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19世紀神学における学問と実践

ドキュメント内 神学と宗教学の狭間で (ページ 90-114)

0.はじめに

「『聖なるもの』におけるわれわれの研究の方向性は、宗教史でも宗教心理学でもなく、キ リスト教神学に向けられている293。」

これは、オットーが『宗教論文集——「聖なるもの」への補遺』において述べていること である。また、オットーは、生涯を通じて、徹頭徹尾、神学者であることを公言し続け、

また、『聖なるもの』においても、この著作が神学的著作として読まれることを望むと述べ ている294。『聖なるもの』と神学とはどのような関係にあるのか。

本章では、特にオットーの『聖なるもの』における議論が生まれる背景としての19世紀 初頭シュライアマハーから始まるドイツの自由主義神学に着目し、それを概観した上で、

その延長線上にオットーの議論を位置づける。

まず、『聖なるもの』と神学の議論との関係を見る手掛かりとして、この著作において表 わされるカントの聖性の解釈に対する不満を見てみよう。

「カントは、揺らぐことなしに義務的動機から道徳律に従う意志を、聖なる意志と名付け た。しかし、それは、ただ完全な道徳的意志であるのみであろう295。」

この不満に関しては、すでにダヴィドヴィッチ、グーチ等の先行研究においても指摘は

293 Rudolf Otto, Brian Lunn(trans.), Religious Essays: A Supplement to “The Idea of the Holy” (London/Humphrey Milford, Oxford University Press, 1931), p.30

294 「もし本書がドイツの神学的労作として見られ得るなら、著者の労は十分報いられるであろ う。」(ルドルフ・オットー『聖なるもの』山谷省吾訳(岩波書店1968(1996)),3頁。(=Rudolf Otto, 1917. (1937.)Das Heilige: Über das Irrationale in der Idee des Göttlichen und sein Verhältnis zum Rationalen. (Breslau: Trewendt und Granier, 1937(1917))第29-30版への序 文より。この版の原書を入手できなかったため、この引用は山谷省吾訳を使用した。)

295 Rudolf Otto, Das Heilige: Über das Irrationale in der Idee des Göttlichen und sein Verhältnis zum Rationalen (München: C.H.Beck, 2004(1917)), S.5(=ルドルフ・オットー『聖 なるもの』山谷省吾訳(岩波書店,1996),14頁。;ルドルフ・オットー『聖なるもの』華園聰 麿訳(創元社,2005),16頁。)以下、この著書をOtto, DH,と表記し、それに続く括弧内に、

原語、山谷訳、華園訳の順に頁を表記することとする。

なされているが、本章においては、この不満が当時の神学的議論との関係においてどのよ うな意味を持ちえたかを明らかにする。オットーの同時代人であり、友人であり、宗教史 学派の教義学者であるエルンスト・トレルチは、1908年に「学問としての神学半世紀の回 顧」296を雑誌『学問的神学のための雑誌297』に発表し、シュライアマハー、リッチュル学 派、宗教史学派というドイツ神学の流れを学問的神学と実践的神学との緊張関係において 捉えている。本章では、トレルチによるこの枠組みを採用し、オットー自身も位置付けら れる自由主義神学の議論との関係において『聖なるもの』が持ちえた意味を明らかにする。

つまり、オットーが、「聖なるもの」という単語がその当時指し示すものから、倫理的な要 素を差し引いたものを指すものとして「ヌミノーゼ」という単語を作ったという事実と、

神学における「実践的神学」と「学問的神学」との分離によって生じた問題との連続性を 指摘する。

1.シュライアマハー神学における学問と実践の分離

ドイツ自由主義神学の祖とされるフリードリヒ・シュライアマハー(1768-1834)は、宗教 の本質を探り、宗教独自の領域を確立し、そこから得た宗教概念を用いて歴史上の「積極 的宗教298」を評価する宗教哲学的側面、その宗教概念を土台にして、新しく神学の再建を 試みるという教義学の再建という二つの面において、業績を残している。特に、教義学の 再建という面においては、従来の正統主義神学、啓蒙主義神学とも異なる第三の方向に向

296 Ernst Troeltsch, “Rückblick auf ein halbes Jahrhundert der Theologischen Wissenschaft,”

in: Gesammelte Schriften (Tübingen: J.C.B.Mohr (Paul Siebeck), 1922-1923(1908)), Bd.2,

S.193-226(=トレルチ,エルンスト「学問としての神学半世紀の回顧」『トレルチ著作集』2,

高森昭訳(ヨルダン社,1986))

297 Zeitschrift für wissenschaftliche Theologie

298 シュライアマハーは、次のように述べる。「いわゆる自然宗教は、概して著しく洗練され、

哲学的もしくは道徳的な作法を身につけているため、宗教独自の特性による輝きを失っている。

それは上品に生活し、自己を節し、自ら順応する道を心得ているため、どこでも許容される。

これに反してあらゆる積極的宗教は、強い特性と非常に目立つ相貌を具えているため、その活 動に際しても、またこれを人々が一瞥する際にも、必ずその独自なものを想起させる。」つまり

「実定宗教(positive Religionen)」とは、シュライアマハーの時代に、人間理性にのみ基づく自 然宗教を信奉する人々によって非難された、現実的形態をとる「宗教現象」である。

Schleiermacher, Friedrich. Über die Religion: Reden an die Gebildeten unter ihren

Verächtern (Berlin: Johann Friedrich Unger, 1799)この著作に関しては、以下を参照した。

Schleiermacher, Friedrich.Über die Religion : Reden an die Gebildeten unter ihren Verächtern; in ihre ursprünglichen Gestalt mit fortlaufender übersicht des

Gedankenganges neu herausgegeben von Rudolf Otto (Göttingen: Vandenhoeck und

Ruprecht, 1926), 5. durchgesehene Aufl., S. 150-151.(=フリードリヒ・シュライエルマッヘル

『宗教論』佐野勝也・石井次郎訳(岩波書店、1949))200頁。)以下、Schleiermacher, Über dir Religionと表記する。

かって行われた。ここでは、宗教哲学と教義学の再建という二つの側面から見ていくこと により、シュライアマハーが如何にして、「宗教」「神学」を位置づけたのか、そしてそれ により、どのような帰結が齎されたのかを確認する。

1-1.宗教哲学

直観と感情(Anschauung und Gefühl)

シ ュ ラ イ ア マ ハ ー 初 期 の 代 表 作 『 宗 教 論 』 に お け る 宗 教 の 定 義 は 、「 直 観 と 感 情

(Anschauung und Gefühl)」299である。宇宙の直観が、彼の宗教概念の中核となる。これ

により、宗教を形而上学と道徳から区別し、その独自性を確保できると考えた。彼はまず、

一般的な個々の事物の直観について、次のように述べる。

「あらゆる直観は、直観されるものの直観するものへの影響から、つまり、直観されるも のの本源的であり独立した行為から出て来る300。」

そして、さらに直観の対象を宇宙まで拡大し、宇宙の直観に宗教の本質を求める。

「宗教もそうである。宇宙は絶え間なく活動し、各瞬間に我々に自らを啓示している。宇 宙が産出するあらゆる形式、宇宙が生命の充実の程度に従って各々別個の存在を与えるあ らゆる存在者、宇宙がその豊かな常に実り多い胎から注ぎ出すあらゆる出来事は、宇宙の 我々に対する行為である。このように、すべての個物を全体の一部として、すべての制限 されたものを無限なるものの表現として受取ること、それが宗教である301。」

つまり、世界の出来事や、物は、すべて宇宙の所産であり、人間に対する宇宙の行為な のだ。彼においては、宇宙は静的な実体ではなく、動的な生命として把握される。また、

スピノザにおいては、有限な個物は、唯一の実体に対して非本質的であり積極的意義は持 たなかったが、シュライアマハーにおいては、無限者の啓示としての個物が強調される。

つまり、スピノザにおいては、無限から有限を見るのが、シュライアマハーにおいては、

有限から無限を見ることになる。そして、感情については、次のように述べる。

299 この言葉の由来としては、カント、ヘルダー、シェリング、フィヒテとの関係が論じられて いる。(佐藤敏夫『近代の神学』(新教出版社,1964),42頁。)

300 Schleiermacher, Über dir Religion (S. 35, 53頁。)

301 Ibid., (S. 36, 54頁)

「宗教の一般的な像を完成するために、諸君に想起してほしいのだが、あらゆる直観は、

その性質上感情と結合している。諸君の感官は、対象と諸君との間の連関を仲介する。対 象が諸君にその存在を示す同一の影響が、諸君の感官をさまざまな仕方で刺激し、諸君の 内的意識に一つの変化を惹起しなければならない302。」

つまり、感情は、内的意識に引き起こされる変化なのだ。シュライアマハーは、次のよ うに述べる。

「宗教の本質は、思惟でも行為でもなく、直観と感情である。宗教は宇宙を直観しようと し、宇宙自身の描写と行為において、敬虔に宇宙に耳をすませようとする。宗教は、子ど ものような受身の態度で、宇宙の直接の影響によって捉えられ、充たされようとする303。」

ここで、シュライアマハーは、宗教の本質を形而上学的に説明する方法、道徳として説 明する方法を退けている。その上で、感情は、感性的直観と結合しており、また宇宙の直 観とも結合しており、宗教は、宇宙の直観であり、感情であるとする。

絶対的依存感情

次に、後期シュライアマハーの代表作『キリスト教信仰』304(以下『信仰論』)において、

宗 教 、 な い し 敬 虔 の 本 質 と し て 規 定 し た 、「 絶 対 的 依 存 感 情 (schlechthinniges

Abhängigkeitsgefühl)」305について触れよう。『宗教論』における定義と比べると、ここで

は、感情だけに限定されている306

では、その絶対的依存感情とは何か。それは、絶対者から自己が由来し、それに自己が 規定されているという直接的な自己意識である。人間は有限なものとして世界に属してお

302 Ibid., (S. 42, 62頁。)

303 Ibid., (S. 32, 49頁。)

304 Friedrich Schleiermacher, Rolf Schöfer(Hrsg.) Der christliche Glaube nach den Grundsätzen der evangelischen Kirche(1821/22, 1830/31.) (Berlin/New York, Walter de

Gruyter, 2003 (1821/22, 1830/31))(=フリードリヒ・シュライアマハー「キリスト教信仰」『現

代キリスト教思想叢書』1,深見茂・今井晋・森田雄三郎抄訳(白水社,1974))以下、この著 書をSchleiermacher, Glaubenslehre,と表記することとする。

305 Schleiermacher, Glaubenslehre, Bd.1, S.35

306 この傾向は、『宗教論』の第二版においてもすでに見られる。第一版においては、無限者の 行為を有限者が直観するという意味で、その間に距離があったのに対し、第二版では、有限者 がその内部において直接に無限者を意識するというようになっている。(佐藤前掲書, 44頁。)

これは、第5章、第9章で見る、オットーのシュライアマハー評価とも関わる点である。

ドキュメント内 神学と宗教学の狭間で (ページ 90-114)