結核は非常に長い歴史を持ち、多くの若い命を奪っ た。現在でも世界人口の約 3 割がこの病原菌であるヒ ト結核菌を持っていると言われているが、保菌者の免 疫機能が何らかの原因で弱められない限り発病しな い。しかし貧困や過密状態が蔓延している国々では、
今でも毎年 200 万人近くがこの病気の犠牲になってい る。結核菌の発見は 1882 年コッホによってなされる が、有効な治療薬の発見には更に 60 年もの年月を要 した。しかし、その間の医療における主要な進展は、
1924 年にカルメットとゲランによりワクチンが作ら れたことである。これは畜牛から単離した結核菌を人 工培地に何代にもわたって継体培養して作られたワク チンであり、感染力はないが免疫力は残っており、ヒ トにも有効であることが示された。彼らの名前をとっ て BCG(Bacille de Calmette et Guérin)と名付けら れ、結核の予防に有効な唯一のワクチンとして、その 後何十年にもわたり多くの国において、主に子供達に 投与された。しかし結核の治療薬についてはワックス マンのストレプトマイシンの発見まで待たなければな らなかった。
<セルマン・ワックスマン>
セルマン・ワックスマンは 1888 年ウクライナ西部 のユダヤ系の家系に生まれた。彼は優秀な学生だった が、当時のロシアではどんなに優秀であっても、ユ ダヤ人に対して名門モスクワ大学への門は閉ざされ ていた。彼が差別を嫌って単身アメリカに渡ったの は 1910 年である。彼はニューヨークの南にあるラト ガース大学で、糸状の菌糸が放射状に延びる細菌で、
分類学上の位置づけのはっきりしない放線菌目という 一連の微生物を中心に、土壌微生物学の研究を開始し た。ワックスマンは自伝の中でアメリカに渡った後 も、ウクライナの大地の匂いをよく思い出したと述べ ているが1)、彼が生涯の仕事として土壌微生物学を選 んだのは、生まれ故郷であるウクライナの肥沃な黒土 と無関係ではないであろう。彼は 1927 年に 900 ペー ジに及ぶ教科書『土壌微生物原論』を著して、この分 野を系統的な学問として整理し、当時既に世界的な権 威となっていた。その後も 1929 年から 1939 年の間、
彼は腐植土(土壌微生物の活動により、動植物の遺体 が分解・変質した物質を主成分とする豊かな土壌)の 研究に没頭する。のちにストレプトマイシンを作る ことで有名になったストレプトミセス・グリゼウス
(Streptomyces griseus)という放線菌については、1912 年の時点で既に記載しているが、のちの講演で「その 頃、微生物の作る物質の中に薬が存在するという哲学 は全く持っていなかった。」と述べている。土壌中の 微生物の中から治療薬となるものを発見しようとする 試みは、やはり 1941 年に再発見されたペニシリンの 驚くべき効果を目にしたことが契機となったと見てい いのではないか。彼自身は自伝の中で、自分が土壌微 生物学から抗菌性物質探査の研究に方向転換するきっ かけになったのは、一つは第二次世界大戦の開始であ り、各種の病気や流行病への対策が必要とされていた ことと、もう一つは後述するように教え子のデュボス が土壌微生物からタイロスライシンという抗菌性物質 を単離したことであると述べている。
<レーネー・デュボス>
1940 年頃も、ワックスマンは土壌中の微生物分類 という地味な研究を続けていたが、その前年 1939 年 に彼の教え子の一人であり、当時ロックフェラー研究 所に所属していたフランス人研究者レーネー・デュボ ス(Rene Debos)が、土壌中のバチルス・ブレビス
(Bacillus brevis)という細菌から、ブドウ球菌などを 強く阻害する物質を見いだした2)。土壌中には無数の 微生物が存在しているが、この土壌を採取して容器に 入れ、毎日決まった有機物(あるいは特定の微生物)
を与えると、この物質を利用するか、あるいは物質に 抵抗性を示す微生物のみが容器中で生き残ることを彼 は見いだしていた。デュボスは 1 週間に 1 度、容器中 の土壌にブドウ球菌を加えていったところ、最終的に ただ 1 種類の菌だけが生き残っており、この菌の培 養液中からブドウ球菌の発育阻止物質を精製し、その 結晶を得てタイロスライシン(グラミシジンを含む環 状、鎖状のペプチド抗生物質類)と名付け発表した。
ただ、この物質はヒトに使用するには毒性が強過ぎ た。この論文は当時日本でも入手が可能であり、東京 大学医学部細菌学教室の助手であった梅澤浜夫が抗生 物質に興味を抱くきっかけとなる3)。
6.1
ストレプトマイシンの発見デュボスの実験結果に刺激を受け、1939 年ワックッ スマンの研究グループは手慣れた放線菌を中心に、病 原性細菌に対して活性を持つ土壌細菌の系統的な研
究に着手した。その中から 1940 年にアクチノマイシ ンを、1942 年にはストレプトスライシンを発見した。
この両物質は強力な抗菌活性を示したが、いずれの物 質も動物実験で強い毒性を示したため開発を中止せ ざるを得なかった。ペニシリンの発見以前、肺炎と結 核が最も深刻な病気とされ、死亡率の双璧を占めてお り、これに続いて赤痢や腸チフスなどの胃腸炎が死亡 率の上位を占めていた。ペニシリンの導入により肺炎 による死亡率は激減したが、この薬は結核には無効 で、グラム陰性菌が原因の胃腸炎にも効果が無く、こ れらの疾患に有効な薬が求められていた。ワックスマ ンは一連の研究を行う中で、当時最も深刻な疾患で あった結核に対して有効な物質の探索に力を入れよう とした。ここでの問題は、結核菌は培養するに際して は著しく成長の遅い微生物であり、実験はかなりの時 間がかかる作業であることであった。
このような環境の中で彼の研究を促進したのは「成 長の遅い結核菌の代わりに、近親で成長の早いチモテ 菌(Mycobacterium phlei:結核菌の仲間で非病原菌)
を使おう。」という細菌学者でもあった彼の息子バイ ロンのアイデアと、「土壌中にはたくさんの放線菌が いるが、土壌サンプル中に結核菌を高濃度に何度も加 えると“抗結核物質”を作る放線菌が最も良く成長す るだろう。」というデュボスのアイデアを応用するも のだった。地道な研究の中でストレプトマイシンを産 生する放線菌の発見は、ニューブランズウィックの 農事試験場に一人の農民が風邪をひいた鶏を獣医の ところに持ち込んだことから始まる。1943 年、土壌 をついばんだニワトリの喉の粘液に残っていた放線菌 Streptomyces griseusから最初の有望な抗結核薬である ストレプトマイシンが発見された(図 6-1)。
この薬の評価については、メイヨー・クリニックの W.H. フェルドマンと C.H. ヒンショウによって、結核 感染動物試験およびヒトの予備試験が行われ、引き続 いて約 2 年間にわたり結核患者 100 例についての臨床 試験が行われた。その結果は 1946 年に発表され、「ス トレプトマイシンは結核菌に対し、実験的にも臨床的 にもその発育を阻止する独特の能力のある抗菌性物質 である」と結論された4)。それ以前、治療薬は無いと されてきた結核に対して、初めて有効とされる薬が登 場することになった。ストレプトマイシンは結核菌を すべて除いてしまう程強力ではないが、結核患者が死 ぬ直前にかかる腸結核や喉頭結核に極めて強い効果を 示し、結核という病気を治すというより死を防ぐ特効 薬であることが示された。以前は結核性髄膜炎(脳膜 炎とも言われた)の患者が生存する可能性はほとんど
無かったが、ストレプトマイシン投与により 4 分の 3 あるいはそれ以上の患者が命を取り留めた。
ストレプトマイシンはそれまで治療法がないとされ ていた結核に対する最初の治療薬であり、実際に多く の患者の命を救った。その功績が認められ 1952 年に はワックスマンにノーベル生理学・医学賞が与えられ ている。
図 6-1 ストレプトマイシン
6.1.1 工業化
ストレプトマイシンを生産する放線菌が、工業化 を目指す製薬会社に提供された時の生産量は数十 µg/
ml であった。一方、動物実験のデータから推測され たこの薬の有効量は患者一人当たり、1 日約 1 グラム と考えられたため、この薬を発売しようと考えていた 製薬会社はその生産性を急速に高める必要があった。
メルク社、ファイザー社、スクイブ社等アメリカの巨 大な製薬会社をはじめとして、多くの会社がそれぞれ 熱心に研究・開発を行い始めた。ペニシリンの時と同 様、単胞子分離法や紫外線、ナイトロジェンマスター ドなどを使った菌株の改良と並行して、深部培養が試 みられた。ストレプトマイシンのタンク培養法はペニ シリンのそれと非常によく似ていた。ペニシリンを作 る青カビの場合、カビ同士が集まって生育する傾向が あるため、高攪拌と大量の無菌空気を必要としたが、
放線菌は青カビに比べると、固まって成長する傾向は 少なかったため攪拌数は少なくてもよかった。また、
ストレプトマイシンは鉄を嫌うため、ステンレス製の 培養槽が作られた。1946 年末には、メルク社でスト レプトマイシン用の培養槽を含む大規模な工場が建て られている。ペニシリンの場合、工業化には約 3 年の 年月を必要としたが、ストレプトマイシンではペニシ リン開発時のさまざまな経験が応用され、2 年足らず で工業化が可能となった。その結果、アメリカにお ける生産額は 1953 年までに毎月 200 トンに達し、抗 生物質の生産は一大化学工業となっていった。当時こ