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高度経済成長期における『暮しの手帖』の発行部数伸長の社会的要因

ドキュメント内 博士論文要旨 (ページ 135-169)

第 1 節 想定された読者層

『暮しの手帖』は、日本社会が戦時下の生活から戦前の生活様式への復帰過程にある時期に、遅れて 婦人雑誌市場に登場した雑誌であった。

『暮しの手帖』が創刊された 1948 年には、主婦四大誌と称された『主婦の友』、『婦人倶楽部』、『主婦 と生活』、『婦人生活』の 4 誌が、その実用性―占領期の窮乏生活を生き抜く知恵と娯楽の提供―をもっ て「絶大の人気」を博していたとされている1。これらの雑誌は『暮しの手帖』同様、生活に必要な実用 記事を誌面構成の柱の一つとする婦人雑誌であった。『出版年鑑』1953 年版の「年間史 概観(雑誌)の 婦人雑誌」の項には、1952 年の婦人雑誌の発行部数について「四大誌と称される『主婦之友』『婦人倶楽 部』『婦人生活』『主婦と生活』の牙城はゆるがず、四誌の部数二百三十万以上と見られ、いわゆる婦人 関係雑誌の総発行部数約三百六十万の過半数を占めている。『主婦と生活』の六十万部前後に対し、他三 誌もほとんど伯仲して五八―六〇万部を出し」とある2

明治末以来の伝統を持つ『婦人之友』も、発行部数は少ないものの、既に戦後の歩みを始めており、

出版活動のみではなく、1945 年には「美術工芸講座・洋裁基礎講習など」を主体とした「愛読者会・生 活講習会」を発足させ、1946 年には当時の「急速なインフレ、失業不安の中で家計簿を通してよりよい 経済生活を作り出す協力の場」としての「家計簿をつけ通す同盟」の発足、若い人々のための「衣食住 の学校」を開き、読者に高い教養と正しい思考力とを養うことを目的として「読者教養講座」を開設、

さらに「よき生活者としての教養と技術の訓練を目的として、自由学園旧校舎である明日館で自由学園 生活学校を開校」するなど、戦争で疲弊した生活の再建に向けての活動を展開していた。

大正 6(1917)年 2 月に石川武美によって創刊された『主婦の友』は、その創刊時にはすでに多くの婦 人雑誌が発行されていたにもかかわらず大正 6(1917)年 9 月から大正 9(1920)年 6 月までの 3 年間で

「当時の雑誌界で第一位の発行部数を確保」したという3。寺出浩司は『主婦の友』の成功の理由として、

雑誌編集上の二つの基本的性格をあげている。その一つは「家事技術・家庭経済などの生活記事を中心 として雑誌を構成していくという生活雑誌という性格」、もう一つは読者層をそれまで婦人雑誌市場に 登場してくることは少なかった「中流家庭の主婦」に想定し、その生活に密着した実用的問題を記事に 盛り込むことによって、この層の読者を新しく開拓したことである4。寺出によれば『主婦の友』の創刊 当時の婦人雑誌は「上流階級の婦人たちを対象にしたものが多く、『主婦之友』同様、生活技術の啓蒙 という性格をもった婦人雑誌である『婦人之友』は「その読者を上級官吏、高級サラリーマン、大学教

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授などの新中間層の上層部分の主婦に想定して編集された雑誌」で、いわば『婦人之友』は森本厚吉の

「文化生活」の世界の雑誌、『主婦之友』は新中間層の中・下層部分、権田保之助のいう「少額俸給生 活者」の生活世界の雑誌であったという。『暮しの手帖』も、商業雑誌として成功するためには、かつ ての『主婦の友』同様、この時代に新しい読者層を開拓する必要があった。だが『婦人之友』、あるい は『主婦の友』をはじめとした主婦四大誌と同じ生活の実用を提供する雑誌の読者層の社会階層・地域 性についてみれば、都市部の新中間層の上層以上の婦人を対象とした雑誌としては『婦人之友』、都市 部の新中間層の中・下層の婦人対象の雑誌としては『主婦の友』をはじめとした主婦四大誌が、農村部 では『家の光』があった。

こうした婦人雑誌市場において『暮しの手帖』はどのような層を読者として想定して編集発行された のだろうか。そこで想定された読者層について、創刊の契機や創刊者たちの経歴を手掛かりとして明ら かにしていきたい。

大橋鎮子が仕事として出版業を考えたのは、出版の仕事なら経験があって自分にもできると考えたこ とと、もう一つには大橋自身の知識欲にあった。それは、自分は戦争中の女学生で、あまり勉強もして いないので何も知らない。だから自分の知らないこと、知りたいことを調べて、それを出版したい。そ うすれば自分より上へ 5 年、下へ 5 年、合せて十年間の人たちが読んでくれると思うというものであっ た5。小学校 5 年生の時に父を亡くした大橋鎮子は小樽在住の母方の祖父の経済的援助により第六高等女 学校で学んだが、卒業後は働いて家計を助けたいと考え、日本興業銀行に就職した。興銀時代は調査課 に所属し、調査課の課長がチェックした新聞記事の切り抜きの作成や、本の購入手続きや受け入れ作業 にあたっていた他、昼休みには調査課の課長が課員の女性を集めてその日の新聞で取り上げられていた ニュースなどについての解説を行っていたこと、先輩の女性課員たちも「私たちは女学校を出ただけだ から、学問が足りない。もっと勉強をしなくては」といって時々図書室に集まって「お話会」を行って いたなど、知識欲を刺激される職場環境の中で働いたことから、大橋鎮子は「もっと勉強しなければ」

という考えのとりこになり、日本興業銀行で三年勤めたのち退職して、日本女子大学家政科二類に入学 した。家政科二類は「どちらかというと、女子大に通って楽しく勉強しようというところで」、大橋鎮 子自身も「女学校で習わなかったことを勉強。時は五月、六月と楽しさ一杯」で過ぎていったと書いて いる。その女子大を 11 月に退学したのは発熱と咳が続き、肺結核を疑わせるような症状がでたことによ る。夫を肺結核で亡くした大橋鎮子の母は、大橋鎮子が父のように肺病になることを恐れ、大橋鎮子は 大事をとって退学することを決めたのだという6。「残念なことでした」とその時の心境を書いている。

その無念さが「女のひとの役に立つ雑誌」づくりへとつながっていったのではないだろうか。

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大橋鎮子は大正 9(1920)年生まれであるから、大橋が読者として想定したのは大正 4(1915)年から 大正 14(1925)年の間の生れ、つまり創刊時の年齢でいえば 20 代から 30 代初めの女性である。

花森安治は、後年(1956 年)、『暮しの手帖』の読者層について「人口五万以上の都会に住む、月収 1 万 7 千円から 5 万円までの人」で、それは編集部員の人たちの生活がその辺のところなので「それ以上 の階層のことも、それ以下の階層のことも、正直なところ、実感としてわからない。実感としてわから ないことをやろうとしたって、無理だ」と述べている7。この発言は 1956 年前後のことであり、そこで表 明されている都市の人口の規模や月収について、そのまま創刊期、つまり占領期直後の日本に当てはめ ることはできないが、「実感とし」わかる生活をとりあげるという発言に着目すれば、都市部の新中間 層以上の生活を取り上げたということになる。

花森安治は神戸に生まれ、子供時代は日常着も洋服という、裕福な中流家庭に育っており、大橋鎮子 とその二人の妹も、戦前における都市の新中間層上層のもつ生活文化の中で育った女性達であった8。創 刊期の暮しの手帖社は大橋鎮子とその妹 2 名、大橋鎮子の旧制高等女学校時代の友人で戦争で夫を亡く した中野家子、日本宣伝技術家協会に所属していた横山啓一、それに花森安治が主だった構成員であっ た。これらの構成員の生活歴から考えれば、その生活が「実感として」わかるのは、都市部の新中間層 以上の生活ということになる。

第1号の定価も110円と、同時期に発行された1948年9月号『主婦之友』の価格、40円と比較すれば

『暮しの手帖』はかなり高額な雑誌であった。次第にこの価格差は減少していくが、それでも創刊期は

『暮しの手帖』は『主婦之友』より高額な雑誌であった。

(図3-1)は『暮しの手帖』および同時期に発行された『主婦之友』の価格をグラフ化したものであ る。

0 50 100 150 200 250 300 350

定 価

( 円

暮しの手帖の号数

図3-1 『暮しの手帖』と『主婦の友』価格の推移

暮しの手帖 (円) 主婦之友 (円)

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第2章でみたように『暮しの手帖』の創刊期の誌面構成は、花森安治が編集長を務め、戦前から戦中 期にかけて発行された『婦人の生活』シリーズの誌面構成を継承していた。その第一冊のあとがきには

「この本の目標も、お分かりくださいますよう様に、女の中でも、一番、インテリな方々であります」

と書かれている9。創刊期の『暮しの手帖』の誌面も、その執筆者や、衣・住を中心とした実用記事、あ るいは日常の生活に題材を求めた随筆によって誌面が構成されていることなど、『婦人の生活』シリー ズと多くの共通性を持つ。『暮しの手帖』が『婦人の生活』シリーズ同様、知的な、あるいは知的な探 究心をもった女性を対象としていたことは間違いないと考えてよいだろう。

また山本夏彦は『暮しの手帖』の誌面に使用されている字句から、「花森は読者を旧制女学校二年終 了、主婦経験十年位の婦人と見ていたふしがある」と次のように書いている。「創刊草々のころはまだ 大学教育はこんなに普及していなかった。だから字句を吟味して、耳で聞いてわからぬ言葉は使うまい とした。極力平がなで書いた。平がなばかりだと読みにくくなる。要所要所に漢字がほしい。そのあん ばいに苦心した。だから誌面はかな沢山でまっしろでありながら読みやすいのは苦心の存するところで、

ぱっと誌面をひろげてながめて感心したことがある」10。旧制高等女学校は4年制の中等教育機関で、12 歳以上で就学可能であった。したがって旧制高等女学校2年終了時点での年齢は 14 歳以上で、主婦歴 10 年位とすれば、概ね 25 才以上となり、大橋鎮子が出版社設立を計画した際に想定した読者層とほぼ合致 することになる。

以上のことからは、『暮しの手帖』は都市部に居住する新中間層以上の家庭の 20 代から 30 代初めの 知的女性を読者と想定して、編集発行されたと考えられる。それが『暮しの手帖』が婦人雑誌として創 刊された理由であった。第 1 号から第 6 号までは、当時の『美しい暮しの手帖』という誌名の傍に「新 しい婦人雑誌」という赤い文字が書き添えられていた。

だが『暮しの手帖』創刊に際して想定されていた読者の社会階層からいえば『婦人之友』と『主婦の 友』の両方にわたる層である。それにもかかわらず『暮しの手帖』は高度経済成長期に、新たな婦人雑 誌の読者としてその市場に参入することになる都市部の女性達を読者として獲得することに成功した。

さらに高度経済成長期には新たな婦人雑誌の創刊が相次いだ。一体婦人雑誌市場のどこに、『暮しの手 帖』あるいは高度経済成長期における新しい雑誌創刊を可能にする余地が残されていたのだろうか。次 節ではこの問題を戦後の婦人雑誌の発行部数の推移の考察を通して明らかにしていく。

ドキュメント内 博士論文要旨 (ページ 135-169)