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5.1 間接情念

「情念(passion)」とは、心に湧く感情的な知覚のことであり、何かの対象や事柄の感覚的現れ と、その際に抱かれる情念との因果関係は、一般的には偶然的なものとされている。早い話が、「何 を感じるかは人それぞれ」と我々は考えがちである。このことについて、我々はどのように考えれ ばよいのであろうか。まず、ヒューム自身の言に従って、情念についてのいくつかの定義を挙げて みよう。知覚論者であるヒュームにとって、情念とは一つの知覚であり、それは「三角形」のよう な知識的観念ではなく、まさにそれが現れている時点での心の状態を表している点で、一種の印象 である。ヒュームは、印象を「オリジナル(original)」なものと「二次的(secondary)」なものに 分類し、前者を感覚器官に由来するものとする一方、後者を、前者から直接由来するものか、ある いは、前者の観念を介在することに由来するものとしている(T275)。情念はもちろん後者に属す

る。そしてさらなる区分として、後者のうちの、感覚印象や身体的快苦から直接的に生じるのは直 接情念であり、他方、観念を介在するようなもの、さらには、他の性質と結合(conjunction)して 生じるようなものは間接情念である、と定義する(T276)。

直接情念の種類には、「欲求(desire)」「嫌悪(aversion)」「悲哀(grief)」「喜悦(joy)」「希望(hope)」

「恐怖(fear)」「絶望(despair)」「安堵(security)」などがあり、間接情念の種類には、「自負(pride)」

「自卑(humility)」「野心(ambition)」「虚栄心(vanity)」「愛(love)」「憎悪(hatred)」「嫉妬

(envy)」「憐憫(pity)」「邪意(malice)」「寛仁(generosity)」などがある(T276-7)。直接情念 は、快苦の他に、自然的衝動や本能から生じる場合もあり、それらは、敵を罰したい欲求や、仲間 の幸福を願う欲求、空腹感、性欲、身体的欲求などである(T439)。もっとも、敵を罰したり、仲 間を思いやるような情念は、或る種の間接情念のような気もするが、ヒュームがこれを直接情念と しているのは、それらが観念の機能を必要としないような、いわば、思慮や知識としてではなく、

印象から生じる直接的な「反射」の類であることを強調しているからである。こうした記述から、

直接情念が目指すところの快は、個人としての人間本性的な「傾向性」が目指すところの快である ことが理解されるだろう。直接情念については後に述べるとして、本節では間接情念について説明 しておこう。

間接情念は、以上で挙げた直接情念の事情とは大分異なるものである。間接情念は、快・不快の 印象が、自己とその事物との関係において、どのような意味を持ち得るのかを示すものである。自 己と事物との関係性という点で、間接情念の分析においてなされる区分法としては、情念の向かう 先の「対象(object)」と「原因(cause)」との区分、そして、その原因のさらなる区分としては、

情念に作用する「性質(quality)」と、その性質が属する「主体(subject)」との区分がある(T278-9)。 こうした用語法はヒューム独自のものであるので、それぞれがどのようなものであるのかを以下で 説明しておこう。自分が所有する美しい家屋についての自負(間接情念)のケースでは、そこでの 対象は「自我(self)」であり、原因は「美しい家屋」である。そして、その情念の原因の性質は「美 しさ」であり、その主体とは「家屋」のことである。ここで注意すべきは、情念が向かう先の対象 が「人格」ということにある。間接情念には必ず自負などの対象となる「自己」という人格が関わ っているとヒュームは語る。「自負と自卑に情念が自我を対象、、

とするように決定されるのは、自然的 特性によるだけでなく、原初的特性にもよるのである・・・原初的と考えなければならない性質と は、精神から全く不可分で且つ他の性質に還元できないような性質である。そして、自負と自卑の 対象を決定する性質はまさにそのような性質なのである。(T280)」と。

こうした対象である自我は、T1・4・6「人格の同一性について」で分析・還元可能な自我観念とは 別の、それ以上は還元不可能な情念や気遣いに関わる自我であった(T253)。「自己とはどのような ものであるのか?」という問いは還元論的に論じることは可能であるが、「情念を感じる私は自己で あるのか?」という問題は、もはや自明の事実であって、ヒュームにとっては問いとはなりえない。

ヒュームにとって、知覚連続体としての自我の観念は、要素である各知覚に還元され、それらに付

随するものとして論じられたが45、情念そのものは単純かつ定義不可能なものであるので(T277)、 自負や自卑といった情念が向かう自我は、もはや疑うことなく、情念が向かう先にいるはずの、、、、、

存在 者なのである。自分の概念ももたずに「自負」や「自卑」を感じる人などいない。「自分はすごいだ ろう」というプライドや、「どうせ私なんか・・・」という卑下・謙遜の感情を抱いてしまう人は、

誰であろうと、一般的基準においていずれかのランクに位置するような「自己」を意識し、それに ついて評価していなければならない。プライドが高かったり低かったりする人物が、無我の境地に いるということなどありえないことは一般的には理解可能であろう。しかし、なにもこうした自我 のみが情念と関わっているわけではない。自負や自卑は「自」である以上、自らがそれら情念の対 象となるが、愛や憎悪などは、憎むべき対象が自分の外側に存在するような類の情念である。T2・2・ 1「愛と憎悪との対象と原因について」では、憤怒や憎悪などは、本質的に理解不可能な他者だから こそ惹き起こす情念であることをヒュームは強調する。

愛および憎悪の対象、、

は、我々が思想・行動・感覚を(自明のものとして)意識しないところの或 る人物である。この点は経験から明白である。我々の愛と憎悪は常に、我々に外的な或る可感者へ と向けられる。・・・我々は自己自身の失錯や愚行によって悔しがることもあるかもしれない。しか し、他人から害を受けるのでなければ、決して憤怒や憎悪を感じないのである。(T329-30)

自負や自卑などの情念の対象が本質的に自我でしかありえないのは、固定的な比較基準と、比較 対象としての自分との間の隔たりが問題となっており、それが自分自身についての関心事であるこ とを理由としていた。自卑や卑屈な情念のもとでは、通常は、比較基準に到達できない自分自身が 許せなかったり、恥ずかしくなったりする。一方、憎悪などの情念の場合には、固定的な位置に存 在する自身にとって、自身を取り巻く他者の在り方を関心事としていることを理由としている。そ れゆえ、固定的な自分自身の定める基準に対し、それにマッチしなかったり行き届かないような行 動や思想の持ち主がいたとすれば、許せないのは自分ではなく相手方ということになる。

これは情念の面白い特徴でもある。先ほども述べたように、自卑は、対象としての自我の観念を 必要としている。しかし、自卑の情念に陥りやすい人物は、対象としての自我の観念を常に意識し ているものの、世間の基準に従いやすい傾向にあり、自分自身を基準化することはない。世間にお ける自分の位置付けを強く意識しているものの、自身の判定においてアドバンテージを有している のは世間の方であるのだ。これは自負(プライド)の場合も同様である。ブランド品や学歴、成績 や収入などで自慢したがる気質の持ち主は、一見すると強い自己意識をもっているように見えるの だが、その自慢したがる性質の客観的妥当性を保証しているのは、自分以外の他者なのである。そ

45 しかし、結局は付録(T633-6)において、還元された(記憶)要素自身が、それらに構成されているとされ る自我を先取しつつ指示されていることを認め、自らの還元論的手法ではそのことは説明不可能であることを 告白した。この告白は、還元主義におけるヒューム主義的なスーパーヴィーニエンスの物理主義的限界を、ヒ ューム自身、或る程度は気付いていたことを示唆している。

の意味で、プライドの対象たる自分自身は、品評会に挙げられた一つの候補にすぎないものなので ある。それゆえ、自負や自卑に陥りやすい人は、世間的には常識的感覚の持ち主かもしれないが、

自分自身の在り方を外部に強く依存させているという点では「不健全」といえるであろう。たしか に多くの他者は、客観的基準による判定者たちなのであるが、自分自身も意見も客観性を持ち得る ということを、不健全な自負・自卑依存症の人は忘れてしまっているのである。

その一方、憎悪に陥りやすい人物は、自我があまりにも強すぎる(固定的・確定的)ため、自身 の基準に合わない他人や世間に問題があると考えがちになる。通常の人が自卑に陥るような場合で も、「情けないと言われてしまいそうな自分に問題があるのではなく、そのように自分を評価しよう とする世間に問題があるはずだ」というように、基準に合わない原因を他者へと帰属させる。愛の 場合も憎悪と同様に、自分以外の基準をやすやすと無視しがちな傾向の人物を見受けることができ る。愛に陥りやすい人は、「他人がどのように評価しようが、自分は彼女(彼)を愛しているし、そ れは正しいのだ~!」と突っ走ることがしばしばであろう。相手方が世間的には最低最悪の評価を 下されていても、自分自身が納得していればよいのであるし、自分以外の人の評価などは邪魔なだ けである。こうなったら、いくら相手が「私はダメでドジで、どうしようもないから好きにならな いでください」と説明しても無駄である。ただし注意すべきは、これは「無我(selfless)」の状態 ではなく、「忘我(ecstasy)」の状態であって、自我は根本的に成立しているという点である。いや、

むしろ、このような愛や憎悪の場合には、自負や自卑の場合以上に、自我は強いものとして情念の 基礎となっているといえよう。その場合、品評会に挙げられるのは相手方であり、自分は選考する 側ということになる。自分自身の意見を「意志」として表明する姿勢は大事であり、愛の場合には それは人間本来の強さの証明のように見えるが、客観的意見を考慮することなく自分中心の世界観 にのめり込むような人物はやはり「不健全」であるといえる。愛・憎悪依存症の人は、強い意志の 力を示していたとしても世間的にはわがままで自分中心的であり、常に自分自身の基準によって、

他人を憎むか愛するかのどちらかに傾きがちである。

自負・自卑の場合には、自分自身は世間的評価に揺さぶられる形で、しかし対象として自分に目 が向けられる一方、愛・憎悪の場合には、自分の基準は確定的なものとして、自分には目が向けら れない状態で他者へと目が向けられる。もちろん、我々は人間である以上、自負や自卑も、そして 愛や憎悪も抱きがちであるし、それが普通である。時には自分中心的に他者を愛したり憎むことも あれば、そのような自分を見つめなおす形で自負や自卑を感じることもある(もちろん、自負・自 卑から愛・憎悪に転じることもありえる)。ただし、どのような場合にはどのような情念を抱くかに ついての「まっとうな理由」が存在しなければ、それこそ我々の社会生活は「まとも」とはいえな いであろう。他人にまったく耳を貸すのない愛や憎悪に駆られる人間たちの社会では、たまたま愛 情が合致したもの同士以外には生き残ることはできなかったであろうし、他人が定めた基準ばかり を尊重するような人間たちの社会では、自分自身にしか備わっていないような価値が見過ごされ、

廃棄されるであろう。前者は無秩序で暴力的で感情的な社会である一方、後者は秩序的で基準的で