一徳島県石井養鶏農協における−−・
第1節 はしがき
前茸では果樹生産栗岡組織が条件変動につれて主要役割を変化させつつ機能していく過程について考察した.す なわち,それは「適応の建産共同組織」であった.
ところで本章では,「発展の生座共同組織」を対象とし,共同経営として−ほ異例の発展をとげ企業経営化した事 例を検討する.それによって,共同経営の発展の条件を考察する.
共同経営には多くの問題点があるが,「組織とはたえざる矛盾のたえざる解決でのみ,過程的に存在しうる弁証 法的性格のもの」40)といわれる.共同経営はたえず成長発展していくことによって,共同経営固有の矛盾を解消し
ていくわけである.したがってたんなる規模拡大でなく,革新的な手段の採用が必要である、しかし,共同経営の 展開の過程にほ,たえず困難な問題が発生し,有効な手段の採用もゆきづまりを生じ,問題解決のためには,たえ ず修正.雀加えたり,全く新たな手段の導入が不可欠である.共同経営の展開過程は有効な手段の継続的採用の過程 であり,それによる障害克服の過程であるといえよう.
このような動的な展開庇■よって,生産面,舶繊面は不断に変化するが,成員組織における均衡維持が必要であ り,この矛旧しやすい2点を巧みに結合し,解決していくことが要請される.このような過程において共同経営の 経営形態上の変化が生ずると考えられる.
まず第2節の形成過程では,経営基盤の確立と人的な統一体化が問題になる.第3節では,発展概況と組織運眉 について,算4節では能率的な作来所制度叱ついてのべる.家族経営■の意欲,能率に大規模生産の有利性を地合し た道営方法であって,家族経営と同程度の技術水準ではむしろ望ましい方法であるともいえよう.
罪5節でほ酵卵部門の鵜合と事業部制への移行についてみる.僻卵部門を結合し,品種改良が本格的に行えるよ うに,生産部門の組織が変更される.これに伴って企薬経営イヒが進行していくのである.
第2節 形成程過
1 参加までの経過
共同経営の形成過程,すなわち経営要義を独得する過程のうちに,すでにその事業の成否を規定する要因がある ように思われる.いかなる性格の農家群が,いかなる動機で,いかに土地を集中し,出資していくか,以下,通醤 のそれと異なる本組合の形成過程をみよう.
まず,地庄の概況であるが,調査対象である石井養親農協は徳畠県名西郡石井町高川原地区にある.同町は徳島 市の西方約10km,竜野川平野の中心に位置する近郊農村である.気象条件も温暖で自然的,社会経済的条件にお いてもまず恵まれた方であろう.
同期の農家の平均経蔦■血潰は約60a,米麦を主とするが,戦後は畜産ことに養鶏が盛んとなり,昭和36年皮で町 全体で約7万羽の飼養羽数といわれる.
そのうち高川原地区(旧高川原村)は1960年センサスによれば,農家人lコは昭和35年において3,129人(男1,497
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欝2−1表 高川原地区の農業概況
C.経営土地面積 A.経営耕地規模別農家数
総面積 t l戸当り 比 率
戸 数
100.0 % 経営土地総両税 25.4 経営農用地面潰 24.1 経営排地総面積 19.3 日]
17.1 樹 園 地
12.5 畑
0.7 山 林
総 戸 数 ノ〉 3 反 3 ′〉 5 反 5 へ′ 7 反 7 反 ′〉 1 田J l町 ′〉1.5 町 1.5 ′〉 2 勘
2 ′〉 2.5 町
D.家書頭羽数・飼育戸数 頑羽数‡戸 数 B.専業兼業別農家戸数
【▼【一一▲ ̄ ̄
了声
﹁和
比 率
 ̄ ̄川▼ ̄
も
100 30 39 31
農 家 総 戸 数 戸
容 共
563 167 217 179
1種兼業
2 樺兼業 芸i芸
め 山 と
注)罪2−1表A〜Dは1960年世界・農林業センサス市関 村別統計事による
人,女1,632人)で昭和25年当時の3,885人より約20%の減少をしている.また同センサスにより経営規模別農家戸 数をみると,第2−1A表のように農家563戸中50a以 ̄F■が約50.5%,50a〜1baが36・4%で,1ha以上が13・4%に すぎない.また璃英米巣別にみると専菜農家が30%,兼業農家が70%を占める.一方,C表によれば1戸当りの経 営土地面硫ほ64a,うち経営耕地面掛ま56aの零細性を示し,そのうち水田が51aで大半を占める・以上,当地区 ほ典型的な近郊農村であり,兼共化が進行し,零細規枚の米麦農耕が支配的であることが知られる・
このような土地の制約のために畜産が戦後伸長したといわれるが,石井叩と同様に比較的土地を要しない養親が 最も増加し,25年の養鶏戸数267戸,1,142羽が35年には227戸と飼養戸傲ほ減少する.他方,羽数は4,311羽と約4 倍に増加している.しかし実数は統計上の数字の約5倍の約2万羽とみられる・
さて,ここで石井養鶏農協の成員の母胎をなした組織をみよう.高ノIt原地区では戦後の養鶏経営規校拡大の傾向
の中で,昭和28年に農事研究会の有志10名が高川原養鶏組合を設立し,技術研究,鵜卵出荷,飼料購入事業等の共 同活動壕開始した.当机10名で事菜墨は350万円であったのが,34年にはそれぞれ223名,2,500万円と飛躍的上 昇をとげたことは,注目に価する.また当組合出荷卵は大阪市場で名声を博しているといわれる・のちの石井養鶏 農協の組合長竹内無音氏は,この組合長をも務め,また8戸の成員もこの組合における研究会のメンバーであり・
相互に共同活動の訓練をへて,同志的結合の基礎がここで出来たとみられる・
この高川原養鶏組合は組合員が平均100羽の飼養規模に達し,一応副菜養親としての成果は収めえたのであるが,
昭和33年頃より神奈川中央養鶏農協のどとき大規模な養鶏企業集団が発生し,一方農家養親も大東町にみられるよ
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)な新形態の集団養鶏が現われ,養鶏農家に大きな衝撃を与えるに至ったのである.
ここで養親経営の規模拡大の原因をみよう.まず,需要面からみると,経済成長に伴ない食生活が高度化し,マ ヨネーズや英子の原料として鶏卵需要が飛躍的に増加したことによるのである.さらにマヨネーズ製造会社の鶏卵 購入時期が,春季の卵価の低落期の3ケ月間に集中するため,卵価が従来よりも安定化し,これが規模拡大を促進 させている面も無視できないであろう.他方,供給面からみると,(aJ養親ほ土地の自然的制約をうけず,バタ
リ1−,ケージ等の立体鶏舎の出現と普及により単位土地面積当りの収容能力を増加したこと,(b)大規模養凋の制 約要因であった予防衛生上の欠陥が,駆除・予防法の進歩やケージの採用により改善されたこと,(c)配合飼料の 質的向⊥と価格の低下傾向,(d)配合飼料の普及による飼養労働の節約,米作の省力化に基づく余剰労働投入の場 の転換,(e)大益流通の有利性等の諸要因が養鶏規模拡大の原因と考え.られる.このような規模拡大傾向ほ第2−
2表によってうかがわれるが,同時に卵価下落と飼養戸数の減少(小規模養鶏家の脱落)を必然的に伴うのであ
る.
したがって経習規枚拡大は中小養鶏家の存立に大きな脅威を与え,将来に対する深刻な不安を発生させた.その ため竹内氏らは流通共同軍発から,より私極的な生産共同体制の創出に関心をもつに至った.個人経営による規校
第2・−2表 卵仙・成難雌羽数・産卵鼠・飼養農家の年次別変化
鶏卵 価格 l 成鶏雌羽数 i 産 卵 鼠 l 飼養農家数 39,588
36,730 37,403 41,781 41,389 44,500 55,922
6,742,780 6,638,289 7,365,618 ア,913,973 8,149,714 9,559,606 12,863,049
4,507,500 4,195,500 4,158,500 4,158,000 3,879,300 3,838,600 3,807,700 188.0
205.6 191.0 179.2 187.3 181.7 179.1
農林省統計調査部:罪36次・節38次農林省統封表による
拡大は,現実には多くの障害があったからである.農繁期における労働の制約,敷地の制限がそれであり,限定さ れた敷地での増羽は密飼いによる収益低下をもたらすためである.■また,副菜的性格のゆえに研究を沫めえぬこと
も大きな問題であった.
人々の共通の不安ないしば不利益感,疎外感がしばしば組織形成の要因となるといわれるdl).上述の客観的条件 は共同組織発生の温床となるけれども組織化にはなお直接的契機が必要であった.
昭和34年,竹内民ら有志は神奈川中央養鶏場を視察し,同養親場の組織と運営方法に深い感銘違うけ,共同経営 の成功について自信をえたといわれる.時に,県の指導者からも生産共同ヨ一機の勧誘があり,実施が決意され,具
体的計画の段階に入るに至二ったのである.
2 成員参加の動機
共同組織とくに共同経醤の設立に関してはいわゆる同志的結合という人格的な結合が基混になる.人的組織の結 合の強さは目標,意見の同一性および調整力の範囲によるとされる.企業経営においても団結力,人の和が重視さ れるが,共同経営において−は和や結合力の低下はたんに能率の低下セはなく,しばしば成員の脱落をもたらす.1 成員の脱落は,労働力ないし経営者の経営体からの減少に止まらず,経営資本の減少,負債の増加,経営規模縮小