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4.1 “chance”とHSとの関係

前章では、HSにまつわる疑問とそこで提出された問題点について紹介した。そして、HSに伴う 決定論的世界観、外在主義的傾向、そして、外在的な法則体系によって性質が規定されているよう な印象、を一旦認め、その理由として、「過去の時点の意味変化の可能性」と「過去の時点の性質変 化の可能性」を混同している点を挙げた。本章では、この原因を分析し、HS の主張の正当性を再 確認してゆきたい。

しかし、そもそも「過去時点の意味変化の可能性」と「過去時点の性質変化の可能性」とは全く 別ものであり、これだけを見比べる限りにおいては、これら両者を混同することなど普通はありえ ないように感じられるだろう。「意味」は文脈によってさまざま変化しうるので、その多様性の根拠 は外在的であるが、「性質」は端的な事実であって、さまざまな文脈による「性質の意味付け」は変 化することはあっても、「性質」そのものは変化することはないように思われる。両者の混同は、「性 質」自身の意義が弱められ、「性質の意味」に転化していることを理由としているのであろうが、で は、なぜ「性質」自身の意義が弱められたのであろうか。その手がかりは、“chance”性質に関する ルイスの分析において発見できる36。しかし、まずは“chance”についてのヒューム自身の分析を 見てみよう。

「偶然性とは、それ自体としては実在的な何ものでもなく、適切にいうならば、単に原因の否定 にすぎないので、それの精神への影響は、因果関係のそれとは反対であり、偶然性に本質的なこと は、偶然的と見なされた対象の、存在と非存在のいずれかを考えるかについて、想像力を完全な無 差別(an entire indifference)の状態に置くということである。(T125)」というように、偶然性に はまず要素としての無差別性が条件として挙げられる。そして、サイコロの例(T125-6、EHU56-7)

のように、偶然性は、質的に同じであるそれぞれの要素が、量的に測定されることによって考慮さ れるものであり、全要素数のうちの特定の要素の量が増減すれば、その特定要素の確率もまた増減 する。つまり、量的単位として各現象(の観念)が考量される。そして、何より重要なのは、サイ

36 “chance”を「可能性」と訳すか、それとも「偶然性」と訳すかについて、私は今でも非常に悩んでいるの であるが、本論考では、ヒュームが用いる“chance”については「偶然性」、ルイスが用いる“chance”につ いて「可能性」と訳した。ルイスは集合論的ツールを用いており、その筋では「可能性」という訳がスタンダ ードであろうが、何故両者を区別しているのかというと、それぞれが“chance”に与える役割が微妙に異なる ように思われるからである。ルイスが“chance”と用いる場合には「~が起きる可能性」「~をする可能性」と いう意味であるのに対し、ヒュームが“chance”と用いる場合には、「起きるかどうかについて不確定な状態」

という意味だからである。つまり、ルイスにおいては量化されたchance命題が示唆されている一方で、ヒュー ムにおいては、漠然とした形で“chance”が用いられている感がある。実際、“chance”を取り扱っているT1・

3・11「chanceに基づく蓋然性(probability)について」というタイトルからしても、“chance”を「偶然性」

と訳すのはヒュームの意図に沿っているように思われる。ただし、HSとルイスの主張に関わる場合には「可能 性」と訳し、その意味内容を「偶然性」と重ね合わせたとしても、とりたてて問題はないように思われる。

コロの例で言えば、「どの特定の事象(出る目)を選ぶかにおいて、そうはさせなくなっている

(undermined in its choice of any particular event, T126)」ということにある。これは何を意味す るかといえば、偶然性成立の要件として、「何が起こるか分からない(知らない)」という感覚、、

が挙 げられるということである。必然性の要件が、「類似」「近接」「恒常的連接」と、さらに「精神の被 決定性」であったように、偶然性の要件は、「無差別」「量的考量」と、「精神の未決定性」といえる であろう。

しかし、だからといって、すべての予測が排除されているというわけではない。偶然性をそこに 見いだすケースでも、過去の出来事発生比率を参考に予想・予測することが可能である。

それゆえ、もし我々の意図が多数の事例における互いに反対の事象の比を考察することであるな らば、我々の過去の経験によって提示されるイメージは、それらの最初の形態、、

のまま存続し、それ らの最初の比を保存するはずである。たとえば、私が長期にわたる観察から、航海に出ていく二十 艘の船のうち十九艘だけが帰還することを見いだしたと仮定しましょう。そして、今私が、出港す る二十艘の船を見ていると仮定しましょう。私は、私の過去の経験を未来に移し、十九艘の船が無 事に帰港し、一艘の船が難破することを表象(想像)します。(T134)

つまり、ここでは「頻度(frequency)」と「規則的結果(sequence)」が偶然性に影響している と考えられる(もちろん、複数回における航海の無差別性と、複数回の航海に用いられる船舶の量 的考量は活きているのだが)。そして、この場合、偶然性は「頻発性」と「規則的結果」を有する諸 事例アレンジメントにスーパーヴィーンしていると言ってよいであろう。これまでの経験において、

常に20隻中19隻が帰還したとしよう。それ以外の条件が何も変化しておらず、いかなる追加情報 も与えられていない場合、次の航海において、20隻中19隻が帰還するのではなく、異なる数の船 舶が帰還する合理的判断というものが考えられるであろうか。おそらくはないであろう。では、こ れまでの航海のいずれかの試行において、「20隻中19隻ではない船舶が帰還する」と考える理由は どうであろうか。そのように考える積極的理由もまた、ないように思われる。これらの事例内部に おいて思考を限定する限りでは、シークエンスと頻度によって得られる信頼度(credence)が、そ のまま偶然性の度合い、すなわち「可能性」として位置付けられてもよい。そして、この場合、そ の航海の条件に(そして、それを含む「世界」すべても同時に)変化がない以上は、20隻中19隻 が帰還するという偶然性(この場合は、「可能性」と呼ぼう)は、主観主義的な信頼度(subjective

credence)であると同時に、客観的な可能性(objective chance)でもある。この主張は、HSに沿

ったものとして理解されてよいであろう37

37 David Lewis,“A Subjectivist’s Guide to Objective Chance”in Philosophical Paper volⅡ(New York, Oxford, Oxford UP, 1986)において、これは主要なテーマでもある。

4.2 “chance”と“credence”

ルイスは、信頼度と可能性(おそらく意味的には「蓋然性」と等しい)とを示す関係性を「主要 原理(The Principal Principe:以下PP)」として明示し、それがHSの原理であると主張する。PP とは、簡単に紹介すれば以下のとおりである。

C:合理的な当初の信頼度 t:或る時間

x:単位としての時間的インターバルにおける実際の数値

X:「tにおいて、Aが成立している可能性(命題Aのその時点での可能性)はxに等しい」という 命題

E:tにおいて許容可能な(admissible)Xと両立可能な何らかの命題(証拠命題。tにおいて受け 入れられている情報)

そのとき PP:C(A/XE)=x 38

ここまではよいであろう。そしてヒューム主義者(としてのルイス)にとって、x は客観的可能 性を示すものであるので、PPの右辺xは、命題Aが成立する蓋然性数値として考えられる。そこ で、

C(A/XE)=P(A)

と置くことができる。さて、Xという命題は、そもそも時点tまでに積み重なった証拠Eに矛盾 するものではないし、時点tまでに与えられた Eの内部で形成されているものであるので、C(A

/E)=P(A)と簡略化することができる。この場合、困った事態が生じる。そもそも、EとAは 別ものであるので、Eが条件付けられている場合にAが成立している可能性が0である場合とそう でない場合がある。この場合、P(A)の客観性はもはや主体の信頼度とは独立的なものとして位置 付けられるため、客観主義的なヒューム解釈は破綻しかねない。さきほどの航海後に帰還する船舶 の例で考えてみよう。

さきほど、私は、それまでの航海の条件が変化しない以上は、次の航海で20隻中19隻でない、、、

船 舶数が帰還すると予想するのは合理的ではないと述べた。そこで、次のような反論があるだろう。

「いや、20隻中19隻しか帰還しないという事態がそもそも異常であって、それは何回か続いたか

38 Ibid., p.87

もしれないが、そもそもそれはたまたま(悪い偶然)であって、次の航海は、いやそれどころか、

これ(時点t)までの航海においても「20隻中20隻が帰還する(命題A)」と考えるのも合理的と いえるでしょう」という反論である。この類の反論は、事例外部の情報・信念を用いると同時に過 去の頻発性を軽視している点で、ただちに合理的なものであると認定するには難しいが、或る程度 の説得力はある。というのも、ルイス自身が認めるように、頻度とシークエンスそのものが可能性 であるわけではないからである。与えられた証拠としてのシークエンスは、たしかにまさにその状 況内部において偶然性観念を主観に与えるものであるが、その偶然性が示す可能性の正当性を保証 するものは、包括的な説明方法である。つまり、それまで浮かび上がってこなかった命題の正当性 を判断するには、それまでの観察事例のシークエンスから導出された偶然性をも包括するような、

反事実条件的シークエンスと、それを与える発生頻度を想定し、それらを組み込んだ包括的な説明 理論があると考えれば、C(A/XE)=P(A)の関係は維持できるようにも思われる。

この場合、Xを、Aが成立することを許容するようなその世界wにおける理論Twに置き換え、

それまでの歴史から可能性への拡がりを許容する完全な理論とする。そして、Eを、時点tまでに その世界において与えられている完全な歴史とする。P(A)は、その世界wにおける時点tまでに 命題Aが成立している蓋然性Ptw(A)その場合、リフォームされたPPは以下のとおりになる。

C(A/HtwTw)=Ptw(A) サブスクリプトを省略した形で→C(A/HT)=P(A)39

ここで命題Aが、未来命題Fである場合、右辺が0の場合と0でない場合との分離しないような Tとはどのようなものであるのかを考えてみよう。船舶の例で考えれば、C(次の航海で船舶が20 隻帰還する/これまでは常に20隻中19隻が帰還∩T)=P(次の航海で20隻中19隻が帰還する)、 となるだろう。もし、この右辺の蓋然性は、左辺のTによって変化するとするならば、蓋然性Pは 客観性を喪失してしまう。それゆえ、ルイスのプロジェクトにおいて、T が可能世界における反事 実条件、そして未来における未経験の事象をもうまく説明できるものであることが必要とされる。

つまり、世界wでの時点tまでにおける条件とは異なるような反事実的条件と、それによって得ら れる蓋然性の度合いをうまく説明するような理論として、T が「ある」と言わねばならないであろ う。しかしTとはいかなるものなのであるのか?

4.3 現在の可能性は、未来によって決定されているのか?

T とは、結局のところ、現実において認識されているような可能性を超越した事象についてうま

39 ibid., pp.96-7。HTは判断者にとってのEから得られると考えれば、より簡潔に、C(A/E)=P(A)と

できる。実際、‘Humean Supervenience Debugged’inMind,Vol.103.412 Oxford U.P (1994)でルイスはその ように簡略化したものを用いている。