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花森安治の志と主張

ドキュメント内 博士論文要旨 (ページ 30-79)

第1節 衣裳研究所の設立から『暮しの手帖』創刊まで

『暮しの手帖』は 1948 年 9 月に「新しい婦人雑誌」と銘うって創刊された。発行所は衣 裳研究所、発行者は大橋鎮子である。

衣裳研究所から現在の暮しの手帖社への社名変更は、暮しの手帖社のホームページに掲 載されている「沿革」によれば、1948 年 9 月に『美しい暮しの手帖』創刊、衣裳研究所か ら暮しの手帖社に社名を変更とあり、また 2004 年に発行された『暮しの手帖 保存版Ⅲ

「花森安治」』に掲載されている「花森安治 年譜」においても 1948 年に衣裳研究所から 暮しの手帖社に社名を変更、9 月に 『美しい暮しの手帖』創刊とある。雑誌の創刊と社名 変更のどちらが先に行われたのかは、はっきりとしないが、いずれにせよ『美しい暮しの 手帖』の創刊の前後に、社名の変更を行ったことになっている。

しかし『美しい暮しの手帖』の奥付に、暮しの手帖社(旧衣裳研究所)と表記されたの は 1951 年 1 月 25 日印刷、2 月 1 日発行の第 11 号である。10 号(1950 年 12 月 1 日発行)

まではいずれも発行所は衣裳研究所である。この間、表紙裏に読者からの原稿募集の案内 が掲載されているが、原稿の送付先は、10 号までは衣裳研究所内「暮しの手帖」編集部、

あるいは「思いつき工夫」係などであり、暮しの手帖社編集部宛てとなるのは 11 号からで ある。先にあげた暮しの手帖社のホームページには、1951 年 1 月 に株式会社に組織変更 とあるから、その際、社名変更も行われたのではないかと推測される。したがって、本論 文では奥付の表記をもとに社名変更は 1951 年 1 月とした。

会社設立時のスタッフは花森安治、大橋鎮子、大橋芳子、大橋晴子、そして花森安治と 大橋鎮子の共通の知人で、戦争中は日本宣伝協会で仕事をしていた横山啓一である。大橋 晴子はのち横山啓一と結婚し、横山姓となる。

発行所である衣裳研究所は、大橋鎮子を社長として1946年4月に銀座に設立され、同 年5月に季刊『スタイルブック』を創刊している。

この雑誌は、花森考案の直線裁ちの紹介を中心とした服飾誌で、花森安治は表紙画、執 筆、イラスト、装丁のすべてを担当している。創刊時は予約申し込みが殺到したが、その 後、類似の雑誌が相次いで出版される中で売れ行きが落ち、1947年10月に「働く人こそ 美しくなる権利がある」というキャッチフレーズで刊行した『働く人のスタイルブック』

を最後に廃刊されている。

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一方『スタイルブック』の発行の傍ら、各地で直線裁ちによる服飾デザイン講習会を開 催したが、これは非常に活況であったことが前掲酒井書他に記載されている1

また1948 年1月からは講習会参加者を組織した衣裳の会の会報『衣裳』を発行してい る。『衣裳』は『美しい暮しの手帖』第三号刊行直後の、1949年(昭和24年)5月10日 発行された「11・12合併号」までその発行を確認できた。

衣裳研究所の設立の契機となったのは、大橋鎮子が戦中期から抱いていた「この戦争が 終わったら、出版社を起こしてお金持ちになり、母親を幸せにしたい」という想いであっ たという。この想いが、その後展開される出版活動の「すべての始まり」であったと大橋 鎮子は語っている。

大橋鎮子の出版社を起こしたいという相談に花森安治が「君の親孝行を手伝ってあげよ う」と答えたことから、大橋鎮子の想いは、衣裳研究所の設立から『スタイルブック』、そ して『暮しの手帖』の刊行へと、具体化していくことになる。

大橋鎮子は旧制第六高等女学校を卒業後、日本興業銀行勤務を経て、1941年春に株式会 社日本読書新聞社に入社している。1941 年 8 月に『日本読書新聞』は日本出版文化協会 の機関紙となり、大橋鎮子は日本出版文化協会の秘書室勤務に変わっている。この時、編 集部もお茶の水にある薩摩屋敷、薩摩治郎八邸の一室に移っているが、薩摩治郎八が『暮 しの手帖』28号から33号までの6回にわたり「ぶどう物語」など寄稿したのはその時の 縁によるものだという。その後、日本出版文化協会が日本出版会に名称変更したさい、大 橋鎮子は再び日本読書新聞編集室に戻る。

昭和 19 年には日本出版会が本郷、順天堂医院の近くにある文化アパートを全館接収し たため、日本読書新聞編集室もそこに移転する。

『暮しの手帖』で「西洋料理入門」(連載)はじめ様々な西洋料理を紹介した千葉千代 吉は、当時、文化アパートの食堂の料理長であった。『日本読書新聞』は編集部員の徴兵な どで1945 年5月に休刊となるが、大橋鎮子はそこに在職のまま終戦を迎える。日本出版 協会の機関紙として『日本読書新聞』が復刊されたのは1945年11月である2

大橋鎮子が、自分で出版社を起こすことを決心した理由の一つは、自分自身が戦争で勉 強もあまりできずにいたので知らないことが多い、だから自分が知らないこと、自分が知 りたいことを調べてそれを出版したら、自分の年より5歳上から、5歳下くらいまでの人 が読んでくれるのではないか、そうした女の人たちのための出版をやりたい、ということ からであった。もう一つの理由は、大橋鎮子には編集技術の心得があり、本を作る仕事な

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らば、自分にもできると思ったことによる3。大橋鎮子は旧制第六高等女学校卒業したあと、

最初に日本興業銀行に就職しているが、その配属先である調査課で資料や図書を扱う仕事 に携わり、さらにその後も日本読書新聞社や日本出版文化協会などに勤務し、編集や出版 に関わる仕事をしてきた。

「独立して出版社を起こしたい」という相談を大橋鎮子から受けて、花森安治を紹介し たのは花森安治の旧制松江高等学校以来の友人で、当時『日本読書新聞』編集長を務めて いた田所太郎である。田所太郎も花森安治同様、旧制松江高等学校の文芸部に所属し、ま た東京大学在学中には帝国大学新聞社で編集に携わっていた。

大橋鎮子によれば、花森安治は所属していた大政翼賛会が解散したあと、『日本読書新 聞』編集部にも時々顔を出し、戦後は『日本読書新聞』の復刊の手伝いなどをしていたが、

年末に設立予定の広告会社発足の準備もしていたのだという4。また馬場マコトによれば、

そのメンバーは、花森安治の他、かつて報道研究会に所属していた伊藤憲治や大橋正、日 本宣伝技術家協会に所属していた横山啓一らであったという5

大橋鎮子が出版社設立の相談をした日の夕方も、花森安治はそのための準備会に出席を 予定していた。それにもかかわらず花森安治は大橋鎮子の申し出をその場で受け、広告会 社設立からは降りてしまったため、広告会社設立の計画は流れてしまったという6

大橋鎮子は、『暮しの手帖』創刊の経緯について、2001年11月21日の出版クラブ主催 の第99回出版今昔会において、次のように語っている7

私は早いほうがいいと思い、その日の帰りに「花森さん、ご相談したいことがあり ます。私は父が肺結核で、小学校5年のときに亡くなりました。その間、母は大変な 苦労をし、(…) 女学校を出してくれました。私は母を幸せにしなければなりません。

それには人に使われていたのではそれほどのお金は入りません。自分で出版社を始め たいのです。」と申しました。花森さんは少し驚いたような顔をしていましたが、「君 は親孝行だなあ。それじゃ僕は、その気持ちに免じて仕事を手伝ってあげよう」とお しゃってくださって、その大事な話はたった一分で決まったのです。

翌日8、花森さんによばれて、帰りにニコライ堂の坂下の喫茶店に行きました。する と「一つ君に言っておきたいことがある。君はどんな雑誌をつくりたいのか。僕は二 度と日本に戦争が起こらないようにする、そういう内容のものをつくっていきたいが」

とおっしゃるのです。私は「花森さんのおっしゃる通りにいたします」と答えました。

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大橋鎮子と花森安治が出版社設立に際し立てた方針は「女の人に役立つ雑誌。暮しが少 しでも楽しく、豊かな気分になる雑誌。なるたけ具体的に、衣・食・住について取り上げ る雑誌」をつくるということであった。

大橋鎮子と花森安治の出版にかける思いは必ずしも同じではなかった。だが、それがジ ェンダーによって作り出されたものであるにしろ、暮しの中心的な担い手は女性である。

暮しが少しでも楽しく、豊かな気分になる雑誌、衣・食・住について具体的に取り上げる 雑誌をつくるということ、それはそのまま女性の役に立つ雑誌でもある。女の人の役に立 つ雑誌を作ってお金持ちになりたいという大橋鎮子の願いと、二度と戦争にならないよう にする、そんな内容をもつ雑誌を作りたいという花森安治の思いは、暮しを媒介項として つながったといえるだろう。

しかし、先に見たとおり、その方針はすぐには実現されなかった。

終戦直後の食糧難、住宅難のなかでは暮し全般を取り上げることはできないので、花森 安治考案の直線裁ちのデザインブックを出版することから始めることになり、『スタイルブ ック1946夏』が1946年5月に刊行された。

花森安治は東京帝国大学で美学を専攻し、「衣裳の美学的考察」という題目で卒業論文 を執筆しており、またパピリオ宣伝部在職時代にも佐野繁二郎と『きもの読本』を編集す るなど、衣の美学には深い関心をもっていた。花森安治が取り上げた直線裁ちとは、布地 を直線に裁って洋服をつくる方法である。曲線を多く使う洋裁では布を裁つためにはパタ ーンとよばれる型紙が必要で、その型紙をつくるには知識と技術と手間が必要であるが、

直線裁ちは、それを必要とせず、和裁の技術があれば作ることができた。当時はふだん着 るものにも不自由している状況にあったが、昔からの着物を持っている人は多かった。直 線裁ちによって、それを活用することを提案したのである9

衣裳研究所設立の契機であった「なるたけ具体的に、衣・食・住について取り上げる雑 誌」、つまり『暮しの手帖』が『美しい暮しの手帖』というタイトルで発売されたのは1948 年9月になってからである。

『美しい暮しの手帖』というタイトルは、花森安治らが創刊時に意図していたタイトル

『暮しの手帖』では、暗くて「それでは売れない」という配給会社の要請で変更されたも のであるという。奥付の誌名は、創刊号から一貫して『暮しの手帖』となっている10

『美しい暮しの手帖』から現在の『暮しの手帖』という誌名に変更されたのは22号(1953

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