第1節 知られる努力
伊那在住の木工家であった早川謙之輔は、家具を作り始めたことの挨拶に花森安治を訪ねた際「良い 物をつくれ、だが喰ってゆくために、人に知ってもらう努力をせよ」と励ましの言葉をかけられたとい う1。それは 1948 年 9 月に、後発の「婦人雑誌」として婦人雑誌市場に参入した『暮しの手帖』にとって の課題そのものであったはずである。
先にみたとおり、1948 年前後にはすでに主婦 4 大誌が多くの読者を獲得しており、婦人雑誌の読者層 として未開拓の層は「新しい世代」しか残されていなかった。したがって発行部数を増やすためには、
これまでの婦人雑誌の読者層、あるいはこれから婦人雑誌市場に登場する若い世代の女性に『暮しの手 帖』の存在を知ってもらうことが不可欠であった。
その「人に知ってもらう努力」としては、創刊期における『暮しの手帖』の書店への行商や、いくつ かの都市のデパートで行った「暮しの手帖展」の開催などがあるが、最も大きな成功をおさめた取り組 みは『暮しの手帖』第 5 号に東久邇成子の「やりくりの記」を掲載したことである。
『暮しの手帖』の記事の特徴の一つは、それまで婦人雑誌に執筆することのなかった当時の知識人、
文学者、政治家といった著名人が、自らの衣食住を中心とした暮らしぶりについて書いていることであ った。花森安治は「ふだんあまり書いていない人に書いてもらう、ふだん書いているものと違うものを 書いてもらう」ことを雑誌の編集方針の一つにしており、「学者や研究者に『暮し』を書いてもらうこ とで」その狙いを実現させたのだというが2、例えば、平塚らいてうによる「ゴマじるこの作り方」(第 4 号)、坂口安吾が自らの胃の不調を克服するために工夫して作ったという「わが工夫せるおじや」(第 11 号)、あるいは吉田茂がイギリスで食べたカレーのおいしさについて書いた「ブライトンのカレー」
(13 号)などが、人々の関心を惹きつける契機となりうるのは、平塚らいてうが、坂口安吾が、そして 吉田茂が、どのような人物であるのかを知っている場合である。
その中で、第 5 号における東久邇成子(元皇女照宮)の「やりくりの記」の掲載は、あくまでも「暮 し」を雑誌のテーマとするという編集方針から外れることなく、多くの人々が関心をもつ記事を掲載す ることで、『暮しの手帖』への人々の注目を集める絶好の機会であった。
大橋鎮子によれば、この記事の掲載は、第 4 号の編集にかかっている頃に花森安治が「なにか、みん ながアッと思うような記事を載せなくては、『暮しの手帖』がダメになってしまう」から、そういう記 事を考える様に花森安治に指示されたことから始まった3。
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『暮しの手帖』創刊時の費用は、「スタイルブック」の販売収入があてられたが、『暮しの手帖』創 刊号は 8 千部、第 2 号は 1 万 2 千部、第 3 号は 1 万 5 千部とその発行部数は伸びず、第 4 号と第 5 号は、
大橋鎮子がかつての勤務先の日本興業銀行から当時の金額で 20 万円4の融資を受けることによって出版 することができたという5。
大橋鎮子は食料難の当時、「世間では『皇族方は、マッカーサーの特別の庇護のもとで、ゆうゆうと 暮らしておられる』ともいわれていたことに疑問を持っており、本当はどうなっているのか、そのこと を書いてもらうことを思いつき、それを花森安治に提案したのだという6。酒井寛の『花森安治の仕事』
に紹介されている大橋鎮子の話によれば、原稿依頼はなんとかできたものの、なかなか完成せず、その 都度花森安治から「この原稿が取れなければ、暮しの手帖はこの号で潰れる、その代わり、これが取れ れば、暮しの手帖は永久に安泰だ、どうしても取れ」と脅かされたという7。
それは『暮しの手帖』はその存在さえ知られれば、売れる雑誌であるという、自らの編集した『暮し の手帖』の誌面についての花森安治の自信の表れ、あるいはそういう雑誌を作り続けることに自信を持 っていたということだと考えられる。実際、第 2 号の「あとがき」に「私たちは貧乏ですから、いくら いいものだと自信があっても、二号や三号損をしても続けてゆくといったえらそうな口はきけないので す。売れなければつぶれるより仕方がないのです」とも書いている。
また、第 4 号「あとがき」にはユネスコが日本文化紹介のために世界各国に送る雑誌の中で、婦人雑 誌としては『婦人之友』とともに『暮しの手帖』が選ばれたことを紹介し、「いい仕事をしてゆけば、
きつとわかってくださると信じてはおります。(・・・)こうして、すこしずつ、少しずつ、この小さな仕事 が認められてゆくことが、どのように、私たちの力ずけになりますことか (・・・)」と、その仕事が認め られたことの喜びが記されている。この 4 号が発行された 1949 年前後は暮しの手帖社が経営的に最も困 窮していた時期である。「みんながアッと思うような記事」を掲載することで『暮しの手帖』を人々に 知ってもらうことが必要とされたのである。
東久邇成子は、『暮しの手帖』の存在を人に知ってもらうための格好の書き手であった。だが、大橋 鎮子がやっと取ってきた原稿に、花森安治は「きれいごとすぎるから書き直してもらえ」と怒鳴るよう にいい、大橋鎮子は、再び、東久邇家に何度も通ったという8。この号の販売にあわせて暮しの手帖社は 初めて電車の中吊り広告を出し、また本屋にも内容案内のチラシを配ったという。チラシの中では、「か つての照宮が、『暮しの手帖』にならと快く寄せられた得難い生活手記」であることが強調されている。
大橋鎮子が、その自伝で紹介している吊り広告とチラシの内容は以下のとおりである9。広告はフェア でなければならないという信念をもつ花森安治にとって、たとえ東久邇成子の原稿であっても、その広
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告にあるように「敗戦後の苦難にみちた明け暮れを、実に素直に、飾らず気取らず、大胆に」書かれた ものでなければならなかったのである。
東京周辺の他、関西、四国、そして松江の鉄道に出した電車の中吊り広告は、幅 54 センチ、縦 38 セ ンチの用紙の中央に幅 25 センチ、縦 17.5 センチの真紅の四角を置き、さらにその中央に、墨で以下の 文章だけを書いたものであったという。
特別企画 やりくりの記
東久邇成子
(天皇陛下第一皇女照宮さま)
また、書店に送ったチラシは以下のとおりである。
やりくりの記 特別寄稿 東久邇成子
天皇陛下の第一皇女、かつての照宮が「暮しの手帖」にならと快く寄せられた得難い生活手記。訪問 記事や談話、演説草案などではなく、自ら筆を執って雑誌に寄稿されたのは、皇室ご一家のなか、今 回の照宮様が初めてです。いまは妻として、3 人の子の母として、敗戦後の苦難にみちた明け暮れを、
実に素直に、飾らず気取らず、大胆に書いてくださいました。おそらく国内はもとより、国外にも大 きな話題を投げることでしょう。
おねがい すぐ売り切れると思います。あらかじめ、ご入用の部数を取次店までお申し込みくださ るようお願いします。
花森安治が書きなおしを命じた「やりくりの記」の出来栄え、この広告、とりわけ「すぐ売り切れる と思います」という書店への「おねがい」、そして「東久邇成子も快く寄稿をする雑誌」というイメー ジづくりは成果を上げ、第 5 号の売り上げは 2 万 5 千部となった。『暮しの手帖』第 50 号の「編集者の 手帖 わたしたちの小さな歴史」には、第 1 号は、1 万部刷って売れたのは 8 千部、第 2 号は 1 万 2 千部、
第 3 号は 1 万 5 千部、第 6 号は 4 万5千部刷ったと書かれている。また大橋鎮子の自伝『「暮しの手帖」
とわたし』には、4 号が 1 万 8 千部、5 号が 2 万 5 千部とある。7 千部の売り上げ増となった。第 10 号は
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7 万部を発行している。知ってもらえさえすれば「この雑誌は永久に安泰」だという花森安治の言葉どお り、それ以降『暮しの手帖』は徐々にではあるが、その発行部数を伸ばしていくことになった。
この第 5 号を契機とした発行部数の増加により創刊期の暮しの手帖社はそれまでの赤字経営から脱却 する。『週刊朝日』1956 年 3 月 11 日号に掲載された「私たちの雑誌評『暮しの手帖』論」では、第 6 号 で「わずかばかり黒字になりそうでございます」と、創刊号と第 2 号の執筆者全員に、執筆のお礼とし て千円が送られたことを紹介している10。その第 6 号の発行部数は 4 万 5 千部であった。
1950 年 12 月発行の第 10 号は 7 万部を印刷するほどになり、この年の暮れに「初めてボーナスという 名のつくものが出た」ことが第 50 号の「編集者の手帖―わたくしたちのちいさな歴史」に記載されてい る。また「第七年目から」、つまり 1954 年から「曲がりなりにも、まとまった仕事ができるようになっ た」ということも書かれている11。第 31 号(1955 年 9 月)において商品テストのために広告を掲載しな いことを表明したのは、この時期には「わずかばかりの黒字」の状態からも脱却し、花森安治の「理想 の雑誌」作りにむけて様々な取り組みが可能な経営基盤が確立されたことによるのではないかと考えら れる。
さらに 1956 年には花森安治と『暮しの手帖』編集部が第 4 回菊池寛賞を受賞し、『週刊朝日』が同年 3 月 11 日号で『暮しの手帖』の特集を組んだことで、その発行部数は大きく伸びていくことになる。
1955 年 7 月発行の第 30 号では 21 万部、1956 年 2 月発行の第 33 号では 30 万部であったが、菊池寛賞 受賞後12の1957 年2 月発行の第38 号では52 万部、さらに1958 年9 月発行の第46 号では73 万部に達し、
これ以降80 万部前後の発行部数を維持していくことになる。毎日新聞読書世論調査によれば『文芸春秋』
も『週刊朝日』もこの時期、最もよく読まれている雑誌であった。
第 2 節 もう一つの販売収入源―『暮しの手帖』のバックナンバー
発行部数の増大は『暮しの手帖』のバックナンバーの販売収入というもう一つの収入源の増加をもた らすことになる。
『暮しの手帖』は第2号以降、第 49 号(1959 年 5 月)までは、その誌面に「この雑誌だけは一号から揃 えて下さいませ」という広告を出し、第 1 号からの目次を掲載して、そのバックナンバーを販売してい る。『暮しの手帖』は最新の情報や流行をその誌面に掲載することはなかったので、そのバックナンバ ーは、いわば単行本として売ることができたのである。
花森安治は『暮しの手帖』創刊時には、雑誌というよりは「暮しの全集」を作るつもりでいたので、
創刊号からその版の保存を出版社に指示していた13。当初は 1 万部刷って、売れたのは 8 千部といわれた