.f:J降
、
e•
1胸~.
写 真2 イフ・フレ 絵図(録影ー西川幸治)
ている。また各ホローロルにはハルーン・オス(熱 い水という意味)と呼ばれる公共の浴場が設けられ ているが、現在機能していないところが多いという。
モンゴルでは現在のところまだ土地の私有は認め られておらず、ゲル居住区においても市から区画の 使用権を与えられた住民が自らの経済力に応じてハ シャーやゲル、パイシンなどを建設し、それらにつ いての所有権を持つという形態をとっている。その ため、行政から何らかの理由でその区画からの立ち 退きを要求されれば否応なく移動しなければならず、
どうしても住居が仮設的で安普請なものとなり居住 環境の質が向上しないという傾向がある。そこで 1990年の民主化以後、土地の私有化を認める議論が 起こっているがまだ決着はしていない。また現在世 界銀行の援助によるウランパートルのゲル居住区の 居住環境改善のためのプロジェクトが進行中で、上 水道の整備や洪水対策用の排水溝の建設のための調 査、計画がおこなわれており、その他モンゴル通産 省によってゲル居住区に電話線を設置する計画も進 行中である。
‑ゲル居住区とフレー
ゲル居住区の形成過程を考える上で参考になるの が、 1912年にジュグデルによって描かれたイフ・フ レーの絵図である(写真2)九イフ ・フレーとは革 命以前のウランパートルの呼称であるが、この絵図 を見ると、そこにはシャラ・オルドンと呼ばれた中 央政庁を中心とした円形状の街とガンダン寺を中心 とした少々いびつではあるがやはり円形状の街との 二つが核となり、その二つの街の聞や巾央政庁の南 側、さらには山あいにまで街が広がり、トーラ川の
南岸には活仏の宮殿が建っているという当時のウラ ンパートルの様子が細かく描かれている。
ここで注目したいのは街を構成している建築群の 形態である。 一部の街、特に中央政庁を中心とした 円形状の街の西側に南北に長く広がる街では、巾国 の四合院住居を思わせる中庭状のオープンスペース を持った建物が整然と建ち並んでいる様子がうかが える。またそれ以外の大半の部分、特に前述した二 つの円形状の街では全域が、まったく同じタイプの 建築群によって構成されていることが見て取れる。
それらはラマ僧の居住区として形成されたのだが、
その形式は、木の板のようなもので四角い塀を巡ら した区画の中に切妻屋根の平屋の建物とゲルとが建 てられ、それが速なって短冊状のブロックを構成し ているというものである。そして敷地内の上側つま り北側の塀に接するように建物(おそらく木造の住 居であろう)が建てられ、その前すなわち南側にゲ ルがあり、南側の柵に出入口を表すと思われる扉の ようなものがある。この配置パターンも、ほとんど の区画でまったく同じである。
現在のゲル居住区はラマ僧の居住区ではないが、
各敷地の周囲に塀で巡らせその巾にゲルやパイシン が建てられ、その区画が連続して一つのブロックを 形成しているという点では基本的にこのフレーの絵 図に画かれた街区と同じ構成をしている。全体が円 形となるような配置にはなっていないが、それは現 在のゲル居住区がラマ僧の居住区ではなく、またウ ランパートルに流入する人口に対する近代的な集合 住宅の建設が間に合わないために都市周辺部に形成 されてきたという事情によるものであり、居住区の 構成や集合形態はすでに近代以前の伝統的なフレー
において形成されていたものが受け継がれていると 見ることができる。
ウランパートル以外にも同じような例がある。フ ブスグル県の県庁所在地であるムルンの民族歴史│専 物館には、イフ ・フレーの絵図と同様革命前のムル ンの街を描いたムルン ・フレーの絵図がある (写真 3 )。絵図自体はバヤンオチルという画家によって 1942年に描かれた比較的新しいものだが、ラマ僧達 から聞いた街の様子に関するさまざまな話を総合し て往事のムルン・プレーを再現したものであるとい う。この絵図にもイフ ・フレーの絵図同様、中央に 寺院群がありややいびつではあるが全体としては円 形状をした街全体の様子が画かれている。そしてこ こで見られるラマ僧の住居もイフ ・フレ一同様、塀 を巡らせた巾に切妻屋根の建物とゲルとが建つもの で、やはり同じように短冊状の街区を形成している。
一方写真4は現在のムルンの街を上空から見たもの であるが、整然と区画割りされた街の構成がよく見 て取れる。塀で固まれた一つ一つの区画が短冊状の 街区を形成しそれが平行に並んでいくという構成は、
ムルン・プレーの絵図に画かれた街区とほとんど同
写真3 ムルン・フレー絵図
写真4 ムルン市街地
じ形態をとっている。これなどはまさにフレーの街 区構成をそのまま継承していると言っていいだろう。
このようにイフ・フレーやムルン ・フレーの絵図 からわかるのは、モンゴルでは都市での集住におい て伝統的に敷地の周囲を塀で囲んだ区画が連続して 街区を形成するという形態がとられてきたというこ とであり、それが現在のゲル居住区の構成に受け継 がれていると考えられるのである。
‑ゲル居住区におけるゲル
ウランパートル、チンゲルテイ区のゲル居住区に あるツェレン夕、ワ邸(チンゲルテイ ・ドゥーレグ、
17番ホ口一、 5番ヘセグ、 341番地10)の敷地にはゲ ルとパイシンの両方が建つ(図4)。ゲル居住区の中 では敷地の規模や建物、ゲルのタイプなどの点で平 均的な区画であると言っていい。ここには2家族が 居住し、 69世帯からなるこのヘセグの長を務めてい るツェレンダワ氏とその妻がゲルに住み、パイシン には夫婦の親戚家族が2棟に分かれて住んでいる。 ハシャーの形態は東側の一辺がやや短い台形状で、
面積は約870
n i
ある。通りに面する西側の柵には住 人用の扉と車の出入りできる大きな扉の二つの出入 口 が 設 け ら れ 、 住 人 用 の 入 口 の 横 に は タ バ コ 、 ジュース、飴などを売る小さな売庖がつくられてい る。敷地内には北側の柵に沿って大小2棟のパイシ ンおよび、物置小尾が、敷地の中央よりやや北東の位 置にゲルが建てられ、ゲルの入口の前には冬用の フェルトなどを保管しておく小さな物置がある。そ してハシャー南東の角にはトイレが2つ設置されて いる。南側の柵沿いには燃料用の石炭貯蔵庫がつく られ、その西側はジャガイモ畑と家畜の牛小屋に なっており、牛に荒らされないよう畑の周囲には柵 が巡らせである。また隣家との境である南側の柵は ジャガイモ畑の部分だけ針金でつくられているが、これは畑に日光が当たるようにするためであろう。
牛小屋の上は牛糞の乾燥場となっており、乾燥した ものは燃料としてジャガイモ畑の隅につくられた柵 のなかに蓄えられる。その他パイシンの脇と、東側 の柵沿い、また南側の柵沿いのトイレと石炭庫の聞 には薪用の木材が積み上げられ、 2つの入口の聞に は犬小尾があり番犬がつながれている。
ハシャーの構成の特徴としては、住居であるゲル およびパイシンが敷地の北側部分に建ち南側がオー プンになっていることが挙げられる。この一帯はほ ぼ東南東から西北西に走る谷筋に沿った両側の緩や
人間文化・ 75
現代モンゴルの住空間
間 窪 寺
l
卓 t l
町 、、
リ
︐ー
勺'砂
木造パイシン
⑨
図4 ツ工レンダワ邸ハシャー配置図 かな斜面上にゲル居住区が帯状に広がり(写真5、)
ツェレンダワ邸はその北側の斜面に位置しているの だが、同じ側にあるほとんどのハシャーで同様に住 居を北側に寄せて南側をオープンにするという構成 がとられている。特にパイシンは北側の柵にひ。った りと沿うように配置されている例が多く、ツェレン ダワ邸でもパイシンはそのように建てられている。
これは南側を広く開放することで多くの日照が得ら れるということと、北側の柵に接して住居を建てる ことで北からの風が直接住居に吹きつけるのを避け るという意味があると考えられる。これは、谷筋の
写真5 チンゲルテイ区のゲル居住区
反対側すなわち北を向いた斜面にはハシャーが少な いこと、またそこでは敷地の西側(より正確には北 西側)の柵に接して多くのバイシンが建てられてい るという事実からも推察することができる。北を向 いた斜面では午後の日照があまり得られないことか ら、午前中の日照が効率よく得られ同時に北からの 風の侵入も防げるようにバイシンが配置されている のである。草原のゲルでは、北あるいは北西の風に 対する防御のために入口は伝統的に南から南東側に 向けられるのが一般的である。ツェレンダワ邸でも ゲルの入口は南東に向けられている。またパイシン の南側にゲルを建てているのはゲルに吹きつける北 風を弱めるための配慮、と言え、こうした例は他のハ シャーでも見ることができる。前述したフレーの絵 図においても同じように区画の北側に木造住居が建 ちその南にゲルがある様子が見られ、このような配 置がフレーにおいてすでに一般的であったことが分 かる。このように、草原の遊牧民のゲルの伝統やフ レーにおける伝統が現在のゲル居住区の立地や建物 の配置などに受け継がれているのである。
次にゲルの特徴を見ていきたい(p.89図4)。ツエ レンダワ邸のゲルは側壁のハナの数が5枚、尾根の オニの数は81;本である。 卜ーノの下にはパガナがな