カントは、「総合」が「課題」であることを示したかった。それこそが、批判哲学を始動 した動機の一つであっただろう。ところが、三批判を書き終えたとき、結論としてカント は、「総合」がある意味で「所与」であることを否定できなかった。これは、『判断力批判』
は終点なのか始点なのかという、カント批判哲学体系を理解するうえでの根本問題を提起 する。判断力は終点であるとするのが、ほんらいの批判哲学の意図に沿っているように思 える。だが、くり返しになるが、カントは、われわれはつねにすでに「美」と「目的論」に 出逢っているのだという言明を抑えることができなかった。前節で確認したこの時代の状 況をふまえると、カントは生物学の再生実験などが啓蒙主義者たちのあいだで流行ってい る事実を無視できなかったのだろうと推測できる。人びとは「有機体」の不思議に出逢い はじめていた。このすでに遭遇されてしまっていた有機的なもの、すでに経験されてし まっていた総合をカントは大急ぎで「課題」として再構成するする必要があったのである。
それこそが、三批判体系全体を貫く動機にほかならない。判断力は始点なのか終点なの か。この問いに、カント主義者ならばこう答えるのかもしれない。判断力は始点であり終 点なのである、それは発端であり課題なのである、と。ここにわれわれは、世界をみずか らの手によって分解し再び組み立てることを欲する「啓蒙主義の精神」の典型を見出すこ とができるだろう。
啓蒙主義の精神は、実は、対象を分解し組み立てなおす前に、組み立て後の理想像を期 待している。しかし、人がみずからの手で組み立てたものが予期していた通りのものにな るとは限らない。人の手を経た結果、思わぬ怪物が生まれてしまわないとも限らない。あ るいは、組み立てなおそうとする対象が、人の意図の通りに組み立てなおされてくれると は限らない。それは、人間の組み立てに反抗するかも知れないのである。この問題は、「判 断力」の位置づけの問題と関連する。ベクトル①とベクトル②で使用されている判断力、
つねにすでに働いているものとしての判断力と、世界の秩序付けのために投与される判断 力ははたして同じものであろうか。この問いはまた、かたちを変えて問えば、つねにすで に働いている判断力は理性的なものであると言い切れるのかどうか、という問いになる。
有機的なものの表象をもたらしている判断力は理性的な能力であるとは限らない可能性が ある。カントはそれを、人間の能動的で理性的な能力であると位置づけた。そして、有機 的なものの表象を人間理性の所産であると分析した。だが、本当にそうなのであろうか。
ベクトル①とベクトル②の併存、判断力は発端であり終点であるというカント批判哲学 体系の奇妙なねじれは、ヤコービによって「物自体」の問題としても指摘されている。
「物自体」なくしては、われわれはカント哲学に入ることは出来ず、また「物自体」が 残存するがゆえに、われわれはカント哲学にとどまることができない。1)
ヤコービはスピノザに代表される大陸合理論の哲学は、悟性を中心にする哲学であり、
空虚しかもたらさない古い形而上学であるとして批判した。そして、啓蒙主義やカント哲 学を内容のある真理を語れないニヒリズム(nihilism)であるとして批判した。彼による と、感官(Sinn)こそが直観し、真なるものを把握するものであるという。ヤコービの感 官(Sinn)は感性という意味と、洞察力のような精神的な直観能力とがともに意味されて おりあいまいであるが、彼の主張のポイントは、悟性による推論の系列は真理に到達する ことがないというものだった2)。悟性による推論以前に、「もの」そのものがもっている「統 一」を人間は感じ取っており、むしろ統一は「もの」によってもたらされる部分があるの に、カント哲学はそれを語ろうとしない。ヤコービのカント哲学論駁はフィヒテ、シェリ ングの思想形成にも影響を与えた。この章の冒頭に引用したシェリングの言葉は、物自体 を積極的に語る道があるのではないかという立場からカントを批判したものである。シェ リングの問題意識によれば、能動性は自然のほうにあるかも知れないのである。
本論考の文脈に置き換えれば、ヤコービやシェリングの指摘する「物自体」の問題とは、
世界の「総合」の問題ととらえても良いし、「有機的なもの」の問題であるととらえても良 い。カント哲学の構造においては、そういうある種の「総合」が人間には到達できないもの としてはじめに設定されているのであるが、ある意味では、何らかの方法でわれわれはす でにそれがあることを知っており、それへの到達を「課題」とする、という具合になる。こ の到達の課題を、人間の積極的な能力である理性の課題と位置づけたのがカント哲学であ る。したがって、批判哲学において、理性とは初めから人間に備わっているものであると﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ 同時に、われわれが到達すべき目標でもある。このねじれた構造を、人間の置かれた状況﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ として表現するために、カント批判哲学の体系は構築された。ヘーゲルのように、理性は 非理性的なものから徐々に成長するものであるかもしれないという発想はカントにはな
1) フリードリヒ・ヤコービ『デイヴィド・ヒュームの信仰について』1787年(F. H. Jacobi, David Hume über den Glauben, oder Idealismus und Realismus. Ein Gespräch, 1787)。この書物の内容及び引用については 以下のサイトを参考にした。http://plato.stanford.edu/entries/friedrich-jacobi/
2)(参考)http://en.wikipedia.org/wiki/Friedrich_Heinrich_Jacobi
かった。そのために、カント批判哲学は、メビウスの輪のようにねじれた循環の構造をも つことになったのである。
カント的構成の問題点は、次の点につきる。われわれが「理性」という名のもとに「見出 したもの」が、「初めからあったもの」と同じであるとは限らない、と言うことである。初 めからそこにあったものは、非理性的なものであったのかも知れず、われわれはそれを理 性化してしまったのかも知れない。だが、非理性的なものはわれわれの理性化の努力に関 わらず、非理性的なものに留まっている可能性はないだろうか。あるいは、非理性的なも のは、理性化の企図に対して反抗する可能性はないだろうか。カントは有機体を理性的な ものとして見出したが、それは本当にそうだろうか。『判断力批判』の仕事は、本来理性的 ではないものを理性化してしまった可能性はないだろうか。
この「可能性」に気づいたのがロマン主義である。ロマン主義は、人間の理性が怪物を産 み出してしまう可能性に気づいていた。世界を理性的に把握しようとする啓蒙主義の試み が、非理性的なものに出逢ってしまうことに気づいていた。たとえば、それを象徴する作 品の一つが、メアリー・シェリー『フランケンシュタイン、すなわち現代のプロメテウス』
(1818 年)1)であろう。夫の詩人パーシー・シェリーやバイロンとの交流に刺激されて書か れたこの作品は、ロマン主義の問題意識をよく表現している。『フランケンシュタイン』で は、メスメルの動物磁気(1774 年)やガルヴァーニの筋肉電流の実験(1791 年)をヒン トに、死体から生きた人間を再構成する科学者の姿が描かれる。十七世紀にニュートンが 見出した「力」、すなわち重力は人間の意のままになるものではなかったが、十九世紀にな ると電磁気学が発達し、電気が人間の操作できる新たな「力」として注目を浴びるように なった。『フランケンシュタイン』の副題の意味は、プロメテウスが人間を土と水から造っ たこと、また神から火を盗んで人間に与えたことにちなみ、新しい「力」を手に入れた人間 を表現している。当時は、動物電気などとの連想から、電気を手にした人間が生物に生命 を与えることができるかも知れないという発想があった。そのようなことが実現すれば、
人間が造物主である神と同等の立場に立つことになる。フランケンシュタインによって生 み出された生き物は、造物主である人間に反抗し、絶望し、復讐し、みずからの運命を呪っ
1) メアリー・シェリー『フランケンシュタイン』森下弓子訳、創元推理文庫、1984 年(Mary Shelley, Frankenstein; or, the Modern Prometheus,1831)
て北極海に消える。啓蒙主義者たちの生物再生実験の行き着いた先は、フランケンシュタ インの生み出した怪物だったのである。
もっとも、フランケンシュタインの怪物はフィクションであり、実際に生み出されたわ けではない。自然を支配できるとうそぶきながら環境破壊をもたらしている現代文明こそ がフランケンシュタインの怪物なのである、という現代文明批判もできようが、筆者の力 点は別のところにある。フランケンシュタインの物語が意味しているのは、啓蒙主義的理 性の光になじまないもの、啓蒙主義の光が産みだす「影」を何処かにわれわれが感じている というわれわれの洞察の表明であると解釈できるだろう。この種の洞察こそが、われわれ に、カント批判哲学体系に潜む「ねじれ」を見出させるものである。
ベクトル①とベクトル②は重ね合わせられ接続されると、ねじれた円環、つまり一種の 循環構造を産みだす。ベクトル①において、『純粋理性批判』、『実践理性批判』、『判断力批 判』という過程を経る中で分離・抽出された「力」は、認識を秩序づけ体系構築をみちびく はずである。そのようにして構築された体系は、後のヘーゲルに見るように人間精神の発 展的所産となるはずである。しかし、カントはそのような「発展的所産」が産みだされるこ とを好まなかった。おそらく、体系の産出が新たになされることであるという構図をカン トは構築したくなかったのである。そこで、ベクトル①にベクトル②を重ね、秩序はもと もと判断力の所産として自然の中にあるという構造を作った。このねじれた円環構造をカ ント自身がどれだけ意識していたかはわからない。カント自身はそれをねじれだとは思っ ていなかっただろう。結果として「メビウスの輪」のようなカント的円環がここに産みだ されることとなった。
われわれがカント批判哲学体系のもつ「ねじれた循環」もしくは「メビウス的円環」から 脱しようとするならば、それを切断し、ヘーゲル的「開かれた螺旋」に移行するしかない。
カント的円環の問題を哲学的に克服するために必要な視点は、理性という「力」は構成され﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅﹅ ﹅ ﹅﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ たものであり、仮象であるかも知れないという視点である。そして、理性の出自は非理性﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ 的なものにあるのかも知れないという視点である。こうした視点を哲学に導入したのが ヘーゲルである。ヘーゲルは『精神現象学』で、理性も現象にすぎないと述べている。この ヘーゲルの視点は、カント批判哲学の構成を根底から破壊することになる。
まとめてみよう。カント批判哲学体系では、自然の中に美や目的を見出す能力が判断力 であるとされ、それは認識の対象を構成することはないが、人間が知識を体系的な学問に まとめ上げていくのに役立ち、また、美しさや目的があるかのように見える自然の秩序を