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宗教的・社会的情況

ドキュメント内 神学と宗教学の狭間で (ページ 34-64)

1.教会内外の宗教的情況 1−1.教会内の様子

<19世 紀 >

フランス革命によって、それまで成り立っていたヨーロッパにおける宗教的精神の有り 様は、大きく変わることとなる。そのきっかけとなったのは、フランスにおいてカトリッ ク教会が経験した政治的社会的変化であった。1789年には、教会の財産を国家が有するこ ととなり(教会財産国有化令)、1790 年には聖職者が公務員という位置付けとなった。公 務員となるにあたり、憲法への宣誓を求められたが、聖書以外に誓いを立てることを拒否 した聖職者たちは、1791年に処罰されている。このようにして、カトリック教会と国家と の争いは、激しくなっていき、教会の存在自体が危険にさらされているようにみなされた110。 ドイツにおいても教会を取り巻く情況は厳しいものだった。ドイツでは、カトリック教 会とプロテスタント教会が、初めて協働し、これまでの対立を一旦置いて、不信心や宗教 への無関心に対しての共同の闘いを宣言した。このことにより、カトリック、プロテスタ ント両教会の間には、19 世紀を通じて、あらゆる信条的な対立以外に、宗教への無関心や 不信心を改善するための戦略を巡っての攻防が繰り広げられた。この宗教的無関心、教会 への敵対は、啓蒙主義的な教育を受けた教養層、そして教会の教育が行き届かない下層の 人々に多く見られるものであった。しかし、これらの傾向は長期的なものとはみなされて おらず、キリスト教会の存在自体を脅かすものではなかった111。ただし、フランスでのカ トリック教会の状態を知っていた聖職者たちは、ドイツにおいても同じ情況が起こりうる のではないかと懸念していた。そして、教会での聖餐式、礼拝が、すっかり荒廃してしま うことになるのでは、という懸念も聖職者自身の口から述べられていた112

このような教会を取り巻く環境の変化は、20 世紀、さらに現代に至るまで影響を及ぼす こととなる。教会は、この事態において自らの真価が問われていると捉え、この事態を打 開、克服できなければ、教会が存続することは難しいと考えた。これに対し、カトリック 教会は、教皇至上主義(Ultramontanismus)の立場をとり、近代主義に対抗するという姿勢

110 Hölscher, Lucian. Geschichte der protestantischen Frömmigkeit in Deutschland (München: C.H.Beck, 2005), S. 177.

111 Ibid., S. 177.

112 Ibid., S. 177-178.

を打ち出した。さらに、ローマ教皇ピウス9世は、1864年にカトリックの絶対性を主張し 近代的な学問、政治思想等を否定する「誤謬表」(Syllabus errorum)を発表し、カトリック 教会と近代は決定的に対立したものと捉えられることとなった113

他方、プロテスタント教会では、近代化に対する保守的な層の対立と、国家や社会の近 代化との共存という二つの立場の混合が見られた。特にプロテスタントのリベラルな市民 層においては、一般的に、教会が生き残るためには、近代の諸条件に適応する必要がある という認識が共有されていた。よって、19世紀の教会改革は、「守り」と「攻め」という両 方の面から行われている。この改革者たちにとっては、この改革は、近代的、世俗的な国 家や市民社会から、教会を「守る」ということであった。しかし、これらの試みが、20 世 紀と異なっている点をヘルシャーは指摘する。それは、プロテスタント教会が、近代社会 の中の多くの組織の中の一つとして自らを確立しようとしていない点だという。むしろ、

彼らはキリスト教的な社会を自らの中に作り出し、自給自足の諸組織として自らを形成し ようとしていた114

このことは、19世紀に大きな変化を遂げた信仰に関わる文化Frömmigkeitskulturとも 関わっている。18 世紀に比べて、敬虔さは、教会やさまざまな形式により多く結びついた ものとして捉えられるようになる115。18世紀後半には「内的宗教性」に高い価値付けが与 えられていたのが、19世紀に入り、「外的宗教性」が人々の関心に上るようになっていった。

それは、教会的な敬虔さ、つまり、教会に信仰生活における重要な意味を与えることであ り、1800年頃にはそれに対応する言葉として、教会性(Kirchlichkeit)という言葉も現れた。

他のヨーロッパ地域においてはこれに相当する言葉は生まれなかったのに対し、ドイツに おいてはこの言葉は日常語においても、教会の文書においても急速に広まっていった。そ して、この概念は19世紀前半、まだ教会への出席率を定量的に分析するための調査がなさ れていない時代には、教会出席率に基づいた判断を含むものではなく、自らが属する教会 が信仰において持つ価値を認めるといったことを意味するものであった116。このことから、

ドイツのプロテスタント、カトリック教会の聖職者にとって、教会改革のための試みは、

18 世紀のように個人の道徳的改善のためというよりも、むしろ組織や社会的紐帯としての 教会の維持、ということに重きが置かれることとなった。教会が教育や福祉といった社会 の重要な領域から排除されていく中で、教会の改革者たちは、そのまま教会生活の狭い空 間に閉じこもるのではなく、逆に、新たな社会政治的な攻勢に出ていく。つまり、内国伝

113 Ibid., S. 178.

114 Hölscher, op. cit., S. 179.

115 19世紀になって、敬虔さを示す言葉として、教会性(Kirchlichkeit)という言葉が使われ るようになる。このような言語使用は、他のヨーロッパ地域では見られない。Ibid., S. 181.

116 Ibid., S. 181.

道の社会福祉活動、教会の教育施設、教会による協会や出版社等がこの動きの中に位置付 けられる。そして、この新たな活動を通じて、教会は自らを新たなキリスト教的社会の中 心として、来たるべき世界の中心として捉えていった。ここに、啓蒙期の現世における終 末論、つまり現世において神の国が現れるという宗教的期待が、具体化して現れている、

とヘルシャーは指摘する117

<20世紀初頭>

20 世紀に入ると、教会的な信仰文化の衰退が確認できる。まずは、礼拝への参加者の減 少、そして、洗礼や婚礼といった教会の儀式への参加率の低下、そして、プロテスタント のラント教会からの脱退数の増加が見られる。教会の儀式への参加率の減少は、19 世紀か ら始まっており、この時に初めて見られたものではなかった118。しかし、これは、教会の 側で食い止められるようなものではなく、この現象が社会の近代化の過程によって起こる ものであるという認識はこの時期に特徴的なものであった。また、教会からの脱退に関し ても、1906年の教会離脱運動が起きているが、このような動きは、1890年頃から、政治的 に不満を持っていた都市に住むプロテスタントの人々が、プロテスタントの自由教会や、

新たに形成されたカトリックの教会に移るということに確認できる。20世紀に入ってから、

脱退者が急激に増加したことの原因は、この時期の国家による教会税の導入と関連してい るとされる。しかし、この教会離脱運動という動きが示しているのは、無信仰者(der

Konfessionslosen)という、新たな宗教的なグループである。この時期の統計調査によって、

自らが特に宗教団体に属していないとする人々の増加が明らかとなっている。これをヘル シャーは、近代社会における新たな現象とみなしている。なぜなら、彼らが、既存の宗教 共同体に対抗し、その社会的影響力を制限しようとする世界観が新たな形でそこに生まれ ていることを意味し、また他方では、彼らが、ある特定の既存の宗教共同体が社会に対し て持つ影響力を疑問視しているからである。つまり、いかなる宗教的な信仰に基づくので もなく、あらゆる諸宗教が平和的に共存できるための法律に基づくような「世俗的な社会」

というビジョンがそこで明らかになっている、と指摘する119

また、1900年前後の教会に対する敵対は、特に都市の教養市民層、そして大工業の労働 者層の間に強く持たれていた。ここから起こってくる新たな諸世界観運動は、大きな教会 共同体に対する政治的、宗教的敵対心を原動力としていた。彼らの目には、教会は、宗教 的にも、政治的にも誤ちを犯しているものとして映っていた。宗教的には、教会は信じる

117 Ibid., S. 179-180.

118 これは都市化に伴う変化であり、教会性の後退は、19世紀、まずは都市部で急速に進 行した。18世紀の中頃から、この傾向は大都市において始まっていた。Ibid., S. 194.

119 Ibid., S. 401-402.

価値のない教義を教え、その内容に信者を縛り付けているように見えたし、また政治的に は、教会は常に裕福な人々の側に立ち、苦しんでいる貧しい人々には、実際には存在しな い彼岸を示すだけのものとして映った。しかし、プロテスタントにおいて特徴的だったこ とは、教会に対する敵対心が、必ずしもキリスト教への敵対、キリスト教からの離反には つながらなかったということであった。この理由としては、カトリックに比べて、プロテ スタントにおいては、一般的に教会と宗教を分ける傾向が強いということが挙げられる。

このことから、教会からの

、、、、、

離反は、宗教性の新たな、より説得力のある形式を求めること へとつながっていった。さらにこのことが、プロテスタントの信仰に関わる文化の多様性 へつながることとなったのだという120

教会への敵対は、また、キリスト教信仰の根幹を揺るがし、無神論者を生み出すことに つながることもあった。社会主義的な自由思想家同盟の中で、初めて無神論的な運動が起 きた。この運動では、成人式、火葬121、自然科学的かつ無神論的な書物の普及などが行わ れた。また、アーリア的神々の崇拝や夏至祭などの宗教的表現手段を用いた、ドイツ宗教 的、ゲルマン的な諸同盟も、キリスト教教会にとっての脅威として現れてきた122

また、プロテスタントのラント教会の衰退が現れているのが、教会内の対極化であった。

これはすでに19世紀の後半から見られており、その時から、宗教的、教会政治的にも多く の宗教共同体に瓦解し始めていた。ルター派、改革派との溝とは別に、また、保守主義者 と自由主義者との大きな溝が生まれていた。そして、これらの対立は、特に、教会会議の 成員の選挙、教区内や大学の教職の任命に際して、顕在化した。このように教会内での対 立、緊張関係が露わになる中で、それまでドイツのプロテスタンティズムが持っていた国 家や社会の世界観を支える基礎が、19世紀を通じて徐々に弱体化していった。

1−2.教会外での宗教性

19 世紀、ドイツは、他ヨーロッパ地域と比べ、数多くの世界観団体、世界観運動

(weltanschauliche Gruppe und Bewegungen)を生み出している。この世界観団体とは、

宗教的団体、教会内のさまざまな神学学派といった既存のキリスト教教会内部の運動に限 らず、あらゆる種類の世界観に規定された党派形成、改革運動を意味する123。彼らは、ゲ ーテ協会、シラー協会、レッシング協会、ヘルダーリン協会、ショーペンハウアー協会、

ニーチェ協会、ヴァーグナー協会といった諸協会、菜食主義、裸体主義といった改革運動、

120 Ibid., S. 402.

121 久保田浩「近代ドイツにおける「火葬」のレトリック--概念の社会内的含意を巡る一考 察」『東京大学宗教学年報』(17)(1999)、27-46頁。

122 Hölscher, op. cit., S. 402-403.

123 Ibid., S. 330.

ドキュメント内 神学と宗教学の狭間で (ページ 34-64)