第1章 「生命の樹」から近代の「有機体」まで
1.3 近代
1.3.1 ルネサンスと近代の実体論
時代は一気に下ってルネサンス以降になると、一つの変革が西洋哲学に起こる。キリ スト教からの離脱、特にカソリック教会との決別である。大きく言えば、ヨーロッパにお ける宗教戦争の激化による教会の信用失墜と、近代科学という新しい種類の真理をもた らす学の登場が、哲学の新生をうながしたと言えよう。近代哲学の祖、デカルトは『方法 序説』(1637 年)、『省察』(1641 年)において、物質と精神という二つの「実体」を考え ている。これは明白にキリスト教の教義からの逸脱である。物質などという地上の存在 が実体であると言うのも異端なら、人間の魂(精神)が実体であると言うのも異端的なの である。キリスト教的には、神こそが唯一の実体であり、生命である。しかし、神を離れ て、実体(本当に存在するもの)を探究するという路線は、自然科学の興隆とともに覆す ことのできない流れとなった。特に、ニュートンの力学は自然が数式によって表現され る機械であることを鮮やかに示し、そのインパクトは哲学者の無視できないものとなっ た。
神から離反したデカルトの実体論を、さらに異端路線へ推し進めたのが、スピノザやラ イプニッツの実体論である。デカルトの理論では、なぜ、物質と精神という二つの実体が 存在するのかが説明できない。またこの両者の関係を説明するのにまた別の存在を考え出 したりもしなければならない。実体とは、当時の定義によれば、真に存在するものであり、
その存在を他の存在に依拠しないもの、自分自身で存在するものである。実体とはそのよ うに考えられなければならない。
1.3.2 スピノザとライプニッツ
デカルトの実体は本当の実体ではなく、たんに実体の示す二つの属性を異なった種類の 実体として誤認したものである、スピノザは『エチカ』(1675 年頃)でこのように考えた。
もっとも、デカルト自身は抜かりなく、物質と精神という実体は真の実体である神を共通 の源泉とすると指摘することを忘れなかったが、いずれにしろ、そこには、スピノザが指 摘しうるだけの不徹底があったのは確かである。彼は分割の思想を徹底的に排除する。神 とそれによって創造された世界という考え方すら、スピノザは退けた。世界(自然)の全体
が神であり、それはみずから存在し、みずからを生成し、みずから考える。それを分割す るのは迷妄であり、一部分が自立しているように見えるのは虚妄である。自由意志も幻想 である。幻想であるはずである。これが倫理的な立場であると言ったスピノザは凄かっ た。
すべてが一つの実体であると考える思想は、すべてが夢幻であるやも知れぬと考える東 洋の禅の思想と、まったく正反対の方向から同じ地点にまで到達している。倫理といえ ば、これが究極の倫理かも知れない。しかし、デカルトが物質と精神の二つの実体を考え たのは、この世に存在する「分割」や「区別」を迷妄、虚妄とは言い切りがたいものがある ことを認めていたからである。たとえば、この私の意識というものは、幻なのか。そして、
私の心とは独立した動きを見せる他者の心があるようであったり、わたしの思いのままに ならない世界の成り行きがあるように思えるのは、幻なのか。
スピノザに対して、ライプニッツはこの「分割」のリアリティにもう少し理解があったの で、『モナドロジー』(1714 年)で、「モナド」と「予定調和」の思想を考え出した。これ は実体は一つではなく、逆に、無数であると考える思想である。世界はモナドという無数 の実体によって成り立っており、各モナド間には相互作用はない。モナドは実体であるか ら自立しているのである。そして、各モナド内部には多様性と変化が認められる。この内 的差異によって、あるモナドは他の全てのモナドから区別される。モナドは自己完結して おり外部とは関係しないが、「予定調和」によって世界全体を自己の内部に映しだしてい る、と言う。モナド的な考え方を取ることによって、この私の自我が世界を認識しながら 世界から独立して存在するように思えることの根拠が説明される。これもまた、世界の説 明のモデルとしては一つの究極であり、理論的な破たんはない。
スピノザやライプニッツの実体論では、「この私」という意識が存在することの「意味」は 示されない。個的な意識の存在や実存的な自由意志などは幻であるとするのがこれら実体 論の立場である。これらが異端であるとは言っても、正統なキリスト教の教義から見れば 異端ということであって、こうした「意識の非実体性」を唱える思想そのものは珍しくな く、むしろキリスト教圏外ではポピュラーなものである。先にも述べた通り、キリスト教 の成立以前から地中海世界では民衆のあいだでは広くオルフェウス教の浸透があり、キリ スト教内部でもグノーシス主義があった。グノーシス主義は、今日正統とされるカソリッ ク教会の一派からはもっとも危険な異端思想と見なされていた。先にも言及した三位一体 の教義は、教会内にも支持者の多かったグノーシス派を退けて成立したものである。オル
フェウス教やグノーシス主義というのは、要約すれば、清められた生活や知的探求の努力 によって、汚れた地上の生活、肉体という牢獄から抜け出し、完全で幸福な永遠の生命に 至れるという思想である。地上における「この私」という意識は本当の私のあり方ではな いと考える。キリスト教と似ている部分も多いのだが、これらの何が異端かといえば、イ エス・キリストという「媒介」を必要としないから異端なのである。より直截に言えば、教 会というイエスの代理者を必要としない思想であるから異端なのである。スピノザやライ プニッツの異端的な実体論は、イエスや教会を経由せずに実体(絶対者)に到達しようとす る点からすれば、オルフェウス教やグノーシス主義と共通の異端性をもっている。
1.3.3 西洋近代文明とキリスト教
思想や宗教として、オルフェウス教やグノーシス主義とキリスト教、またはスピノザや ライプニッツの実体論とキリスト教を、比較してどちらが優れているということは言えな い。ただ一つ歴史を見て言えるのは、キリスト教的な「媒介の思想」は強かったということ である。キリスト教は、その教義においていかに天上の永遠なる生命を肯定しようとも、
地上の生活についての支配力がおそらくもっとも強力な宗教の一つであった。中世の十字 軍をはじめとして、近代の植民地政策や自然科学などの背景を見れば、ヨーロッパ諸国を 軍事経済的に抜きんでた存在にした母胎はキリスト教である。キリスト教が現実に強い理 由は、簡単に言えば、キリスト教の教義が三位一体で現わされるように、「媒体」を肯定す るからである。三位一体の教義は、イエスを肉体を具えた神の子として、霊性を具えなが ら地上に生きた存在として肯定する。そして、イエスという奇跡的な霊と肉の結合こそ が、人間が天上へ至る唯一の通路であるとされる。こうした、天上と地上を結ぶ中間的な 媒体を設定し、さらにその媒体を組織へと転移し、その意義を強く肯定した宗教は珍しい。
これによって、キリスト教会は地上にありながら霊に至る唯一の通路として教会組織への 信仰を集め、地上的な権力を得た。比較すれば、オルフェウス教やグノーシス主義は、媒 体を通さずに天上へのあこがれに直截に没入するから、地上の生を否定することになりが ちである。一方、ユダヤ教のように民族の生活と一体の宗教は、地上の生活をただそのま ま肯定するのであり、天上への神聖な通路として地上の組織を格別に擁護したりはしな い。天上は天上、地上は地上である。キリスト教だけが、神聖性へ至る「通路」として地上 の組織を強力に肯定するという方法を拡大再生産していった。その結果は、教会の世俗権 力としての拡大と、それを母胎として育まれた、世界史上類例のない強力な政治、経済、軍
事をもつ西欧物質文明の誕生であった。西欧物質文明のもつ力の根幹にキリスト教の三位 一体の教義があったことは銘記されて然るべきである。
中沢新一は『緑の資本論』(2002 年)、『三位一体モデル』(2006 年)などにおいて、キ リスト教の三位一体のモデルは、神から発する「聖霊」が世界を流動し増殖する考え方であ り、これが流動資本という資本主義の原理を可能にすると述べている。三位一体モデル は、価値が自己増殖する資本主義経済、圧倒的な非対称性をもって加速、増殖の一途をた どる西欧近代文明の母型となっている。対照として中沢が挙げるのは、イスラム教であ る。象徴とその意味するもの、シニフィアンとシニフィエの厳密な対応を重視するイスラ ム教では、金銭の貸し借りにあたって利子を取ることを禁じる。象徴にはつねに神の意志 が反映されていなくてはならない。象徴そのものが勝手に自己運動をし、増殖してはいけ ないのである。これは、たとえば、キリスト教圏では、十字軍を聖地へ手引きする旅行代 理店兼ボディーガード業として始まったテンプル騎士団が、世界初のトラベラーズ・
チェックと銀行のシステムを発明し、利子を取ることで莫大な富を築いたことと比べる と、実に対照的であると言えよう。中沢は次のように指摘する。
ここで興味深いことがおこる。一神教の神は、人間のおこなう有限な認識領域を横 断していく超越的な流動的知性として、どんな認識の手段によってもとらえ尽くすこ とはできないはずのものである。つまり、神は実無限である。キリストは地上にあっ て、この神と同質である。ということは、人間の知性がとらえる現実の世界のうちに無 限がある。あるいは有限の世界に無限が繰り込まれているという事態がおこることに なる。イスラームではこういうことは絶対におきない。実無限である神の領域と、人 間の領域との間には厳然たる深淵が横たわっているからだ。ところがイエスに神聖を 認めるキリスト教にあっては、現実世界に実無限が繰り込まれているという、とてつも ないことが発生する。1)
現実世界に実無限が繰り込まれるというのはどういうことなのか、中沢は明確には述べ ていないが、筆者の理解では、現実がヘーゲル的な意味で悪無限化する(終りをもたないプ ロセスとなる)ということだろう。だが、われわれは中沢新一に則っていささか先走りす ぎた。三位一体が可能にする「聖霊」もしくは「生命」の自己増殖的な流動、もしくは現実
1) 中沢新一『緑の資本論』集英社、2002 年、82 頁