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ヘーゲル『精神現象学』の有機体論

ドキュメント内 有機体と「地」のエレメント (ページ 149-200)

暗い理性の見出す有機体

ヘーゲルは、かれの時代の科学と、かれがみずからの方法によって 達成した結果との総合をもたらそうと苦闘していた。それは機械と しての自然という構想と、過程によって浸透されているものとして の全実在という構想との総合をなし遂げようとする苦闘であった。

……ヘーゲルは、じっさい自然科学の未来の発展でありうるほかな いものを哲学によって先どりしようと試みた。かれの先どりは、わ れわれが現在みることができるように、多くの点で驚くべく的確で あった。

̶̶R・G・コリングウッド1)̶̶

1) Colllingwood, op.cit., p.132(コリングウッド、前掲書、206 頁)

3.1  『精神現象学』のポジション

本章では、ヘーゲル『精神現象学』の有機体論を検討するが、はじめに本節において『精 神現象学』という書物の内容、性質、構成などについて概観する。

3.1.1 『精神現象学』とはどういう書物か

 『精神現象学』は 1807 年、ヘーゲル三十七歳のときの著作であった注 1。この書物の原 典の扉には「学の体系第一部」という表記があり、当初ヘーゲルは後に構築する体系への導 入としてこの書物を位置づけたと一般に考えられている。

『精神現象学』は、カントの批判哲学と比べるとかなり変わったスタイルの書物である。

カントは批判哲学の第一書である『純粋理性批判』を認識論として、今日風の言い方をすれ ば、自然科学基礎論として書いた。そして同時に『純粋理性批判』は、道徳論、すなわち倫 理学の基礎付けへの伏線も張られているという巧みな構成になっていた。認識論と道徳論 の礎石となる原理をしっかりと確かめ、その上に両学問の構造を組み立てていくというの がカントのやり方だった。その一方で、前章で指摘したように、認識と道徳の各領域がど ちらもストイックに描かれてしまった嫌いがあり、おそらくカントもこの点を気にして、

『判断力批判』という両方の中間領域についての論を付加したのであろう。

『精神現象学』は『純粋理性批判』と比べると、はじめからこの中間領域を対象にして、叙 述を開始している感がある。科学基礎論というよりは、もっと日常的な経験を対象にして いる。そこでは、「感覚的確信」だとか「物と錯覚」だとか「主人と奴隷」だとか「教養」だ とか「宗教」だとか、そういう章立てのもとに、人間が日常経験するさまざまな「世界の見 えかた」が叙述されている。そして、そういう人間の経験するさまざまな「視角」もしくは

「ビジョン」が批判の対象とされ、そこにおいて働いている「概念の運動」が明らかにされ ていく。人間の経験においてつねにすでに働いている「概念の運動」に注目し、その本質を 抽出するとそこから学問基礎論としての『論理学』が生まれ、論理学によって整理されたカ テゴリーを適切に使えば、自然と精神という、いわば世界を構成する二大領域を解明する ことができ学の体系(システム)を記述できる。ヘーゲルは『精神現象学』に、このような 学の体系への導入部としての役割を与えた。いわば学問以前の人間の経験の諸相をいかに して学問の基礎論へとつなげるか、これがヘーゲルの『精神現象学』の問題意識だった。こ

の点で、『精神現象学』は、カントにおいて認識と倫理の中間領域が始まりであり目的であ るというかたちで抱えていた矛盾を最初から回避したスタイルになっている。どうやって 回避したかといえば、ヘーゲルはいわば、「日常経験」と「学問」という二つの領域を区別 し、「日常経験から学問へ」というベクトルを明確に自己の哲学の問題意識として定めたこ とによって回避したのだと言える。

『精神現象学』ではカント批判哲学の構成は文字通り換骨奪胎されてヘーゲル流に組み なおされていると言えるのだが、あえてカントの図式と用語を用いてこの書物の基本スタ イルを叙述すれば以下のようになる。カント批判哲学の基本はまず、「感性」と「理性」と いう人間の二つの能力を厳然と区別することにある。身体という器に制約され此岸的欲望 や傾向性に左右される部分と、それらを超越して彼岸的な道徳原理に従う部分という二つ の部分をもつ人間像がカント哲学の基本である。そして、そこに両者を接続する「悟性」と いう中間能力を挿入し、この三者の連関で認識や道徳を論じるという構造になっていた。

これに対してヘーゲルは、カントのように人間の諸能力を並べ立ててそれらの組み合わせ 配置図を考えるという手法をとらない。ヘーゲルにおいては、「感性」も「悟性」も「理性」

もすべて現象なのである。『精神現象学』では、「感覚的確信」、「力と悟性」、「理性の確信と 真理」といった標題のものと、カントが人間の基本能力であると考えていた事柄がすべて、

ある特定のスタイルで世界を見るひとつの「視角」、もしくは「態度」として描かれる。そ してそれら各視角の特徴が論じられ、欠点や限界が明らかにされて次の視角へと論が移る という構成になっている。

「感性」や「悟性」や「理性」が現象であるという言い方は、カント批判哲学の原理にのっ とれば言語道断であり、錯乱もはなはだしい言い方であることになる。それら諸能力は現 象を構成する能力なのであり、つまり現象の構成原理であり、現象とは厳然と区別されな ければならない。こういう現象を構成する原理を現象から区別して明確に示すことこそが カント批判哲学の最大の眼目だった。現象そのものとは異なる「原理」があるからこそ、そ こに理性という現象を超えた能力を見出し、超感性的な領域、すなわち道徳の領域につい て論じることができるというのが批判哲学の論理である。ライプニッツやスピノザの実体 論の系譜では、認識と道徳は実体において一致するという構図になる。しかし、そのよう な実体という収束点についていくら論じても、近代科学の発達や、現実の生活を生きる人 間の道徳を基礎づけるような原理や知見を提供することができない。おそらくはこのよう な問題意識のもとで、カントが批判哲学において実行したのは、現象界と叡知界という二

世界の区別であり、これら二世界と人間の「感性」「悟性」「理性」という諸能力との関わり を示すことであった。こうして批判哲学によって認識と道徳を区別し、それぞれの原理を 論じる道筋が開かれたわけである。そうしたカント的な「道筋」の観点から見れば、ヘーゲ ル『精神現象学』は、カントが苦労して成し遂げた「区別」を再びごちゃまぜにしてしまっ たところがある。そこでは、感性、悟性、理性等々と呼ばれるものは「原理」ではなく、意 識と、意識を通して実現する概念の運動とが織りなす「現象」にすぎないとされ、「原因」で はなく「結果」の地位に落とされる。しかも、これらの諸結果はいずれも「精神」という大 きなものの運動の一側面にすぎないということになっている。

『精神現象学』を、カント批判哲学と比較して決定的に異質なものとしている点は、「精 神」(Geist)ということをヘーゲルが言ったことである。ヘーゲルの「精神」(Geist)は起 源をたどれば、キリスト教や神学の追求してきた神や、スピノザ、ライプニッツなど近代 実体論の実体、またドイツ・ロマン主義にもその根はあるだろうが、要するに、個人よりも 大きなものでありながら「人間的なもの」「人類的なもの」である。個人の意識よりも大き な概念の運動というものがあり、個人の意識はむしろその中で生まれ消えていく泡のよう なものにすぎない。しかし、意識は概念の運動の中で生じたものでありながらこの概念の 運動をさらに促し、構造化するのに寄与する。そうして概念の運動は展開し、その運動全 体は「精神」と呼ばれる巨大なものを生み出す。このようなことが『精神現象学』では考え られている。この、「概念の運動」と呼んでも「人倫」と呼んでも「精神的なもの」と呼ん でもよいが、こういう個人の意識よりも大きなものでありながら、けっして個人の意識と 無縁ではなく、個人の意識の「場」のようなポジションを占めるようなものをヘーゲルが考 え出したことは画期的であった。

ヘーゲルがこういう「意識」と「精神的なもの」との相互作用を考えたことは、今日われ われが「個人」と「社会」との相互作用によって人間的な営みの総体、文明や歴史と呼ばれ るものを考える考え方のルーツとなっている。ヘーゲル以前にもホッブスやヒューム、ル ソーなど社会哲学の祖と呼ばれるべき思想は幾多もあったが、今日、無意識、社会意識、共 同性、構造、社会システム、リゾーム等々と呼ばれるような領域、個人の意識よりも大きく その中で個人の意識が形成されるものでありながら、個人の意識を媒介として運動を展開 するような領域を「認識」したのはヘーゲルがはじめてであったと言ってよいであろう。

彼は「人倫」や「市民社会」という用語で、それまでの哲学的な理性概念ではとらえられな い、人類的なもの、社会的なものの運動を感じ取り、そうした領域と個人の意識とが相互

ドキュメント内 有機体と「地」のエレメント (ページ 149-200)

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