はじめに
﹁南無阿弥陀仏﹂とひたすら念仏する人は︑仏を何いで対話する心となり︑三心が具足されていく︒そして仏の本
願によって真の心の健康がもたらされるが︑悩む人にはカウンセリングが取り持ちの役を果すであろう︒西洋で発達
したカウンセリングも︑その柱は三心に通じている︒対話による癒しは︑相手のいのちを大いなるいのちの現れとし
て敬う心ですすめる限り︑三心の念仏の心の働きによるものとみてよいであろう︒
一 ︑ 三 心の念仏による大いなるいのちとの対話
法然上人の念仏の特色は称名を強調されたことにあるといってよいだろう︒なぜ口にとなえる称名が大切なのだろ
うか︒
法然上人は﹁十二問答﹂の中で︑次のようにお話しされた︒
問日︒念仏の行者等日別の所作にをいて︑こゑをたて﹀申す人も候︒又心に念じてかずをとる人も候︒いづれか
よく候べき︒答︒それは口にてとなふるも名号︑心にて念ずるも名号なれば︑いづれも往生の業とはなるべし︒
たジし︑仏の本願は︑称名の願なるがゆへに︑声をたて﹀となふべき也︒このゆへに経には令声不絶具足十念と
とき︑釈には称我名号下至十声との給へり︒耳にきこゆる程は︑高声念仏にとる也︒きればとて機嫌をしらず︑
高声なるべきにはあらず︒地体は声に出さんとおもふべき也︒
すなわち︑本願の念仏は声をだして称名することであり︑それも大声ではなく耳に聞こえる程度でとなえる念仏が
ょいと仰せられた︒このような念仏をひたすらとなえさせて頂くと︑仏と対話している心境となる︒その仏は大いな
るいのちの働きである︒いわばいのちとの対話であり︑これによって生かされて生きている自己が深く感じられてく
心﹂であり︑生念仏の心は﹁三心﹂として説かれているが︑その中の至誠心は︑﹁誠を尽くして自己をかえりみる る
かされている自分が果していのちの法則に随順しているかどうかを反省するかまえが仏との対話でつくられていく︒
次に
︑
三心の中
の深
心は︑深く自己の心をみ
つめ
たと
きに
︑
なすべきことをなさず︑すべきでないことをしてしま
う罪深い自己に気づくこと
(機
の深
信)
︑
そし
て︑
そのような私をも︑仏は見捨てないで救おうとしてくださってい
るのだ︑ああ有り難い︑とめざめること
(法
の深
信)
である︒回心と呼ばれる心の転換であるが︑仏との対話︑すな
わち称名念仏をひたすら続ける中でそれが進んでいく︒
さら
に︑
三心の中の回向発願心は︑浄土への往生を願う心である︒すべての人が健康で幸せに生きられる浄土は︑
とても自分の力で行くことができないあの世である︒しかし︑念仏申せば必ず往かせていただくことができると信ず
る心が︑仏との対話で深まり︑さらにそれを願う心も高まっていく︒そのような人は︑この世においても健康な生き
方を
志し
︑
たとえ死期が近づいても︑不安をのりこえ︑生きる喜びを見出すことができるであろう︒
そのためには︑至誠心のところで述べた﹁深く自己をかえりみて︑いのちの法則に随順した生き方﹂をすること︑
深心のところで述べた回心によって︑﹁罪深い自分をざんげし︑なお罪深いままの自分が仏の慈悲で救われ生かされ
ている﹂と信じること︑回向発願心のところで述べた
﹁ 生
死の不安をのりこえ︑真に生きようと願う﹂ことが強くも
とめられよう︒大いなるいのちの働き﹁阿弥陀仏﹂との対話によって︑これらの心はより深まっていく︒限りなく大
いなるいのち(阿弥陀仏)との対話(念仏)は︑三心が深められるとともに身と心の健康度もたかまる︒たとえ成人
病などの病気があったとしても︑生命活動のバランスが保たれ︑いきいきと生活することができる︒
ちもよりすこやかなものへと導かれる︒後生のことは仏におまかせして︑ ひたすら念仏申す生活は︑浄土への往生の道を拓く︒と︑同時に︑大いなるいのちの働きによって︑この世のいの
たとえ病気があろうとも︑生かされて生き
る今のいのちを精一杯生き抜こうと︑念仏者は心がけたいものである︒
一 一 、
カウンセリングと念仏
対話によって心の転換をはかり︑心に真の健康をもたらすカウンセリングが︑最近注目されている︒これは仏教と
なじむものであり︑とりわけ念仏の心はカウンセリングの原動力となりうる︒
カウンセリングという社会的実践を通して︑念仏が心の健康に寄与すること︑とくに人生末期の人びとを最後まで
支えぬく力となることを︑本節以下で明らかにしたい︒
カウンセリングは︑問題解決を求める人すなわちクライエントと︑﹂れを支援するカウンセラーとの人間関係によ
ってすすめられる︒そしてカウンセラーには︑次の三つの基本的態度が求められる︒第一
には
︑
カウンセラーの
﹁ 自
己一致﹂である︒第二
に は
︑
クライエントを﹁無条件に尊重﹂すること︑受容することである︒第三
には
︑
クラ
イエ
ントとの﹁共感によって理解を深める﹂ことである︒
これ
らは
︑
言葉では簡単であるが実践は容易でない︒一
般に
﹁相手を批判しないで話を聞くことだ﹂といわれる︒しかしカウンセラーにも自我がある︒これがたちはだかって︑
表だっては批判しないが︑心から受容できないことも多い︒このことをカウンセラーが自覚していないと︑自己一致
に反する態度をとることになろう︒これをいかに克服するかが課題となる︒
共感による理解にも課題がある︒共感が成立するためには相手の主観と自己の主観とが共有される必要があるが︑
カウンセラーの思いいれによって相手の主観と共鳴するものを自分の中に生みだし︑これと相手との共感を真の共感
と思いこんでしまうことがあるからである︒思いこみからは相手をありのままに理解する力は生まれてこないし︑相
との共感ω手が自己を深くみつめて自我の変革をはかる力動性も生じにくい︒ありのままの真の相手(クライエント)
を ︑ いかにしてもつかが課題となる︒
非指示的療法をとなえたロジャース以前のカウンセリングでは︑カウンセラーが中心となってクライエントを導く
努力をしていた︒いわばカウンセラーが主体でクライエントは客体に位置づけられていたといってもよいであろう︒
カウンセラーはクライエントを無条件に受容して聞く立場にたち︑これに対しロジャースは︑いわばクライエントを
主体とするカウンセリングを提唱した︒これがわが国でも普及するようになった︒しかし︑仏教の立場からは︑主体
をどちらかに固定する考え方は望ましいといえず︑主体客体は相互に転換するものと考えたい︒クライエントの人間 的成長をめざすためには︑クライエントが主体的立場にたつことが必要であるが︑ときにはカウンセラーが主体的立 場に立つ方がよい場面もあろう︒形にとらわれず自由であることがより望ましいと考える︒そして︑仏教に基づくカ ウンセリングであるためには︑何よりも仏法が尊重されなければならない︒人間的成長︑あるいは問題解決の原動力 は︑カウンセラーから来るものでもなければクライエントから生ずるものでもない︒両者を包む仏の慈悲と︑両者を 導く仏の知恵が源泉となり︑クライエントもカウンセラーも共に成長していくことが根本原理となろう︒
その
意味
で︑
中心をどこに求めるかといえば﹁仏法が中心﹂であると考えたい︒
欧米で発達したカウンセリングは︑近代思想の上に
立つ
ものである︒その近代思想は︑分析的思考を重視し︑もの
ごとの因果関係を追究する傾向が強い︒これに対し仏教思想は︑ものごとの相互関連性を重視し︑力動的な思考を好
む︒あるがままの存在の中に潜む発展的な力を尊重する思想である
︒﹁
煩
悩即菩提﹂という言葉が示すように︑迷い
をもたらす煩悩の中に︑真の自分に目覚め向上する菩提心があるという考え方である︒
したがって仏教カウンセリングは︑カウンセリング一般が悩みや悲しみの感情を自由に発露したあとに自己転換が
起きることを期待するのと異り︑悩みながらもそれが原動力となって新しい価値意識やめざめが生まれてくることを
願うものである︒これは︑ありのままの姿を尊重する日本の生活文化となじみやすいカウンセリングであると思われ
仏教の中でも︑浄土門すなわち念仏の教えは︑仏法を主体的にうけとめ︑自我を超えた仏の働きにゆだねることに る
よって︑聞かれた自我への発展をはかるものとみることができる︒実践方法としては︑称名念仏にひたすらうちこみ︑
いのちの働きの総体とも
言う
べき無量寿知来の本願(いのちの願い)を信じ︑本願の働きによって信心を得るのであ
る
一般
に﹁
他力の教え﹂
とい
われ
るが
︑
信
心を
︑
自我の努力によってではなく︑生の根源である無量寿如来からの
働きかけによって内発的に得ていくところに特色がある︒無量寿如来というのは︑サンスクリットのアミタl
ユス
の
漢語訳であり︑アミタは限りなく大きいという意味︑ア1ユスはいのちという意味を示す言葉である︒わが国では阿
弥陀如来とよぶが︑すべてのものを生かし︑迷う人も悟ったつもりの人も︑わけへだでなく救って︑理想世界(浄
土
へと導く仏である︒
アミ
タ
lユスは人間にとって︑自我を超えた存在であると同時に現にいま生きている一人一
人の人聞を生かす力として︑働きかけている存在である︒