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8.1 快と利益、欲求と善との関係性

ここでは情念論から道徳論への移行において、ヒュームの道徳感情論をどのように解釈すれば適 切であるのかを考えてゆきたい。そのためには、再度、情念論における快・不快の印象と善との関 係性を明確にしておく必要があるだろう。快の印象が、自然的徳、人為的徳、これらに関連した賞 賛や非難と関わり、それゆえ快=善であることを主張するような語り方は、例えば、ヒュームの情 念論の以下の箇所(T2・1・7)において見いだすことができる。

我々に利益または存在をもたらす傾向のある一切の情念や性格は〔人々が言うには〕歓喜または 不快をうみ、そしてこれから賞賛または非難が起こるのである。(T295)

これは、道徳的判断が利害もしくは教育を基礎とするケース、すなわち人為的徳と関連するケー スについての説明である。その一方、道徳的判断が自然的資質をそのまま基礎とするケース、すな わち、自然的徳と関連するケースについて、以下のように語る。

或る性格を賞賛するとは、その性格が現れたとき、原初的歓喜を感じることである。また、或る 性格を非難するとは、不快を感受することである。このように、快または苦は、徳または悪徳の根 本的原因(primary causes)である。(T296)

つまり、自然的徳であろうと人為的徳であろうと、そこに快や不快の印象がなければ情念が生じ ることも、そして、道徳的区別がなされることもないということである。この点はヒューム解釈に おいて重要なポイントとされている。とりわけ、個人そして社会にとって有益であるという点から 人為的徳は価値を有する、とする『人間本性論』第三編第二部の議論などを見ると、社会における 各人の利益や有用性と道徳的価値とが、緊密に結びついたものとして論じられているのが分かる。

それゆえ、ここからヒュームの道徳論について、快=善とする功利主義として解釈できるように思 われるかもしれない。また、その他には、ヒュームの正義論を、利己的かつ合理的な存在者によっ て形成された社会契約論として解釈する可能性もある。しかし、こうした解釈の方向性は、ヒュー ムの本来の立場を歪めるものであると同時に、ヒュームの情念論の意義を軽んじるものである。

本章で論じてきたヒュームの情念論のポイントは、「道徳的区別は理性ではなく、情念によるもの であること」の他、「道徳的なものは特殊な快苦であり、それについての情念を形成するには、一般 的観点を条件としていること」であった。道徳的快は個人的な快と比べて特殊なものであることを ヒュームは明言しているが(T471)、「特殊」というのは、快の種類において特殊的ということであ

り、その理由は、通常は多様な快の種類において、各人が一般的なものとして共通的に理解してい るような快だからである。つまり、或る人が実際に欲するところの個別的快が善である必然性はな いが、一般的観点から評価される「善」は、すべての(一般的な)人が欲するところの快であり、

それは必然的に「徳」という名に値するということ、これこそが、ヒュームの情念論において示さ れた特徴であった。

ヒュームを持ち出すようないくつかの議論において、上述した点があまりにも軽視されているが ために、ヒュームの意図を歪めたまま、ヒュームの一部を借用し、「ヒューム主義的」と用いている 感がある。そのような歪んだヒューム主義の主な種類は三つある。一つ目は、欲求される個人的快 を善と定義した上で、その最大化を道徳の目的とする功利主義的なものである。こうした解釈は、

コンベンション内在的な「徳」の性質を軽視する点で誤っているものである。二つ目は、ヒューム の正義論をゲーム理論と関係付け、目的論的合理性を有した諸個人による協調戦略とみなすもので ある。この種のものについては、規範遵守と利益との一致を認める点では正しいものの、利益を支 える「徳」そのものへの意志、そしてそこでの共感の役割に対し無頓着であるという欠点を有する。

これら二つについては、『人間本性論』第三編「道徳について」、とりわけ人為的徳である正義との 関連が深いため、本論文第Ⅲ部で述べることにして、本章では三つ目のものについて指摘・批判し たい。それは、情念をそのまま個人の目的合理性とみなすことによって、ヒュームの情念・道徳論 を欲求の目的論とみなすものである。こうした点が突出した形で現れているのは、ヒュームの動機 付け(motivation)についての間違った理解である。

8.2 「欲求」-「信念」のヒューム主義的動機付けモデル

「行動(behavior)」では「理由(reason)」は問題とならない。というのも、行動とは、身体の 一つの「作用(action)」であり、それについて「何故」と問いただしても、せいぜい一種の「反応

(reaction)」が確認されるだけである。そこでの行動主体は「意志(will)」や「意図(intention)」 を問題とされることはない。しかし、「行ない(conduct)」や「行為(act)」は身体のアクションで ある点では行動の一様態ではあるが、そこには「理由」が存在する。この場合の「理由」とは、「動 機付けられていること」であり、「動機付けているもの」とは欲求(およびそれに関わる情念)であ る。ヒュームにとって、そしておそらく我々にとっても、理性は推論に関わるものであって動機と はなりえない。つまり、行為へと人を駆り立てるのは理性ではなく情念である。情念がなければ意 志も存在せず、意志がなければ行為への傾向性も、そしてそれが望ましいのかどうかについての判 断も存在しない。つまり、情念ぬきでは価値評価は生じない、というのがヒュームの基本的な立場 である。T2・3・3「意志の影響する動機について」では、行為への傾向性が、理性を根源とするもの ではなく、情念を根源とするものであることが強調的に描かれている。

我々が或る事物から快苦を展望するとき、その結果として嫌悪もしくは性癖を感じて、この不快 もしくは満足を与えようとするものを回避し、もしくは受け止めようという気持ちになる。これは 明らかなことである。また同様に明らかであるのは、上記の感情はそのまま留まることなく、心の 視線をあらゆる方向へと向け、原初的事物と原因と結果の関係によって関連するところの一切の事 物に及ぶ。それゆえ、ここにこの因果関係を発見するため、推論が生じるのである。そして、推論 が様変わりするにつれ、その後に続く行動もまた様変わりするのである。しかし、この場合に明ら かであるのは、衝動は理性から起こるのではなく、ただ理性によって規制されるだけである。快苦 の展望から或る事物に対する嫌悪ないし性癖が起こる。そして、この感情は、理知および経験の指 示するままにその事物の原因と結果の関係に関連する。しかし、もし原因および結果が我々の感情 を喚起しないものであったとすれば、いかなる事物が原因で、いかなる事物が結果であるか、これ を知ることは少しも我々の関心事とはなりえない。・・・このように、理性のみを以ってしては、い かなる行動を産むことも、もしくは、意欲を生起されることも決してできない。(T414)

「理性は情念の奴隷であり、かつただ奴隷でありべきである(T415)」というのは、理性による 推論は、行為遂行に関してただ情念をサポートする役割を担うにすぎないことを示している。すな わち(知性による)信念は欲求を補助するための手段にすぎない、ということである。そこから、

目的への手段として、信念(観念)が存在することが理解される。欲求があるだけでは行為は生じ ない。信念なき欲求は盲目であり、欲求なき信念は空虚である。これら両者がそろって、初めて行 為への意志が生まれる。これらの点を考慮し、ヒューム主義的な動機というものについてまとめれ ば、以下のとおりとなるであろう。

① 或る動機付けの理由(motivating reason)をもつということは、或る目的をもつこと。

② 或る目的をもつということは、信念(手段)を利用し、或る目的に達そうとする(世界をその ように変えようとする)こと。

③ つまり、信念とは独立的に、或る目的に達するような欲求を持っているということ。

④ 欲求こそが動機付けの理由である。

以上は、動機についてのヒューム主義的見解と言われている。それは、欲求を根源的なものとす る一方、信念を二次的なものとしており、理由には常に個人の欲求が反映されているという立場で ある。これが道徳的判断に適用される場合、道徳的行為への動機付けの理由は、認知的言明を含ま ないもの(non-cognitive)ということになる。一方、反ヒューム主義者は、世界の在り方について の信念が、道徳的命題についての認知的言明を既に含んでいる点を強調し、欲求が常に信念に対し