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高度経済成長期における生活様式の新しさと『暮しの手帖』の実用性

ドキュメント内 博士論文要旨 (ページ 190-200)

第1節 「きもの」記事の実用性

成人女性の洋装の普及は関東大震災以降であるが、それは主に職業婦人、あるいは女学 生の制服においてであり、家庭婦人の場合には洋装の必然性が乏しく、その普及は戦後に もちこされた1。婦人服の既製品化は 1960 年代に入ってからのことであり、それ以前は、

洋服は自分で仕立てるか、誂えるかのいずれかであったため、占領期から経済復興期にか けて洋裁教室は大盛況となり、またファッション雑誌の創刊が相次いだ2

この時代に最も多くの読者を獲得していた『主婦の友』の誌面でも、占領期初期から型 紙付きの文化式、あるいはドレメ式といった洋裁技術の誌上講習が取り上げられていった。

だが 1960 年代における既製服の普及の過程で「洋裁」、つまり「作る」ための技術が誌面 で取り上げられているのは、外出着では 1950 年代前半まで、普段着や子供服のデザインは 1950 年代終わりごろまでであった。それは同時に服飾記事の減少を引き起こすことになる。

高度経済成長期の初期の段階までは、『主婦の友』がとりあげる服飾記事とは、型紙と縫 い方付きのファッション情報であった。流行の衣服を着るためには、流行の柄や色の布地 を使って、それを洋裁技術によって一着の流行のデザインの洋服に仕立てることが必要で あったためである。『主婦の友』は 1950 年代には頻繁に洋裁記事を別冊附録や特集として 取り上げていったが、それを可能にしたのは「流行」の存在であった。婦人用の外出着に ついてみると 1947 年から「新型」を冠した服飾デザインの紹介と作り方が紹介されるよう になる。それまでの見出しは「春」向き、「夏」向き、あるいは防寒用といった、夫々の季 節向きのデザイン集とそのつくり方というものであったが、1947 年 6 月号からは「新型婦 人子供服」という見出しの記事が次第に増加し、1948 年 1 月号では「特集一流デザイナー のデザインくらべ(新春の外出向婦人服五種の作り方)」、1948 年 9 月号では「流行」を冠 した「秋の流行婦人外出着と子供服」と「特別付録実物大型紙」が、1950 年 5 月号では「ア メリカとフランスの新流行発表 初夏の婦人子供服の作り方」などが掲載されている。だ が、こうした新型や流行を冠した洋裁記事が取り上げられるのは、1955 年頃までであり、

それ以降取り上げられていくのは普段着の洋裁技術のみとなり、1960 年代に入ってからは ほとんど取り上げられることは無くなった。それとともに『主婦の友』の洋服記事は減少 していく3。つまり『主婦の友』は婦人服の商品化の過程で、取り上げるべきテーマを喪失

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一方『暮しの手帖』の場合は、創刊期には「直線裁ち」によって洋服の家庭縫製の必要 に応えていたが、洋服の仕立ての技術の習得よりもその美しい着こなしを重視していた花 森安治は、直線裁ちとともに自らの服飾論を誌面に掲載していった。創刊期には手袋やさ まざまなアクセサリの作り方も掲載されていったが、それは美しい装いのために必要なも のであるからである。必要なものが「なければ作る」というということは、例えば創刊期 ではリンゴ箱を利用した椅子、完成期では企業と共同開発した「ふきん」などにみられる ように『暮しの手帖』が一貫して維持してきた姿勢であった4

高度経済成長期における婦人服の既製品化の進行の中で「直線裁ち」の記事は減少し、

花森安治の服飾論が高度経済成長期の「きもの」記事の中心的なテーマとなっていったの は、その既製品化の進行のためである。

1955 年にはディオールの A ライン、Y ラインの流行もあったが、1960 年に入ると国内の 紡績・合成繊維メーカーによる消費拡大に向けた流行創出が始まる。同時に今日「アパレ ル製造卸業」とよばれる企業の活動も始まり、このアパレル業界は毎年のように強力なフ ァッションメッセージを繰り出しながら、洋服の既製品化を押し進め、同時にその流行を 左右していったという。それは 1961 年の「ホンコンシャツ」にはじまり、1962 年の「プ レタポルテ」、1964 年の「アイビールック」、1968 年の「ミニスカート」、1967 年の「ピー コック革命」と「パンタロン・スーツ」、また第2世紀にはいるが 1970 年の「サファリ・

ルック」と続いていった5。花森安治が 1960 年代に入って「流行批判」や「洋服」におい て取り上げたのは、こうした企業の姿勢であった。したがって『暮しの手帖』の服飾記事 が、この時代の女性のファッションに対する関心や必要をどれほど満足させていったのか は疑わしい。

しかしすべての人々が流行を受け入れていったわけではない。藤原康晴の研究によれば、

流行衣服の場合は、その流行を採用しないものも多数あり、1970 年代までは「流行」とい う服装規範への同調者が現在よりも多かったが、それでも流行の一定割合の不採用者が存 在しているという6。その中で花森安治は、流行をどうとらえるのか、あるいは「いい服」

とはどのような服を言うのかについての自説を展開し、また『暮しの手帖』がその転載権 をもっていたアメリカの婦人雑誌『グッド・ハウスキーピング』に掲載された婦人服の生 地やデザインを紹介し、流行にとらわれない服飾観を啓蒙していった。流行をどう考える

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かということは、服装規範が強い時代にあって、人びとにとっても大きな問題であったは ずである。花森安治が『グッド・ハウスキーピング』のデザインを取りあげていったのは、

それが花森安治の衣裳の美学に合致したためであったに違いないが、それでも「アメリカ でもインテリのきちんとした家庭の奥さんやお嬢さんに、そのセンスを高く評価されて」

いる雑誌に掲載されているデザインである7、という取り上げ方は、戦後社会に蔓延してい たアメリカ的生活様式へのあこがれの中で、ある程度の説得力を持ったのではないかと考 えられる。だが一貫して流行批判を行っていった花森安治は『暮しの手帖』の誌面におい てその時々の「流行」を紹介することは無かった。花森安治の服飾論は婦人の洋装文化が 形成されて行く時期に、反ファッションの立場に立ったひとつの服飾論としては意義を持 ったに違いないが、ファッション情報としての実用性には欠けていたといわざるを得ない。

第2節 「たべもの」記事の実用性

戦後の荒廃した風景の中で、花森安治は露店に並ぶフライパンの輝きに触発されて、『暮 しの手帖』の中心的なテーマを「台所」と「料理」におくことを決めた8。それは花森安治 の志である、衣食住を中心とした日常生活の価値を高めるための、つまりこれまで貶めら れてきた「日常生活の復権」のための一つの戦術であった。1954 年 7 月 25 日号に掲載さ れたインタビューにおいても、台所が明るくなること、おいしくサンマを焼くことができ るようになること、これが花森ジャーナリズムの神髄であると、花森安治自身が語ってい る9。『暮しの手帖』において「KITCHEN」の連載が開始されたのはその直後に発行され た第 25 号(1954 年 9 月)からであった。

『中央公論』昭和 40(1965)年 4 月号に掲載されたインタビュー記事の中で「どこの家庭 でも食べる日常的なものを少しでもうまく作る、そのほうが、一見シャレた料理をカラー でのせるより、はるかに暮しにプラスする」と、おいしい「おそうざい」づくりの重要性 を語っている。「料理というものは趣味、娯楽でやるもの」ではなく、「朝昼晩、日々の生 活を維持するためのもの」だからである。それはトンネルを手で掘るようなものだが「こ うして、一つずつつみかさねていけば、やがては暮しを変えていくことになりはしないか」、

それが、花森安治が「たべもの」に賭けた期待であった10

「食」は人びとの生命維持のために一日も欠かすことのできない行為であり、衣食住の 中でも生存や健康に直結したものである。それゆえいずれの婦人雑誌においても食生活関

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連記事はその誌面構成の柱の一つを構成してきた。したがって花森安治が自らの志の宣伝 媒体として「料理」とその労働を担う場である「台所」を選んだことは間違いのない選択 であったが、それが実用性をもって人々に受け止められるためには、その時代の人々の食 の関心に見合った内容であることが必要であり、同時に、料理や台所の改善は婦人雑誌に 共通のテーマであることから、その誌面に差異化を図ることも要求される。この節では高 度経済成長期における『暮しの手帖』の「たべもの」記事のもった実用性を、この時代の 食意識と、『暮しの手帖』の料理記事作りにおける独創性から検討していくことにする。

(1)花森安治の志としての「おそうざい」の価値化

「戦争を起こそうとするというものが出てきたときに、それはいやだ、反対するという には反対する側に『守るに足るもの』がなくてはいけない」。花森安治が終戦の夜、生きる こと、日常の衣食住の大切さに思い至ったのは、その生い立ち、経歴からもわかるように 花森安治自身がそうした暮しを体験してきたからに他ならない。「カツレツは軍隊に入って 初めて食った。こんなうまいものはじめて食った」という北海道出身の部隊の兵隊11では 軍隊生活より価値ある日常生活を思い浮かべられるかどうかは疑問であろう。

そのためには「朝昼晩、日々の生活を維持するため」に食べる「おかず」を少しでもお いしくすることで食べることを大事なことだと考える人をふやしていく。非日常のご馳走 をうまくつくるよりも、「どこの家庭でも食べる日常的なものを少しでもうまく作る」こと が「はるかに暮しにプラスする」と花森安治は考えたのである。毎日が大切なのである。

だがどうやって「毎日のおかず」をおいしくしていくのか。そのためには「おかず」作 りの価値を高め、同時に主婦の料理作りの労苦を減じる。その一つが「おかず」作りの記 事に一流のプロの料理人の登用であり、もう一つは「KITCHEN」にみられる明るい台所 の提案であったのではないだろうか。「KITCHEN」で提案されたことは、合理的な明るい 台所を作ることによって炊事にかかる労働の軽減を図るとともに、台所仕事の価値化であ り同時に家事労働の価値化でもある。台所とは「暮しの心臓」であり、そこで「暮しをう ごかす力が作られ、そこから家中みんなにゆきわたり」、そして「またそこへかえって」く る場所である。ステンレス流し台「シルバー・クイーン」の開発、商品化はその台所を明 るく働きやすいものにするためのものであった。台所は暮しを「さわやかに回転」させる ための「工場」であり、主婦は、その「暮しの工場に、能率のよい機械をすえ、つねに完

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