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9.1 動機の質的区別

ここでは、ヒュームの道徳論の概要を紹介することで、道徳と共感との関わりをヒュームがどの ようなものと考えているのかを分析したい。第Ⅱ部と重複するところもあるだろうが、道徳論その ものの意義を明確にするためにも、基本的な事柄から確認してゆく。

ヒュームはまず、T3・1・1「道徳的区別は理性に由来しない」において、道徳的判断に伴う称賛や 非難は、観念によってなされるのか、印象によってなされるのかという問題を提起し(T456)、そ の直後、以下のように論じる。

さて、もし道徳性が本来、人間の情念や行動やいかなる影響も及ぼさないものであるとすれば、

それを教え込もうと苦労しても無駄であっただろう・・・道徳性は我々の情念や行動に影響し、知 性の穏やかで怠惰な判断以上に及ぶと想定されている。この点は日常経験によっても確認される。

日常経験の告げるところによると、人々はしばしば義務の支配を受け、不正義の考えによって或る 行動を思いとどまり、責務の考えによって他の行動に駆り立てられるのである(T457)

行為や価値判断に必要なのは欲求であり、こうした欲求は、行為・判断への動機付けとしての或 る情念を形成する。それゆえ、情念とは無関係な理性によっては人々を道徳に導くことはできず、

情念が印象である以上、道徳もまた印象と関わるものである、とヒュームは主張する。道徳性を認 識する際、我々はそこにおいて単なる知識(観念)以上のものを見出すはずである、というのがヒ ュームの見解である。

もっとも、情念にはさまざまなものがあり、それらすべてが道徳と関わるわけではない。また、

利己的な情念があれば、利他的な情念もあるし、悪徳的な情念もあれば、有徳的な情念もある。し かし、利己的な情念が必ずしも悪徳の方向へと働くわけではない。「利益こそが、約束実行の最初の 責務である(T523)」とヒュームが語る場合、明らかに、自己利益に関わる情念も、正義という徳 と関係しているようにもみえる。ただし、利益=善、として、利益追求を、そのまま善の追求と同 義的にヒュームが取り扱っていたわけではない。

正当な道徳的判断とそうでないものとの区別を語るには、それが知識的に正しいかどうかではな く、情念として正しいかどうかということを分かるための基準が必要とされるとヒュームは考えて いた。「錯誤(error)は反道徳性の源泉としては極めて遠く、ほとんど罪がないということが普通 である(T459)」とし、知識(観念)あるいは目的達成のための信念、これらが間違っていること が悪徳に直結するわけではない、とヒュームは語る。つまり、善の追求において、それがうまく達 成されなかったり、手段が不完全であったりしても、そこでの行為者の道徳性が否定されることに はならない。さらに、「事実の間違いは有罪ではなくとも、正しさ、、、

の間違い(mistake of right)は 有罪であり、反道徳性の源泉である」という見解に対し、それは単に二次的な間違いにすぎず、そ れに先立つ別の反道徳性に基づいている、とヒュームは反論する(T460)。これらのヒュームの説 明を総合的に考慮すると、正しさへ到達する手段、あるいは各人の正しさについての認識がバラバ ラであったとしても、正しさへと向かおうとする姿勢・態度こそが大事であるというのがヒューム の本意であろう。正しさについて、その内容はともかくとして、或る一定の形式をヒュームが考え ていたことには間違いないが、何が有徳で何が悪徳であるかについて、その人が抱いている正しさ の観念が問題ではなく、その人が抱く情念の在り方がここでは問題とされているのである。このこ とは、徳・悪徳が、情念主体でもある人格に必然的に帰属することからも理解されよう。

自負や自卑、愛や憎悪が喚起されるのは、次のような事物が現れたときである。すなわち、情念 の対象(である自己や他者)に関係をもつと同時に情念の心持と別個な、しかもこれと関係する心 持を産むなんらかの事物が現れたときである。そして、徳および悪徳には、こうした事情が伴って いる。すなわち、徳および悪徳は、必然的に我々自身のうちに置かれるか、他人のうちに置かれる か、そのいずれかでなければならないし、また、快や不快のいずれかを喚起しなければならない。

(T473)

自己や他者の人格から受け取る快・不快は、その人が有徳な人格であるか、悪徳の人格であるか を知らしめるものである。間接情念において、それがとりわけ自負や自卑の場合には、そこでの快 は一般性を持っているということは本論文第五章でも述べたが、或る人格が有徳か悪徳かを判断す るにおいて、そこに観察者自身の個人的利益が存在するかどうか、ということは関係なく、その人 格の心的状態(情念)が一般的観点から許容されるような印象をこちらにもたらすかどうかが重要 なのである。つまり、その人格が有する知識や内容という観念的なものが重要なのではなく、その

人格の情念の在り方そのものが、常識的な見地から共感可能なものであるかが重要なのである。

こうしたことは、ヒュームの情動主義的な議論が、常識的な、そして寛容的な感覚を基礎として いることを示している。通常、情動主義において、過去における判断が間違っていた場合、過去に おける情念そのものが間違っていたのではなく、過去におけるそのような情念が発生する所以とな った信念の方が間違っていたとされる。というのも、情念そのものについては正誤がないため、正 誤を語るとするならば、過去において間違った信念をもっていたがため、誤った道徳的判断を為し たということになるからである。しかし、ヒュームは「錯誤(事実誤認)」や「正しさについての間 違い(何が正しいかについての観念の違い)」というものは、本質的には、、、、、

その判断を有徳的ではない とするものではないと語っている。もちろん、情動主義者が「間違っていた」と語るケースと、「悪 徳的であった」というケースが同じであるならばそうではないが、しかし、そこには、微妙なニュ アンスの差異が存在する。行為者の動機を考慮したとき、「悪徳的ではない」けれども「間違ってい た」ということはありえる。少なくとも、ヒュームは「錯誤」や「正しさの間違い」にも関わらず、

「有徳的である」という状態が存在することを認め得る立場であり、このことは情動主義者とヒュ ームを区別する重要なポイントといえる。

ヒュームの場合、「或る状況において私はこういう情念を抱くべきであった、という私の、、

基準に従 って道徳的判断はなされるべきである」と考えていたわけではなく、「徳への客観的に理解可能な、、、、、、、、、

心 的傾向性に沿ったものが道徳的判断である」と考えていた。こうした「徳」は何種類もあり、例え その行為者が、一般的に考えて、状況にマッチしているものではないような「徳」へと向かってい ようとも、そのこと自体がその行為者の有徳性を完全に否定するものではない。ただし、そのため には、その行為者の心的傾向性が、客観的に理解可能な「徳」へと、共感可能な形で向かっていな ければならない。そして、「悪徳的ではない」けれども「間違っている」ということが起こりえるの は、或るコンベンションにおける「徳」のリストのうちの一つを目指して入るけれども、それがそ の場合には不適切であるという原因が存在していることになるであろう。錯誤があろうと、正しさ の判断基準や選んだ選択肢が間違っていようと、或る行為者の動機となっている情念が、主体外在 的な正しさ、すなわち「徳」を目指している限りにおいては、その人は有徳的な人物なのであり、

それはつまり、その人の信念は道具以上の形で、その人の動機に内在する欲求体系を形成している ということが示されている。そして、そのコンベンション内部での特定の状況においては、特定の 徳を志向することが正しい、ということは、個人の情念を超えて客観的に定まっているということ も忘れてはならない。この定まり方は、コンベンションにおける諸個人の利益概念と大きく関わっ ている。

9.2 人為的徳と自然的徳

行為における動機の質というものをヒュームが重視していたことは間違いないが、この点をさら