崇す ︒基巌のある所を神域として入地せしめざりしと古老相伝﹂と唱えてきた︒
同
小田子不動の石
段々を上りつめると境内の右手小柄の中に杷られている︒珪化木であるが︑願かけ石といわれ︑祈願者はお不
動様に願をかけ ︑この石にもお神酒を供えて拝んだあと持ち上げた ︒諸願の叶う時は軽く持ち上がり
︑叶
わない
時は持ち上がらないとされてきた ︒
五
塚に関するもの