第1章 「羅生門」の中国語訳と三人称代名詞の近代的変遷
第 2 節 「她」が「伊」を凌駕した理由について―翻訳の漢字新造語および現代中国語の
1. 各訳文のなかに出現した三人称代名詞の様相
1.1 魯迅の訳文
魯迅の訳した「羅生門」の初出は、1921年6月14日~17日『晨報』の第七面「小説欄」
であり、署名は「魯迅」になっている。この翻訳は、その後「鼻」の訳文とともに周作人 と魯迅が編訳した1923年出版の『現代日本小説集』のなかに収められている。芥川龍之介 の作品としては、「羅生門」と「鼻」が魯迅の翻訳によって中国で初めて紹介されることに なった。『現代日本小説集』の附録「關於作者的說明」(作者に関する説明)の「芥川龍之 介」で、魯迅は次のように芥川の古典の題材に対する利用を評価している。
彼の作品に用いられている主題で最も多いのは、希望が達成できた後の不安あるいは不安になって
いる時の気持ちである。また、彼は古い題材を多用し、ときには物語の翻訳に近いものにする。とこ ろが、彼が古い事を叙述するのは、単なる好奇心によるものではなく、いっそう彼の深い根拠がある のだ。彼は、それらの材料のなかに含まれる古人の生活のなかにおいて、自分の気持ちと適う、心が 打たれるにふさわしい或る物を探し出そうとした。それゆえそれらの古代の物語は、彼が、その改作 を行ってから、みな新たな生命が注ぎ込まれ、近代の人々と関係が生じるようになったのである。3
「羅生門」も「鼻」も、平安時代の物語集に取材したものである4。魯迅が翻訳した理由 は、その二篇とも芥川龍之介の名作であり、特に「鼻」が芥川のデビュー作であったから だろう。なお、魯迅が芥川の作品の特徴を評価した内容からみれば、魯迅は芥川が古典か ら巧みに取材し、かつそこに近代人の気持ちを注ぎ込むという小説の創作方法を称賛して いたことがわかる。これも魯迅がなぜ芥川の作品を翻訳したか、その理由の一つであろう。
魯迅の訳した「羅生門」の全文を見ていくと、魯迅が訳文の処理上に彼自身の提唱した
「対訳」という翻訳方法を守り通したことがわかる。ここでいう「対訳」とは、日本語の 原作と対照しながら忠実に逐語訳をすることである。魯迅が訳した「羅生門」のなかでは 三人称代名詞は10文のなかに出現し、その状況は以下のa、b、cの三通りである。
a. 日本語原作のなかに出現した「それ」・「その」に対応したもの(以下「対訳」)
例1:
家将却不放伊走,重复推了回来了。
下人は又、それを行かすまいとして、押しもどす。
例2:
他的气色,大约伊也悟得。
すると、その氣色が、先方へも通じたのであろう。
b. 動作主あるいは言及された対象を明確にするために三人称代名詞を新たに加えたも の(以下「増訳」)
例1:
但从这主人,已经在四五日之前将他遣散了。
所がその主人からは、四五日前に暇を出された。
例2:
家将便留心着横在腰间的素柄刀,免得他出了鞘,抬起登着草鞋的脚来,踏上这梯子的最 下的第一级去。
下人はそこで、腰にさげた聖柄の太刀が鞘走らないやうに気をつけながら、藁草履をは いた足を、その梯子の一番下の段へふみかけた。
本稿では、「増訳」とは翻訳者が原文にないものを訳文のなかに挿入することをさす。例
1の原文には下人を示す語が出現していないが、翻訳文では「他」が増訳されている。また 例2に現われた「他」は、注目すべき現象である。ここでの「他」は、人ではなく物をさ す三人称代名詞として使われている。すなわち、その後に出現した中性の三人称代名詞「它」
と同じであり、魯迅が「羅生門」を訳したとき、「他」は依然として物をさす三人称代名詞 として用いていたことがわかる。
c. 同じ呼称の重複を避けるために三人称代名詞を使ったもの(以下「改訳」)
例1:
伊吐出唠叨似的呻吟似的声音,借了还在燃烧的火光,爬到楼梯口边去。
老婆は、つぶやくやうな、うめくやうな聲を立てながら、まだ燃えてゐる火の光をたよりに、梯子の口 まで、這つて行つた。
この例は、魯迅の訳文のなかで唯一具体的な人物の呼称を三人称代名詞にしたものであ る。その前文、すなわちその段落の冒頭では、「老妪」という呼称が使われているのでその 後の同一人物のことを叙述するのに重複しないように魯迅が日本語の原文の「老婆」を「伊」
に訳したということである。その訳文と原文は以下のようである。
暂时气绝似的老妪,从死尸间挣起伊裸露的身子来,是相去不久的事。伊吐出唠叨似的声音,借了还 在燃烧的火光,爬到楼梯口边去。而且从这里倒挂了短的白发,窥向门下面。那外边,只有黑洞洞的昏 夜。
暫、死んだやうに倒れてゐた老婆が、屍骸の中から、その裸の體を起こしたのは、それから間もな くの事である。老婆は、つぶやくやうな、うめくやうな聲を立てながら、まだ燃えてゐる火の光をた よりに、梯子の口まで、這つて行つた。さうして、そこから、短い白髪を倒にして、門の下を覗きこ んだ。外には、唯、黒洞々たる夜があるばかりである。
魯迅の訳文において、三人称代名詞が出現した10文のうち、5文が「それ」・「その」に 対応した対訳であり、4文が増訳によるものである。すなわち、動作主或いは言及された対 象を明確にするためのものである。残りの1文が同じ呼称の重複を避けるための改訳であ る。その訳文の全体をみれば、魯迅は対訳といった処理方法によって、できるかぎり原作 の語ごとまで一致させようとした。また当時、英語「She」に対応するために、本来江蘇・
浙江地区における三人称代名詞の総称だった「伊」が女性三人称代名詞として使われるよ うになっていた。魯迅の翻訳文における「伊」の使い方は、その時代の特徴を表している。
1.2 呂元明の訳文
芥川龍之介の作品の翻訳集の出版状況に対する考察および出版史の記述によれば、芥川 の作品の中国における翻訳は主に1920-1930年代と1980年代以降に集中している。
1920-1930年代においては、特に芥川龍之介の自殺が日本の文壇・社会に衝撃を与えただ けではなく、中国の文壇からの関心をも引き起こし、当時の中国では芥川の作品を翻訳す
るピークが出現した5。新中国成立後、1950-1960年代では翻訳における人材不足などの条 件に制約され、芥川龍之介は翻訳される外国人作家のリストに入ることができなかった。
中国の翻訳事業は、1970年代において文化大革命によってほとんど白紙となったが、そ の状況は1981年に終焉を迎えた。人民文学出版社は、新中国成立後、その年に初めて芥川 龍之介の作品を全面的に翻訳し始めた。呂元明が訳した「羅生門」は、人民文学出版社の 出版した『芥川龍之介小説選』のなかに収められた一篇である。
呂元明が訳した「羅生門」のなかでは、三人称代名詞は21文のなかに出現し、その状況
は以下のa、b、cの三通りである。
a. 対訳
例1:
仆人不放她走,把她硬拉了回来。
下人は又、それを行かすまいとして、押しもどす。
b. 増訳
例1:
仆人穿着洗褪了色的藏青色褂子,一屁股坐在七级台阶的最上边的一级。他一方面因为右颊长出的很大的 面疱而心情烦恼,另一方面呆呆地眺望着落下的雨。
下人は七段ある石段の一番上の段に、洗ひざらした紺の襖の尻を据ゑて、右の頬に出来た、大きな面皰 を気にしながら、ぼんやり、雨のふるのを眺めてゐた。
例2:
仆人虽然决定不择手段了,然而由于“如果”变成行动,那末跟着而来的一个问题当然就是:“除了当强盗,
别无他法”,他对这件事仍然没有足够的肯定的勇气。
下人は、手段を選ばないといふ事を肯定しながらも、この「すれば」のかたをつける為に、當然、その 後に来る可き「盜人になるより外に仕方がない」と云ふ事を、積極的に肯定する丈の、勇気が出ずにゐ たのである。
c. 改訳
例1:
看了这种情况,仆人才明确意识到,这个老太婆的生死,完全由他的意志来决定了。
これを見ると、下人は始めて明白に、この老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されてゐると云ふ事 を意識した。
翻訳文の最初に出現している「她」は、原文の古代日本語の三人称代名詞「それ」に対 応したものである。
呂元明が訳した「羅生門」において、三人称代名詞が出現した21文のうち、20文が三人
称代名詞の増訳であり、もう1文が「自分」を「他」に改訳したものである。対訳の例文 は上記のcで取り上げた一文だけであり、そしてこの文には三人称代名詞の増訳も出現して いる。
特にbにおける主語の増訳は、その多くが原文の長い文を中国語に訳したとき幾つかの 短文に分けられたということに由来するものである。本来、原文が同じ人物に対する説明 或いは描写であるので、それを短文に分けたとき、動作主或いは言及された対象を明確に するために三人称代名詞を増訳することになったからである。したがって、呂元明の訳文 の主な特徴は三人称代名詞の増訳である。
1.3 魏大海の訳文
2005年、魏大海・鄭民欽らが翻訳し、山東文芸出版社によって『芥川龍之介全集』が出 版された。これは一人の日本人作家のほぼすべての作品が翻訳された初めてのものである。
魏大海が訳した「羅生門」は、『芥川龍之介全集』の第一巻に収められた一篇である。
魏大海の訳文には、三人称代名詞の出現した文が全部で 23 文ある。その状況は以下のa、
bの二通りである。
a. 増訳
例1:
罗生门的荒敝倒是便宜了狐狸,它们开始做窝于此。
するとその荒れ果てたのをよい事にして、狐狸が棲む。
例2:
仆人的藏青色外套里,是一件棣棠花面料的汗衫。他紧缩脖颈,高耸双肩环顾着罗生门四周。
下人は、頸をちゞめながら、山吹の汗袗に重ねた、紺の襖の肩を高くして、門のまはりを見まはした。
例1に出現した「它们」が狐をさす。ここで強調したいのは、「它们」という物事をさす 中性の三人称代名詞の複数形が持つその特殊性である。これについて、王力は『漢語史稿』
において次のように述べている。
現代漢語は西洋の文法の影響を受けており、人称代名詞の形態は、書き言葉における二種の重要な 変化が起きている。
第一種の変化は、「他」という字を「他」・「她」・「它」に分けることである。これは、西洋の人称代 名詞の性別の影響を受け、陰・陽・中といった三つの性に分けられたものである。
(中略)
第二種の変化は「它们」の応用についてのことである。元々物をさす「他」(すなわち「它」)は、
漢語のなかにおいてめったに使われないのである。さらにその複数形はいっそう使われなかったもの である。しかし外国語の文法を吸収したことで、書き言葉においてはしだいに「它们」が出現するよ うになった。手本となる白話文の著作のなかにさえ出現している。6