が︑ 何ら矛盾なく思惟され得るとすれば︑自由 と 自然とは︑同一の主体の﹁同一の行為 1 一に関し て ︑これをその 回 想
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( 几リ ( l 上 R Ⅰ ( ト Ⅰ 00 ( l Ⅰ ウ 7 ト人 v
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411 5 ( ︶卍曲 ・イ出の @ ヨの ︒ 0 円 す ‑N Ⅰ ヨパ ︒の ヨ っ片すの 0‑0 内づ の ︒ ア ︒コト 目 Ⅰ㏄でⅠ 甘 コ % 隼の Ⅱ ヌ曲コ ︵ 打りゴ の二 % ト臼ず田 ︵ お 二 % コ 0 ヨは ・望 年隼ざコド @ ﹁ 弔 下臣 0 の︒ つゴ のⅡ
木 ㏄二方 目 ・ け 0 二戸Ⅰの べ 0. の・ い切つ
︶これに対し第二の背反は︑そこで問題になっている 理念が﹁単純なもの﹂であるから︑﹁思惟する自我﹂ ないし心の問題
に ︑第四のそれは︑そこで問題になっている理念が﹁ 端的に必然的な存在者﹂である限り︑﹁最高の世界 原 因 ﹂ないし神の
︶この第三二律背反は ︑ ﹁プロレ ゴメナ ﹂ではこう 表 わされている︒﹁定立世界には自由による原因がある ︒反定立自由
はなく︑一切は自然である︒﹂ 宙 イ日 毬 ・の・ ロ ・﹂
︶ 戸木りコ宜づ 0 ぺ 帝の岸 コ 的の ロむヴ 目安の目 笘い つ下ヒ の守 ‑ ド下 E$ : ゴ ﹁のめ・ づ Q コパ ・ ヱ ・の︒ すヨ @ Ⅰ︵・︶の けか ・のⅠけ り
︶ @ ヴ ・㏄・トド ト
︶ 由 ・出ゑ ヨ の 0 の︵ す ・ づ qp コのい の コ 由のコ % 日 0 口了す オ ︵ デ ・Ⅰ・ 円 0 目・の・ い ㏄ の
︶ メ ・︶の名の港︒ し T の q0 臼の コ弔す目 0 の 0 Ⅰ宙の コ ・ ミなコぃゴ の コ Ⅰ 0% べ ・㏄・ ト 巨の・年中ヰ ノト ・︑ 目 ・ロリハム p. 目 りのⅡ 目コ Ⅰ つミ ・の・ののの︶ イこあス w といえ ス w ︒ 72 ︵ 3 ︶ ヱ ・の︒ すのコ︐木いい ︵の 頭 0% ドむコ あ にコ ㏄印のⅡ円円 % ヨ ︐ロの Ⅰ ココⅠのⅠ つ ・の・いのつ
︵ 4 ︶この点から コヘン は︑﹁自由の理念そのものが 倫 理 字を要求する︒ 二 ︵ ぎ ・の・︶ 鮭 ︶ と 見なし︑﹁それ 故倫 理学は宇宙論的自由の の 理念の統制的使用の叙述 と 言 い妻 わされ得る ピ ︵ 日 押き むとすら 迷 へている︒
︵ 5 ︶Ⅰ・㌧が三の 0%" Ⅰ日日い コ年 ㊥ ‑ 吊う い コダ の億年神田内のⅡ ドト の い卜 の ・け む ㏄
︵ 6 ︶︵ 7 り ︶ @ ヴ ・の・ 0 ㏄ 朋 ・ セめ ‑. の・ N ︶㏄
︵ @ ︶Ⅰ す ・の・㏄ ウ Ⅱ 円
︵ 9 ︶︵ 托 ︶ 木 ・ q ㌃の す の q. ののの りオ ざまの 肚 Ⅰ コ の二のへコ % まざの でオぎけ廷ミ ・Ⅰ 木りコ ︵ 俺 コロの 田コの Ⅰ︒ 才 ﹁の・立山色色 ヴの ﹁ 的 Ⅰ ㏄ つ ㏄・の・ り ㏄ つ
︵Ⅱ︶これに対して広義の理性は ︑コ 純粋理性批判 L の ﹁理性﹂が意味しているよさに︑感性︑悟性および この狭義の理性を包
合 する︒
︵は︶カントは コ几験 的理念が理性にとって 自殊 であ るのは︑ 範時が 悟性にとって 自妖 的であるのと同様で あ る︒﹂ 姦ヰ むと 述
ぺ ている︒
︵㎎︶ ヌドコ 方け﹁ ぽ hp 二のす﹁ デ ︵ 守コのぃ ﹁ く のく 0 日 ㏄︶・のの㌧ 円 ・ ト Ⅱ つ ㏄
おりに対する﹁批判的理性﹂︵ 時鱗む ︑﹁審判的理性 ﹂︵ 時 ぷ能︶︑ないし
﹁探求的・吟味的理性﹂㏄ お むの立場であるといえる
︵ 然 ︶第二版においてカントはこれを﹁質料的観念論 ﹂これには﹁デカルトの 蓋伏的 執念論﹂と﹁バーク りの独断的観念論﹂
とが数えられている︵ し ・ ぃ 三︶と区別するために ︑﹁形式的観念論﹂とも呼んでいる︵しり ちゃ ヲヨ し ︒
メナ L では︑カン すことを考慮して︑﹁私はこの名称をむしろ取り消し て ︑批判的観念 論 と呼びたい 0 ﹂︵ キ 三品・オニトロ ヨ ・ 目 ︶とも述べてい ︵ れ ︶その意味では︑ コヘン が指摘するように︑﹁ 反 定立はまだ 範時 と理念との間の区別を知らない︒﹂︵ 下 の ︒ 甘 0 コ ‑@ ヴ ・の・ トト ㏄︶
ともいえる︒ ︵ お ︶これが二律背反を真に解決するものとして︑ 一 七六九年にはすでに洞察されたと思われる︵せ匹・ オ 0% の x@o コの口 Ⅰ 亡べワ 用の︵ ヰ づビあ ぎ・ 田 ・が くロ ︵ H. イ ・の っびご ︒ 七 0 年の教授﹁就任 論文﹂には︑上の四つの二律背反の思想はすべて 呪 わ れ ︵ し の 5 目二日 おコ匹ヴござぃ ︵白絹 の @ ま色二 m@ 二 % ︵ 0 ﹁ ヨド呂づユコ ㌔ ワ打 ‑ し田Ⅰ 抑 N の︑ 07. トめ ・の 0 :せ性・ 0. の 宙 Ⅰ 古 ・ パぃ 目打下臣 岳 コ 0 ヨあ 三の ゴお ‑ ヨ
Ⅰ ざオ 芹の住 0q Ⅱ コ ハ % 幅目 Ⅰ 巴 1 ロ ず のの ユぃヱ の コ ・ホド 臣 ︵ l の 侍仁隼 F コ巾 田 ⅩⅩ ポの ・の㏄ l Ⅱ ト ︶︑時空の観念性についての見解もす でに表現されて
いる︵ し 0 日亡臣 臼 ・ 狗ト A, ト白 ︶ っ ︵ 笏 ︶の・ 旨りぺ ︵ ピ . プリ・の・ P のⅡ
︵四︶ 田 r. の・ P のの
︵㏄㏄︶ q. づ pE‑ のの コ ・ @ ゴ ・の・ NN Ⅰ・ NN 〜
︵㏄︶バウ フ も自由の可能性は︑現象が物自体ではな いという点に存し︑・・・⁝物自体が自由の理念の可能 根底 旨 ひぬ 目 0 プオ の @ 宙
廣 Ⅱ 俺 コミ ハ 摯であるし︵ 接 ・ い リヒ ぃ 二戸 木 が目・のが日日三 コ ㏄ の 援 蓬の口の・ ト いつ︶と解しているが︑これは妥当であろう 論
因 という語が超感性的なものについて用いわれる場合 る ︒﹂︵ ヌ ・ ロ ・ C. 芭 ぎすぎ戸口内 目 ︶と述べている︒ ︵ 紐 ︶ 目 ・ 叫ゑヨ mom ︵二子・の・ NpO ︵㏄︶カントは﹁人倫の形而上学の基礎つけ﹂におい て ︐﹁因果性の概念は法則の概念を伴っている︒原因 と 呼ばれるものによ ︵ れ ︶ ぜ性 ・の・ 目曲耳ぎ ・ ロヨ 日当店 曲 パルコ︵・ 丙堅 コトののっ ㏄・ 簿 ・ 簗 ・ヤスパースは︑この証明は﹁歴史的に存 在する思想の要約﹂
︵ 乾 ︶ハルトマンはカントの第三二律背反論の成果を 高く評価する︵ 尾 ・ 屈ぎ ・︵ヨ豊
ダ田
三拝ド ン仁コ ・ 零 ﹁ 由コ ト の肚の・の・のの 0 ︶が ︑ その際︑﹁自由からの因果性﹂によって﹁積極的意味に おける自由 ヒが 明らかにされたと見なし︑この自由 はコ 決定への でイナスではなくて︑・・::明らかに出定へのプラスである Ⅰ以前からの ロ 進行は︑かかる付加年 ゴ zu ヰ o ヨヨ 0 コによって 申
断 されず︑ただ方向が変えられる︵ ぃ 匡のコマの コ ︶にすぎ ない 0 ・・・⁝﹂︵ 邑 ・の・の耳の︵・︶と述べている︒
︵㎎︶ 由 ・の っプ の ダぎ ・の・︶ 62. づ性 ・の・︶ ま ・この点をハイ ムゼ ー ト はこう表わしている︒ 一 ︐自由からの因果性は ︑その 働 ぎにおいて 現象の系列を始め︑新しい作用と形態とを事物の進行 中 ヘレ ミ Ⅷ れ 込むように三元 ぎ斥 主簿 お已 始める︒ ︐一 ︵ コユヨ の 0 文才︒ ヨ の ・のⅡ ヰ ︶と︒ ︵ 何 ︶の・ まドユぎ ︒ ぎ ・の・︶のの・ ミ ・ 卑 oc オぎヨヨ のⅠ本リ コ ︵ のい亡 Ⅱめり アコ目コ帆ど Ⅰのの 仁コ笘巾 Ⅱ ひ ‑ す めヱ の八ロ 宙コ 0 ヨあ @ 木口 ‑ 口︶ つむ ト ・の・のり・のの
なお 本 小論中の ゲシ @ ペルトは軍者によるものである ︵㏄︶ 由 ・の 0 すのコ ︒ 六 0 ヨヨ目 ︵ り ﹁ zu Ⅰ本ぃ コ ︵の メ ふ由 ガ 年窯 Ⅱ e@ 目 0 コ とト のⅡ コ 亡臣 円 ︵ ︑ Ⅰ e@ すい @ 的ト つつⅡ・の・トウト ︵㏄︶カントは第二版で︑﹁知性的ないし感覚的である のは認識のみである︒いずれかの直観方法の対象たり 得るもの︑すなわ
ち 客観のみが 可想 ・的ないし寸感的と呼ばれねばならな い 0 ﹂︵口ミ レコヨ しと述べているが︑この区別は磁 ずしも一貫して いるとは言い得ない︒
︵ 却 ︶﹁現象という語がすでに図式を意味する ピ ︵ 之ぺ りのトぃ ︶とも彼はミロっている︒
︵ 蛆 ︶この点については︑次節以下︵四・五︶におい ィ ﹂詳論される︒拙稿﹁カントにおける責務と帰責・ 一 ︵ 倫 理学年報第二 0 集 ︶ 参照︒ ︵ 鍋 ︶この能力は﹁一つの状態を最初に N 斥 ﹁のけ始め る 能力﹂︵ 之 r. お ㏄さとも表わされる︒ ︵ 拡叩 ︶ 田ハ ・ q 抜 いオ の q ︒ @ ヴ ・の・ 0 のⅡ ︵ 抑 ︶メモ・ミ田孝子当分 亡汀 ﹁ミヨ 臼ゑ おぎ 臼 ︵・の・ レ Ⅰ 由 円 む圧二幅 0 コト の︶の・の . ト Ⅰ っ ︵ 例 ︶ せ住 ・ 由 ・ @ ナヱ 塁の ‑ ロガ 0 プの ﹁ 3 目 の Ⅱ 仁コ 年のま い の 木 麓 コニの c 甘のⅡ 由 ︵オ @ ヰ ヒコ巨 @ ゴ ﹁の メ ︒二 % ﹁の ヱ の 目 Ⅱ ヴハ ︵ 寸 e 用 ︐ 木 い臣 ︵ 1の圧仁年 ‑ のコ ⅡⅡ 幅いコ N 俺コ ㏄のす︒ ヰ 内の ト つい・の・ 包
(520)
って ︑ ⁝・結果が措定されねばならないのはその法則 による︒﹂ ‑ の ﹁こコ 日り的仁コ ㎏ ドミ ・ &. の・ロチ 圭 ・丁年年 ヨと説 ︵㏄ ‑ 下ム ヨ の Q 目ア ‑ ぎ ・の・㏄下の
少なくない︒就中竜樹 2%W ︵ 一 E,p ︶の﹁根本中ぬ 柵頒 L ︵ま口 一 p@ コぃロア せり ヨ prp 斤目ぎ ぢ ︵以下﹁中論﹂と 略 記する︒なほ引用典籍 の 出処は nU 内に負数と行数を略記する︒また 八 ︒内は筆者にょろ補足で旧 弓 ︐ ‑ に説かれるものが 重要である︒口中論 ヒ は空観に立脚して大乗仏教を理論附けるものであ る ︒従って三師説は空観と関りを有 っ ︒同時に 空観は二諦謝を 侯っ
て 完結する︒
ここに我々が 試る論孜は ︑口中論しの二諦 説を Ⅱ 言説㈲大悲㈲中道の三点を課題として追求する ものである︒概要 を 二小せば次の如くである︒我々は二諦 説 を基本 的には言説の課題と捉へる︒ 先づ 一般に勝義は不 同 == 口説であり︑世俗 は 言説であると規定し得ることを考察する︒かや うにして二諦説の核心を不可舌口説の膀 義 が如何 にして舌口 制叫卯 されるか といふ点に見出す︒次にこの一見矛盾する命題 を 解決するために世俗の語義を再検討する︒ つ い で世俘が言舘キ ほ八
蝸的
特質とするものであることを指摘するとと わ に︑言説の在方に二通りあることを 叔述 する ︒即ち第一は︑世間慣用卸の言説である︒第二は︑大悲萌発の言説であ る ︒大悲は ︑ ㈲三苦を行相とし︑㈲一切有情を 所縁とするものである︒ 上目 それ故に大悲 所 発の言説を通じて不可言説の悟 りの内容が有情に伝達され得る︒かくして 伝 へら れた舌口説が︑仏陀の
75 f5M)
古 円円 橋壮
一 ﹁中論﹂の二諦 説 二諦説は仏教学の中心
鈍 する経典論 書は 龍 樹の二諦 説
教説 ︑つまり仏教である︒仏教の内容は中道で ある︒従って二諦 説 ︑ことにその相即は中道の表 現 であると 看徴 し 得
る ︒それは︑﹁無分別智によりて生死に住さず︑ 常に大悲を起すが故に 浬 案に入らず︒﹂といはれ るやうに︑往相的 相
即と 還相的相即との二重の構造を有っ︒従来は往 相酌相即のみが指摘されてゐたのであるが︑ 我 々はその根底にある
還相的相即を解明して︑竜樹の二諦説を探求す るのである︒
二 ㍉中論三の諸註釈について我々は 先づ印 庭中観派の解釈を端緒として︑﹁中論 L の二諦 説を解明する︒﹁ 中
論ヒ には数種の註釈が現存する︒そのうちⅡ 無 畏 ︵ 下ぎ ︵ 0 ロ ゴミ 笘 ︶と㈹ 仏護 ︵ ロ 民音も 罠 ︵じの両沢 には二諦 説 について
みるべき成果がない︒また㈲ 青 目の所謂漢訳 司 中論﹂ 呈蔵 三十巻しは︑訳者羅什の学識と手腕が 遺憾なく 発 拉された
名訳であり︑中国仏教 更 に甚大な影響を及ぼし た ︒またそれに準拠する吉蔵の﹁中観論 疏 ﹂ハ王 蔵 四十二巻しは︑中国
・日本のコ中ゑ iJ 解釈を長く独占した︒しかしそ れらは印度仏教と密接な交渉を持っとはいへ︑ おもに中国仏教の領
域 に属するものと 看徴 し得る︒それ故に一応 考 察の外に置く︒さらに㈹﹁大乗中観釈論﹂ ロ 王手 蔵経第二六 套 りは︑ 咄
識 関係の諸書論をはじめ㍉倶舎論 L などにも 註 解を施した註釈学の巨匠安意︵の︵ ォ @ ﹁ ぃヨド ︵ @ ︶の手に なるものである︒ し
かしながらその漢訳には若干問題があり︑読解 の 正確を期し難い点が存するのは遺憾である︒ 従 って甚だ不充分な ‑‑ ロ
及 に止まらざるを得ない︒
さて 清辮 ︵ ロ鼠ぷ乱採下 ︶は︑ 月称 G 当年 3 了三︶ と ともに中観派の勢力を二分する学匠である︒ 西 蔵 黄教派の祖師 宗
喀出︵ ガ ︒ふかぎ 豊 ︶が主著﹁菩提道諦 LG
襄
﹁ 〜 ま c オぬ 口持北京 版 西蔵大蔵経第一五二巻 之 0 ・の 001% Ⅰ ト| 小才さトのの ド ︒ U に﹁帝ヨ山の後代の諸学者が中観派をづ酌 毬息守い と
穿
ゆ ︵ い口 tr 守 ㏄との二つであると説くのは︑日明句論 ヒに基 くものであり︑八 彼等 V 自身がかくなしたと考へるべきではな い ︒しかし言説として六即ち世俗として V 外境の 有を許すか許さない
かのいづれかであると決定し︑勝義は空性であ ると決定する見方によって命名するならば︑ 八中
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