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教区

ウジヌ コンス マランス ケージュ エリ

― 209 ― 黒

死 病 で ど れ だ け の 人 が 死 ん だ か

れて いた 人口 移動 を示 すも ので ある

︒す なわ ち︑ この よう な高 い増 加率 は︑ 空に なっ た優 良な 家屋 へ移 り住 んだ 小自 作農 世帯

・小 作人 世帯

・転 借人 世帯

・季 節労 働者 世帯 のな どの

︑農 村部 の土 地を 持た ない 世帯 によ る社 会的 移動 によ ると ころ が大 きい に違 いな い︒ 貧困 者世 帯に よる 長距 離の 移動 と移 住は

︑達 成す るの に時 間の かか る︑ 骨の 折れ るこ とで あっ たけ れど も︑ 多く の人 びと がそ れを 実行 して

︑新 しい 好ま しい 生活 に転 向で きた ので ある

︒黒 死病 で人 口が 半減 した にも かか わら ず︵ いや

︑﹁ そ れゆ えに

﹂と いう べ き か︶

︑ この 地 域 は激 し い 世帯 増 加 を 見せ て い るの で あ る︒ これ は︑ 幸運 にも 生き 残っ た者 たち の︑ 富と 豊か さを 求め た社 会変 動を 如実 に示 す生 々し い記 録で ある

︒な お︑ ケー ジュ の教 区が あま り増 加し てい ない

︵﹁ 六 パー セン ト﹂

︶│

│こ れは ケー ジュ 教区 に魅 力が なか った ので はな い︒ むし ろ魅 力が あっ たが ゆえ に︑ 先に 埋ま って しま って もは や入 る余 地が なか った ので ある

︒一 方︑ ウジ ヌか ら三

〇キ ロメ ート ル離 れた 小作 農地 域︑ サラ ンシ ュ教 区で は︑ ウジ ヌの 世帯 増加 と対 照的 に大 幅の 世帯 数の 減少 が認 めら れる ので ある

﹇* 一三 五三 年か らの 三年 間で

﹁一 六・ 五パ ーセ ント

﹂︑ つま り年 率﹁ 五・ 五パ ーセ ント

﹂も の大 変な 世帯 増加 率を 示し てい るな ら︑ この 地域 が通 常の 標準 想定 の枠 に入 り切 れな いこ とを 示す もの であ る︒ した がっ て︑ この 地域 の黒 死病 の直 後の 年か ら一 三五 二年 まで の期 間の 増加 率も

︑ベ ネデ ィク トー のい う標 準想 定﹁ 年〇

・七 五パ ーセ ント

﹂程 度の もの では なか った 可能 性が 高い

︒最 初か らも っと 高め にす べき であ るよ うに 思わ れる

﹈︒ ウ

ジヌ 村︵ 五教 区︶ の黒 死病 によ る世 帯数 の減 少率 と総 人口 死亡 率 黒死 病直 前︵ 一三 四八 年末

︶の 世帯 数 八 二一 世帯

黒 死 病 で ど れ だ け の 人 が 死 ん だ か

― 210 ―

黒死 病直 後︵ 一三 四九 年︶ の世 帯数

三 八五 世帯 世帯 数の 減少 率

五 三パ ーセ ント 調整 後の 総人 口の 黒死 病死 亡率

〇パ ーセ ント シャ

ンベ リー 近郊 の教 区

││ 薪集 めの 許可 料の 台帳 から

││ 研 究 者R

・ブ ロ ン デ ィが そ の 著 書

﹃シ ャ ン ベ リ ー﹄

︵一 九 八 八 年︶ に お い て 紹 介 す る シ ャ ン ベ リ ー

︵リ ヨ ン の 南 東︑ 約八

〇キ ロメ ート ル︶ 近郊 の三 つの 教区 の史 料は

︑非 常に 興味 深い もの があ る︒ シャ ンベ リー は︑ ブロ ンデ ィの 著書 が示 すよ うに

︑サ ヴォ ア伯 領︵ 伯国

︶に おい て首 都の 機能 を果 たし

︑政 治・ 経済

・宗 教の 中心 地で あっ た︵ 図5

﹁ サヴ ォ ア 家 の居 城 シ ャン ベ リ ー城 の 塔

﹂︵ 一 五世 紀 建︶

︑ 図6

﹁シ ャ ンベ リ ー のフ ラ ン シ ス コ 会 教 会﹂

︵一 六 世 紀 初 頭︶

︒ なお 石坂 史料 集︵ 三︶ 第一 七章 が示 すよ う に︑ サ ヴォ ア 伯 領は

︑黒 死 病 を機 に 燃 え 上る 反 ユ ダヤ 人 運 動︑ ユダ ヤ人 虐殺 の司 令塔 とな った 地域 であ る︒ こ の地 域で は︑ 暖房 用の 薪や 料理 用の 薪を 集め る場 合︑ 誰で も皆

︑公 から 許可 を得 なく ては なら ず︑ その 際に 各世 帯が 支払 った 小額 の支 払い が台 帳に 記録 され たの であ る︒ そこ には 土地 を持 たな い貧 困な 階層 を含 まれ てい たこ とか ら︑ ほ ぼす べ て の 階層 を 含 んで い た と考 え ら れ る︒ しか も

︑台 帳 への 記 録 は 毎年 作 成 され た の で あ る

︒こ の お か げ で︑ 黒死 病直 前︵ この 地域 では 一三 四八 年︶ の記 録と

︑黒 死病 直後

︵一 三四 九年

︶の 記録 の両 方が

︑好 都合 にも 存在 する ので ある

p.320.

︶︒

― 211 ― 黒

死 病 で ど れ だ け の 人 が 死 ん だ か

表 10﹁ 一三 四八 年か ら一 三四 九年 にお ける シャ ンベ リー 近郊 の教 区の 世帯 数と 人口 規模 の減 少﹂ から わか るよ うに

︑こ の三 つの 教区 では

︑黒 死病 によ って 世帯 の﹁ 五四 パー セン ト﹂ が消 滅し た︒ 三つ の 教 区 の 間 の 死 亡 率 は︑

﹁ 四三 パー セン ト﹂ か ら﹁ 六 七 パ ー セ ン ト﹂ とい う︑ かな りの 幅が ある 数値 が示 され てい るも のの

︑い ずれ にし ても 非常 に激 しい 世帯 減少 率で ある

︒そ

5

サヴォア家の居城シャンベリー城の塔(一五世紀建)

シャンベリーは、サヴォア家の支配する地域の都として(後にトリノに移されるま で)政治・経済・文化の中心として栄えた。それは

R・ブロンディーの著書にまと

められている

10 1348

年から

1349

年におけるシャンベリー近郊の教区の世帯数と人口 規模の減少(Benedictow, 321.)

減少率

(%)

50 43 67 54 59

世帯

1349

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