第2章 芥川龍之介の中国題材の作品をめぐって
第 4 節 「湖南の扇」に潜んでいる芥川の中国認識
1. 日本旅行者「僕」と譚永年
2.1 玉蘭に出会う
翌々十八日の午後、「僕」と譚は嶽麓へ見物に出かける途中、玉蘭に出会った。ポイン トは土匪黄六一の悪行および玉蘭と黄との愛人関係の二点にある。譚は血の匂よりもロマ ンティックな色彩に富んだ話をしてくれたが、「僕」は「いづれも大差のない武勇談ばか り聞かせられるのには多少の退屈を感じ出した」。ただ、「そこであの女はどうしたんだ ね?」という質問で示されるように、「僕」は玉蘭と黄六一との関係に少し興味を持って いる。(僕)「ぢやあの女は藝者か何かかい?」(譚)「うん、玉蘭と言ふ藝者でね、あ れでも黄の生きてゐた時には中々幅を利かしてゐたもんだよ。・・・・・・」「譚は何か 思ひ出したやうに少時口を噤んだまま、薄笑ひばかり浮かべてゐた」。「僕」のこの小さ な好奇心は譚に気付かれることになる。後の物語の展開を見ると、「僕」の好奇心と譚の 気付きは、「小事件」の発生に至る伏線を敷いている。
2.2 モダンガール林大嬌
同日の夜、「僕」と譚は一緒にある妓館に行った。冒頭の一節、「僕」が見た妓館の風 景と当時の心境がこう書かれている。
僕等の通つた二階の部屋は中央に据ゑたテエブルは勿論、椅子も、唾壺も、衣裳箪笥も、上海 や漢口の妓館にあるのと殆ど變りは見えなかつた。が、この部屋の天井の隅には針金細工の鳥籠が一 つ、硝子窓の側にぶら下げてあつた。その又籠の中には栗鼠が二匹、全然何の音も立てずに止まり木 を上つたり下つたりしてゐた。それは窓や戸口に下げた、赤い更紗の布と一しょに珍しい見ものに違 ひなかつた。しかし少くとも僕の目には気味の悪い見ものにも違ひなかつた。
このテクストによると、「僕」は上海や漢口の妓館に行ったことがあるが、長沙の妓館 の特別なところだと思うのは、鳥籠とそのなかにいる栗鼠である。しかし、それ以外につ いては「僕」は興味を持つどころか、「殆ど變りは見えなかつた」とか「少くとも僕の目 には気味の悪い見ものにも違ひなかつた」と示されるように、相変わらず長沙のことが気 に入らないと読み取ることができる。
譚は呼ぶ芸者の名前を書くとき、「僕」に「玉蘭も呼ばうか?」と単刀直入に聞いた。
「譚はテエブル越しにちょつと僕の顔を見たぎり、無頓着に筆を揮つたらしかつた」。こ れで読み取れるのは、「僕」は少し玉蘭に会いたい気持ちがあること、また一方で、譚は すでに「僕」が玉蘭に興味を持っているに違いないと思っていることである。
最初に入ってくる芸者林大嬌についての描写は、「僕」の譚に対する見方を含むものと 見なしてもよい。
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そこへ濶達にはひつて來たのは細い金縁の眼鏡をかけた、血色の好い圓顔の藝者だつた。彼女は白い夏衣裳にダイアモンドを幾つも輝かせてゐた。のみならずテニスか水泳かの選手らしい體格 も具へてゐた。僕はかう言ふ彼女の姿に美醜や好悪を感ずるよりも妙に痛切な矛盾を感じた。彼女 は實際この部屋の空氣と、―殊に鳥籠の中の栗鼠とは釣り合はない存在に違ひなかつた。
林大嬌についての描写には、芥川の創作においてよく使われる隠喩がみられる。「彼女 は實際この部屋の空氣と、―殊に鳥籠の中の栗鼠とは釣り合はない存在に違ひなかつた」
という叙述から読み取れるのは、作者が鳥籠の中の栗鼠を芸者に喩えていることである。
林大嬌の「白い夏衣裳にダイアモンドを幾つも輝かせてゐた。のみならずテニスか水泳か の選手らしい體格も具へてゐた」というのは、「僕」の妓女に対する審美感に合わないが、
当時の中国においておそらく流行っていた美意識と思われる。また、譚と鴇婦との親しげ な様子から、彼はここのことをよく知っているとわかる。そして林大嬌が最初に入ってく る芸者だということは、譚と林との密接な関係を示唆する。林の装いは、譚のような現代 教育を受け、モダンが好きな若い青年の好みに合っている。これによって、「僕」は「お のづから彼の長沙にも少ない金持の子だつたのを思ひ出した」。さらに「僕」の譚に対す る冷淡な態度は、譚の地元における地位や妓館での礼遇と好対照である。
2.3 「僕」と譚との心理対決
含芳との話題は、いきなり昨日出会った玉蘭のところに廻っていた。玉蘭の話がくると、
「譚は上唇を嘗めながら、前よりも上機嫌につけ加へた」。譚と「僕」との会話を見てお こう。
(譚)「それから君は斬罪と言ふものを見たがつてゐることを話してゐるんだ。」
(僕)「何だ、つまらない。」
(譚)「ぢやこれもつまらないか?」
(僕)「何だ、それは?」
(譚)「これか?これは唯のビスケットだがね。・・・・・・そら、さつき黄六一と云ふ土 匪の頭目の話をしたらう?あの黄の首の血をしみこませてあるんだ。これこそ日本ぢや見ること は出來ない。」
「君は斬罪と言ふものを見たがつてゐることを話してゐる」、「ぢやこれもつまらない か?」、「これこそ日本ぢや見ることは出來ない」という譚の発言から二つのことを読み 取ることができる。一つは、「僕」の要望を満足させてあげたい親切な譚のことである。
もう一つは、冷淡な「僕」に対する譚の微妙な心理の張り合いである。
「僕」と譚との心理の張り合いはその後の会話でいっそう激しくなり、対決することに
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なる。
(僕)「そんなものを又何にするんだ?」
(譚)「何にするもんか?食ふだけだよ。この邊ぢや未だにこれを食へば、無病息災になると 思つてゐるんだ。」
(譚)「こんな迷信こそ国辱だね。僕などは醫者と言ふ職業上、ずゐぶんやかましくも言つて ゐるんだが・・・・・・」
(僕)「それは斬罪があるからだけさ。腦味噌の黒焼きなどは日本でも嚥んでゐる。」
譚は「僕」に地元で人の首の血をしみこませてあるものを食べると、無病息災になると 説明しながら、「こんな迷信こそ国辱だね」と言っている。一見、このような言い伝えを 迷信と批判しているように見えるが、その後「僕などは醫者と言ふ職業上、ずゐぶんやか ましくも言つてゐるんだが」を合わせて考えてみると、譚は多少医者という自らの身分を 自慢していると思われる。
前述したように、作品全体の基調を物語の枠組みと作中人物との関係としてとらえるな ら、「僕」と譚の間に心理的な張り合いがある。「僕」「それは斬罪があるからだけさ」
という軽い口ぶりで、譚の見方を根本から覆している。「人の首の血」と「脳味噌の黒焼 き」は本来の社会的な意味が全く対応しているが、作中人物の態度は正反対なので、「脳 味噌の黒焼き」に言及することは、「僕」の譚に対する対抗意識を表している。
ところが、単援朝は人血饅頭の話が「湖南の扇」の構想の基底にあったとし、「人血饅 頭」から「人血ビスケット」に置き換えた芥川の誤算を指摘している。
芥川は意識的に「饅頭」を「ビスケット」に置き換えたのであろう。この改変によって饅頭のも つ土着性が一掃されるのは事実であるが、改変自体に多少の誤算が含まれているといわざるを得な い。というのは、「この邊ぢや未だにこれを食へば、無病息災になると思つてゐるんだ」という譚の 説明にあるように、土地の民衆の中に生きている迷信的治療として、洋菓子のビスケットより饅頭の ほうがふさわしいからである。6
しかし、このような読み方は、芥川の固有体験・手記や、論者の価値観・先入観によっ てテクストを恣意的に意味付けしがちなのではないか。テクストの文脈を追って読んでい
くと、ここで強調されているのは「人の首の血」をしみこませてあるというものである。
また、「人の首の血」を斬罪に繋げることが、作者の本来の狙いである。饅頭でもビスケ ットでもなんでもよいであろう。したがって、単援朝が指摘される芥川の「人血饅頭」を
「人血ビスケット」に置き換えた誤算などと言うことはできないことが分かってくる。ま た、芥川が敢えて人血饅頭から人血ビスケットへ改変したことは、「小事件」の虚構性を 側面から物語ると同時に、人血饅頭をめぐる従来の話と一線を画する物語の展開を予感さ
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せるのであるという単援朝の指摘も成立しにくくなる。ところで、「湖南の扇」の先行研究においては、作中人物と名前の実在性を追究するも のが少なくない。その追究の意義はさておき、芥川の作品の虚構性あるいは現実喪失は、
福田恆存の以下の見解からその理由が示唆されている。芥川の作品は現実世界の投影では なくその解釈である。
まづなにより藝術家になること、藝術家らしい生活を營むこと、現實社會に對して藝術家でな ければもちえぬ判斷力を養ふこと――いはゞ出發點としての地盤を築くことが作家の目的であつた。
彼等は詩神に猜疑の眼を向けられさへしなければなにも恐れるものはなかつた。結果は、もはや取り 返しのつかぬ現實喪失として現れた。この意味において、志賀直哉は日本における最初のもつとも近 代的な作家であり、一途に現實喪失へと下降して行つた近代日本文學史において、強引にその下降を 喰いとめた積極性はどこにも見いだされるかといへば――はなはだ逆説めくが――現實喪失をあへ て恐れなかつたばかりでなく、かへつて現實を大膽に追放したところに、強度の現實性を確保しえた ことにある。敵の踵をかむやうにして追跡に追跡をかさね、しかもつひに捕へえぬ不安と小心を小う るさく思ひ、追ふことをやめて立ちどまり、そこにじつくり腰を落ちつけてみたものの眼に、いまや 見えるだけのものが見えはじめたのである。彼は見るために自分の體を動かさうとはしない。動かず にゐて視界にはいつてくるもの――それを現實と見た。志賀直哉のリアリズムとはさういふものであ つた。すなわち、彼は慾をすてて、萬能性のかはりに確實性を獲得したのである。遁走する現實を抛 棄したがゆゑに、こゝに傾きの論理は垂直の安定を得たのであつた。
芥川龍之介の藝術はあきらかにこのあとにつゞくものであり、しかも終生、直哉に羨望を禁じえ なかつた彼は、つひに直哉の態度を自己のものとはなしえなかつた。(中略)世間人に對して謙虚な らんとする彼は、のみならず藝術家の純粋性をもつて、自己のうちの俗物を否定せしめんとした――
彼は彼に先立つた何人よりも詩神に忠實だつたのである。かくして彼の現實喪失はますます深刻化す ることとなつた――なぜなら彼はすゝんで自己の實生活を社會人の常識をもつて平板化せんとした がために、己れ自身の現實をすら喪失することとなつたのだ。7
また「僕」と譚の心理表現からまとめてみよう。上述の分析で示されたように、「人の 首の血」はここですでに従来の社会的な意味を失い、譚は「僕」の好奇心を満足させる手 段となる。「人の首の血」と「脳味噌の黒焼き」は、この二人の心理の張り合いによって 記号化されてしまう。
ところで、譚が「僕」の好奇心を満足させる前提条件として人血ビスケットがなければ ならない。テクストによると、黄は一週間前に斬罪を受け、首を切られた。また、このビ スケットは鴇婦から譚に手渡されているので、恐らく黄の人血ビスケットは単に「僕」の 好奇心を満足させるだけではなく、ほかの客にもこの要求があるだろう。つまり、玉蘭が 情夫の血をしみこませてあるビスケットを食べるのは、妓館に来る客の見世物となる。