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ドキュメント内 教化研究 No.20 (ページ 191-199)

日 てげ 大 羅

言 什

54

者 す 偏 る tr

sh 

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芋 師

は 父 天 を 竺 鳩 国 摩 の 羅 人 瑛 な

と云う︒家︑世々相国たり︒什の祖父︑達多︑伺償に

して群ならず︒名︑国に重ねらる︒父︑鳩摩羅政︑聡

明にして認節有り︒将に相位を嗣がんとす︒乃ち辞し

避けて出家し︑東︑葱嶺を度り︑亀該国に至る

﹃ 梁

僧 伝

義﹄

︑ 北 に 他 り

k︑ 必

は 靖 之

切︒ ﹃

名 義 集

﹂ 一 ‑

一巻

卜 五 紙

に云

わ く

︑ 文

た ︑

丘 慈

と 音

す ︒ ﹃

西

械 記 ﹂ 一

巻 五 紙 に 日 わ く ︑

﹁ 閉 山 ( 肘 勿 切 ) 支 凶

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旧 に 他

滋と 目立

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話 新

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注 に

一五 わ く

亀該 国 ︑

西夷

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︒斉

の 穆

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一五

わく

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使い

国家

尽く

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以 南

︑ 循

お 州

地 滋

と 作

す べ

︒国主白純王︑其の栄を棄つる

ことを聞きて︑甚だ之を敬慕し︑自ら郊に出て迎え請

して国師とす︒王に妹有り︒年始めて二十︒才悟明敏

にして日を過ぐれば必ず解す︒一たび聞くときは︑則

ち請す︒且つ体に赤贋有り︒法︑智子生む︒諸国︑之 を縛すれども︑並びに行くことを肯えんぜず︒羅瑛を

見るに及びて︑心︑之に当たらんと欲す︒乃ち逼りて

以ちて妻あわす︒既にして什を懐く︒

什︑

胎に

在る

時︑

其の母︑恵解常に倍す︒雀梨大寺名徳既に多く又た得

道の僧有るを聞きて即ち王族の貴女︑徳行の諸尼と日

を弥りて供を設け︑請斉聴法す︒什の母︑忽ち自ら天

竺の語に通じ︑難問の辞︑必ず淵致を窮む︒衆︑戚な

歎異す︒羅漢達摩塵沙と云う有り︒日わく︑此れ必ず

智子を懐かんと︒為に舎利弗在胎の証を説く︒什が生

るの

後に

其ひ

て︑

還り

て前

を忘

︒久

しく

して

什が

母︑

出家を楽欲す︒夫︑未だ之を許さず︒遂に更に一男を

産す︒弗沙提婆

召搭 倫の 了注

ζ

品に 云わ 勺遂 に

付と

弗沙

縫婆

を生

と名づく︒後に因りて城を出て︑遊観して塚聞の

枯骨異処縦横なるを見る︒是に於いて深く苦本を悟る︒

定んで離俗を求む︒誓いて落髪を志して飲食を咽まず︒

日の夜に至りて気力綿乏にして︑

旦に達せざらんと

疑う︒

夫︑ 乃ち 陥刷 れて 許す

︒未だ髪を剃らざるを以ち

て︑故に猶お嘗て進まず︑即ち人に勅して為に髪を除く

『阿弥陀経随聞講録』書き下し 189 

乃ち飲食を下す︒

次の

E

︑ 一 吋

g Z

戒を受く︒的りて禅法

を業

とし

て︑

専精僻るに匪ず︒学︑初果を得たり︒

什 ︑

年七歳にして︑爾も倶に出家す﹃仏

像邑 に

云わら

時に 白

純玉

︑乃ち長公主をちて︑強いて之に褒あわす

未だ生ぜざるに︑談︑卒す命終の時にんで︑其の妻を誠めて日わく

艇を免

ず ︑

吾が滅後に生此れ若し走

勿れ

ず能く多才にして広人存度

爾然して後︑攻︑卒了に経

て七歳︑母と共に出家す果事証

是れ其の異説なり

て日に千偏を諦す︒

偏に

三十二字有り︑凡そ三万二千

一言︒昆曇を諦するに︑既に師︑其の義を授くるに過ぎ

て︑即ち自ら通達して幽として暢せずということ無し︒

時に亀慈の国人︑其の母︑王の女なるを以ちて︑利養︑

甚だ多し︒乃ち什を携えて之を避く︒什︑年九歳︑母

に随いて周賓に至る︒

名徳の法師︑盤頭達多に遇う

即ち厨賓王の従弟なり︒

才明 博識

時に独歩す

蔵九

部︑

該博せずということ莫し︒什︑至りて即ち崇

むるに師の礼を以ちです︒従いて雑蔵の中長二含を受 く︒凡そ四百万言なり︒達多︑毎に什と論議して深く

之に推服す︒遂に声︑

王崩 賓

に徹る︒王︑即ち請じて

入れて外道論師を集めて︑共に相い攻難せしむ︒言

気 ︑

始めて交わるに︑外道︑其の幼稚を軽んじて︑言は頗

る不遜なり︒什︑其の隙に乗じて之を挫く︒外道︑折

伏憤慨して言無し︒王︑益ます敬異して︑日に鵡脂一

双 ︑

梗・

米・

題︑

三斗︑酔六升を給う︒此れ外国の上供なり︒

住する所の寺僧︑乃ち大憎五人︑沙弥十人を差わして

漉掃を営視して︑弟子の若きこと有り

︒其の尊崇さる

こと

︑此の知し︒年十二に至りて︑其の母︑携えて亀

認に還る︒月支の北山雪山

の 別 名

に至る︒一羅漢有り︒見

て而して之を異しむ︒其の母に調う︒言わく︑常に当

に守護すべし︒

此の 沙弥 一見 当と 若し

十五 に

至るまで破

戒せずんば︑当に大いに仏法を興し無数の人を度する

こと優婆趨多と異なること無かるべし︒若し戒全から

ずんば能く為すこと無けん︒止︑才明篤芸の法師なる

べき のみ

︒什

︑進 みて

沙勅国に至る︒母と倶に寺に入る︒

仏鉢を頂戴して︑心に自ら念言すらく︑鉢形甚だ大に

研究ノート

して何ぞ其れ軽ろからんや︒即ち重して勝ぐべからず︒

声を失して之を下ろす︒母に其の故を問う︒答えて日

わく︑我れ心に分別有り︒故に鉢に軽重有るのみ京宏の

疏世

に云

わく

︑遂

に万

法唯

心移

悟る

︒遂に沙勅国に停ること一

年 ︑

阿毘曇六足の諸論︑増一阿含を諦す︒亀蕗に還るに及

びて名諸国に蓋う︒時に亀慈の僧衆一万余人︑凡夫に

非ずと疑う︒戚な推して之を敬い敢えて上に居ること

莫し

︒是に由りて焼香の次に預らず︒

に遂 博く 四章 陀︑

五明の諸論︑外道の経書を覧ず︒陰陽星算究して暁ら

めずということ莫し︒妙に吉凶に達して︑言︑符契の

若し︒後に仏陀耶舎に従いて十諦律を学し︑又た︑須

利耶蘇摩に従いて大乗を諮票して︑乃ち歎じて日わく︑

﹁吾 れ︑ 昔小 乗を す学

︒誓えば人の金を識らず︑鏡石を

以ちて妙とするが知し﹂

︒是に於いて広く義要を求め

﹃中

﹂ ﹁

百﹄二論及び﹁十二門論﹄等を諦す︒頃らく有

りて什の母︑辞して天竺に往く︒亀蕊王白純に謂いて

日わく︑﹁汝︑園︑尋いで衰う

吾れ 其れ 去ん

行き

て天竺に至りて︑進みて三果に登る︒什が母︑去るに

臨みて什に調いて日わく︑﹁方等の深教を応に大いに真

丹に閣くべし︒之を東土に伝えんことは︑唯︑爾が力

なり︒

但し自身に於いて利無けん

︒其

れ知 何が すべ

﹂き

什日わく︑﹁大士の道︑彼を利するに射を忘る

︒若し必

ず大化をして流可ミゲ一伝せしめて︑能く牒俗を洗悟せ

ば︑復た嫡鍍苦に当ると離も恨み無し﹂と︒是に於い

て亀蕊に留住し︑白純王の新寺に止る︒後ち︑寺の側

の故宮の中に於いて初めて﹃放光経﹄を得たり︒

始て 披き読むに就き︑魔︑来たりて文を蔽い︑唯︑空牒を 見る

什︑魔の為す所と知りて︑誓心愈固し

︒魔去りて

字︑ 顕る

︒閃りて之を習諦す︒

後ち︑雀梨大寺に於いて

大乗経を読む︒

忽ち聞くに︑空中に語りて日わく︑﹁汝

は是れ智人︑何を以ちて之を読むや﹂︒

什の 日わ く︑

﹁汝

は是れ小魔︑宜く時に速やかに去るべし︒我が心︑地

の知 し

転︑ ず可 らか ざる なり

︒停住すること二年︑広

く大乗経論を諦して其の秘奥を洞にす︒亀蕊王為に金

師子の座を造り︑大秦の錦樽を以ちて之を舗く︒什を

して昇りて説法せしむ︒

什日わく︑﹁家師︑猶お未だ大

『阿弥陀経随聞講録

J

書き下し 191 

乗を悟らず

朗を往て仰化せんと欲す

︒此に停まるこ

とを

得ず

俄にして大師盤頭達多︑遠しとせずして至

る︒王日わく︑﹁大師何ぞ能く遠顧す﹂︒達多の日わく︑

﹁一には弟子の悟る所︑常に非.さることを聞く︒こ

には

大王の仏道を弘讃することを聞く

故に顛危を胃渉し て遠く神国に奔る﹂と

什︑師の至るを得て本懐を遂 る こ と を 欣 ぶ 思 の

E

露呈には﹁広

く大 乗経 論を 請す

︒其

の秘

奥を

綱に し後 ち盟 賞に 往く

︒其

一帥 の為 に説 く﹂ と言

う 即ち師の為に具さに︒

一乗妙義を説く

師︑感悟心服して即ち什を礼す

︒師

と為す︒言わく︑﹁我は是れ和上︑小乗の師︑和尚は是

れ我が大乗の師なり﹂と

西域の諸国︑什の神儒に伏 して︑戚く共に崇仰す

講説に至る毎に︑諸王高座の 側に長脆して︑什をして其の膝を践て以ちて登らしむ

其の重んぜらること此の知し

什︑既に道︑西域に流

る︒名︑東国に被る︒時に前秦の符堅︑関中に借号す︒

漢︑ 長安 に都 す ︒ 東に 函谷 関有

り ︒

南に 暁関 武閲 有り

︒西

に散 閥有 り北︒ 一 道 管 一 に 新関 有り

︒四

闘の 中に 居る 故に 開中 と

Hぅ︒建元十三年歳丁丑に次る

正月に至りて︑太史奏して日わく︑﹁星有り ︒外国の分 野に見る︒当に大徳智人有りて︑入て中国を輔くべし﹂︒

堅︑素より什が名を聞く︒

乃ち

悟り

て日

わく

︑﹁

朕︑

聞く

西域に鳩摩羅什と云う人有り︒将た此に非ずや﹂︒十八

年九月

﹃ 一 型 車

二の 上

︑ 十 一 一 紙

に﹁

十八

﹂年

と 云 う ︒ 言連

三巻

十七 紙に

﹁﹃ 本信 に同 じ︑ 十八 年九 月﹂ と云 う ︒

﹃ 出

三蔵

記﹂ には

﹁十 九年

﹂と 云う

︒倣

ずる に卜 八

年を

正と

す 即ち騒騎将軍呂光等をして︑兵七万を率いて︑︒

西が亀葱及び鳥者の諸国を伐しめて︑発するに臨んで 堅︑光を建章宮に儲けし︑光に調いて日わく︑﹁夫れ帝

王は天に応じて治す︒

蒼生を子愛するを以ちて本とす

宣に其

の地を貧じて之を伐たんや

正に道を懐くの人

を以う故なり︒

朕聞

く︑

﹁西国に鳩摩羅什という人有り︑

深く法相を解し︑善く陰陽を閑らいて後学之宗たり﹄と︒

朕︑甚だ之を思う︒賢哲のひとは国の大宝なり

︒若し

亀蕊に魁てば即ち駅を馳せて什を送れ

﹂と︒

光軍︑未

だ到らず︒

什︑亀滋

王白純に調いて日わく︑﹁国運衰え

り︒当

に劫敵有りて︑日下の人︑東方従り来たるべし

宜しく恭しく之を承けて︑其の鋒を抗するなかるべし﹂ ︒

純︑従わずして戦う

光︑遂に亀蕗を破す

純を殺し

ドキュメント内 教化研究 No.20 (ページ 191-199)

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