第1章 「生命の樹」から近代の「有機体」まで
1.2 古代から中世
れスピリチュアリズムとして形成された「生命」は、キリスト教がユダヤ教から離反する中 で、形成された。
1.2.2 楽園追放
この章の冒頭に、旧約聖書の『創世記』よりアダムとエヴァの楽園追放の一節を引用し た。この物語はよく知られている。エヴァが蛇にそそのかされて、禁じられていた「知恵 の樹の実」を食べてしまったことが原因で、人間は他の動物とともに暮らしていた楽園か ら追放されたのである。知恵の樹の実を食べた瞬間に、アダムは自分が裸であることに気 づき、恥ずかしくなった。これは、人間に自己意識が芽生えたことを意味する。知恵の樹 の実とは、人間が自分自身について知ること、自分自身を意識することを可能にする実 だったのである。
エデンの園の中央には、「知恵の樹」と「生命の樹」とがあった。神は楽園に実るものは 何でも食べてもよいとしたが知恵の樹の実だけは食べることを人間に禁じた、と聖書には 書いてある。ということは、生命の樹の実については、食べることを禁じられていなかっ たということである。エデンの園では、人間は生命の樹の実を食べて、神と等しく、永遠 に生きることができた。楽園から追放された後、人間は限られた寿命をもつ、死すべき存 在となった。人間は他の動物たちとともに一緒に暮らしていた自然の楽園、自然的な生命 を生きることを阻害されたのである。知恵を手に入れた人間は、それとひきかえに、死す べき存在となった。知恵(自己意識)というものと、生命(永遠に生きること)とが、トレー ド・オフであるかのように描かれている。この聖書の思想は興味深い。人間が知恵を手に 入れたために「土は呪われるものとなった」(『創世記』3:17)。それゆえに、人間はこれま でのようにただ楽園の木々に手を伸ばして食物を得ることはできなくなり、大地を耕して 食物を得なければならなくなったと語られている。
ここで注目したいのは、「知恵」と「生命」とが相互に排他的なものとして聖書では語ら れているという点である。神は、知恵を得て呪われた存在となった人間を楽園から追放す る。その理由を聖書は、知恵を得た人間がそこでさらに生命の樹の実を食べれば、神と等 しく、知恵をもちかつ永遠に生きることもできる存在になってしまうことを神が恐れたか らだと記している。だから、神は人間をエデンの園から追い出し、人間が生命の樹に近づ くことができないように、ケルビム注 2と剣の炎を守備に置いた。
人間が神と同等になることを恐れて、神は人間を楽園から追放したというのは、面白い
ストーリーである。このような「生命からの追放」という神話の形態は、ユダヤ・キリスト 教思想のユニークな特徴をよく表している。そこでは「意識」と「生命」とがトレード・オ フであるかのように語られている。知恵という名の「自己意識」をもったがゆえに、人間は
「生命」から追放された、という聖書の思想を、本論考では根本的な問題提起として受けと める。これは形を変えれば、「意識と生命とは相反するものであるのかどうか、相反すると すれば、いかなる意味で相反するのか」という問いになる。この序章の副題で、「意識と生 命をめぐる考察」と言ったのは、この問いをわれわれの論考の出発点としたいからである。
楽園追放のイメージ
Paul Gustave Doré, Adam and Eve expelled from Paradise,19c.1)
1.2.3 意識と生命
いま、「意識と生命とは相反するものであるのかどうか」という問いを立てた。現代の日 本社会に生きるわれわれの常識からすれば、自己意識を持とうともつまいと、われわれの
1) http://commons.wikimedia.org/wiki/Image:Adam_and_Eve_expelled_from_Paradise.png
寿命が限られているという事実に変わりはないではないか、と言うことができよう。現 に、人間と同じような自己意識をもつことのない、他の動物たちも寿命は限られている。
これが生物学的な知見である。
現代の生物学は、人間のもつ自己意識というものを、直接に説明できるところまでは達 していない。脳神経科学の発達は著しいが、それでも、人間の精神の働きと、脳内におけ る物理的・化学的反応との対応には、まだ大きな溝がある。とはいえ、地球上で発生した生 命現象の40億年にわたる進化の延長線上に、われわれ人間の意識の発達という現象もあ る、と通常は考えられているだろう。われわれ人間の存在もまた、地球上における生命の 進化の一環であると考えられているであろう。そのような考え方からすれば、自己意識を もつことが生命からの離反を意味する、という聖書の思想は、奇妙なものに感じられる。
それは、たんに、神の全能と人間の限定性を言いたいがために作られた神話であろう、と 現代のわれわれは考えがちである。
しかしながら、われわれ人間のもっている意識が(ここではそれを「自己意識」と呼んで も、「精神」と呼んでも、「心」と呼んでも同じことだが)、自然における生命の進化の延長 線上にあるものと捉えられるということ、そのような捉え方自体が、われわれの時代に特﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ 有のひとつの考え方であり、ひとつの特殊な思想である。﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ ﹅ 「自然」と言い、「生命」と言い、
「進化」と言い、「人間」の「精神」と言う。まず、それらひとつひとつの概念のすべてが、
西洋の思想史に固有の起源をもつものであることに注意が必要である。もともと日本に あったものではない。次に、西洋思想史においても、それらの概念は時代によって異なっ た意味内容を持ち、相互の関係も時代によって異なっていたことに注意をする必要があ る。そうした事情にもかかわらず、現代の日本に住むわれわれは、「<人間>の<意識>
は、<自然>における<生命>の<進化>の延長線上にある」という考え方を常識として 受け入れている。この何気ない「常識」を分析すると、現代日本人の置かれている思想史的 なポジションが見えてくるはずである。
そのためには以下の二つの経緯が考察されなくてはならないだろう。第一に、西洋の思 想史において、「人間の意識は、自然における生命の進化の延長線上にある」という考え方 が成立する経緯があった。第二に、西洋ではない日本に生きるわれわれがその考え方を常 識として受け入れるような素地が整う経緯があった。第一の経緯が本章で確認するもので ある。第二の経緯については、第 4 章で言及する。
1.2.4 旧約聖書と生命の樹
西欧における「生命」思想の根幹には、キリスト教の影響があると言った。西欧生命思想 は、さきほど言及した旧約聖書の楽園追放の物語、「知恵の樹」と「生命の樹」」のストー リーから始まっている。しかし、旧約聖書は、もともとはユダヤ教の聖典である。一口に ユダヤ・キリスト教などとも言うが、両者は歴史的な共通点を多く持ちつつも、思想的には 大きく異なった内容をもつ。「生命」に関しても、ユダヤ教とキリスト教では、その意味が 大きく異なっている。
旧約聖書の楽園追放で人間が近づくことを禁じられたと言われる「生命の樹」の「生命」
とは、「自然そのもの」のことであったと考えられる。人間は「意識」をもったことで、他 の動物とは異なり、自然から遊離し、自然に距離をとり、自然を対象化するようになった。
このような自然からの疎外を、旧約聖書はユダヤ民族の原体験として語っている。しか し、そのユダヤ民族の物語が、キリスト教の教義に接ぎ木される中で、いつしか自然その ものを意味していた「生命」が、抽象的な、むしろ地上の自然を超越した「生命」を意味す るようになっていった。ユダヤ教からキリスト教への変換において、このような「生命」概 念の転倒が起こっている。
旧約聖書の成立については諸説があるが、最新の旧約聖書学によれば1)、その大部分は 紀元前 7 世紀から前6世紀のあいだに成立したと言われる。「創世記」「出エジプト記」「レ ビ記」「民数記」「申命記」はモーセ五書と言われ、古くはモーセ(推定紀元前 13 世紀頃)
その人が書いたと言われたが、現在では、旧約聖書の多くのエピソード、たとえばアブラ ハム、モーセ、ソロモン王の物語は、ヨシヤ王(紀元前 7 世紀)時代の書記たちが、ヤハ ウェ信仰を一神教として整理する目的で書いたと考えられている。
『創世記』では、「楽園追放」のエピソードに続いて、神がアブラハムの子孫(ユダヤ民族)
に「カナンの地」を与える約束をする。カナンと呼ばれる地域は、地中海とヨルダン川、死 海に挟まれた地域であり、現在、イスラエルが位置しパレスチナ問題の中心となっている 土地である。ここは古代より多様な民族が併存する土地であった。紀元前 10 世紀頃にイ スラエル王国が建設され、ユダヤ民族はダビデ・ソロモンの栄華を誇ったが、アッシリアに よって紀元前8世紀に滅ぼされた。旧約聖書と呼ばれる書物は、このイスラエル王国の滅
1) http://ja.wikipedia.org/wiki/ 天地創造