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6.1 情念による道徳的区別

前節では、ヒュームの情念論の基本的な分析を行い、道徳に関する情念を喚起する印象、すなわ ち道徳的な快の印象というものが、一般的善性質と関わっているということを述べた。本節では、

そのような一般的な善性質を知覚するような「洗練された状態」がどのようなものであるのか、そ して一般的善性質というものがヒュームの思想においてどのように説明されうるのかを考えてゆく。

そもそも、ヒュームにとって、他人と価値を共有するということはどういうことなのであろうか。

道徳的区別について、それは理性に基づくものではなく、情念に基づくものであるとヒュームは 主張する。これは、ヒュームの反理性主義の特徴であるが、何故、道徳は理性によって判断されな いかといえば、「理性とは真もしくは偽の発見」だからである。真偽は、諸観念の本当の(real)関 係、もしくは、諸事実の本当の関係、これらの一致・不一致において存在するものであるのだが、

情念や意欲や行動は、こうした類のものではない(T458)。理性は思索的なもの(speculative)で あるが、道徳は実践的なもの(practical)に関わるので、実践的な行動や判断に関わる情念の方が 道徳に関わっている、というのがヒュームの見解である。

ただし、だからといって「道徳は真偽を問う意味などない」とヒュームは言っているわけではな い。この場合の「真もしくは偽の発見」とは、数学的・論理的推論の連鎖において発見されるよう なトートロジー関係の発見ということである。「1+1=2」と類比的に、「人と呼ばれる対象を殺 傷すること=悪」と理性的に推論することはできないということである。理性的推論によれば、左 辺である「1+1」と、右辺である「2」は同じものである。これは、両者ともが同じ「数」性質 を有しているということを意味する。しかし、「人と呼ばれる対象を殺傷すること」という左辺と、

「悪」という右辺は同じ性質のものではない。この場合の左辺の記述様式は、物理主義的性質の記 述である一方、右辺の記述様式は価値性質についてのものである。「である(is)」という命題から

「であるべき(ought)」命題への変化において、道徳の理性主義者はその変化に無頓着であるが、

ヒュームはこれに注意を払うことによって、物理主義的性質と価値性質との観念連合が論理的推論 のように必然的なものではなく、したがって、そうした観念連合に基づいた道徳的判断は理性的な ものではありえないと主張する(T469-70)。しかし、我々はあたかも日常生活において、「1+1

=2」であるように、「人を殺傷すること=悪」を自明のこととして考えている。

道徳的判断が理性によってなされるように見える錯覚について、その原因として、そこでの感じ 方が柔らかく穏和(soft and gentle)であることをヒュームは挙げている。しかし、「1+1=2」

というような分析命題の類のものについての理性的推論がトートロジー関係の「発見」である一方、

「他人を殺傷すること=悪い」というのは、感情的な価値の「創造」であるようにも見える。道徳 に関する表出主義(expressivism)は、道徳的判断をそのような表出・創出の営みとして理解しよ

うとし、ヒュームの立場もそこに帰属させがちである。

たしかに、絶対確実とヒュームが考えていたような分析判断と、蓋然的な因果関係を含むような、

実践的な綜合判断とはまったく異なる類のものである。しかし、絶対確実でない法則性概念の基礎 となるような規則性概念について、その規則性までも主体精神の産物であると考える必要はない。

たしかに法則性概念が有する「力能(power)」の観念などは、実際の観察事象には見受けられるも のではないので精神の産物といってよいであろう。しかし、「力能」の観念が付随するところの規則 性そのものは、主体が望もうが望むまいが、主体精神とは独立的な仕方で存在し、主体の必然-偶然 ヴィジョンを規定するものである。その場合、或る種の規則的事象は必然性観念を呼び起こすよう なものとしての性質を自然的に備えているといえるし、別種の規則的事象は偶然性観念を呼び起こ すような性質を自然的に備えているといえるであろう。自然的性質を超越論的に規定するようなイ デア的力能を認めずとも、自然的事象においてそのような性質が備わっていることを否定する理由 はない。同様に、道徳性概念が有する「べき」の観念は、実際の観察事象そのものに見受けられる ことはないが、「べき」が付随するところの観察事象の規則性は、主体が望もうが望むまいが、主体 精神とは独立的な仕方で、主体の道徳-非道徳ヴィジョンを規定するものである。そのような規則的 事象は、「べき」観念を呼び起こすものとしての性質を備えているのであり、ヒュームの理性主義批 判によって問題とされる「べき」は、表出主義のように主観レベルにまで還元されるものではない。

ヒュームの法則(「である」から「であるべき」の移行の禁止)において「べき」が還元されるのは、

せいぜい自然的性質レベルまでであり、自然的性質レベルにこそ、我々の客観的な感情の一致を可 能とするような性質が存在しているのである。そして、このことを明らかにするのが「嗜好(taste)」 の概念なのである。

6.2 嗜好の概念

ここで論じる「嗜好(taste)」という概念は、ヒュームの『道徳・政治・文芸論集』に収められ た論文、「嗜好と情念の繊細さについて」と「嗜好の基準について」より取り出したものである48

『道徳・政治・文芸論集』に収録されている諸論文は、『人間本性論』よりも後に出版されたもので あり、『人間本性論』よりも広く大衆向けのタイトルや語り口であり、評判が高かったということで あるが、議論における根本的な意図は共通しているように思われる。「嗜好」という言葉によって、

『人間本性論』において語られる情念と道徳との関係性がより明確になっていることが一旦理解さ れるならば、こうした論文が『人間本性論』での失敗を回復するというよりは、むしろ、それを補 足するための非常に重要なものとして解釈されるであろう。このことは、ヒュームの思想を統合的 に再構築しようとする本論考においても有益と思われる。以下、まず、「嗜好と情念の繊細さについ

48『道徳原理研究』においても「嗜好」の語は使用されているが、詳細にその概念について論じてあるのは『道 徳・政治・文芸論集』に収録された論文の方なので、こちらの方を取り扱うことにした。

て」論文で挙げられる「情念の繊細さ」と「嗜好の繊細さ」の区別に注意しつつ、ヒュームがなに を言おうとしているのかを探ってゆきたい。まず、「情念の繊細さ(delicacy of passion)」について、

ヒュームは以下のように語り始める。

或る人々は或る種の情念の繊細さ、、、、、、

に従属しており、それは生活の出来事すべてに対し、彼らをと ても敏感にし、彼らが不運と不幸に出会った場合の突き刺すような深い悲しみと同様、あらゆる順 調な出来事において彼らに鮮烈な喜びを与えるものであります。・・・良い運命または悪い運命とい うものはほとんど私の自由にはなりません。そして、この気質の精敏さを有する人がある不幸に直 面するとき、彼の悲哀もしくは憤慨は、彼の支配をまるごと奪い、生活のありふれた出来事におい て、彼からすべての楽しみを奪うものなのです。・・・言うまでもなく、そのような強烈な情念の人 は、いかなる深慮と思慮分別さの限界を超えて夢中になり、日々の行為において、たびたび取り返 しのつかない、間違った道程に赴く傾向にあります。(Es 3-4)

これより、まず、「情念の繊細さ」は、幸・不幸に関する個人的な精敏さであり、快・不快を個人 に強く感じさせるものといえる。これは、生活に活気を与えると同時に、極端すぎると悪影響を及 ぼすものでもある。これは激しい情念と強く結びついているような感受性といってよいであろう。

愛や自負の情念を抱きやすい人物は、人生を楽しみやすい気質の持ち主かもしれないが、歯止めを かける「健全さ」が欠落している場合には、それらに溺れて身を破滅させるかもしれない。そして、

情念の激しさを抑制する「健全さ」として、「嗜好の繊細さ(delicacy of taste)」をヒュームは挙げ る。

幾分かの人々においては観察可能な嗜好の繊細さ、、、、、、

というものがあり、それは、この情念の繊細さ、、、、、、

と非常に類似し、幸運と不運、感謝と侮辱に対する場合のように、あらゆる種類の美と醜悪に対す る同種の敏感さを生み出します。あなたが、この才能を所有している人に詩もしくは絵画を贈呈す る場合、この感性の繊細さは彼を、はっきりと、そのあらゆる部分に心が動かされるようにしま す。・・・省略して言えば、嗜好の繊細さは情念の繊細さと同種の効果をもちます。そして、それは 我々の幸福と悲惨さの両方の範囲を拡大し、快と同様、他の人間が避けるような苦痛を感じ取れる ように我々をしむけます。(Es 4-5)

嗜好の繊細さも、情念の繊細さと同様、生活を活き活きと豊かなものにさせるものであることが、

上記引用からわかる。しかし、ヒュームは両者の決定的な違いについて、以下のように説明する。

しかしながら、この類似にもかかわらず、情念の繊細さが嘆かれ、そしてもし可能なら改善され るべきものである一方で、嗜好の繊細さは欲せられ洗練されるべきものである、ということについ