• 検索結果がありません。

5 | 奇跡の薬 (ペニシリンの発見および再発見)

5.6 日本での開発

5.6.1 1943 年~1945 年 8 月(第二次世界大戦中)

アメリカでペニシリンの大量生産が検討されている 頃、日本でもペニシリンの研究が開始されていた。日 本のペニシリン研究は東京大学医学部細菌学教室の梅 澤浜夫が 1943 年(昭和 18 年)の終わりに、陸軍軍医 学校の稲垣克彦少佐の部屋で、ドイツから送られてき たベルリン大学薬理学教授マンフレッド・キーゼによ るペニシリンの研究をまとめた論文「臨床週報:微生 物から得られた抗菌性物質」を目にするところから始

まる。この「キーゼの綜説」は陸軍軍医学校の命令も あり、梅澤によって翻訳され全国の大学の細菌学教室 に配られた。当時梅澤が属していた軍医学校の部門責 任者である稲垣少佐がこの論文を持って、戦時下にお けるペニシリンの必要性を重要課題として取り上げる べきと軍の上層部に進言する。この結果、1943 年末 に軍医学校を中心に、主に大学の医学、薬学、農学、

理学部から著名な研究者が集められ、1943 年末にペ ニシリン研究委員会が結成された。翌 1944 年 2 月に 第一回の委員会が開かれる。この間の経緯については 角田房子の「碧素・ペニシリン物語」15)に詳しいが、

最終的に軍を動かしたのは、後に誤報と判明する朝日 新聞ブエノスアイレス支局からの「チャーチル首相、

ペニシリンにより命拾い」のニュースであり、また当 時、軍の上層部からサルファ剤の原料となるトルエン を、全部火薬である TNT の製造に回すと言われたの が、稲垣少佐がサルファ剤に替わる抗菌性薬剤の早期 開発を目指すきっかけとなったという。

日本軍の劣勢が次第に明らかになってくる中、前線 の兵士の士気を高めるために特効薬であるペニシリン を一日でも早く戦場に送ることは、是非とも必要とさ れた。ペニシリン研究委員会の当初の目的はペニシリ ンを作る青カビを見つけることであったが、自然界か ら得られる青カビは 25℃以上になるとペニシリンを 作らなくなる。このため夏の間、実験は失敗が続いた が 9 月に入り、東京大学農学部の薮田貞治郎研究室か ら供給された y-176 株からペニシリンを得ることに成 功する。当時は平面培養で生産されていたため、大量 生産のためには多くの瓶を必要とした。そこでジュー スをたくさん作っていた森永製菓が製造会社として選 ばれ、同社の松崎社長が最初に稲垣少佐からペニシリ ン製造への協力依頼を受けた。松崎社長はペニシリン 研究委員会の指導を受けながら 1944 年(昭和 19 年)

末、三島の食品工場で大量生産に入ることを決めた

16)。菌の培養器としては、大量にあったシロップ用の ガラス瓶が平面培養の容器にあてられるとともに、試 作期間も早く切り上げられ、100 リットルの培養液か ら 3 グラムのペニシリン・カルシウム塩が作られた。

森永製菓より一足遅れて、万有製薬も岡崎に工場を作 りペニシリン生産を開始した。

この当時の生産量や使用先などの詳細な記録は残さ れていないが、一部は北支那や満州の戦場に送られ、

また 1945 年(昭和 20 年)3 月 10 日の東京大空襲の 際にもペニシリンは少量ながら使われたとの記録があ る。なお、第二次世界大戦中にペニシリンの実用化に 成功したのは、米英を除くと日本だけであったようで

ある。このように日本では各分野の権威者たちが協力 して短期に成果をあげたが、それについては、「ペニ シリン研究委員会の研究が、研究者の独創性を発揮さ せるものでなく、既に外国で発見されていた研究を追 いかける種類のものであったことが幸いした。」と梅 澤は述べている17)

5.6.2 1945 年 8 月~ (終戦後)

1945 年(昭和 20 年)8 月の敗戦、そして敗戦直後 の薬をめぐる混乱については、西川隆の書いた「く すりから見た日本:昭和 20 年代の原風景と今日」18)

に詳しく書かれており、興味のある方は参照された い。敗戦は日本に貧困と飢餓と不衛生をもたらした が、これらはすべて感染症・伝染病の温床であり、実 際に 1945 年から 1946 年にかけて天然痘、発疹チフス などの大流行をもたらした。これに対する対応として GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)は徹底的な防 衛策を取ったが、これら防疫・衛生対策の下で最初に 登場したのが DDT、種痘、発疹チフスワクチン、ペ ニシリンであった。しかし、これらの薬は敗戦後の混 乱の中で使用されたため、種痘後脳炎などの副作用、

ジフテリアワクチンに混入した毒素による薬害渦が引 き起こされ、後に施行されるさまざまな医薬品に関す る規制や法令が作られていった。

戦後、海外からの医薬品に関する情報が自由に入手 できるようになり、様々な感染症に対するペニシリン の劇的な効果が明らかとなる。そして厚生省ならびに GHQ の指導のもと企業間には「ペニシリン協会」が、

また大学などの研究機関には「ペニシリン学術協議 会」が設置され、これらの組織を通じて産業界、大学 等の研究機関、官界が共同してペニシリンの開発、研 究、製造、臨床等に取り組む体制が組まれた。ペニシ リン協会には専業の製薬企業ばかりでなく化学企業、

製糖・食品企業、紡績業等さまざまな職種の企業が参 加した。前述したように 1944 年頃から表面培養法に よるペニシリンの生産は試みられていたが、この方法 では生産量に限界があり、高単位なペニシリン生産株 の入手と大量培養のための生産方式(タンクによる深 部大量培養)を独自に開発するか、アメリカから技術 導入する必要があった。

このような環境下、終戦の翌年 1946 年 GHQ の要 請により日本のペニシリン生産を指導するため、米国 テキサス大学の微生物学教授 J. フォスター博士が来 日した。博士招聘に至る GHQ の主たる目的は、進駐 軍兵士を性病から守るためにペニシリンを大量に得る ことにあったとされている。フォスター博士はメルク

社でペニシリンの生産を開発の初期から担当し、当時 の最先端の技術をすべて熟知している人物であり、後 日、日本のペニシリン生産技術が短期に急速に発展 する原動力になった。博士は大量生産に適した菌株 4 株(Q-176 株を含む)と培地に使うコーンスティープ リカーのサンプルを携え、それらを使用した製造技術 の詳細な指導を行うために来日した。1946 年 11 月 13 日から 3 日間に渡って行われたフォスター博士の講演 は米国が 6 年かけて培った研究内容のすべてを含んで いたと言われている。

しかし、深部タンク培養を日本で実現化するまでに は数年を要すると考えられていたため、性病の急速な 蔓延を危惧する GHQ の意向を受け、当初表面培養に 協力する企業に対してのみ、その先のタンク培養に対 する援助を行うとされた。将来タンク培養に移ること が義務付けられていたことから、これに必要な設備投 資は当時の医薬品専業企業にとっては、資金・技術の 両面から実現不可能とも考えられた。このため、三 共、塩野義といった大企業でもペニシリンのタンク製 造を断念する企業があった19)20)

一方で、梅澤の指導のもと他社に先駆けて、1947 年に「Q-176 株を使った合成培地による表面培養法」

を軌道に乗せた明治製菓のように、医薬品メーカーで ないにも関わらず、1947 年度の表面培養法によるペ ニシリン全生産量の半分以上を生産する企業も現れた

21)。1948 年になると万有製薬、台湾製糖、東洋レー ヨン、武田薬品、藤沢薬品、科研化学等もタンク培養 によるペニシリンの生産を開始し、1949 年にはアメ リカ、イギリスに次ぐペニシリン生産大国になった。

企業間のペニシリンの開発および生産競争は激化し、

過剰生産気味の競争は、1956 年に起こった東京大学 法学部教授尾高朝雄博士のペニシリン・ショック死事 件(註5)まで続くことになる。既にアメリカなどでも観 察されていたペニシリン・ショックの問題は、この薬 の有効性にのみ注目していた日本の医療関係者の認識 を一変させた。この問題に対する日米両国の対応には 大きな差があり、日本ではペニシリン・ショックへの 恐怖心からペニシリン離れが起き、テトラサイクリ

(註5)尾高朝雄氏のペニシリン・ショック死

法哲学の分野で著名な研究者であった東京大学法学部教授尾高 朝雄氏は 1956 年 5 月、歯の治療を受け、同時に化膿予防のため のペニシリン注射を受けた後、全身痙攣を起こし都立駒込病院 に入院したが間もなく死亡した。彼の死はペニシリン・ショッ クとして社会問題化し、それまでペニシリンの有効性のみに注 目していた医師や一般市民の、薬に対する印象を一変させた。

ペニシリンのアナフィラキシー・ショックが認識されることに なる。日本における戦後初の薬害事故としても有名である。

ン、クロラムフェニコール、エリスロマイシン等の他 の抗生物質への転換が進んだのに対し、アメリカでは ペニシリンのアナフィラキシー・ショックなど、アレ ルギー反応の発生機序の解明の研究や、アレルギー の少ない、より安全な新しいペニシリンの開発へと向 かっていく。

5.6.3 培養法

空気中に存在する雑菌が培養液中に飛び込んだ場 合、その菌の持つペニシリン分解酵素によりペニシリ ンはあっという間に分解される。従って平面培養にお いても深部培養においても、どうやって雑菌の混入 を防ぐかということが培養工程において最も注意す べき問題となる。因みに、筆者が 1969 年に明治製菓 に入社し初めて配属になったのは、当時川崎工場内に あった薬品開発研究所の培養室であった。ここには パイロットプラントとして 200L の種菌槽に 570L と 2,000L の培養槽が併せて 20 機ほど設置され連日稼働 していた。ペニシリンばかりでなく鉄を嫌うストレプ トマイシン等いろいろな種類の抗生物質を培養するた めに、培養槽から配管を含めすべてステンレスで出来 ており、雑菌の混入を防ぐため配管内は常に蒸気が通 されていた。培養槽は図 5-5 に示すような構造をして おり、滅菌された培養液でタンクの 60%近くが満た され、その培養液を上部に設置された電動の攪拌機で 攪拌する。攪拌翼の下にはスパージャーと呼ばれる滅 菌した空気を吹き込む装置が付けられている。培養液 中に吹き込まれる空気や菌体が均一に分布するよう攪 拌効率を高めるため、タンクの側面には邪魔板と呼ば れる何枚かの板が溶接されている。培養中は常に無菌 の空気が吹き込まれているため、上部には大量の泡が 立ち、これを打ち消すために消泡剤を上部より適宜滴 下する必要があった。相手は微生物とはいえ生き物で あるから何時何が起こるかわからない。培養槽を看視 するため 1 日を 8 時間ごとに区切り、作業を交代す る 3 直制が組まれていた。当時は禁煙などという意識 のまったくない時代であったので、中二階の管理室で タバコを吸いながら昔話として汚染話をよく聞かされ た。コンタミ(汚染:コンタミネーションの略)が一 度でも起こった場合は、即刻所長に呼びつけられ直立 不動、時にはコンクリートの床に正座をさせられて、

何時間も説教されたと聞かされたものである。培養担 当者にとって“コンタミ”ほど恐ろしいものはないと の話であった。