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項  て

ドキュメント内 『宗教研究』215号(46巻4輯) (ページ 55-71)

つ  象  い  込 む 

るなりもべう  。 

け  "  " 

て事 

自身は﹁まだ理念でほない︒Ⅰとはいえ︑ 

﹁ 被 制約者とその制約との連結を︑経験 

       ︐て れが﹁現象の・・・・・・絶対的統一﹂︑﹁現象の 総合の無制約者﹂として︑ 

が 決して及び得ないまでに拡張する﹂限りにお いては︑やはり理念に体なら 

  理念には見られない︑宇宙論的理念に固有な二 重性 が存する︒そこで︑思弁 

さてこのように見られ得るとすれば︑①先述の 宇宙論的理念の二重性は︑純粋理性が二律背反を 惹き 起こす︑いわ 

ば 理論的契機となったものであり︑その限りに おいて︑②第三二律背反を含むすべての二律背反 の ﹁事態根源﹂は ︑ 

‑M‑ 経験が﹁人間の領域にではなくて︑まさに宇宙 め 柵的 領域に存する﹂といえる︒そして︑③かかる 二律背反が﹁純粋 理 

    性 批判﹂の︑したがってまた︑少なくともこれ 以降の彼の批判哲学全体の出発点であり︑また 原 動力であったとも @‑ ロ 

い 得るであろう︒ 

一 

では問題の第三二律背反とはいかなるものであり ︑またそれはいかにして解決︵解消︶されたの であろうか︒この 

問題に答えるには︑まず 一 ・ 先 験的弁証論﹂にお ける第三二律背反の意義について︑一瞥しておか ねばならない︒ ヵン 

トは ﹁弁証論﹂において︑先述のように形而上学 本来の課題をなす︑心理学的︑宇宙論的およ び 神学的理念︑すな 

わち不死︑自由および神の理念に関する純粋 理 性の弁証的推論を︑それぞれ純粋理性の誤謬推理 ︑二律背反および 理 

想 と表わした︒したがってこの場合︑自由は当 然 ︑純粋理性の二律背反論において解明されるべ き甜額 と見なされた  ︵ タ 1 ︒ ‑ です﹂︒  のである︒このことは︑前の引用文に続いて︑ ︒この現象は ︑ ⁝・・・哲学をその独断のま ど ろみか ら 目覚ませて︑理性 

批判という困難な仕事に向かわしめるように︑ 最 も 力強く働きかけるものである︒﹂︵て日田四 の卸 0. ︶と述べられてい 

ることと︑彼の晩年の次の書簡の一節とを比較 対照することによっても︑容易に了解され得るで あろう︒﹁私が出発 

した点は ︑ 神の存在や不死などではなくて︑ 純 粋 理性の二律背反です︒⁝⁝この二律背反が私を はじめて独断のま ど 

ろみから目覚ませて︑一見理性が自己矛盾する という 誹 訪を取り除くために︑理性そのものの 批 判 へと駆り立てたの 

(502)  56 

カントの自由 言 

義を有しているといえる︒ 

では︑かかる意義を有する第二三津背反とは︑ どのようなものであろうか︒これは周知のよう に ︑相互に矛盾 せ 

る︑ 次の一対の命題として言い表わされた︒ 

定立自然の法則に従う因果性安目 の ㏄︶ 田 ︵ ぴ ︵ 日 

巨守 

お 寓目口 の Ⅰ 了苦 〜は︑世界の現象がこと ごとくそれから 導  ム田 出され得る唯一の因果性ではない︒現象の説明 には︑なお自由による因果性本筈在日 弾宙ロおプ Ⅰ︵のぎの 田 ︵ を 

想定する必要がある︒ 

反 定律自由は存在せず世界における一切は ︑単    

この 一 1 定立﹂に対して︑カントはおよそ次のよ 

‑  っな  証明を与えている︒もし︵反定立におけるよ う に︶自然法則に 

57  (503 Ⅰ 

反論は  ︑  単に﹁純粋理性の二律背反﹂論にお  い 

     到達するための手段として役立つにすぎない﹂ ︵ 口 ・ ひ のの戸ロ ヨ : せ笹 ・ づ ・の 綿︐ ︶︒したがって自由 に関する第三二 律背 

   それのみである︒︵ i  5 ︶ その意味で︑﹁弁証論﹂の体系 構成︑ないし二律背反論によって解明されるべ き 課題︵自由︶ とい 

  う 点から見る限り︑純粋理性の二律背反論は ︑そ の 第三二律背反論によって代表せしめられてい るといえる︒しか 

も ︑形而上学の本来の目的への到達という点か 

︐  ら  見る限り︑上述の三つの理念の中でも︑第三二 律 背反によりて解明 

されるべき自由の概念が ︑ 最も重要な役割を担 

︐  っ  のである︒その点について︑彼は第二版に付加 した註においてこう  舌口っている︒﹁形而上学はその探求の本来の目 的に対して︑ 神 ︑自由︑および不死という三つの 理念のみを有する︒ 

それで第二の概念 ハ 自由  は︑第一の概念 ハ 伸し と 結びついて︑必然的結論としての第三の概念 ハ不死しへと導かれ 

ばならない︒形而上学がこれ以外に従事するも のは︑すべて形而上学にとっては︑これらの理念 とそれの実在性とに      のである︒ところが︑先述の四つの二律背反の ︐ っち ︒この宇宙論的理念としての自由に直接に関 わる背反は︑第三の 

     

従 う 因果性以外に何らの因果性もないと仮定せ よ ︒そ う すれば︑すべて生起するものは︑それが 規則に従って不可避 的に継起する先行状態を予想することになる︒ と ころがその先行状態そのものが︑また規則に従 って生起したもので なければならない︒だから一切が ︑ 単に自 然 法則に従って生起するとすれば︑常に﹁従属 的起始のロヴ巴ヰの ﹁コヰの︵ レコ守二幅﹂があるのみで︑﹁第一の 起始のぁ赦 Ⅰ レコ bp コ的 ﹂はなく︑したがって︑一般に順次に由 来する原因の側での 系列の完全性は存しないことになる︒ところが 自然法則とは︑十分に先天的に限定された原因︵ 根拠︶なしには何も 生起しない︑という点にこそ存する︒したがって すべての因果性は自然法則に従ってのみ可能で あるという命題︵ 反 定立︶は︑自己矛盾することになる︒それ故に ﹁自然法則に従って進行する現象の系列を自ら づ 0 コ おこ 降 始める 原 因の絶対的自発性が︑したがって先験的自由 下 がコ の い のコ年の里 日の ⅡⅡの〜下の〜︵﹂が想起されね ば なら ない﹂ の証明によって ︑ 先の定立において主張された ﹁自由による因果性﹂は︑思弁理性が︑自然法則 に 従って生起する 現 象の﹁背進的総合﹂に際して︑その現象の系列 の ﹁第一 起始 ﹂ないし不可欠の根拠として要求す るものであり︑かか る ﹁現象の系列を自ら始める原因の絶対的自発 性 ﹂として︑﹁ 先 験的自由﹂とも呼ばれるもので あることが明らかと なった︒この 先 験的自由は ︑ 別の箇所では︑﹁   験的 概念﹂︑﹁自由の  ︵ 此 ︶  先 験的理念﹂﹁宇宙論的意味における自由﹂ ︶などとも 表 おされている︒かかる自由の概念 は ︑意志の自由と帰 責 の問題 に 関連して︑カントが 前 批判 期 以来 探 永 してきた概念であり︑彼自身の﹁新しい㍉理性   

える︒ ところで︑先の﹁反定立しに対しては︑彼はお よそ次のような﹁証明﹂を与えている︒もし︵ 定 立 におけるように︶ ﹁世界の出来事がそれに従って生起し得る一種時 別な 因果性としての 先 験的意味における自由﹂︑ すなわち﹁一つの 状 焦る ︑したがってまたこの状態の結果の系列を 端的に始める能力﹂があると仮定せよ︒そ う すれ ば ︑なるほど﹁力学 

(504)   58 

難 論が奪い去ってしまう認識の信頼性と確実 睦 をこそ 目 

ざすものであるそれ 

は︑ 彼が二律背反論を ︑     思弁理 睦め ﹁弁証的戦場・ 一 とも﹁試合 場 ︐ 一 とも 揃 える 畠 ‑ 仲恭 ︶のに対して︑ 自 ちを︑この 試 ムロの﹁公平な審判者 一 5  ﹁単なる誤解﹂に由来するのではないか︑ そ してこの誤解が解かれた後には︑両者の﹁ 騎漫 な 要求・ 一 はとり下げられ 

  目 るのではないかと熟慮するのである︒この方 法は ﹁懐疑的﹂ともいえるが︑しかしこれは﹁ 懐疑論﹂ではなくて︑ 壊      的 第一 起始一 はあることになっても︑この 起始 自身は先行状態と何らの因果関係をももたないこ とになる︒それ放︑ 

先 験的自由の想定︵定立︶は﹁因果律 木 pu 終緬の のの︵ ぃ ﹂に反し︑経験の統一を不可能ならしめる︒ 自由とは﹁空しい 思  惟物 ﹂︑﹁幻影﹂にすぎない 完叢 ㍗ 葮 ︒この証明 は︑ 要するに定立の主張する﹁一種特別な因果 性 ﹂としての 先 験的  自由は︑因果律に反し︑したがって可能的経験 右 可能にするから︑認められないというもので ある︒だから先の定  立が ︑理性統一の立場に立っているとすれば︑ こ の 反定立は︑悟性統一の立場を固執しようとし ているともいえる︒ 

さて如上の証明は︑一見して明らかなように︑ い ずれも相手側を論駁することによって︑ 己 れの 側の正当性を証明  しようとするものであり︑その意味では一種の﹁ R@ 均妾勺 ほ 正明﹂である︒ = ︐ ︒ ‑0 目 2  ︶ だが ヵント は︑かかる証明 法が ﹁純粋理性の背  反論 ナコ ︵ @ ︵ ゴの ︵山ガ﹂ 

宙雙 

めごく自然なやり方で あると見ていたよ う である︒だから先の第三二 律 背反のみならず︑ 

かかる証明の内容も︑カントがはじめて考え出 したというよりは︑むしろ古来の形而上学におけ る 自由と自然とに 関 

  する歴史的な論争を事実として前提 ‑.‑‑@ ‑ 巴 2  し︑ これを 彼がはじめて上述のように命題化︵概念化︶ した ものといえる︒それ  は 彼が ︑ 四つの二律背反を表示したあとで︑﹁ こうした矛盾に際しての理性の関心について﹂と いう節において︑ 定  立と反定立との立場を︑それぞれ﹁純粋理性の 独断論﹂と﹁単なる 終終淋 ﹂と表わし 

宙雙 

︑ ま た 両者の対立を﹁ プ    

ラトン主義と エ ピクロス主義との対立﹂ 宙蘇 ︶ と 表 わしているところからも︑容易に窺われ得る であろう︒それで カ  ント自身は︑かかる歴史的論争︵抗争︶を前提と する第三二律背反は1 他のすべての背反に おけると同様に 

ドキュメント内 『宗教研究』215号(46巻4輯) (ページ 55-71)

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