π+→e+νe 事象への崩壊確率はπ+→µ+→e+ 事象の崩壊確率と比較して10−4と小さいので、
低エネルギー領域では無視できるバックグラウンドも高エネルギー領域では無視できなくなる。そ のため、この領域では時間スペクトラムにゆがみを与える様々なバックグラウンドが存在する。
4.2.1 π+→e+ν事象
t >0領域での事象の多くはπ+→e+νe 事象である。この事象はπ+の寿命の指数関数の分布と なる。つまり、時間分布は式(2.1)で表される。
4.2.2 NaI、CsIの有限のエネルギー分解能より生じるバックグラウンド事象
NaI、CsIは有限のエネルギー分解能をもつため、パイルアップのない純粋なπ+→µ+→e+事 象がエネルギーの閾値を超えて高エネルギー領域にしみ出してしまうことがある。この事象は π+ により生じるので、時間分布はヘビサイドの階段関数H(t)(t <0ではH(t) = 0、t >0では H(t) = 1)を用いてH(t)∗επ→µ→e(t)で表される。
同様の理由でオールドミューオンによるバックグラウンドがエネルギー閾値を超えてしまうこと がある。このバックグラウンドはµ+ の寿命で下がる指数関数の分布(εµ→e¯νµνe(t))で表すことが できる。この事象はt <0とt >0の両領域に存在する。
4.2.3 µ+の輻射崩壊によるバックグラウンド
µ+が輻射崩壊µ+→e+ν¯µνeγ を起こし、陽電子と一緒にγ がNaIまたはCsIで計測される(つ まりパイルアップする)とエネルギー閾値を超えることがある。
π+→µ+→e+事象のµ+が輻射崩壊を起こした場合はεπ→µ→e(t)、オールドミューオンが輻射 崩壊を起こした場合はεµ→e¯νµνe(t)で表される。図4.2にミューオンが輻射崩壊をした時に放出さ れるγのエネルギースペクトラムを示す。
図4.2 ミューオンの輻射崩壊時に放出されるγのエネルギースペクトラム。横軸y= 2Emγ
µ で Eγはγのエネルギー、mµはミューオンの質量である。[11]
4.2.4 オールドミューオンとπ+→µ+→e+のパイルアップによるバックグラウンド
NaI、CsIでオールドミューオンから崩壊した陽電子とπ+→µ+→e+事象の陽電子のパイルアッ プが計測され、それによってエネルギー閾値を超えてしまうとこの事象はバックグラウンドとな る。これには以下の2通りの場合が考えられる。
I オールドミューオンから崩壊した陽電子がT1·T2カウンターをヒットしてトリガーを作り、
π→µ+→e+過程で放出された陽電子がT1·T2カウンターを通らずにカロリメータで計測さ れる(図4.3)。これは表4.3のcase2Aである。
II Iと同様の仕組みで起こるが、π→µ+→e+過程で放出された陽電子がトリガーを作り、それ にオールドミューオンが重なるというものである(図4.4)。これは表4.3のcase2Bである。
図4.3 オールドミューオンとπ+→µ+→e+ のパイルアップの概念図(case2A)。左図のよう にオールドミューオンから崩壊したトリガーを作る陽電子とπ+→µ+→e+事象とのパイルアッ プがNaIまたはCsIで起こる。
図4.4 オールドミューオンとπ+→µ+→e+のパイルアップの概念図(case2B)。左図のよう にπ+→µ+→e+事象から放出されたトリガーを作る陽電子とオールドミューオンから崩壊した 陽電子とのパイルアップがNaIまたはCsIで起こる。
このバックグラウンドはµ+→e+ν¯µνe事象とπ+→µ+→e+事象のパイルアップによって起こる ものである。よって、この事象はεπ→µ¯νµνe(t)×επ→µ→e(t)の確率で起こることになる。つまり、
ミューオンの寿命の約半分の指数関数で下がる事象であることが分かる。そのため、この成分を考 慮しなければ高エネルギー領域の時間スペクトラムはゆがんでしまう。
この事象はT1カウンターではパイルアップが起こらないので、この事象を実験的に取り出すこ とは困難である。よって、この事象の時間分布をモンテカルロ(MC)シミュレーションで求める。
この際にNaI·CsIの波形データとπ+→µ+→e+·µ+→e+ν¯µνeそれぞれの過程のエネルギー·時間 スペクトラムのデータを用いて計算される。図4.5にNaIまたはCsIそれぞれでのパイルアップ によりエネルギー閾値を超えた事象を示す。なお、全時間範囲を積分したときの値が1になるよう に規格化している。2011年にC.Malbrunotによる解析ではcaseAのみ考慮されていたが、これ
はMCによる計算を改善してcaseA·Bの両方を考慮したものである。
図4.5 MCシミュレーションによって得られたオールドミューオンとπ+→µ+→e+によるパ イルアップ事象の時間分布(左図:NaI右図:CsI)。
CsIのスペクトラムでは-80 ns あたりから立ち上がっているが、これはCsI からの信号が約 670 nsの幅をもつため、-80 nsあたりからπ+→µ+→e+ 事象のパイルアップを受け入れてしま うためである。一方NaIはCsIよりも広い信号幅をもつため、図4.5のように立ち上がる時間が 異なった分布になる。また、両スペクトラムともt= 200付近まで立ち上がっていくが、これは π+→µ+→e+事象とのパイルアップにより起こる事象のためである。
図4.6は図の左図、右図それぞれを合わせたものであり、全範囲を積分した時の値が1になるよ うに規格化した。
図4.6 NaI、CsIでのオールドミューオンとπ+→µ+→e+によるパイルアップ事象。全範囲 を積分すると1になるように規格化されている。
4.2.5 パイオンの輻射崩壊
パイオンの輻射崩壊π+→µ+ν¯µγ は2×10−4の崩壊分岐比で起こる事象であり、γがNaIまた はCsIで計測され、その後パイオンから崩壊したミューオンから放出された陽電子(µ+→e+ν¯µνe) とパイルアップを起こすとエネルギー閾値を超える場合がある。セクション(4.2.4) と同様に NaI·CsIの波形データとπ+→µ+→e+·π+→µ+νµγ それぞれの過程のエネルギー·時間スペクト ラムのデータ(γのエネルギーは図4.7に示した)を用いたMCシミュレーションがC.Malbrunot によって行われた結果、π+→µ+νµγ 過程でエネルギー閾値を超える事象はNaIで2.3%、CsIで 1.8%と計算された。さらにセクション(4.2.4)と同様にNaIとCsIからの信号幅の補正を加える ことでNaI、CsIで計測されたエネルギー閾値を超える事象はそれぞれπ+→e+νe事象の0.5%、
0.17%と計算された。図4.8にその結果を示す。
図4.7 π+→e+νeγにより放出されるγのエネルギースペクトラム。
図4.8 左図:NaI右図:CsIでのπ+→µ+νµγによるエネルギー閾値を超えた事象。両者とも全 範囲を積分したときの値が1になるように規格化されている。