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9 臣

ドキュメント内 七戸町 町史 1巻 民族 (ページ 40-79)

から 一

OO

年位前には塚のそばに小柄があったが︑今は山脚の大石のところに移し磐長姫として尊崇している ︒

(和

田四

郎﹀

また

︑巨石の基部に神社があって︑﹁婆恋石大明神﹂という旗(のぼり﹀が置かれであるところを見れば

︑と

こを管理している西野の人たちは明神様として信仰をしていると思われる︒

(福田正一郎)

﹃七戸郷土誌﹄草稿には︑上記の伝説を紹介した後 ︑﹁

・ 霊

験余りに新たであったので︑衆庶陛れ戦いた︒宝暦

中瑞竜寺十三世悟山和尚が夢想によって法薙陀山と称号を与え ︑西野村幸四郎に守護せしむることとした﹂と記

して

おり

﹁杜の縁起詳かなら .されども同社奉懸の鰐口は古くして銘不詳︒社はもと森の七戸史蹟調査会では︑

頂上墓爆の側にありしを ︑

約 一

OO

年前に現在の所に移遷したりと ︑里人パッコの社として尊崇す ︒基巌のある

所を神域として入地せしめざりしと古老相伝﹂と唱えてきた︒

小田子不動の石

段々を上りつめると境内の右手小柄の中に杷られている︒珪化木であるが︑願かけ石といわれ︑祈願者はお不

動様に願をかけ ︑この石にもお神酒を供えて拝んだあと持ち上げた ︒諸願の叶う時は軽く持ち上がり

︑叶

わない

時は持ち上がらないとされてきた ︒

塚に関するもの

七戸城祉の一隅に姫塚と呼ばれる塚がある︒城の西北にあたる杉林の中に碑が立っているが

︑これは銘によれ

ば昭和四七年一

O

月三

O

日石田吉六により三

OO

年忌追善供養のために建てられたもののようである︒

この塚については諸説があり

現にいくつかの書にも紹介されているが

その概要を‑記せば

昔この城に住ん でいた殿様に美貌の姫があったが

道ならぬ恋におち殿様の怒に触れてある夜ひそかに城を追われ

一 毅

門を出る

所で家臣に斬られ

︑相手の下賎の男も斬罪の刑に処せられたといわれる︒

雨の夜など杉の木立の間に美しい振袖

姿の幽霊が出るといっておそれられた︒

これに対し姫ではなく殿様の穏をうけた美しい腰元が業病にかかったの

を斬られて埋めたとか ︑姫が業病にかかった為とかいう話もあり︑

塚の呼び方も

姫ケ塚

・鍋塚などとも呼んで

きた

以前はここに塚が二つ並び杉の古木が聾えていた︒現在その根っこのあとが微かに見えるが ︒

塚の形はこつと

もそれとはっきり確認出来る︒

このことから推察すれば非業の最後を遂げた二人は

温かい計らいを受けて二つ並べて埋葬されたのではなか 民話伝説

ろう

か︒

同 ジ ョ

! ネ ン 塚 大林川の坂を南に向って上り切ったあたりに川去に通ずる細い旧道があり

ちょうどその中間地点の左手の丘 第一章

同じ名で呼ぶ塚はここだけでなく

方々

に堂があった︒ジョiネン塚と呼んだのは行人塚の靴であったようで︑

にあ

った

戸館正四郎によれば︑石田吾平の次男が神信心をし︑

人の墓に土を夜いかけたものという︒

むし歯をなおしてくれるといわれ︑ いわゆる行人となって修業を続けたが ︑ここの塚はその

いり豆を年の数だけ供えて祈願した︒必らず本人が直接願に行かなければ

ならないといわれ︑子どもらはおぶさって出かけた︒戸第の手代達もよく出かけたという︒

動物に関するもの

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見町観音堂の﹁おほっこ田﹂

七戸の見町観音堂の別当の家の前に﹁おぼつこ田﹂と呼ばれる田がある︒

くるための稲を植える田の怠であり︑

に似ていることに由来する語である︒

さて

︑ ﹁おぼつこ田﹂とは ︑お供え餅をつ

この地方のおそなえ餅の形が三段で︑その形が嬰児すなわち﹁おぼつこ﹂

旧暦七月九日は︑同堂の宵宮の日であるが︑この日夜半になると ︑きまってお堂のかみ手から馬のいな

なく声がこの田に近づいてくる︒

翌朝みると︑その﹁おぼつこ田﹂の稲は︑

‑ o

h v

+ しかし不思議なことに ︑

この

それで村人の聞には︑ た ︒ いろいろな形に食いあらされておりその形は年によって異なって ︑

﹁おぼつこ田﹂の稲はどんなに食いあらされても秩になると大へんよく突っ

﹁お

ぼつ

こ田

﹂の稲の食われ工合によって ︑お祭当その秋の豊凶を占う風習が生まれ ︑

日の 一

O

日には︑

沢山の農民が近郷から集まり︑観音堂に参詣した後

︑﹁おぼつこ田﹂を見て︑

稲がすっかり食

いあらされていれば ︑豊作だといって喜んだというロ

ところがある年の七月九日の夜のこと

別家のおんちゃま(次男)が

小用のため外に出たところ

お堂の後 の山の方から馬が下りてきて ︑﹁おぼつこ田﹂に入ろうとしているのが見えた︒

こ れ は 大 変 だ おんちゃまは

と ︑

思わず足下の石を拾って馬に投げつけたところ

︑カタンという音がして馬の姿は見えなくなってしまった︒

翌朝起きてみたところ

︑﹁おぼつこ田﹂

の稲は全然食われていなかった︒観音堂にお参りしてみると

︑不思議

なことに ︑

絵かき観音という絵馬師の描いた絵馬がまっ二つに割れていた︒村人はそれではじめて

︑この絵馬の

馬が抜け出して﹁おぼつこ田﹂の稲を食い

︑豊凶を示してくれていたことを知った︒

今まで誰もその馬の姿を見た者がなかったので

︑おんちゃまも︑

まさかその晩の馬が絵馬から抜け出た神馬だ とは気がつかなかったのである︒そしてその後

馬が下りてきて﹁おぼつこ田﹂の稲を食うこともなくなり

し たがって︑その食われ方によって豊凶を占うという風習も無くなったという︒︿盛田稔著﹃南部小絵馬﹄) 民話伝説

に)

話 狐

五戸にかけて多くの狐が蚊屋していたと見え

当地方を通過した多くの文人墨客によって 当地方から三本木

早くから全国に紹介されてきた︒

第一章

そ の

菅江其滋遊覧記﹃いはてのやま﹄

の寛政八年(一七九六)七月五日の条に

その名を樹木といふ︒そのしりなる鶴の子平といふところあり 七戸といふ里にいたる︒西にいなきあり

て︑きさらぎ斗 ︑

のこんの雪のやや氷たるをふみて山に雪舟ひき ︑春木こるとてわけ行 ︑そのかへさは ︑そ

りひき捨て︑ももあまりの人むれ立休らふに ︑春風いささかもなう長閑なれば︑

夕日さしかげろふをりし

も︑三本樹平のあたりに ︑人のたけよりはいと高う︑ふたつらに立て︑幡ある

鉾などの見えたることもあ

り︒これを狐の柵をふるといふ︒きつねは人のかげをかりで︑

かく

戯れ

遊ぶ

ことしも五度見きなど里人の

語るは︑山

市てふものにや︒

とあるのは︑古くから H狐ァサグフルHという伝承をそのまま‑記録したもので︑季節・時間帯などまで明記して

いるのはさすがといえ

る ︒

その

次に伴奮践の

﹃間田耕筆﹄には

南部七戸に六里四方許の野あり︒それに年々の二月の末に狐隊といふこと有︒其辺の人は酒筒など携へて

見に行︒凡そ空薄曇たる日なり︒強め窺ふに狐共出て飛ありくさまあれば必其日にて︑初に二三十の狐出た

るを人々高声に褒れば頓て城廓の形顕はる︒是は二丁許の彼方に見ゆ︒さて甲胃を帯び馬にまたがりて ︑陣

立をなす︒凡二百許に見ゆ︒又地方よりしきりに声をかくる程にやがて諸侯の行列をなすこと再び︒

一度

松前侯の行粧 ︑一度は津軽侯のさまをまねぶなり︒彼陣立城郭などは厨川の戦の昔をまねぶ歎︒此野の狐は

これらの事より外に見知ることなければなりといへり︒唯此方の見る人多くて声をかくるもしげければ︑

しこの人数も多く花々しく見え ︑人の声も少なければさびしとなん ︒

と紹介されている︒真澄より一段詳細にわたるということが出来よう ︒ただこれを狐隊と呼ぶことについては ︑

我々は知らないところであった︒

そ の

= 一 文政の頃出た南部の俳書﹃俳諾たねいち山

という書の二月の部には

狐隊︑

南部五戸

・七戸あたりの山野又は奥海の中に屡気楼のごときものたちて

説に狐の行為とて狐たいといふと新季三月の部に出せり

人馬の音あり

それを俗 左にあらず

狐隊は南部七戸の広原にて正月末よ り二月中里民春木山に登る

此時雪斑にして腕々たる日原野のうち山海の形をなす

船をうかめ浪の音ほの かに聞え旗馬印ほのめきあらわれ大かたは船軍のありさまにして八嶋合戦の趣也

部俗是を狐隊といふそれ ゆヘ言停ヘけるは年経る野狐神の所為にやと新季寄に海辺の鍾気楼らしくと類ひ

せしは誤りなり︑

とい

って

一般にいわれて来た巌気楼説をしりぞけている︒

然し故老の話を総合して見ると

屡気楼説を排撃す ることは妥当でないようである︒というのはそれらの影が践騰としているということ

所見ぬ故 近づけば後退するという

こと

︒春木きりの時節という空気の密度の変

化の考えられる時期であるなどの点からである

︒閣の芦などについ 民話伝説

ては

屡気楼では説明のしょうもなくなる︒

この種の話は原野のあ

った各地に伝えられていた

ようであるが︑

先に‑記したH柵ふるμHυHυ

のこ

で農耕の仕ぐさをもして見せたということからおこったものでないかと思われるが

第一章 八嶋の合戦の模様を展開させたといわれる

当地方の場合多くは源平 岡村佐太郎によれば字倉岡の上にヤマコシロといって三浦山位の高さの山があるというが

︑そこに狐が集って

ドキュメント内 七戸町 町史 1巻 民族 (ページ 40-79)

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