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資料②
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第 二 章 じ ゃ ん が
仏・踊 ら 念
躍 念
仏
一︑
じゃ
んがら念仏踊り
福島県いわき地方に伝わる念仏踊りに﹁じゃんがら念仏踊り﹂がある︒
﹁じ
ゃん
がら
念仏
﹂
︑
﹁じ
ゃん
がら
でえ
こ﹂
(﹁
でえ
こ﹂
は﹁
太鼓
﹂のなまりてあるいは単に﹁じゃんがら﹂などとも呼ばれ︑現在も孟蘭盆の時期を中心に盛ん
に行われている︒
本稿ではこの﹁じゃんがら念仏踊り﹂について︑昨年夏︑現地を取材に訪ねた折に入手した資料や聞き得た情報な
どをもとに紹介しようと思う︒
または祐天上人(
一六三七
1
一七一八)がその創始者と言
われ
てい
るが
︑
実はいまだ明確になっていないようである︒両上人はいわきの出身ということもあり︑地元
ト)
一般には江戸時代に活躍した袋中上人(一
五五
二
1
一六三九)
では
二者のいずれかであろうと考えられているが︑当地の郷土史家
であ
った鍋田三善は両上人のほかに名越派第五世
の良栄上人(一三四二
1
一四
二八)を挙げ︑この三名のいずれかが創始者であろうとしている︒他にも当地の史誌
また︑農民が念仏を田植え歌風にアレンジして踊り遊んだとする﹃石城群誌﹄では祐天上人であることが力説され︑
説や︑慶長年間の僧・泡斎が︑寺院修理勧進のために江戸市中ではじめたと伝えられる﹁泡斎念仏﹂にその起源を求
める説など様々あって︑いまだ研究の余地が残されている︒
なお︑同県には会津若松市に﹁空也念仏踊り﹂︑白河市に﹁白河念仏踊り﹂︑石川
郡に
﹁花笠念仏踊り﹂などがあり︑
さらに長崎県平戸島には﹁自安我楽﹂とよぶ念仏踊りが伝わっており︑これらとの関係を探ってみるのも興味深い︒
役三ないし五名︑鉦役十名ほどで行われる︒
﹁じ
ゃん
がら
念
仏踊り﹂は紋付き袴姿の提灯持ち一名︑揃いの浴衣にたすき掛け︑手甲︑脚紳︑白足袋姿の太鼓
①
﹁道中曜子﹂(道中流し︑流し太鼓︑流し)
鉦を打ち鳴らしながら入場し︑鉦役が円障を組み︑中央に太鼓役が並ぶ
(写
真 1)
︒
②
﹁念
仏﹂
太鼓の音に合わせ︑﹁ナムアミダプツ﹂が変形したとされる﹁ハアlハl
ハイ
モlホlホl
ホイ
守r︑︑︑︑rd ll
ノ
11
ノ
ノ、
メlへlへlへlダlハl﹂の詩句を節をつけてとなえ︑さらに﹁盆てば米のめしおつけてばナス汁
十六ささげのよごしはどうだいオセl﹂という念仏歌を踊り歌う(写真
2)
︒
③
﹁ぶ っつ け﹂ (じ ゃん がら
︑かみなり落とし)
かけ声に合わせて太鼓と鉦を激しく打ち︑テンポアップする(写真
3 )
︒
②中の念仏歌は﹁盆といえば米のごはん︑汁物にはナス汁︑ささげの和え物はいかがですか﹂といったほどの意味
で︑句の供物を精霊へ捧げる心を歌ったものと言われる︒
また︑テンポや踊りは各グループによって若干の差異がある︒
写真2
干 恒 ) 八 歳 カ ョ ら 十 歳 ぐ ら ま で
﹁じゃんがら念仏踊り﹂
は ︑
いわき地方の特に中部︑沿岸部で盛んである︒それを伝えているのは各地区の青年
で結成された保存会で︑その数は(会員不足等による活動休止中の会を含めて)現
在百以上を数えることが出来るという︒かつては男性が中心であったが︑近年は女性の会員も多く︑彩りを添えてい
る︒
いわき市で毎年七月六日からの三日間行われている七夕まつりの中で﹁青年じゃんがら大会﹂が催され︑
内の十グループほとが日頃の稽古の成果を披露しているほか︑小規模ながら地区ごとの発表会も行われているという︒ いわき市
また︑孟蘭盆の時期になると朝から夜半まで︑各地区の新盆を迎えた精霊の廻向のためにその家々を巡っては庭先
で歌い踊り︑奉納している︒
踊ゅ
躍?
念
2
二 仏ミは 踊、 躍 念 仏
空
也上人
一遍
上人
︑
一向上人が諸国を遊行し︑念仏弘通の為に始めたものとされるが︑本稿では︑
一向上人の踊躍念仏を取り上げ︑歴史と由来︑実際の法要について法式面からの考察︑現状等を述べていきたい︒
歴 史
①一
向上人について
まず踊躍念仏の開祖︑一向上人の生涯と足跡をごく簡単
に辿
ってみたい︒
生年は暦仁二
年(
一
二三
九)︑生地は筑後
国 ︒
七歳で播州書写山に登り︑十五歳で剃髪受戒し︑俊聖と競した︒
後 ︑ 六年間南都に遊学し︑さらに建長六年(
一二
五
四)
︑鎌
倉に下り︑浄土宗三祖良忠上人に二十一歳から
十五年間随従
し︑文永十年(一二七三
)に
は︑
忠上人の許を辞し︑諸国遊行を始めた︒
また︑同年夏には︑無常偶及び浄土和讃を製作し︑時衆と呼ばれる門徒を従え︑善導大師十四行偽を常に唱え︑教 一
向専
念の
文よ
り︑
﹁
一向﹂と名を改め︑念仏修業に専念した︒
同年
︑
三十五歳で良
化活動を行
った
と伝え
られ
てい
る︒
翌年夏︑大隅正八幡にて︑四十八夜の不断念仏を修し秋︑肥後に出︑豊前宇佐八幡で︑四十八夜の踊り念仏を修し
︐ 司 ︒
+九
翌建治元年(一二七五)八月︑薩摩から讃岐に渡ろうとし︑この時︑大時化に遭うが︑無事に上陸することができ
た︒この際のエピソードが踊躍念仏の由来と深く関わってくるが︑後述させていただき︑一向上人の足跡を辿ってみ
‑ ︐
︑
︑A
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ふた︿ち東北方面においては︑弘安元年(
一 二
七八
)︑
奥州
から
二口峠越えで出羽にはいり︑山形の高沢に清
雲寺
︑天童の石
し よ う ぼ う ぬ き づ あ ん ぜ ん し よ う げ
倉に正法寺︑貫津に安漸寺︑清池に石仏寺︑さらに仏向寺と︑上人に帰依した人々の寄進により︑造寺が次々と行
われた︒その後も︑諸国遊行を行い︑弘安十年(
一 二
八七
)
一月十八日︑近江国番場の蓮華寺において寂滅した︒
れ い ち あ
上人の入滅後︑直弟子の礼智阿は番場の蓮華寺に住したが︑十四人の弟子は諸国を遊行し︑教えを広めた︒この弟
子達の足跡は八県十
一 ヶ
所に﹁番場踊り﹂の名で民俗芸能化し根を下ろした︒
②近世の踊躍念仏
一向上人が開基の寺の中で︑現在まで踊躍念仏を伝承しているのは天童市の仏向寺のみである︒
かみのやま仏向寺の踊躍念仏も︑度々︑伝承が途切れる危機が訪れたが︑上山市の宝泉寺佐藤隆応(一八六三
1
一九三こ師が︑復元に尽力し︑法要の期日を一考上人の思日である十一月十八日の速夜にあたる十七日に改めた︒
③仏向寺について
一向上人が︑天童城主二階堂頼康父子の庇護のもと︑弘安元年(一二七八)に建
立した時宗一向派の寺院である︒始めは︑成生の地に︑七堂伽藍と十八の塔中寺院︑一千石の寺領を有する寺であっ
たが︑頼康父子が︑一向上人在世の間に現在の値へ移転した︒天保十一年(一八四
O )
以前は︑番場の蓮華寺と本末を争うほど勢力を有していた︒昭和十七年(一九四二)に政府の教団統合政策によって浄土宗に転入し︑第二次大戦
後の宗教法人法制定後も︑浄土宗にとどまっている︒ 天童市の宝樹山称名院仏向寺は︑