(米
とぎ
唄)
︿も
と摺
本調
子唄
﹀
(全
)
(仲
仕込
唄﹀
(仲
仕込
唄﹀
ハl
ヨイワサ
孟宗なんぞと
(三
転揚
唄﹀
品よくとま
r、
'‑/
全
(留
仕込
唄)
f、町
'‑/
全
︿仕
舞唄
﹀
r
、
¥ーノ
全
音頭とりの唄に合わせて石を持ち上げては
おろし︑
おろしながら突きかためたが
︑
その唄がここにいう胴突唄であった
︒
即興的なものもかなり多かった
︒
音頭とりは
︑
大きな家の胴突の場合
︑
よそから頼んできた
︒井戸
ほりの時に組むような櫓を組み
︑そこに坐
って
音頭をとると
︑
下の音頭かェしたちがヨ!イドンナヨイドンナとひっぱったが
︑
拍子が合わないと固まらないと
いわ
れた
︒ 色の子石にはシメナワをはりお神酒を注いだ
︒
ヘ
ハア
ヨlイサァハノヨlイドンナヨイドンナヨイドンナハァヨイドンナヨイドンナ
かめのこァぶらずくァどんとやれ
ハ音
頭と
り﹀
ヨlイドンナ(縄ひっぱり)ヨイドンナヨ1イドンナヨイドンナ
へ
はァ
おやじァいだがど窓がら見れば
親父ァ横座で縄なてだヨ
アラララド
ッコ
イ
アララドッコイヨI
イドッコlナ
べ
あねこある家さ
婆のよぐでなしァ
チョイ
お婆さんが毒だ
戸こしめだ ヤ サ
エlγエlyヤlyサlノドッコイショ アラアラドッコイ
アラアラドッコイ
ヨlイ
ドッコlナ 民 謡
四 南 部 馬 方 節 第四章
七戸地方で﹁馬方
﹂といったのは﹁
馬方節
﹂
のことであったが
︑
こ れ に 三 下 り 調 の 三 味 線 を つ け た お 座 敷 唄
﹁南部馬方三下り﹂
南部の地に馬を求めに来た馬喰達が沢山の馬をひいて晩秋の奥州街道の夜道
であ
った
︒ が
俗
を七戸・三木本・
五戸
・三戸と上って行った︒そんな道中で馬喰達の口にしたのが﹁馬方節﹂で︑馬喰達の豪勢
ぶりと悲哀さがにじみ出ている︒
がつくが︑踊手は一人 ︑
二人
︑
べ朝の出がけに山々見れば
べ一夜五両でも馬方嫌だ
べ馬もよい馬馬方もよい ﹁三下り﹂の方は歌詞は同じであるが ︑
五人位とさまざまである ︒
霧のかからぬ山もない
馬の手綱で日を暮す
つけたつづらのなりもよい
べおらもなりたい馬喰殿のかがに何時も芦毛の駒に乗る
べ今宵一夜で峠を越せば
へかがよ今来た味噌米あるな さぞや妻子は待ちかねる
味噌米どころか水(塩﹀もない
べ染めて着せたい馬喰さんのゆかた肩に鹿毛駒裾栗毛
べつらいものだよ馬喰の夜びき
へつらいものだよ馬喰の夜道
べ長い道中馬喰はつらい
べ七つ八つ引く親方よりも
ぺひとり淋しゃ馬喰の夜びき 七日七夜の長手綱
鳴るはくつわの音ばかり
雨降り続けばなおつらい
一つ
手
引のわしは好き
鳴るはくつわの音ばかり 節が全く違い ︑三味と太鼓の伴奏で踊
五 南 部 牛 方 節
江戸時代︑南部藩で尾去沢の銅を御用銅として上方に送るためには牛の背を借りなければならなかった︒牛方
達は尾去沢鉱山から大湯ヘ出て来満峠を越え︑三戸・五戸・三本木・七戸を通って野辺地に至り ︑それを船に積
んだ︒奥羽種畜牧場のあたりをベゴタイと呼んだのも︑その頃ここで牛方達が疲れをいやしたからであるといわ
れる
・五戸地方をはじめ松木宏泰によれば﹁南部牛方節﹂は牛方達が道中の慰めにうたった唄で三戸南部領︑︑︑ ︒
一帯で歌われていたという︒当地方では﹁馬方節﹂にくらベ︑余り歌われなかったように思われる︒
ヘ牛ょっらかろ今一辛抱よ辛抱する木に金がなる
べ田舎なれども南部の国は西も東も金の山
ぺ金のベゴ
コに
錦の手綱
おらも引きたい引かせたい
べ肥えたベゴコに曲木の鞍こ金のなる木を横ちょにつけて
ぺここはどこよと尋ねて聞けばここは三戸黄金橋
諮
ぺ黄金橋とは話に聞いた見るも渡るも今はじめ
民 第四章
ー戸.̲
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苛i
追 分 南
追分節の追分は長野県北佐久郡軽井沢町あたりの追分の宿のこと追分というのは道の分岐点のことであるが ︑
である︒この地の馬子唄を﹁追分節﹂と呼んだが︑この馬子唄が座敷唄としてうたわれるようになって﹁信濃追
分﹂を生み︑やがて白木海を北上して各地に新たな曲調を育て︑
﹁越
後追
分﹂
︑
﹁新
庄追
分﹂
︑
﹁酒
田追
分﹂
︑
民
﹁津
軽追
分﹂
︑
﹁南
部追
分﹂
︑
﹁松
前追
分
﹂となり︑
﹁江 差
追分﹂と発展したといわれる︒
松木宏泰
﹃みちのく民謡ばなし﹄によれば︑﹁津軽追分
﹂が﹁江差追分﹂
に追随した民謡とも思われるが
︑
﹁南 部追 分﹂ は一
︒信 濃追 分﹂
の面影を伝えているという︒
当地方では以前︑
前唄
・木唄・送り唄のそろった﹁正調江差追分﹂をうたう人もあったが︑今では殆ど聞かれ
工ノ¥工っこし︑T︿
7 7
1 L
南部追分にしても民謡大会などでうたわれるぐらいになってしまった︒﹁南部追分﹂はどうした
ことか本唄ばかりであった︒
べ西は追分東は関所関所番所でままならぬ
べおしょろ高島およびもないがせめて歌棄磯谷まで
ぺ大島
小島のあいとる船は江差がよいかなつかしゃ
べ国をはなれて蝦夷地が島へいく夜ねざめの波枕
ぺ朝な夕なに聞ゆるものは友呼ぶ鴎と
波の音 七
南 部 あ
いや節
あいや節は津軽でも津軽あいや節の名で今もって盛んに唄われてい
るが
︑南部あいや節も﹁あゃぶし﹂
の名で
当地方でも好んで歌われた︒
山形県では﹁はいや節﹂と呼ばれた︒これ
﹁あいや節﹂もまた東北各地に分布し︑
も長崎や鹿児島で歌われた﹁はいや節﹂が
︑日本海に沿って北上したものといわれる︒
﹁南部あいや節﹂は時々民謡大会で披露され︑
手踊をともなうことが多いが
︑
松木宏泰によれば
︑
﹁津
軽あ
い
や節﹂より節まわしが素朴であるという︒
十和田市芸能保存会ではこの唄を
︑﹁佐渡おけさ調に似通い胸がすく
ような節で踊がつき
︑
南部地方を代表する民謡の一つ﹂といっているが
︑
七 戸 町 の 仁 和 き く ょ に よ れ ば
﹁ お け
々C
﹂ ト
ιh
ノ︑はるかに複雑で︑踊は二人の組踊であった︒
ヘ ア イ ヤ エ
l
ちょいと出た煙草の煙
ヤレ
ハ
l
うすくなる 次第々々に オ イ ヤ ハ
! へあいの山にはおしげにお玉
おしげ三味ひくヤレ玉踊る ぺ鮎は瀬につく鳥
ァ木にとまる
わたしゃお前のきにとまる へいくら通ても青山紅葉
色のつくまで待たしゃんせ
( 註 ﹀
なお三番目の後半を﹁人の情はヤレ
﹃みちのく民謡ばなし﹄
‑ f
﹂+ ι
︑︑
Hu
‑‑
ιM V
﹁お杉﹂と出ている︒﹁おしげ﹂は
身にとまる﹂ともいった︒
‑謡 民
部 甚 句 八 南 第四章
﹁塩釜甚句﹂が移入されたものであるが︑
当地方では
︑
専ら﹁塩釜﹂とか
︑
﹁八戸甚句
﹂ともいわれ
︑
﹁浜
の
町﹂
といった︒主に酒席用の唄としてうたわれたが
︑比較的新しい唄といえる︒
べ浜の町から塩釜見ればお客もてなす茶屋のかが
べ門に立てたる祝の松はかかる白雲皆黄金
べさーさ出た出た三日月様よ暮にちらりと見たばかり
べ小夜の中山日暮れに通れば霧のかからぬ山はない
べ新地袈町夜明けに通れば太鼓つづみで夜が明ける
べ沖の鴎が嫁とる時はいわし姶にさばのすし
べ花の八戸十和田の紅葉
鮫でかぶ島かもめ飛ぶ
九 南 部 荷 方 節
この唄もよく民謡大会にうたわれる唄であるが︑
一ガ
ダと
いっ
た︒
﹁新潟節﹂の義と解釈当地方では一般に︑
されるが︑歌詞の中にも頻繁に﹁新潟﹂なる語が出てくる︒しかし一方には﹁荷方﹂すなわち船頭衆が南部地方
に伝えたものでないかという説もある︒踊もつき ︑
﹁南
部馬
方
三下り﹂とともに ︑
南 部 を 代 表 す る 唄 と い わ れ る
﹁荷方節﹂は一般には︑江戸時代越後地方でうたわれた﹁松坂﹂という祝い唄の流れといわれる︒第五番目
の唄の下の句は﹁
四方の隅から金が湧く﹂とか
﹁酒が湧く﹂とも歌った︒
べかさをかた手にいとまを願いかさねがさねのいとま乞い
べかさを忘れた十和田の茶屋に雨の降るたび思い出す
ヘにがた出てからまだ帯ァとけぬ帯はとけぬに気はとける
ぺにがた出てから昨日今日で七日七日なれどもまだ出て会わぬ
ぺ目出た目出たのこの屋の座敷
前に鶴亀舞いあそぶ
。
白 銀 こ ろ ば し
七
O
歳の人であれば歌った経験をもっているようである︒﹁白 銀
ころし﹂ともいい︑江戸時代入戸市白銀の女
いさばやたちが ︑小中野や鮫の遊廓などに魚を売りに行った帰り︑
後座敷唄となったものといわれる︒
元唄は﹁新潟節﹂であるというが︑ 篭を肩にかつぎながらうたったのが始まりで
八戸地方の盆踊唄は昭和の中頃まで ︑専らこの﹁白銀ころばし﹂と﹁おし
まこ﹂であったといわれる︒当地方でもカマドカェシなどとよび︑
うで
ある
︒
ぺおばばどごさ行げァ二升樽下げで嫁の在所に孫抱ぎに
諮
ぺおらも行きたいあの山こえて娘ァ来たかといわれたい
民
ヘ鮫で呑む茶は渋茶もうまい鮫は水柄所がら
第四章
べ鮫の蕪島まわれば一旦鴎しぶしぶ日が暮れる
ぺ白銀そだちで色こそ黒い
味は大和のつるし柿
昭和初期の頃まで酒盛唄としてうたわれたよ
来たがちょーさん待ってだね