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妓女と「闇の女」

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第2章 芥川龍之介の中国題材の作品をめぐって

第 2 節 日本人ジャーナリストにとっての「中国大衆像」―1920、30 年代の芥川龍之介、

3. 妓女と「闇の女」

芥川の遊記には、「南國の美人」の上、中、下三節を含んでいる。彼は上海で美人を大 勢見ていた。その美人たちは妓女である。彼は出会った美人の一人一人を観察し、その風 格があるところを細かく記述している。

この時鴻と云ふ藝者は、愛春より美人ぢやない。が、全體に調子の強い、何處か田園の匂を帯び た、特色のある顔をしてゐる。髪を御下げに括つた紐が、これは桃色をしてゐる外に、全然愛春と孌 りはない。着物には濃い紫緞子に、銀と藍と織りまぜた、五分程の縁がつてゐる。余君穀民の説明に

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よると、この妓は江西の生まれだから、なりも特に時流を追はず、古風を存してゐるのだと云ふ。さ う云へば紅や白粉も、素顔自慢の愛春よりも遥に濃艶を極めてゐる。私はその腕時計だの、(左の胸 の)金剛石の蝶だの、大粒の真珠の首飾りだの、右の手だけに二つ嵌めた寶石入りの指環だのを見な がら、いくら新橋の藝者でも、これ程燦然と着飾つたのは、一人もあるまいと感心した。

とくに芥川の印象に残っているのは、林黛玉という五十八歳の妓女である。彼女に会う と、美しい顔を見ることができるだけではなく、「最近二十年間の政局の秘密」を知るこ とができる。この林黛玉を芥川は女傑と呼び、その若さにもっとも驚いている。だが、そ れだけではなく、林黛玉の才気と歌にも魅了されている。

しかしいくら年はとつても、林黛玉は畢に林黛玉である。彼女が如何に才氣があるか、それは彼 女の話振りでも、すぐに想像が出来さうだつた。のみならず彼女が何分かの後、胡弓と笛とに合はせ ながら、秦腔の唄をうたひ出した時には、その聲と共に迸るかも、確に群妓を壓してゐた。

この林黛玉は才気があり、歌もうまい、中国の伝統的な「名妓」の気質の持ち主である。

芥川は妓女たちの華麗な一面を見るだけでなく、偶然のことで花寶玉という妓女の夕食の 様子を覗いて見、その女らしい親しみを感じた。

すると其處の電燈の下には、あの優しい花寶玉が、でつぷり肥つた阿姨と一しょに、晩餐の食卓 を圍んでゐた。食卓には皿が一枚しかない。その又一つは菜ばかりである。花寶玉はそれでも熱心に、

茶碗と箸とを使つてゐるらしい。私は思はず微笑した。小有天に來てゐた花寶玉は、成程南國の美人 かも知れない。しかしこの花寶玉は、―菜根を嚙んでゐる花寶玉は、蕩兒の玩弄に任すべき美人以上 の何物かである。私はこの時支那の女に、初めて女らしい親しみを感じた。

このように、芥川は普通の客として、妓女のことを賞美しながらその裏の素朴な一面を 観察している。ところで、中国にはほかにも、「闇の女」と言われる野鶏などがいる。清 水は『支那の人々』における「支那の闇の女」という節で、その女たちの境遇を述べる。

「支那の闇の女にも、色々あつて、安価なのになると、十銭二十銭で、賣淫するのもあつ て、こわれた椅子一つで、ベットもなく、稼ぐ人々である」。このような女は芥川の目に 映った美しく着飾っている妓女たちと全く違う生活をしていると想像できる。芥川は花寶 玉の素朴な一面を見て、女らしい親しみを感じるが、清水のように「せんぐり〱苦力の男 をお客として、十銭札を、四十枚も五十枚も束にして、一日の苦しい苦役を營んだ小娘」15 のことを想像することはない。清水は、当時の中国で何とかして排娼運動を起こそうとす るため、闇の女について調べていた。彼はその闇の女を何人か救い、教育を受けさせた。

救われた女は、清水によれば「一人の例外もなく、紳士と家を持ち、幸福に暮らしてゐる。

そして彼等は凡て中等教育を優等で通し得た。若しわたくしに、月に五十圓お金があれば、

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闇の女を七、八人は拾ひ歩き教育を授けて見せる。教育さへして置けば、立派な婦人に皆 なる」という。

闇の女から立派な婦人に変わるところから、その女性たちの悲惨なる過去を読み取るこ とができる。彼女たちは男の玩弄物から「人間」になる。その彼女たちを救った清水には 人と人の間にある人間らしい暖かさを感じられる。

芥川龍之介、清水安三、橘樸の中国に対する記述や論述の内容がもっと豊富にあるはず が、当時の時代的特徴を考え併せつつ、彼らがそれぞれ異なる側面から見た中国の民衆の 反応や行動を通して認識していた中国の民衆像を上記の三つの面から読み取ってみた。芥 川の『支那游記』は彼の中国旅行の実体験に基づいて書かれたものであるため、その実体 の中国の状況に驚嘆しながら、中国をいくらか読み直す試みであったことが読み取れる。

しかし、清水と橘の中国に対する観察や論述と比べると、とくに中国の民衆に関する記述 は、少し影を潜めている。その土地で生きている民衆の実体に基づいたイメージの裏付け は十分ではないので、記述の中身は空洞化になっているところが少なくない。代わって強 調されるのは、端的に言えば、近代以来の日本の中国への軽侮の念ということになる。『支 那游記』は、芥川の冷酷で客観的かつ感性的な体験談ではなかろうか。

1 関口安義:『特派員 芥川龍之介―中国でなにを視たのか―』、毎日新聞社、1997。

2 秦剛:《现代中国文坛对芥川龙之介的译介与接受》、北京日本学研究中心文学研究室编、《日本文学翻 译论文集》、2004。71-94頁。

3 芥川龍之介:「西湖(四)」、『江南游記』、『芥川龍之介全集 第五巻』、岩波書店、1977。217頁。

4 本稿における芥川龍之介『支那游記』の原文は、岩波書店に出版されている『芥川龍之介全集』(1977 年)を引用している。

5 橘樸:「支那人氣質の階級別的考察」、『月刊 支那研究』第二巻第一号、1925年。49頁。

6 清水安三は、1917年に中国・大連へ渡り、キリスト教の布教活動を開始。翌年には奉天(現在の瀋陽)

に移り児童園を設置し、1920年に北京へ移り、貧困の女子を教育するため、崇貞学園平民工読学校を開 校。翌年崇貞女子学園に1938年に崇貞学園と改名。敗戦と共に帰国し、桜美林学園を創立する。また、

1924年ころ「北京週報」の主筆として当時の中国を注目し、『支那新人と黎明運動 新儒教、新文学、

新運動』(大阪屋号書店、1924)、『支那当代新人物 旧人と新人』(大阪屋号書店、1924)を出版し ていた人である。

7 清水安三:「五千年亡びぬ國民」、『支那の人々』、1938年。16頁。

8 619頁。

9 橘樸:「支那兒童心理の研究―彼等に現はれる支那民族氣質」、『月刊 支那研究』第一巻第四号、1925 年。40頁。

10 8同論文62頁。一、(日本人が)勝れて居ると思ふ點 ホ、愛國心が強い 註 共同一致する、國 の為に自利を棄てる、子供も國の事を知つて居る。歴史を尊重する、天皇陛下を尊ぶ、國民教育に力を つくす、自國の発展を忘れない等。

11 8論文69-70頁。

12 6102頁。

1365-6頁。

14 8論文90頁。

156111頁。

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